梅雨の合間、とても天気が良かったため麻里府方面を散策してきました。麻里府はとても親しみがある場所で、小学生,中学生,そして高校生の頃に何度となく行きました。当時は、自転車で国道188号線沿いに走りました。
昔を思わせる米出港跡 潮干狩りした場所、今は埋め立て地
最初、麻郷の米出に行きました。ここは、その名のとおり江戸時代に麻郷で取れたお米などを出荷する港でした。今はすっかり埋め立てられて、その昔港であったことを知る人はいません。米出と言う地域名と、石垣作りの護岸跡が往時をしのばせます。
父の見舞いに何度も渡った南周防大橋、向こうの山上に風車が見える
米出近くには、とても広大な干潟が広がっていました。よく母方祖母と潮干狩りに行きました。当時この場所には、天然記念物のカブトガニがたくさん生息していました。私は何匹か捕まえてバケツに入れて持って帰ったことがあります。しかし、その後に埋め立てられたため絶滅してしまいました。とても残念なことです。次に、この米出近くにある南周防大橋を間近に見ました。父親が入院していた光輝病院に行くために何度もこの橋を渡りました。
戎下(えびすがした)交差点 戎下と水場の渡船場跡
南周防大橋を過ぎて戎下(えびすがした)に行きました。この戎下には平生湾が広がっています。この戎下から対岸の水場に、私が高校の頃まででしょうか渡船場がありました。父親と一緒に、または小学生の写生大会などで、この戎下から水場まで木製の船で何度も渡ったことを覚えています。南周防大橋が完成したため渡船場は廃止されました。
O君の造船所 馬島への渡船場
戎下で、小中学生時代の友達だったN君を訪ねましたが留守でした。近所で畑仕事をしていた方に聞くと、近くの泊団地に住んでいるそうで、最近お兄さんが亡くなったとのこと。本人は大工になって地域の方にとても貢献しているとのことで、彼の弟は左官をしているそうです。小学生時代、私と彼は木工が好きでした。そのため、何度か戎下の彼の家に来たことがあります。確か彼は木工で表彰されました。
麻里府海水浴場から見た、馬島(左)と牛島(右)
戎下を過ぎると、今度は麻里府に行きました。最初、中高校時代の同級生O君が経営する造船所を見ました。今造船業界はそう景気が良くはありません。しかし、造船所の様子を見ると彼はそれなりに頑張っているようです。麻里府の別府では、馬島へ渡航する渡船場を見たり、海水浴場から馬島や牛島を見ました。
麻里府の別府漁港 麻里府の昔のたたずまい
この麻里府の海岸の砂は、細かくさらさらとしてとてもきれいです。父親の49日にお墓に入れる時、線香立ての砂をこの海岸の砂と取り替えようと思います。父親はここの海岸が好きでしたので。
子供の頃、何度も行った麻里府小学校
麻里府の海岸を過ぎると、麻里府小学校に行きました。この小学校は、子供の頃に何度も行きました。それは、私が通っていた麻郷小学校の夏の臨海学校が、この麻里府小学校で行わられていたからです。この麻里府小学校に行って、着替えてから歩いて海岸に行って泳ぎの練習をしていました。一度この海で、誤って魚のオコゼを踏んだために、とんでもなく痛い思いをしたことがありました。
麻里府小学校前の天神様 T君の家がある中郷地区
麻里府小学校前にある天神様を見学した後、竹尾に向かって道を進みました。中郷地区を通りましたが、この地区には何人か友達がいます。その一人がT君です。彼は、高校卒業後一旦製薬会社に就職しました。私はその就職祝いに家に招待されました。しかし、彼は納得いかなかったのか、苦渋の選択をして一発奮起会社を辞めて大学に進学しました。彼は東京の私立大学を卒業して小学校の先生になりました。山口大学卒が多い先生の中で大変な努力をして校長になっているようです。大島の小学校勤務時にその小学校でお嫁さんを射止めました。結婚式は田布施公民館で行われ、「瀬戸の花嫁」の音楽が流れていたのを覚えています。
麻郷と上郷の分かれ道 Yさんがいた上郷地区
中郷を過ぎると、麻郷と上郷の分かれ道に着きました。この別れ道の近くに、私が高校時代に同級生だったI君の葬儀時の焼場がありました。この焼場に行ってみると、なんとその場所に工場が立っていました。田布施平生合同葬儀場ができてから、この焼場は廃止されたのでしょう。はるか40年以上前の葬儀ですが、その時の親族の重苦しい雰囲気や涙顔の同級生の顔を今でも思い出します。今でもせつない物を感じます。
麻里府と西田布施の境界、竹尾(たけのお)地区
