東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

春収穫する白菜の苗を植え付け

2013年02月28日 | 野菜:葉菜

 田布施町の交流館で買物をしている時、たまたま白菜の苗を見つけました。キャベツは冬以外に、春に種をまいて苗作りして夏に収穫したことがあります。しかし、白菜は冬の野菜との思い込みが強くて、春に植えるなど考え付きませんでした。交流館で白菜苗を7個購入して植えてみることにしました。うまく育てば4月か5月に収穫できるのではないかと思います。

      元ナス畝を耕運機で耕す        キャベツに使った黒マルチを再利用
 

 夏にナスやピーマンを植えていた畝を急遽、白菜用の畝にすることにしました。耕運機で耕して、クワを使って筋を掘り肥料をまきました。そして、それを覆うように鞍状に畝を作りました。そして、数日前にキャベツ畝から外した黒マルチで覆いました。

      U字状の竹を何本か刺す              購入した白菜の苗を植え付け
 

 白菜畝を黒マルチで覆うと、9月に作っておいた竹のU字支柱を黒マルチの両側に刺しました。透明ビニールを覆うためです。次に交流館で購入した7個の白菜苗を植え付けしました。そして、苗が活着するようにジョロで水を掛けました。

                交流館で購入した7個の白菜苗を植え付け


 苗を植え付けると、今度は透明なビニールを竹製U字支柱の上から覆いました。そして、ビニールの片側の裾に土を乗せて動かないようにしました。土を乗せないもう片方の裾は、空気が行き来できるように竿を使って少し開けておきました。これから、日差しが暖かくなりビニール内が高温になることを防ぐためです。この竿を上げ下げして空気の通りを調整します。

   透明ビニールで竹製U字支柱を覆う           空気の通りを良くする竿
 

 空気の通りを良くする竿を刺すと、ビニールが風で飛ばないように2個のU字支柱をビニールの上から押さるように刺しました。これで、白菜の植え付けは終わりです。うまく苗が活着すれば、白菜はどんどん成長するはずです。4月になれば霜が降りなくなるため、ビニールを外そうと思います。美味しい白菜が収穫できるでしょうか。美味しい白菜が収穫できれば、来年は種まきして苗づくりから始めようと思います。

   ビニール押さえの竹製U字支柱を2本刺す、美味しい春の白菜を収穫できるか

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雨が降る前、手まきで小麦に施肥

2013年02月27日 | 麦,穀類,雑穀

 3月が近くなり日差しが強くなってきました。そのためか、小麦の背が少しずつ伸びてきました。10cm位は伸びたでしょうか。小麦を育てている畑は、元々砂が多く肥えていません。今後、どんどん背が伸びてくると肥料分が不足するかも知れません。このため、前回の施肥に続いて2回目の施肥をしました。

         日差しが強くなるにつれ、だんだん背が伸びてきた筋まき小麦


 小麦畑は、筋まきした小麦畑株まきした小麦畑の2箇所があります。株まきした畑は、冬の間午後しか日が当たりません。このため、あまり分げつしていません。この畑は、春になるにつれて午後からも日が当たるようになります。分げつが少ないと、どうしても茎数が少なくなります。収量を確保するためには、大きな穂になるよう育てるしかありません。このため、手まきで化成肥料を多めにまいてみました。

      分げつが少ない株まき小麦        手まきで多めに化成肥料をまく
 

 肥料を手まきしたのは良かったのですが、ずっと腰をかがめながらの作業です。あとから腰が痛くなりました。やっぱり、手押し機械で肥料をまけば良かったかなと思いました。
 3月になると雑草が次々に生えてきます。今後、すきなどを使って雑草を削る作業や土寄せの作業が入ります。平クワを使って丁寧に作業したいところですが、腰に負担がかっては困ります。管理機を使うなどして効率的に作業しようと思います。これからの管理機本稼動に備えて、整備/試運転しようと思います。

              肥料をまき終わった小麦畑、腰が痛くなったのは失敗

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コールマンのガソリンバーナーを分解修理

2013年02月26日 | 建設,工事,修繕

  私が横浜の山岳会に所属していた20歳代、その頃に購入したコールマンのガソリンバーナーの調子が良くありません。炎の勢いが良くないのです。ノズルが少し詰まっているようです。購入して35年近くなるので、そろそろ分解修理した方がよさそうです。20歳代後半に2,3度分解掃除したことがありますが、その方法をすっかり忘れてしまいました。今回、分解方法を思い出しつつ修理しようと思いました。

     炎の勢いが良くない、購入後約35年のコールマンのガソリンバーナー


 このガソリンバーナーを購入する前は、GIストーブを使い、さらにその前に石油バーナーを使っていました。石油バーナーは、余熱時に火口下の皿に固形アルコール置いて燃やします。余熱がけっこう面倒でした。そんな時に、余熱が必要なものの固形アルコールが必要ないGIストーブを購入しました。しかし、音がうるさい上に火力調整がしずらいことが欠点でした。その後、このガソリンバーナーを知って購入しました。このガソリンバーナーは音が静かな上に余熱がとても楽で、さらに微妙な火力調節ができます。以降35年位、GIストーブをたまに使いつつ、主にこのガソリンバーナーを使い続けています。

