普通のニンニクはどちらかと言うと野菜炒めなどの風味付けに使います。しかし、ジャンボのニンニクは匂いや味がきつくありません。そのまま炒めて食べることができます。また、種を蒔く野菜に比べて害虫に強いため、とても育てやすいです。タマネギのようにがつがつ食べる野菜ではないですが欠かせない野菜です。
この初夏に収穫したジャンボニンニクの食べ残しを種にして畑に植えることにしました。そのため、軒下に干していたジャンボニンニクを下ろして薄い皮を剥ぎました。そして、次々に植え付けました。
皮を剥いだジャンボニンニクを次々に植え付け
植え付けする前にジャンボニンニクを植え付ける畝を耕運機で耕しました。そして、その上に穴あき黒マルチを被覆して押さえつけました。また、黒マルチの両サイドには雑草が生えないように黒シートを貼り付けておきました。黒シートは風で剥がれたり跳びやすいためレンガを置いて重しとしました。
畝を耕運機で耕す 穴あき黒マルチを被覆 ジャンボニンニクの皮剥ぎ
ジャンボニンニクの薄皮を剥ぐと、エレラルド色の中身が見えてきました。どんどん薄皮を剥いで植え付けの準備が終わりました。座っての作業のため腰が疲れます。小休止後、穴あき黒マルチに次々にジャンボニンニクの種球を植え付けていきました。残りの野良仕事は普通ニンニク,タマネギ,そして小麦の種まきが主な作業となりました。
ジャンボニンニクの薄皮を剥ぐ 薄皮を剥ぎ終わったジャンボニンニク
大晃機械工業(株)傍にある船回し池跡を過ぎると、天満宮横の県道を回りこんで田布施川に向かいました。今回は下見ですので順調に歩けましたが、本番ウォーキングでは時間が足りなさそうです。そのため、熊毛南高校傍を流れる灸川を下流に向かって田布施川に向かうことになると思います。
大晃機械工業(株)をぐるりと回ると熊毛南高校入口の灸川に出ました。そして、今度は灸川の堤防に沿って田布施川に向かいました。放置された田んぼには覆いつくすほどの葦が映えていました。そして、どの葦も穂がたなびいていました。たなびく葦の穂を見ていると秋を感じさせます。また葦原は日本の原風景です。
田布施川脇の灸川河口、〇はかつての堤防を支えていた杭の列
5年位前に灸川を散策したことがあります。当時の灸川は水草が生い茂っていて川底が見えませんでした。そして、たくさんの亀がいました。ほとんどが外来種のミドリガメでしたが、クサガメなどの在来種もいました。ただミドリガメの方が強いのか在来種は追いやられて近くの田んぼにいました。しかし、数年前の灸川改修によって水草が一掃されて堤防が新しくなりました。そのためか、外来種も在来種もぐっと減りました。
赤子山を振り返って 穂が出た葦原 改修後の灸側堤防
灸川と田布施川の合流地点で小休止しました。この場所は、今から150年前の幕末期に脱走した奇兵隊の刑場でした。私の曾祖母が幼児の頃にその刑を見たことがあるとの言い伝えがあります。私の祖母が明治20年頃の生まれなので、祖母の母親が刑場を見たとの話は嘘ではないようです。実際、祖母や曾祖母はこのすぐ近くの人島地区に住んでいました。幕末を身近に感じます。
祖母や曾祖母が住んでいた人島地区 散髪の吉兼理髪室
小休止後、祖母や曾祖母が住んでいた人島地区の道を歩きました。私が幼児の頃、この人島になかば住んでいました。その当時は子供も多く、近くの子達とよく遊んでいました。懐かしい民家や道を思い出しながら歩きました。そして、スタート地点である平生Maxvalue近くにある吉兼理髪店横を通りました。吉兼理髪店は私が幼児の頃、保育園帰りにここでよく散髪していました。椅子の前の棚に「招き猫」の置物が置いてあったことを覚えています。私の髪を切った理髪店の親切なおばさんはもう鬼籍に入っていることでしょう。
今回は私が幼児の頃に歩き回った竪ヶ浜、田布施川、平生町北部の史跡を中心に歩きました。
平生~竪ヶ浜~田布施川史跡巡りウォーキングの下見コース