次に、上郷に行きました。この上郷には高校時代の同級生のYさんが住んでいました。卒業直後に彼女の家に行ったことがあります。彼女は岡山大学に進学し、四年生の時に岡山駅前の喫茶店で談笑したことがあります。他にも何人かこの麻里府に友達がいました。上郷を過ぎた後、竹尾を通って岸田を通り、西田布施小学校前を通って家に帰りました。なお、岸田交差点近くには中学1年時の担任M先生の家があります。
竹尾から岸田へ、左は新道で右は旧道 岸田交差点近く、左は恩師の家
先月から雑穀であるヒエとシコクビエの苗を作っていました。ようやく移植できる大きさに育ったため本畑に移植しました。これらの雑穀は、20年位前に奥多摩や上野原に行った時にその地の古老に種を分けてもらいました。それ以後、毎年春に種子をまいて種子更新していました。更新しないと、種子が老化して芽が出なくなってしまうからです。
育ったヒエの苗 ヒエの苗を本畑に移植
2000年に国際雑穀食シンポジウムに参加した時、お米や麦を食べることができないアレルギーの方々が雑穀を食べているとの話を伺いました。分科会でその方々が、雑穀を安く手に入れたいと切実に訴えていたのを覚えています。アワやキビはまだ栽培している家があり、村おこしの食材として重宝されているようです。しかしながら、ヒエを栽培している農家はとても少ないく今でも手に入れることは難しいと思います。ただし、鳥のえさとしてのヒエは流通していますが。
ヒエの苗を植え終わった畝、大きく育ってくれるでしょうか。
雑穀の中でも、特にシコクビエを食べている方は日本でもきわめて少ないと思います。稲や麦のようにいっせいに成熟せず、だらだらと成熟します。大昔はむしろ、だらだらと穂が出ては実る方が飢饉には向いていたのではないかと思います。現代向きの作物ではありません。手回し製粉してすいとんと団子にして食べてみましたが、パサパサしてあまり美味しくありませんでした。飢饉用の作物ですね。
大きく育ったシコクビエの苗 シコクビエの苗を丁寧に植える
これらの雑穀を知っている人があまりいません。このため、種をまいて芽が出ても、雑草だと思われて芽を抜かれてしまうことがあります。特にシコクビエは雑草(メヒシバ)と見分けがつきません。これらの雑穀の芽を抜かれて悲しい思いをしたことが多々あります。しかし、今年は私しか使わない畑ですので、芽を抜かれてしまうことはありません。今年は種子が少ないため食べるほど栽培できません。今年は来年本格的に栽培するための種子量を確保するための栽培です。
植え付けが終わったシコクビエの苗
ヒエの収穫方法は、ほぼ稲や麦と同じです。しかし、脱穀後の調整は全く違います。ヒエは一度蒸してから殻を取ります。ヒエは粒を食べるためお米のように粒食です。しかし、シコクビエは小麦のように製粉して粉にしますので粉食です。食べるために本格的に栽培するのは来年のことですが、今からどう調整しようかと思っています。
植え付けたヒエの苗 植え付けたシコクビエの苗
春に花を咲かせていたスモモが、収穫時期を迎えました。スモモの木を見上げると、赤い実がたくさん並んでいます。収穫方法は二種類あります。一つは、脚立をかけて実を一つ一つもぎます。この方法はとても時間がかかり、高い枝になる実は収穫できません。しかし、手もぎのため実が傷みません。
実を一つ一つ手もぎ 手もぎしたスモモ、いい色
もう一つの方法は、長い竹竿を使って枝をゆする方法です。枝を突き上げるように揺すると、面白いようにスモモがたくさん落下します。この方法は、一度にたくさんの実を収穫できます。しかし、落下した実が石などに当たると実が傷みます。落下地点から石などの硬いものを取り除いたうえで、下にシートを広げて落下させます。
枝に鈴なりに生った赤いスモモ、どれも美味しそう
最初一つ一つ手もぎしていましたが、いちいち脚立を移動しなければなりません。このため、竹竿を使って枝をゆすり実を落とす方法に切り替えました。枝をゆすると頭にポコポコ当たるようにたくさんのスモモが落下しました。地面に落ちたスモモを拾って収穫しました。収穫したスモモの皮を剥いで黄色の果肉を食べてみました。桃に似ているスモモ独特の味は、ジューシイでとても美味しいです。スモモは桃のような袋掛けが必要なく、防虫消毒などの作業が全く必要ありません。それなのに、こんな美味しい実がたくさん収穫できるので助かります。願わくば、実がもう少し大きいと良いのですが。
落下したスモモを箱に入れる 黄色の果肉を食べる、美味しい!