     余熱管の押さえネジを外す               余熱管のナットを外す
 

 このガソリンバーナーを購入した数年後、ガス式バーナーが発売されました。当時は厳冬期にガスが気化しないなどの問題点がありましたが、今は改良されて厳冬期でも使用できます。欠点は、使用済みの空のボンベをゴミとして捨てなければなりません。しかし、余熱が必要なくスイッチ一つで添加できるため、今やガス式バーナーを使う人がほとんどのようです。
 ガソリンバーナーは、一般のガソリンを使うのでガスボンベに比べて燃料が圧倒的に安価です。さらに、ガソリンを入れるだけですので、ガス式バーナーのようにボンベを交換したり捨てる必要がなく無駄がありません。ゴミも出ません。ただ、余熱が必要であることと、点火にライターが必要なのはやや不便です。しかし、私は一貫してこの愛着のあるガソリンバーナーを使い続けています。

       火口を分解して綺麗に磨く             火口の下皿を外して掃除
 

 このガソリンバーナーは正式には、ホワイトガソリンと呼ばれる、普通のガソリンをさらに製錬して不純物が全くないガソリンを使います。しかし、ホワイトガソリンは高価な上に、売っているお店が多くありません。このため、私は普通のガソリンを使ってきました。このため、ガソリン内の不純物が詰まったのではないかと思います。

                火口などを取り除き、ガソリンタンクだけを露出


 このガソリンバーナー分解掃除の一番のポイントは、余熱管内を通っている細長い鉄線です。この鉄線の出し入れで気化したガソリンの噴出量をコントロールしています。鉄線でノズル口を細くしたり太くしたりして噴出量を決めているのです。この狭いノズルや余熱管内がガソリンの不純物で詰まることがあります。ノズルや余熱管を掃除して、再びこのガソリンバーナーを組み立てました。予熱して点火すると、以前のような元気な炎に戻りました。

     左のコックの回転により
    出入りする余熱管元の先端部         掃除後、鉄線を先端に取り付け
 

  なお、GIストーブは鉄線ではなく鉄ピンですが、火を止めると同時にノズルを掃除する構造になっています。私はGIストーブをたまに使いますが、目に見える故障が圧倒的に少ないバーナーです。さすがに軍用だけあって35年近く全くの故障知らずです。今でも時々使っています。ただし、GIストーブは、音がうるさいのと火力調節がしずらいのだけが欠点です

           元気を取り戻したコールマンのガソリンバーナーの炎

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上関町史跡めぐりと上盛山ウォーキングの下見

2013年02月25日 | 歴史探訪他ウォーキング

                                上関 上盛山からの360°の眺望


 前回は、ウォーキングルートを決めるために散策した上関でした。今回は、実際に歩いて正確な距離や時間を計りました。来月本番のウォーキングをするのですが、バスは本数が少ないため自家用車二台程度に分乗して行こうと思います。上関の駐車場に車を置いて出発します。最初に訪れるところは、常満寺の大銀杏です。すぐ隣の四階楼は、帰る間際に見学しました。

              修復中の上関大橋、歩いて渡るも高くて足元が怖い


 続いて上関大橋を歩いて渡りました。海峡を渡るのですが、下の海を見ると何十mもの高さで怖くて足元が震えます。車が通るとわずかに橋が揺れるのでよけい怖くなります。橋を渡りきると、砲台場跡を見てから、六人塚のある高台に行きました。次に、海景色を見ながら食事ができるレストラン・セリカ「瀬里家」の横を通って沖の浜に行きました。

      六人塚、戦国時代の史跡         レストラン・セリカ「瀬里家」の入口     
 

 沖の浜には綺麗な砂浜があります。その砂浜に下りて、少しばかり休憩しました。この浜からは八島などの瀬戸内海の小島がたくさん見えました。そして、海を往来する貨物船や釣り船がたくさん見えました。ほっとするような砂浜です。

        沖の浜の静かな砂浜、往来する貨物船や釣り船がたくさん見える


 沖の浜からは、左右が家にはさまれた狭い登り坂に入ります。上りきって少し下がった場所に三字路があります。その三字路に7人のお地蔵様が安置されています。この三字路は人通りがあるのでこのお地蔵様達は、古来から通り過ぎる人々を見守ってきたのではないかと思います。お地蔵様から再び登り坂を歩きます。登りきった所に、上盛山に通じる歩道と車道が見えます。歩道の方をのんびりと頂上に向かって歩きました。

      通る人を見守る7人のお地蔵様       上盛山への明るい歩道
 

 歩道をしばらく進むと、みかん畑に一軒だけ人家がありました。そこからすぐの所で車道に出会います。その車道を数100m進むと、目的の上盛山の頂上です。思ったより早く11:30に着きました。この頂上、去年の春に母親と娘とドライブで来ました。その時は桜が満開でした。

             11:30に到着した上盛山の頂上展望台


 上盛山は標高はそれほどでもないのですが、展望台から見る360°の景色は周東一ではないかと思います。南は四国,西は九州,北は佐合島や田布施平生方面,東は眼下に室津方面が良く見通せます。今回は、四国九州方面はかすかにしか見えませんでした。それでも、見飽きることがないほどの絶景です。双眼鏡で皇座山方面を見ると、去年の12月に行った皇座山の展望台が小さく見えました。