梅雨の合間を見て、先日草取りした陸稲畑に陸稲(もち)苗の植え付けをしました。この苗は、先日苗箱に種を蒔いてい育苗したものです。思った以上に順調に苗が育ったので、植え付け後も畑で順調に育ってくれると思います。この畑で一度は陸稲をまいたのですが、乾燥で発芽しなかったり芽が雑草に負けたりしたためのやり直しとしても苗の植え付けです。今回の植え付けは、水田の田植えに相当します。
良く育った陸稲(もち)苗 発根の状態が良く、絡んだ根
育苗箱から苗の束を取り出します。移植ごてで畑の地面に小さな穴を開け、その中に苗数本を植え付けます。そして、周りに土を寄せました。水田の田植えと違って、一度に苗を植え付けできないのが面倒です。
地面に穴を開け、その穴に苗数本を植え付け
種まき後ちゃんと発芽した陸稲は、すでに10cm以上は生育していました。今回移植した苗と生育の差が縮まるでしょうか。生育状況が水田と違うのでよく分かりません。期待としては、穂が出る8月末までに差が縮まればと思います。陸稲苗を移植し終わると、先日クラッチを修理した耕運機を使って畝間の除草をしました。クラッチは全く問題なく動作しました。除草が終われば今回の作業は終わりです。
陸稲苗を移植後、耕運機を使って畝間の除草
家に戻って植え付け撤収の準備をしていると、ふいに近所の子供が一人やってきて「畑に言ってみたい。」と言いました。このため、子供のお母さんに了解をとって子供を畑に連れて行きました。その時、隣りの畑でジャガイモ掘りをしている近所の方がいました。連れてきた子が芋掘りしたいようなそぶりをみせたため、その方にお願いしてその子に芋掘りをさせてもらいました。畑に連れて行った子供は、この田舎に帰って最初にできた小さな友達です。
苗の移植後、肥料散布 芋掘りをする近所の子供
朝パソコンを立ち上げようとスイッチを入れると、パソコンが動かなくなっていました。このパソコンは去年私が自作したものですが、電源が入ったり切れたりの間欠動作を繰り返してWindows7どころかBIOSも立ち上がりません。これまで、何度か電源装置の故障に悩まされたので、電源装置を中心に故障個所を探索しました。まずは、正常な電源装置と交換してみることにしました。
故障したパソコン 左正常、右故障?の電源装置
正常な電源装置と交換してみましたが全く症状は同じです。電源が間欠動作します。故障は電源装置ではありませんでした。そこで、マザーボードにつながるいろいろな装置やコードを抜き差ししてどこが故障しているのか原因を調べました。すると、思いがけない個所が故障していることが分かりました。それは、USB拡張基板の故障でした。この基板をマザーボードから抜くと症状が出ないのです。
故障していたUSB拡張基板、この基板故障で電源ONが間欠動作になるとは
このUSB拡張基板は、USBがたくさん使えるように取り付けたものです。それほどUSBを使わないので、取り外したままとしました。パソコンはいろいろな個所が故障しますね。これまで私が経験した故障個所は、電源装置、SSD、ハードディスク、マザーボード、CD-ROM装置、ビデオカード、FD/MO装置などです。このうち、ハードディスクと電源装置の故障は複数回経験しました。一番痛かったのはハードディスクです。せっかくのデータが消失してしまいました。バックアップはとても大切です.
直した後のWindows7画面 USB拡張基板を外したパソコン筐体
天気予報で明日から再び雨が降るとのことでしたので、ちょっと柳井港方面を散策してきました。柳井港はかつて私の母方の親戚が住んでいました。その親戚は、この柳井港の海沿いでオートレース場を経営していました。そのオートレース場にはいろいろなレース用バイクが置いてありました。レース場のすぐそばは海でした。柳井市にレース場があったことを、今どれだけの人が知っているでしょうか。
レース用バイクに乗った私 丘から見下ろした柳井港
今柳井市の田布呂木にある周東総合病院は、その昔柳井港にありました。その病院に私の母親が入院していたことがあります。JR柳井港駅脇の道を琴石山に向かって数百メートル行った所にその病院はありました。今は跡形もありません。今回その近くの道を登って、柳井港から仰ぐようにそびえる琴石山に登ってみることにしました。
琴石山登山入口の道標 登山途中から見えた大島大橋
柳井港脇の道を入ると、どんどん山の中に入っていきました。今は梅雨時期のため道はぬかるんでいました。特に落ち葉が積もって濡れているため、注意しないとタイヤが滑ってしまい危険です。登山口の案内板が見えたので、バイクを置いてひたすら登山道を登りました。途中、木々の切れ間から大島大橋が見えました。
晴れて澄み渡った琴石山の頂上(標高545.5m)
木々の間を縫うように曲がる登山道を登りきると、急に視界が晴れました。眼下に柳井港や瀬戸内海が広がっていました。崖に沿うアップダウンのある道を注意深く歩いて行くと、琴石山の頂上に到着しました。梅雨のためか誰もいませんでした。450年前の戦国時代、この頂上にお城が築かれていたとの記述がありました。当時は見張りの場所としても最適だったのでしょう。
大島を中心に瀬戸内海の絶景
柳井港から柳井市、そして田布施方面を見下ろして
私が住んでいる田布施や麻郷を見下ろしてみました。しかし、逆光のため街、畑、山々などが白く光ってあまり細かく見ることができません。それでも、海側の麻郷の向こうにある馬島や祝島などは分かりました。しかし、柳井市の西側に連なる新庄,余田,そして大波野へ続く地域はその境界線がよく分かりませんでした。
眼下に発電所や柳井市街 西側の田布施方面
逆光の中で目をこらして柳井市の西側にある田布施方面を見ると、かろうじて行者山,赤子山,石城山は確認できました。これらの山を基準にして、あのへんが田布施かなとか、平生あたりかなとか、麻郷かなあと想像してみました。
柳井市街から西に続く、新庄,余田,大波野方面
一方、南側から東側にかけては眼下のせいもあるのでしょうか、海と山の色がとてもきれいでした。特に、南側眼下に広がった上関半島がよく見渡すことができました。そして、その向こうの瀬戸内海に浮かぶ長島や平群島が、さらにその向こうに四国がうっすらと見えました。
琴石山眼下に広がる上関半島と瀬戸内海
琴石山の東側も綺麗でした。大畠と大島をつなぐ大島大橋は、とてもはっきり見えました。そして、その左側に広がる広島県側の瀬戸内海に点在する小さな島々も見えました。私が子供の頃に父方祖母に連れられて、柳井港からの航路でこの瀬戸内海を愛媛県の松山まで何度か行きました。温泉好きの父方祖母は、孫達を連れて道後温泉に行くことがとても楽しみのようでした。
大島東側にある広島県の島々 大畠と大島を結ぶ大島大橋
琴石山は、西,南,そして東側はとても良い展望です。しかしながら、北側にある日積側はあまり展望がよくありません。木々の隙間からかろうじて、日積側の山々や町を見下ろすことができます。日積側はほとんどが山ですが、その向こうに玖珂方面の山々を見渡すことができます。
日積側、山の間を筋のように道が通り小さな家が点在
琴石山への登山は、かつて北アルプスや東北の山々を登ったことがある私には楽勝でした。しかし、日積側への下山はとても大変でした。一番大変だったのは、柳井港から琴石山へ向かう道は比較的整備されていましたが、琴石山から日積側はあまり整備されていなかったことです。このため、道のあちこちで倒木があり、道は梅雨時期もあり泥でぬかるんでいました。バイクのタイヤがつるつる滑ってなんども転倒しかけました。冷や汗の連続でした。
竹が倒れ、ぬかるんで往生した場所 のんびりと日積を走る
琴石山から日積へ抜けるルートは、何ヶ所かはがけ崩れ恐れありの注意がありました。実際に何ヶ所かは崩れていました。梅雨の時期は絶対通らない方がよいルートでした。日積の舗装道路に出た時は、ほっとしました。そこからは、快適なルートでした。所々でバイクを止めて、日積の景色を堪能しました。日積から馬皿を通りました。
柳井市馬皿の石井ダム(ロックフィルダム)
馬皿では、柳井川をせき止めた石井ダムのほとりで休憩をとりました。最初、石井ダム脇にある農村公園で休もうと思いましたが、以前と比べて雑草が生い茂ってかなり荒れていました。このため、ダムの堰堤にバイクを止めての休憩です。休憩後一気に自宅で帰りました。途中、フラワーランドのそばを通り、余田を経由して帰りました。
農村公園そばの橋 余田から振り返った琴石山
今は梅雨のため、ほぼ毎日のように雨が降ります。陸稲畑は、前回除草した後も手で抜くなどして除草したはずですが、この梅雨で畑の雑草があっという間に大きく育ってしまいました。雨があがり日差しが少し見えたので陸稲(うるち)畑の草取りをしました。
耕運機で草取り中の陸稲(うるち)畑
畑はとても湿っていて一部はまだ水たまりがあります。しかし、草取りをしないと雑草だらけになりますので、日差しがみえればかまわず草取りしています。陸稲畑は広いのでとても手で抜いたり、カマを使って切る余裕はいまやありません。耕運機を使って草取りしました。
草取りが終わった西側の陸稲畑 草取り中の東側の陸稲畑
耕運機のロータリーを使って雑草を細かく砕き土の中にうないこみます。雑草はだいぶ大きくなっていたため、同じ場所を2,3度往復して除草しました。梅雨の時期のため土はとても湿っています。このため、ノロノロと耕運除草しているとロータリーがどんどん深く土にくい込んで身動きできなくなります。こうならないように、地面だけを削るようにしながら小走りに耕運します。
地面だけを削るようにしながら小走りに耕運除草
これまで、私は小中高大学生などに水田での稲作りを教えてきましたが、畑での米作り(陸稲)はあまり経験したことがありません。陸稲は7年前にトライしてみたことがありますが、雑草に覆いつくされて実質的に失敗でした。水田は水深管理をしっかりすれば比較的除草は容易ですが、陸稲はとにかく除草にたいへん苦労しました。時間に余裕がある人でないと作ることは難しいと思いました。水田のように苗を植えることも解決策の一つでしょうが、それでも除草は大変だと思います。
肥料が不足なのか土質が酸性なのか、葉がやや黄色の陸稲(うるち)
4月始めに東京都から山口県へ引越しをしましたが、その時に全ての物を持って来れませんでした。今回、残りの品物を同じ引越し屋さんに運んでもらいました。前回は大荷物でしたが、今回は少ないのため短い時間で済みました。しかし、雨の中の作業でしたので、見るからに大変そうでした。ご苦労様でした。