            東の眼下に見下ろした室津の町並みや港


 上盛山で30分位、昼食休憩を取りました。日曜日のこともあって、何台もの車やオートバイがせわしなく行き来していました。休憩を終わると、今度は歩道ではなく車道を下りました。途中に御汗観音がありますので、少し寄ってみました。そして最奥部の奥の院も見学して来ました。高い石垣がなかなか見事です。

                                  石垣がすばらしい御汗観音


 車道に戻ってしばらく歩いて、上関小学校や中学校近くにある上関城山歴史公園に行きました。見晴台から北を見ると、紺碧の青い海がとても印象的です。上関城山歴史公園からは、一旦道を戻って竃八幡宮に行きました。そして、長い石階段を降りて旧上関小学校跡に行きました。さらに石階段を降りて上関町役場に降りました。

                            海を見下ろせる上関城山歴史公園の見晴台


 次に、旧上関番所と熊毛南高校上関分校跡に行きました。熊毛南高校上関分校跡地には大きなクスノキと石碑が立っていました。その後、上関特産物センター前を通りました。来月来る時は、このセンターでお土産でも買えたらと思います。上関大橋を歩いて渡っている時、ちょうど下を貨物船が通りました。怖いながらも、白波をかき分けながら進む貨物船を見下ろしました。

            上関大橋の下を、白波をかき分けながら進む貨物船


 上関大橋の袂にある吉田松陰の碑を見た後、鳩子の湯前を通りました。時間に余裕があれば湯に入ろうと思いましたが、今回も来月も入る時間的余裕はなさそうです。最後に、四階楼を見学しました。明治12年建築の和洋折衷の建物です。中に入ると、一階には歴史的な展示物がありました。私には古い懐かしい木製のトイレが印象的でした。

      入りたかった鳩子の湯             和洋折衷の四階楼
 

 その他、四階楼で良かったのは四階のステンドグラスでした。ちょうど西日が差し込んでいたのでとても幻想でした。私以外に、このステンドグラスを写真に収めているグループがいました。このステンドグラスが明治初期からあったのかは分かりませんが、今見ても綺麗ですので当時の人はもっと感動したのではないかと思います。その後、駐車場に戻りバイクに乗って帰りました。自分にお疲れ様!

            西日が差し込んで美しい四階楼四階のステンドグラス


 今回もGPS装置を持っていきました。自宅に帰ってからデータを分析しました。すると、歩いた距離は13.3Kmで、ウォーキングした時間は約5時間でした。カロリーは547キロカロリーでした。今回の特徴は、海抜0mから標高約400mまで登ったことで、ウォーキングとしてはややハードでした。来月の本番ウォーキングでは、楽に歩けるように少し省略しようと思います。



 また、歩いたルートは下の地図上のとおりです。あちこち寄り道しすぎているため、やはり本番ウォーキングではあまり寄り道しないで時間のロスを少なくしようと思います。六人塚,砲台場跡,旧上関番所,熊毛南高校跡地はスキップして、御汗観音,上関城山歴史公園などは一部だけ見るかスキップしようと思います。

              歩いたコース(赤)や歩いた高度などのデータ

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キャベツ、最後の収穫と畝整理

2013年02月24日 | 野菜:葉菜

 去年の8月に種まきして苗作りをして、9月に苗を植えつけたキャベツを収穫しました。今回が最後のキャベツ収穫です。キャベツは春になるととうが立ち、食用に適さなくなりました。収穫しないで畑にそのまま置っぱなしにすると、早春のある日パックリ割れて花芽が出てくることがあります。こうなると筋ばかりで食べることができません。今回、そうなる前に全てのキャベツを収穫して畝を整理にしました。

    鳥に葉を食われ傷んだキャベツ        キャベツの根元に鎌を入れ収穫
 

 今回収穫したキャベツは、今年になってからずいぶん鳥に葉を食べられてしまいました。しかし、人間が食べる中心部の玉だけは被害を受けていません。どうしてキャベツやブロッコリーの葉が多く鳥に食べられるのか分かりません。キャベツは鳥にとって、野草よりも柔らかいので食べやすいのでしょう。収穫したキャベツは、傷んだ周りの葉を切除して玉だけにしました。我家だけでは食べきれないので、ヤクルト配達の方や知人に差し上げました。

                収穫したキャベツの玉、周りの傷んだ葉は切除


 収穫後のキャベツの畝は、春の種まきに備えて整理しました。まずは、畝を覆っている黒マルチを丁寧に剥がしました。剥がした黒マルチは、この秋にまた使えるようにたたみました。そして、倉庫にしまっておきました。私は黒マルチや寒冷紗などをとことんリサイクルして、毎年のように使い回しします。

      収穫後のキャベツ畝              黒マルチを傷めないように剥がす
 

 秋に種をまいた大も、種から育てた白菜苗を植えつけた白菜も、キャベツもこれで綺麗に畑から無くなりました。これからは晩秋に種をまいた絹さやエンドウ,ソラマメ,スナップエンドウなどの春野菜が元気に伸びてきます。ジャガイモの種芋を移植後、しばらくしてからこれらの春野菜を収穫中に、秋冬野菜の元畝にキュウリ,ナス,ピーマンなどの夏野菜の種をまいたり苗を植えつける予定でいます。