雨の中、荷物が濡れないように急いで屋内に運び込む
運び込んだ物は大きく分けて三つでした。一つは、タンス類です。東京で使わない開き戸タンスと引出しタンスです。二つ目は瀬戸物のテーブルと椅子です。これらは雨に濡れても大丈夫です。そして、野外で使うため畑の脇に置いてもらいました。三つ目は畑などで使う梯子やバールや農機具です。これは農機具が納めてある牛舎に置いてもらいました。
二階に運び上げたタンス類 畑脇に置いた瀬戸物の椅子とテーブル
台風が過ぎ去った後、天気が回復してきたため町内を散策してみました。今回は、西田布施最西にある国木を抜けて光市室積を散策してみました。この国木には、私が中学校や高校の頃に友達の家を訪ねてよくきたことがあります。また、麻里府に住む友達の家に行くときに、麻郷側ではなくこの国木側を通って山越えして行きました。
国木地域に広がる田んぼ 元国木小学校跡地
最初、国木小学校跡地に行ってみました。私が中学校の時にはすでに西田布施小学校に統合されていました。この跡地で友達と遊んだ記憶があります。広場になっているため、子供の遊び場として最適だったと思います。ところで元総理大臣の岸信介が幼少の頃、この国木の田縫と呼ばれる地区で育ったとのです。そして、小学低学年時代、この国木小学校に通ったそうです。
のんびりした真殿地区の田んぼと家々
国木小学校跡地で小休止すると、真殿地区に行きました。ここには、田布施と光市を結ぶ十字路があります。この十字路は国木側から見て、右手へは田布施町城南方面へ、正面は光市役所や岩田方面へ、そして左手に行くと千坊山を越えて光市室積方面に行けます。今回は千坊山方面に行って山越えして室積へ行きました。
真殿の十字路、左手に行く 真殿奥に広がる棚田
真殿から千坊山への道は、確か中学生か高校生の頃に実地授業か何かでみんなで行きました。当時は舗装されていなかったため、所々自転車を降りて押しながら行きました。そして、ふもとで自転車を置いて歩いて登りました。この千坊山には、その昔お寺の宿坊がたくさんあったとのことです。そして、火事で焼けた後に再建されず放棄されたように聞いています。
田布施町と光市の境界 丸は亡き父が入院していた光輝病院
高校生の頃、千坊山を含む尾根筋はほとんど木が生えておらず眼下に周防灘が一望できました。本当に絶景で今でも思い出します。しかし、今は木々が茂って展望は良くありません。光市と田布施町の境界線でもある尾根道(コバルトライン)を少し進んで、開けた場所に出ました。すると、急に視界が開けました。この場所は2年ほど前にも来たことがあります。
コバルトラインから東を見て、平生、田布施が眼下に
この場所から東を見ると、平生や田布施、また柳井市の余田、新庄などが見えます。遠くには、琴石山や大島の一部を見ることができます。小さく点滅する光があったので、注視するとそれは柳井港近くにある発電所の煙突でした。南側を見ると、つい一ヶ月前まで父親が入院していた光輝病院が小さく点のように見えました。この病院に行くことは無いのかと思うと、寂しいものが湧きあがります。
平生湾から長島、牛島、祝島などの周防灘を見渡して
景色を堪能すると、田布施町と光市の境から一気に光市室積に降りました。途中、室積の像鼻ヶ岬を見下ろしました。この室積は子供の頃に何度か行ったことがあります。最近では、子供たちを連れて像鼻ヶ岬の反対側にあるフィッシングパークに何度か行きました。
コバルトライン途中から見下ろした室積像鼻ヶ岬
光市かんぽの宿前に降りて室積街に入りました。街に入ったすぐ近くに、私が小学生時代の恩師の家があります。第1回麻郷小学校同窓会を私が企画した時、この恩師の家を訪ねたことがあります。残念なことに、酸素マスクが離せないご病気だったため出席がかないませんでした。室積街では、最初に郷土館を見学しました。次に、普賢寺を久しぶりに見ました。幼少の頃、このお寺の境内でのお祭りで陸性ヤドカリを買ったことを覚えています。
光ふるさと郷土館 金剛力士像がある普賢寺門
普賢寺は境内が結構広いので、のんびりと見て回っているとすっかり時間が過ぎていました。そこで最後に像鼻ヶ岬を散策しました。山口大学付属小中学校脇に車止めがあったので、そこからは歩いて散策しました。周防灘に面する外海は波が荒かったのですが、内海はとても波が静かでした。この室積が港として栄えた理由が分かります。
波がとても穏やかな室積の内海(像鼻ヶ岬の内側)
山口県には有名な民謡がほとんどありません。しかし、この像鼻ヶ岬に幕末建設された台場に関わる民謡があると、高校生の頃に何かで聞いたことがあります。この砲台場は、武士の妻や娘が石を運んで作ったそうで、その時の労働歌が民謡「男なら」だとのことでした。像鼻ヶ岬を一通り散策し終わると、海沿いの国道188号線を通って家に帰りました。
石を積んで作られた台場跡 像鼻ヶ岬の突端から千坊山を見て
赤米を作ったのは3年前のことです。山口県でまた赤米を作るかどうかは未定ですが、種は更新しておいた方がよさそうです。そこで、保存していた赤米の種を更新することにしました。しかし、3年前採種したため発芽率は確実に落ちているはずです。ちゃんと発芽してくれるか心配でした。
赤米の穂を水に浸すと、赤米が二つ発芽
保存していた赤米を水に浸すと、たった二つだけ発芽しました。発芽率は1%位でしょうか。きわめて悪い発芽率です。この発芽した貴重な赤米を苗として育てて、この秋に100個程度採種できればと思います。貴重なこの赤米を育てるため、発砲スチロール箱に土と水を入れて擬似的な田んぼとしました。
この赤米はもち種ですので、赤い(実際はやや紫色)もちを作ることができます。さらに、茎葉がとても長いためしめ縄などのワラ細工にも重宝します。実際、5年前にしめ縄に使ったことがあります。
赤米の苗を育てるため、発泡スチロール箱に土と水を入れる
台風のため大雨で外に出ることができません。そこで、久しぶりにラジオ関係の修理をしようと思い立ちました。東京にいる間は、自作のシグナルジェネレーターやシグナルトレーサーや修理した中古SGを主に使っていました。山口県に帰ったので、私が高校の頃に使っていたオシロスコープを出してみることにしました。しかし、動作してくれるか心配でした。
高校生以来、約40年ぶりに動作させたオシロスコープ
電源を入れると、数分後に緑色の波形が現れました。故障はしていませんでした。ラジオの中間周波波形もちゃんと波形に出ました。SGが出力する波形もちゃんと出ました。中波のラジオ放送位の電波ならば問題なく動作します。今後のラジオ修理などに問題なく使えます。雨などで農作業ができないとき、このオシロスコープを使ってラジオ修理しようと思います。
SGから出力された過変調波形
今は梅雨のためまた台風が近づいているためか、朝から雨が降りそうな暗い曇り空でした。午前中雨が降っていましたが、午後少し天気が回復しました。このためジャガイモを掘って、知人が経営しているデイサービス施設に届けました。その帰りに、柳井市の西端にあり田布施との境界にある余田などに行ってみました。この余田は、私の父方祖父の生まれ故郷のため子供の頃によく行きました。
柳井市役所余田出張所、隣りに租税完納塔が立つ
最初、柳井市役所余田出張所に行ってみました。この建物は、大波野から新庄に行く途中の余田の左手に見える目立つ洋館です。当時としてハイカラな建物ではなかったかと思います。この建物の隣りに租税完納塔が立っています。この塔は江戸時代後期各地で年貢を納められず一揆が起きていた頃、この余田では年貢を完納したため領主から表彰されたことを記念する塔だとのことです。昔の余田は豊かだったのでしょう。
余田出張所近くにある名合八幡宮の入口
次に、柳井市役所余田出張所隣りの余田小学校の裏手にある名合八幡宮に行ってみました。この余田の生田家に父方祖父が生まれため、子供の頃父方祖母(F)に連れられてこの神社によくお参りしたりやお祭りによく行きました。今でもこの余田には生田家が何軒かあります。この神社内を散策しながら碑文を見ていると、思いがけない物を見つけました。
余田の名合八幡宮 父方曾祖母姉妹の名前
私の父方曾祖母(磯中イシ)の姉妹の名前(磯中タカ)が、この神社の石(明治40年)に刻まれていたのです。戸籍上私の父方曾祖母は安政29年(1858)生れですので、この神社の碑文は曾祖母が65歳の時に彫られたことになります。この曾祖母が子供の頃、幕末の動乱期だったようです。幕末はすでに歴史となっていますが、この碑文や父方祖母などから聞いた話を思い出すと幕末を身近に感じます。なお、私の父方祖父は、子供の頃に柳井市内で日露戦争戦勝記念のパレードを見たと言っていました。
余田にある臥龍梅(がりゅうばい)
名合八幡宮を散策後、臥龍梅(がりゅうばい)に行ってみました。ここは室町時代に梅園だった所だそうです。梅の樹形が龍が這っている姿に似ているため、このような名前が付けられたようです。国の指定記念物です。次に、のどかな田園風景を通り過ぎて、私が農機具の部品をよく注文する山口クボタ田布施営業所脇を通って田布施町大波野に行ってみました。
JA南すおう柳井から大波野を見て 山口クボタ田布施営業所
この大波野にある東田布施小学校裏山にある八幡宮に行ってみました。これまで、二三度しか行ったことがありませんが、境内に大砲の弾が置かれているのが印象的です。年代的に考えると、日露戦争に従軍した方が無事に帰還したことを祝ってこの神社に奉納したのではないかと思います。
東田布施小学校裏山にある八幡宮
この神社は普通のたたずまいです。しかし私が一番興味をそそるのは、古代この地域が海だった頃に一番狭かった海峡がここだと思うからです。大和政権時代この地域は海で、朝鮮半島への重要な中継地点ではなかったかと思います。1つの根拠としてこの神社の北側にある岩城山に古代朝鮮式山城があります。また、周辺にはたくさんの古墳があります。
二個の砲弾が奉納 東田布施小学校そばの八幡宮の鳥居
遠く古代に思いをはせると、この神社の階段の向かい側数百メートル先に小さな山があります。この山と神社の間が古代には数百メートルの海峡だったのではないでしょうか。朝鮮半島と行き来する古代船がこの狭い海峡を通ったのではないかと思います。真意は別として、この神社の鳥居付近に立っている石塔に「神功」とか「三韓・・・・朝貢」などの記述が見えます。三韓とは古代朝鮮国家である高句麗,新羅,百済のことです。
向こう側の小山が、古代の対岸では?