  黒マルチを剥がして綺麗になった畝、春に耕運後に夏野菜の種まきをする予定

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田布施川沿い史跡めぐりウォーキング8回シリーズ(その2)

2013年02月23日 | 歴史探訪他ウォーキング

 東京から帰った次の日(2月17日)、田布施川沿い史跡めぐりウォーキング8回シリーズの2回目に行ってきました。シリーズ1回目は、田布施川河口右岸の麻里府や麻郷を散策しました。今回は、田布施川河口の左岸です。平生イオンタウンに10時に集合して10:09のバスに乗りました。そして、平生と佐賀の境近くにある田名バス停で降りました。この頃はまだ天気が良く青空が見えました。
 最初、海水浴場を背にした平生回天碑に行ってお祈りしました。そして神花山に登って古墳を見学しました。登る途中に巨大な女王像が立っていました。しばらく古墳を見学した後、山を降りて防空壕跡や特別少年院新光学院跡を見つつ阿多田交流館に向かいました。

      神花山古墳の女王像              阿多田交流館で説明を受ける
 

 阿多田交流館では、回天について館員の方からくわしく説明していただきました。戦前この田名地区に親戚が住んでいたそうです。しかし、回天などの潜水艦基地が作られるとのことで、田名地区住民は半ば強制的に移転させられたとのこと。親戚が住んでいた時代の田名地区のレプリカがありました。漁港として栄えた田名地区を追われた親戚は、さぞや無念だったのではないかと思います。阿多田交流館そばに、移転した方々の石碑があります。

 住民移転前の阿多田半島(田名地区)のレプリカ。今は工場と荒地の殺風景な半島
         (1)阿多田交流館 (2)神花山古墳 (3)今回引き返した場所
       (4)当時の運河 (5)水産大学校 (6)百済部神社 (7)少年院新光学園
      
 (8)密漁船座礁場所


 阿多田交流館で50分近く時間を取られたので、足早に阿多田半島に行きました。すると先日ニュースになった、なまこの密漁船が半島先端近くで座礁しているのが見えました。ふだん誰も来ない阿多田半島、野次馬でしょうか車が何台か行き来していました。
 阿多田半島から戻ると、水産大学校でカブトガニを見学しました。この日、全国の水産に関わる大学生のシンポジウムか何かがあったようです。若者が何人もいました。その後、百済部神社を回り、戎ヶ下と水場の渡船場桟橋跡を見ました。子供の頃、この途船場を何度か船で往復したことを思い出します。

    阿多田半島から麻里府を望んで        戎ヶ下と水場の渡船場桟橋跡
 

 渡船場桟橋跡を見学後、水場の古道を通って南周防大橋に向かいました。時間が無かったため南周防大橋中央にある展望所には行きませんでした。アリーナ近くにある休憩所で昼食兼休憩を40分位とりました。休憩後、塩田跡に建設中の太陽光発電所を間近に見学をしました。そして、ゴミ処理埋立地を横に見ながら歩きました。途中、ゴルフ場に少し入って見ました。

  塩田跡地に建設中の太陽光発電所    のんびりと歩いた平生街の水越地区
 

 ゴルフ場からは平生街に向かって歩きました。予定では途中の曽根児童公園で休むことにしていましたが、時間が遅れていたため休まず歩きました。水越の信号機がある十字路から、懐かしい平生街に入り野島神社に行きました。
 私が平生保育園に通っていた頃、この野島神社が園児のお散歩コースでした。野島神社は、江戸時代前期までは野島と呼ばれる海の孤島でした。江戸時代の干拓によって今は地続きになっています。長い石段を登って野島神社を見学しました。そして、野島の頂上から平生湾を見下ろしました。私が幼児だった頃、海が間近に見えましたが、今は遠く離れて見えませんでした。

                  懐かしの野島神社の長い石段前にて


 野島神社を後にして、次に旧平生保育園跡地や旧習成中学校跡などに行きました。そして、平生歴史民俗資料館前に移築のオランダ式ロクロを使った南蛮樋を見て、ついでに現平生保育園の門を見てからスタート地点の平生イオンタウンに着きました。午後からは天気が怪しくなり、帰宅後の夕方から雨が降ってきました。ウォーキング中に雨が降らなくてよかったです。お疲れ様でした。

        野島の頂に野島神社       平生街中心部南蛮樋跡横のお地蔵様
 

 ところで、今回新しく購入したGPS装置を持っていきました。その結果、歩いた距離は10.3Kmでした。ウォーキングにかかった時間は約5:30でしたが、実際に歩いた時間は約2:30でした。3時間は立ち止まったり、交流館で説明を受けたり、休憩に使った時間でした。意外にも、歩いた実質時間が少かったようです。そして、歩いている時の速度は約4.3Kmでした。さらに、このウォーキングで消費したカロリーが、約424.2キロカロリーであったことが分かります。下は、今回GPSで計測したウォーキングのデータです。


 次にGPSデータを元に、歩いたコースを地図上に表示してみました。下の地図上の赤い線が実際に歩いたコースです。これで見ると、どこを歩いたか一目瞭然です。また、どこで立ち止まったか、どこで休憩したか、また何分休憩したかの時間まで分かります。このデータから、ウォーキングの前半は比較のんびり歩き、昼食休憩以降はあまり休まないで歩き続けたことが分かります。



 ※第1回から最終回の第8回までのウォーキングは、次のとおりです。クリックしてみてください。

  第1回 麻里府~八海   第2回 田名~平生     第3回 八海~交流館
  第4回 平生~交流館   第5回 交流館~城南   第6回 交流館~行者山~田布施街
  第7回 城南~光市塩田 第8回 小行司~余田畑

==========健康ウォーキングクラブ==========

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三ヶ月ぶりの東京へ(5/5) 山口県へ帰る

2013年02月22日 | 家族関連

 東京での最後の日です。東京にいる間、神奈川県の辻堂に行ったり,御徒町に行ったり,御茶ノ水に行ったり,そして秋葉原に行ったりと、慌しい毎日でした。そして今日2月16日再び山口県に帰りました。家内の車で、駅まで送ってもらいました。

               山口県に帰る直前、新しい我家と車


 新横浜駅から新幹線に乗りました。乗ってしばらくすると、北の方向に丹沢山系が見えてきました。この山系は、私が横浜の山岳会に所属していた20代に何度も登山した懐かしの山々です。確か2万分の一地図の全てのルートを歩きました。
 この山で登山の初歩を勉強しました。そして、だんだん北や南アルプスの縦走にも行くようになりました。真冬のアルプスの雪中登山や雪上訓練は寒く辛いものでした。ピッケルやアイゼンで氷や雪の上を歩いたことが懐かしく思い出されます。若い男女ばかりが会員でしたので、元気いっぱい一度も辛いと思ったことがありませんでした。毎度の登山が楽しい日々でした。

      新幹線に乗った新横浜駅        何度も登山した、思い出の丹沢山系
 

 丹沢山系を過ぎてしばらくすると、富士山が見えきました。ここでしばらく仮眠をとりました。目が覚めると名古屋でした。この名古屋も思い出があります。20代前半、お付き合いしていたYMさん。私が入社して岐阜県の工場に勤務していた時、名古屋駅前の音楽喫茶でよく待ち合わせしていました。名古屋城,熱田神宮,東山動物園,栄大通り(久屋大通)などを一緒にデートしました。そして、イルカ島と鳥羽。そんな淡い思い出のある名古屋です。

     綺麗に晴れた富士山                淡い思い出の名古屋
 

 広島を過ぎた頃、眠くなりました。電車が止まっていることに気がついて、慌てて新幹線を降りました。そして、乗換口に行きました。ところが、いくら乗換口を探しても無いのです。仕方なく駅員に聞くと、なんと徳山駅だと勘違いして新岩国駅に下りてしまったのです。駅員さんが私のことを可愛そうに思ったのか、改札口で投入した切符を探し出してくれました。こんなことは初めてです。あーあ、自分の情けなさにがっかりしました。やれやれ!

              新岩国駅で1時間程度、次の新幹線を待つ、やれやれ

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三ヶ月ぶりに東京へ(4/5) 我家で留守番ほか

2013年02月21日 | 家族関連

 2月15日、東京に来てから4日目です。今日は実質留守番でした。娘は明日手術する私の義理の母親(娘の祖母)を練馬に迎えに行って、辻堂の病院に連れて行きました。そして、家内がそれを追いかけるように病院に行きました。私は午前中留守番をしていましたが、北側の隣家がやかましいので行って見ると、隣家の解体が始まっていました。壊されている家はこれまで老夫婦が住んでいました。しかし、ここ数年空き家になっていた家でした。この家の解体を見ていると、去年の我家の解体を昨日のことのようにを思い出しました。

               解体が始まった、我家北側の古い家


 午後から家の外を散策してみることにしました。雨が降っていたため笠をさして出かけました。最初歩いて寺沢に向かいました。去年の今頃まで活動していた、ユギ・ファマーズの畑や田んぼに行きました。今日は平日で活動日ではなかったため誰もいませんでした。その畑の南斜面に座って田んぼを見下ろしました。
 この田んぼを見ていると、稲作を教えた中学生高校生大学生,そして小学生などを思い出しました。また、ため池にそばにある田んぼにも行ってみました。稲株が残っているので、去年も東京薬科大学の環境グループASIATOは田んぼで稲作をしたようです。この田んぼ脇に立っていると、ASIATOのメンバーに耕運機の使い方などを教えたことを思い出しました。

     稲作を教えた懐かしい田んぼ         ASIATOが稲作をする田んぼ
 

 懐かしい田んぼや畑を見終わると、10年以上前に副隊長をしていたボーイスカウト八王子第5団の小屋を訪れました。すると、小屋前の広場に竹竿を何本か組み合わせて作ったテントの骨組みがありました。ボーイスカウトの指導者やスカウト達が組み立てたに違いありません。ボーイスカウトの小屋近くに、堀の内寺沢里山公園の建物があります。この建物も訪れましたが、やはり平日のため誰もいませんでした。ここにある耕運機を使わせてもらったことがあります。