古代田布施の海岸線、丸がこの神社とその対岸
小学時代の同級生の祖父が郷土史家でしたが、その方の資料に「田布施の名前の由来は、田布と瀬」と書いてありました。田布は農作業用の衣服だとかで、瀬は川の流れや潮流の意味があるそうです。大波野の名前自体も海から来たものだと思います。ところで、八幡宮近くに東田布施小学校があります。何十年ぶりにこの小学校に行ってみました。すると、私が覚えている木造校舎は跡形も無くなっていました。確か、平屋の木造校舎が二棟があり、その間には庭,池,そして赤いとんがり帽子?の図書館があったように思います。そして、山側に長い階段を上る木造の宿舎か何かの建物があったように思います。
線路付近から八幡宮を振り返って 鉄筋の東田布施小学校
東田布施小学校を見終わると、今度は田布施町天神にある菅原神社に行ってみました。この神社は菅原道真を祭っています。昔、この地に田布施町役場があり、呉服屋さん,電気屋さん,仏具屋さん,金物屋さん,パン屋さんなどが軒を並べてとても賑やかでした。役場の移転時に、この地区の方々の反対運動があったことを覚えています。結局役場は今の場所に移転してしまいました。それ以降、役場移転だけが原因ではないでしょうが、この地区は寂れてしまったように思います。ところで、私が子供の頃この菅原神社はとても賑やかで、今でも覚えているのは牛車です。さながら平安時代のような牛が引く車です。大きな黒牛が引き、とても大きな木の車輪が印象的でした。
田布施町天神にある菅原神社
この神社を散策していると、花壇を掃除している方がいました。その方にいろいろ聞いてみました。すると、お祭りは毎年5月にあり境内には神輿があるそうです。しかし、牛車はもう無いとのことです。そもそも牛がいないのでは仕方がないのでしょう。テレビで見たことがありますが、どこかの地域では牛の代わりにトラクタが引いています。なお、境内に百度石の碑文がありました。昔、お祈りしながら境内を百回往復したそうな。
私が神社などに興味を持つようになったきっかけは、高校生の頃に日本史の先生に江戸時代の上関の豪商の名前を聞いたことでした。そして、まさにその豪商の名前が、私の住む地区の祇園牛頭天王社(通称てんのうさま)の鳥居に刻まれていたからです。てんのうさまの祭りは今でも行っています。
菅原神社の境内 百度石の碑文
ようやく梅雨らしい季節になりました。朝から雨が降り続いて、畑は池のように水が溜まっています。長靴で畑を歩いてみましたが、所々で田んぼのようにぬかるみます。陸稲を作っている畑も同様です。先日耕運機で除草した陸稲畑は、あちこちでまた雑草が伸びていました。そこで、雨が降って土が緩んでいるこの雨の日、小雨になった時をみはからって雑草を取りました。
田んぼのように水が溜まった陸稲畑
陸稲と雑草をよく観察すると、いろいろ気が付きます。1つは、雑草の方が濃い緑色をしています。陸稲は黄緑色で雑草より緑色が劣ります。雑草の方が吸肥力が強いのはあきらかです。次に、雑草の方が成長が早く勢いが早いことです。他の作物も同じですが、人間が改良した陸稲は雑草より弱いため人間が保護しなければなりません。傘をさして畑に座り込んで少しずつ雑草を抜きました。
除草前の陸稲株 除草後(いかに雑草が繁茂していたか)
雑草の根は地中深く張っています。陸稲を一緒に抜かないように注意しながら除草しました。しかし、雨が降りしきっていたため二畝程度しか除草できませんでした。一週間程度をかけて、念入りに除草しようと思います。ところで、雨が降っていたためか小さな土ガエルがあちこちでピョンピョン跳ねていました。そのうちの一匹を捉えてみました。ほかに、小さなカマキリもたくさんいました。
陸稲畑をピョンピョン跳ねていた土ガエルを捉えて観察
一昨日、雨が降る前に陸稲(もち)畑の草取りをしました。ここの畑には唯一のもちの陸稲をまいていますが、乾燥しやすい畑のため陸稲があまり発芽していません。そして、雑草がかなり生えていました。雑草の間にちょこんと陸稲が芽を出している状況です。雨が降ってしまうと、雑草がさらに勢いよく伸びてしまい陸稲は枯れてしまいます。そこで、雨が降る前に雑草を取れるだけ取りました。