   八王子第5団小屋前の竹竿の骨組み       堀の内寺沢里山公園の建物 
 

 堀の内寺沢里山公園の建物を通りすぎて、京王堀の内駅に向かいました。そして、電車で京王南大沢駅に行きました。そして、近くのビルでデザートがプリンの美味しいオムレツを食べました。そして、近くの本屋さんに行って、明日山口県に帰るときに新幹線内で読む本を買いました。その後、家に帰ってしばらくすると家内と娘が帰ってきました。家内の母親の手術などについて医者から話を聞いたようです。手術はするものの、不治の病のため一年はもたないのではとのことのようです。

                甘くて美味しかった、オムレツのデザートのプリン

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三ヶ月ぶりに東京へ(3/5) 人間ドッグと秋葉原散策

2013年02月20日 | 家族関連

 東京の3日目、午前中は私の人間ドッグでした。そして午後、昨日行けなかった秋葉原を娘と散策しました。人間ドッグは東京御茶ノ水駅から数分の三楽病院で受けました。人間ドッグを受けた病院はこれで三つ目です。一つ目は日立に勤めていた時で、横浜市にある病院で10年近く受けました。ブドウ糖負荷テストと呼ばれる変わったテストがありました。どんぶり一杯ほどの濃いブドウ糖液を飲んでから一時間後に血糖を測りました。飲んでしばらくして顔が温まるのか、頬がホカホカしたことを覚えています。よくは分かりませんが、インシュリンが正常に出されているかのテストのようでした。二つ目は、日立を退職後に就職した多摩市にある病院でやはり10年位人間ドッグを受けました。

       久しぶりの御茶ノ水駅             人間ドッグを受けた三楽病院
 

 人間ドッグが終わると、ようやく食事がOKです。病院内のレストランで昼食をとりました。昼食が終わって病院を出ると、娘と待ち合わせている秋葉原駅に向かいました。娘は、昨日御徒町で私の従兄弟からプレゼントされたバッグを提げていました。たくさん入る使いやすいバッグだったようで、娘はニコニコしていました。
 最初AKB48ショップに行き、続いてAKB48劇場に行きました。そして、そのついでに英語が通じるメイド喫茶を探しました。娘は、海外の友達とは英語でコミュニケーションするようです。その友達を秋葉原に連れてきた時、英語可のメイド喫茶の方がいいのだそうです。

     秋葉原駅高架下の電子部品街            AKB48劇場をバックに
 

 次に秋葉原高架下の電子部品街に、続いて私がよく行くラジオデパートに行きました。私はここでラジオ修理などに使えるゲルマニウムトランジスタ,OSCコイル,そしてIFTコイルなどを購入しました。娘はこのような電子部品街に来たのは初めてです。微小な電子部品の一つ一つを見て「綺麗なビーズのようだね。」と笑っていました。娘から見て、首を伸ばして部品をじっと覗き込む私の姿が、駄菓子店を覗き込む子供のように見えるのではないかと思います(笑)。

            ラジオデパート内の通路両脇に所狭しと並ぶ電子部品店


 電子部品を売っているお店の次に、フィギュアを売っているお店に行く予定でした。しかし、フィギュアのお店がたくさん入っていたラジオ会館ビルが解体されていました。このため、近くのビルにあったフィギュアのお店を少し散策しました。しかし、小さなお店でしたので、売れ筋のフィギュアばかりで等身大のフィギュアなどはありませんでした。

     万世橋から見下ろした船          秋葉原街を見下ろしながら肉料理
 

 最後に万世橋を渡ってすぐの所にある電子部品売り場に行きました。私が学生時代、ここにもよく来ました。しかし、何年か前に交通博物館が埼玉県に移転してからはすっかり寂れてしまいました。数年のうちに、この売り場は無くなると思われます。秋葉原の栄枯盛衰を見る思いです。私が秋葉原に通い始めた40年前、秋葉原が将来これほど変わるとは思いませんでした。
 今回の秋葉原散策はこれで終わりとしました。お腹がすいたので、昭和5年に作られた古い万世橋の欄干などを見学ののち、有名な肉料理店(肉の万世)に入りました。万世橋を渡っていると、運河を移動している船を見ることができました。肉料理を食べた後、八王子の我家に戻りました。

            「肉の万世」から見下ろした秋葉原街

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三ヶ月ぶりに東京へ(2/5) 義理母の一時退院と中田商店

2013年02月19日 | 家族関連

 2月13日、東京での2日目の始まりです。今回は、八王子から神奈川県の辻堂に行きました。バスで京王南大沢駅に行き、そこから電車です。南大沢>京王多摩センター>新百合丘>藤沢>辻堂です。藤沢駅は、私がボーイスカウトの副隊長をしていた10年以上前、毎年のように三浦半島にキャンプなどで子供達を連れて行く時の通過駅でした。さらにその30年位前、私の大学時代に友達と鎌倉や江の島に遊びに行く時の乗り換え駅でした。トロトロ走る懐かしい江ノ島電鉄を思い出します。辻堂は15年ぶりでしょうか。駅舎や駅前が立派に変わっていて驚きました。駅前のロータリーだけはわずかに見覚えがあります。