最初、耕運機で大まかに陸稲を避けるように除草
最初、耕運機のロータリーを使って大まかに除草しました。陸稲の種は、筋状に一直線にまいています。その筋を避けるように一気に除草しました。それが終わると、腰を落として一つ一つの陸稲の芽が出ている株を除草しました。雑草の一つ一つを摘まみながら取り除くのでとても時間がかかりました。当然腰が痛くてたまりません。楽な姿勢で除草できないものでしょうか。
雑草に囲まれている陸稲 周りの雑草を取り除いた陸稲
何時間もかけて陸稲の雑草を取り除くと、今度は取りきれなかった雑草を平クワを使って除草しました。陸稲を傷つけないように注意しながらの除草です。立って除草するので、座って除草するよりは楽です。
取り残した雑草を平クワを使って除草
この陸稲畑をよく観察すると、乾燥気味の個所の陸稲が一番成長が思わしくありません。中には枯れかかっている陸稲がありました。そもそも芽生えていない陸稲もたくさんありました。芽生えなかったり枯れた陸稲は後日、箱苗で育てている陸稲を手で移植しようと思います。
乾燥し枯れかかった陸稲 肥料を根元にまいた陸稲
一通りこの陸稲(もち)畑の除草を終わると、陸稲の根元に化成肥料をまきました。この畑は肥料分が少ないようですので、雨が降る前に肥料をまきました。雨で肥料分が土に染み込んで陸稲に吸収されればと思います。陸稲は日照りにとても弱いので、この梅雨で畑に適度な水が降ればと思います。水田は最近、土地改良などで水利管理がしっかりできるのであまり水量管理をすることはありません。しかし、畑で栽培する陸稲は水量管理ができないのでいまだに天気次第です。
畑全体の除草が終わり肥料をまき終った陸稲畑、後は雨が降るのを待つ
小型耕運機のクラッチ部品を山口クボタ田布施営業所に注文していましたが、古すぎるため在庫はもう無いとのことでした。本当にがっかりしました。普通ならば、これでこの小型耕運機は廃品となります。しかし、なんとか直す手立てはあるはずです。
古いクラッチコードを切り取る 自転車用のコードを取り付け
在庫がないクラッチ部品の代用品はないかといろいろ思案しました。その結果、DIYのお店で安く売っている自転車のブレーキコードが使えないかと思いつきました。200円程度なので失敗しても財布はいたみません。さっそく近くのDIYのお店に行って自転車用のブレーキコードを購入しました。
自転車用ブレーキコードをクラッチ装置に取り付け
さっそく小型耕運機を分解しました。分解は何度もしているのでお手の物です。変速装置のカバーを外して、プーリーを二個外して、クラッチ装置が見えるようにしました。そして、購入してきた安物自転車用ブレーキコードの片側をクラッチ装置に取り付けました。取り付け終わると、元のように組み立てました。
取り付け中のプーリー カバー取り付け前の変速装置
カバーを取り付け終わると、コードのもう片方をクラッチレバーに取り付けます。ここで、一番困ったのはコードとクラッチレバーの接続方法です。正規のクラッチ部品には取り付け部品がありますが、自転車用コードにはそれがありません。一番簡単な方法は溶接です。しかし、溶接すると微細な調節ができません。それでもう一工夫しました。
変速装置内にある クラッチ装置から伸びる灰色の自転車用コード
それは、デパートなどのショーウィンドウで展示物をピアノ線で吊るす器具です。その器具は、ピアノ線のような鉄線を微細に止めることができます。これを応用すればクラッチレバーとコードを接続することができます。さっそくその器具を購入して、クラッチとコードを接続してみました。すると意外にピッタリはまりました。
クラッチを入れた状態 クラッチを外した状態
そこで、実際にクラッチが効くかどうか実働テストしてみました。すると最初はクラッチがあまり効きませんでした。そこで、代用として使った器具と自転車用コードを微細に調節するとクラッチが効くようになりました。廃品になる寸前だったこの耕運機がまた使えるようになりました。機械の修理は推理です。ショーウィンドウの知識が無かったら、この耕運機は廃品になるところでした。
クラッチの効きを調べるため、実働テスト中の耕運機