   義理母が入院中の湘南藤沢徳洲会病院(向こうに見えるビル)に向かう私と娘


 びっくりするほど変わった辻堂駅や駅前を歩いて15分位、義理の母親が入院している湘南藤沢徳洲会病院に向かいました。空は真っ青で、白い歩道がまぶしいほどの晴れ渡る天気でした。義理の母親は、私が山口県に帰る16日に手術予定です。それまで一時退院して、住み慣れた東京練馬区の家でくつろぐことになりました。今回病院に行った理由は、見舞いに加えて義理の母親をエスコートして練馬まで連れ帰ることです。

     義理の母親(娘の祖母)と娘         辻堂前のお店で、昼食の蕎麦
 

 一時退院の前、この辻堂近くに住む家内の妹に会いました。そして、病院を出てから辻堂駅前のレストランで蕎麦を3人で食べました。そして、辻堂>藤沢>池袋>練馬へと電車を乗り継ぎました。途中、大船を過ぎた頃に戸塚駅がありました。この駅には、今から40年位前に私が就職して以降30年近く通勤した会社があります。走る電車の中から、思い出が詰まった懐かしいその会社を車窓から眺めました。

          蕎麦を食べた後、娘のエスコートで辻堂駅に向かう義理の母親


 午後2時頃、東京練馬区にある義理の母親の家に着きました。しばらくその家でくつろいだ後、娘と御徒町の親戚に行きました。最初、秋葉原に行ったついでに御徒町に行く予定でした。しかし、時間が遅くなったためこの日は御徒町だけに行きました。この夏にも家内と御徒町の叔父(私の父親の弟)と従兄弟達に逢いました。今回初めて、娘を御徒町に連れて行きました。

     毎日がお祭りのような御徒町           叔父の経営するお店内で
 

 叔父や従兄弟達が経営するお店は「中田商店」と言い、各種軍服などのミリタリー用品販売では日本のトップブランドです。お店の軍服を戦争映画(最近では「男たちの大和」)で貸すことがあるとのこと、また映画俳優(最近では「織田裕二」)が試着するために来ることがあるそうです。雑誌などで取り上げられることもよくあります。

            娘の隣りの、私の従兄弟のMちゃんとSちゃん(店内で)


 叔父は私の父親の弟です。去年私の父親が亡くなった時、体調が悪いにも関わらず父の葬儀に来ていただきました。私の父親は戦時中に中国で死ぬような辛い体験をしましたが、叔父も終戦時は上海にいて父に劣らず苦労したそうです。そして裸一貫で今のお店を築き上げました。叔父は兄弟一の成功者ではないかと思います。その叔父の子供達(私の従兄弟達)に今回会いました。

           娘の左は従兄弟のYちゃん、右はTちゃん(私の妹と同い年)


 今回、残念ながら叔父には会えませんでした。この秋にまた東京に来る予定ですので、その時に改めて会おうと思います。帰る間際、従兄弟が娘にバッグの一つをプレゼントしてくれました。ありがたいことです。中田商店でいろいろ談笑していて、すっかり日が暮れました。お腹がすいたのでお店近くのレストランで夕食にしました。

  バッグをプレゼントされている娘           お店近くのレストランで夕食
 

 娘は一時退院した義理の母親がすごしている練馬に帰りました。娘と義理の母親(娘の祖母)は、この夜何を話すのでしょうか。先がそう長くない義理の母親は、孫娘に話したいことがたくさんあるのではないかと思います。私は御徒町から秋葉原に行きました。そして、夜のネオンサインがきらめく秋葉原をささくさと通り過ぎて岩本町に向かいました。そして、八王子の我家の向かいました。

             夜のネオンサインがきらめく秋葉原、夜も賑やか

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三か月ぶりに東京へ(1/5) 花束 from Singapore

2013年02月18日 | 家族関連

 12日、家内の母親の病気見舞いのため約三ヶ月ぶりに東京に行きました。車が使えないため、早朝歩いて我家を出発しました。秋に種をまいた麦畑の傍を通りました。冬、午後から日陰になる畑ですので、麦はあまり分げつしていませんでした。秋に肥料をまきましたが、もう一度肥料をやった方がよさそうです。田布施駅から電車に乗り、徳山駅から新幹線に乗りました。東京への帰省の5日間の始まりです(去年までは東京から山口県への帰省でしたが)。

     早朝、朝日を浴びる麦畑              新横浜駅で新幹線を下車
 

 新横浜駅から降りて、八王子の我家に向かいました。三ヶ月ぶりに新築の我家に入りました。しかし、我家には誰もいませんでした。しばらくしてシンガポールから帰国した娘から電話が入り、駅まで迎えに行きました。入院中の家内の母親の病院に行っていたそうです。そして夕方、今度は家内が仕事から帰ってきました。

            駐車場や石垣が綺麗になっていた、三ヶ月ぶりの新築の我家


 我家でのんびり過ごしていると、宅急便の呼び鈴が鳴りました。届いたのは、私と家内宛のシンガポールからの花束でした。なんと、娘の彼氏からの花束だったのでした。外国では相手の両親に花束などの贈り物を贈る習慣があるそうです。こんな贈り物は初めてです。ちょっと照れくさいのですが、受け取ることにしました。

    嬉しそうに花束を開ける娘            花束を手に私と家内
 

 花束を受け取ると、やわら娘がパソコンでSkypeを始めました。無事に花束が届いたことを彼氏に報告するようでした。相手とインターネットを介して通じると、娘がなにやら花束が届いたことの報告をしたのち、私を相手に紹介しました。今は遠く離れた外国でも瞬時に通話できる時代になったようです。私が就職した40年位前、まだまだ手紙が主流でした。時代の流れを感じずにはいられませんでした。なんと、この秋に逢いに来るそうです。

               娘の彼氏からの、私と家内宛のメッセージ付き花束

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我家の夕日、わずかに日が長く

2013年02月17日 | 田舎暮らし

 2月中旬に入り、少しずつ日が長くなってきました。そして、それに比例して日が差す日中ははとても暖かくなります。木々の枝を見ると、桜,桃など春に花が咲く木は花芽が少し膨らんできました。蝋梅はすでに花が散り、梅はもう花が咲いています。

      夕日がさす我家の裏山              日が落ちる直前の裏山
 

 樹木以外では、畑の雑草がだんだん広がってきました。まだ除草するほどは伸びていません。野菜のうちチンゲンサイやタアサイなどはとうが立ってきたので、もう葉は食べることができません。畑や山を見ていると、春が近づいていることが分かります。もう少しすれば竹の子が収穫できます。春がとても楽しみです。

              我家から見た、日没直前の西の空

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ハンマーナイフモアによる最後の除草

2013年02月16日 | 草刈り,整地

 枯草ばかりの、ある空き地をハンマーナイフモアで除草しています。今回が最後の除草となります。前回までは大雑把に枯草を刈り取って粉砕しました。今回、刈り残した枯草を中心に刈り取り粉砕しました。畑の角はハンマーナイフモアが届かないため、草刈機を使って刈り取り、刈った草を一か所に積みました。その積まれた枯草をハンマーナイフモアで粉砕しました。これで、畑は綺麗になりました。
 次回はいよいよトラクタで耕運しようと思いますが、父親が雑草が生えないようにと一部に黒マルチを敷いていました。この黒マルチを綺麗に取り除いてからのことになるようです。

          枯草が生い茂っていた空き地、ハンマーナイフモアでとても綺麗に

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暖を取りながら、たき火をする

2013年02月15日 | 田舎暮らし

 年末から何度もたき火をしています。伐採した木や竹を燃やしていますが、なかなか減りません。さすがに、たき火に飽きてきました。1月になってから風か強い日が増えたため、早朝か夕方にしかたき火ができません。まだまだ寒い日が続いていますので、飽きてしまったたき火ではありますが暖を取ることができます。

               夕方のたき火、パチパチ音をたてて木が燃える


 子供の頃から、たき火や風呂たきは何度も経験しました。しかし、野焼きだけは経験がありません。この地域では、山裾や田んぼの畔を晩秋に焼いている光景をよく目にします。しかし、野焼きは山火事などの原因になりますので、よほど天候や風向きなどに最新の注意をしなければなりません。小学生の頃、学校帰りに山火事を見たことがあります。火や煙が何か所も筋になっているので山火事だと分かります。今後も野焼きをすることはないと思いますが、火事だけは気をつけなければと思っています。

               たき火の最後、おき火で暖をとった後に水をまいて消火

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チェーンソーの刃が外れる

2013年02月14日 | 農機具,工具

 山の木を伐採していたら突然チェーンソーの刃がポロリと外れてしまいました。このようなことは初めてです。木が倒れる直前に切り口からチェーンソーを外すタイミングが悪く、刃を挟んでしまい運悪くそれをねじってしまったことが原因だと思います。チェーンソーの操作ミスです。それに伐採を続けているとだんだんチェーン状の刃が伸びてきます。すると、だんだんチェーンがたるんできます。定期的にチェーンのたるみを取らなければなりません。そのメンテナンスをおろそかにしたつけもあります。

          チェーン状の刃が外れてしまったチェーンソー、伐採時の操作ミス!


 チェーン状の刃を元通りに取り付けるには、いったんチェーンソーのガイドバーを緩めます。そして、チェーン刃をガイドバーの先端にかけ直します。チェーンの張りを直すため、チェーンソー本体の張りを調整する穴を回した後、その張りをそのまま固定する2個所を固定します。このようにして、チェーン刃をかけ直しました。今後、チェーン刃そのものを交換するときも同様な方法を取ります。

 チェーン刃をガイドバーの先端にかける     先端にぐるりとチェーン刃をかけ直す
 

 これまで何度もこのチェーンソーのメンテナンスをしたので、かけ直すことは容易にできました。今回はたまたまメンテナンスの道具を山に持ち込んでいたので、その場でチェーンをかけ直すことができました。木を伐採する時、常に刃を研ぐヤスリなどのメンテナンス道具も一緒に持っていくことが大切であることを思い知りました。

      チェーンをかけ直して、丸の部分を回してチェーンが弛まないように張る


 そもそも今回チェーン刃が外れた原因は操作ミスですが、もう1つの原因がありました。それは、チェーンオイルが無くなっていたことです。少なくなっていることに気が付いていたのですが、今回の伐採中に完全に無くなったようです。伐採前の点検ミスです。チェーンオイルが無いと、チェーン刃がスムーズに回転しません。つまり外れやすくなります。チェーンオイルを満タンにしておきました。農機具点検の大切さを改めて知りました。

     空っぽになったチェーンオイル            チェーンオイルを注ぐ
 

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