11月に小麦の種まきをする予定でいます。今回は種をまく予定の畑の雑草を綺麗に刈り取りました。後日トラクターで耕やした後に小麦の種を蒔きます。うどんや団子用の品種ではなくパン用の品種を予定しています。
小麦の種まき適期は以前は10月でした。しかし、このところの温暖化で11月が良いようです。以前種まきが遅れて12月になってしまったことがありました。それでも芽が出て育ちました。麦農家であれば収穫量を増やすため適期にこだわると思います。私のように自己消費するのでしたら種まき適期にそれほどこだわる必要はないかと思います。
小麦の種をまく予定の畑の草をハンマーナイフモアで粉砕
トラクターのロータリーで耕すため、なるべく雑草が粉砕されるハンマーナイフモアで草刈りしました。細かく粉砕されるためロータリーに草が巻き付かず助かります。
草を刈っている途中カヤネズミの巣を発見しました。巣内を見ると空っぽでした。カヤネズミは無事に巣立ったようです。来年もこの畑に巣を作って欲しいものです。カヤネズミはとても小さく可愛いネズミです。鳥が作るような巣を、生い茂る草の茎や葉に作ります。
どんどん雑草を刈る カヤネズミの巣 後日トラクターで耕運
11月に蜂蜜を取ろうと思っていたミツバチ、巣箱内に害虫のすむし(巣虫:蛾の幼虫)が侵入していました。そのためか、巣の成長がよろしくありません。すむしはミツバチの蜜蝋や花粉を食べるとのこと。そして、すむしが巣箱内で増えると巣がとろとろになって落下するとのこと。
ミツバチを飼っている友達がやってきました。その友達がミツバチの状態が良くないようにみえるとの事でした。それで分かりました。もしかしてと思って巣箱を開けるとすむしがいたのです。巣箱の底に繭状の綿のようなものありました。その繭状の綿を千切ると中からうじが出てきました。これですむしが巣箱にいることが確定しました。このすむしがいるとミツバチの健康状態が悪くなるそうです。
巣箱の扉を開けて巣箱内を検査
すむしがどの位多く増えているのか分かりません。いずれ巣箱内を開いてすむしを退治しようと思います。難しいのはすむしを殺すための殺虫剤が無いことです。殺虫剤を使うとミツバチも一緒に死ぬのです。
今年は蜂蜜をとることは止めました。蜂蜜を取ってしまうと冬越しする餌が無くなり、この冬の間にミツバチ達が死滅してします恐れがあるのです。これからの季節、冬に向かって蜜や花粉がとれなくなります。すむしをできるだけ退治します。そのため無事にこの冬を越してもらいたいです。
巣箱の扉を開ける 繭状の綿を発見 中からうじが出て来る
巣箱の底にいるすむしを退治するため底板を外しました。底板にミツバチがこぼした花粉や蜜蝋の残渣が溜まっていました。この蜜蝋の残渣や花粉を食べてすむしが大きくなるとのこと。そして、だんだん巣の方に移動して巣全体を食べてダメにするようです。
少しでもすむしを退治するため、繭状の綿を取り出しました、そして底板に溜まった蜜蝋の残渣や花粉を取り除きました。後日、巣の上部を開けてすむしが移動していないか検査しようと思います。ミツバチの飼育はなかなか難しいです。
底板の蜜蝋残渣や花粉を取り除く 綺麗に掃除した底板
熊毛南高校をだいぶ過ぎると柳井市に入りました。そして、灸川を上流に向かって歩きました。ところで、今の田布施川は江戸時代初めから江戸時代後期にかけて作られた人工の川です。川が真っすぐであることが人工の川である証拠です。一方、灸川は曲がりくねっています。つまり自然の川の流れです。
昔の田布施川(旧薬師川は大波野の中心を流れていました。田布施中学校の北を通り、大晃機械工業(株)傍を通って灸川に流れ込んでいたのです。今それを知る人はいません。航空写真を見ると昔の田布施川跡がくっきり残っています。
灸川に架かる石橋、傷んでおり車は通行禁止
灸川を上流に向かって歩いていると石橋が架かっています。この橋は平生と田布施を結びます。今の県道が無かった時代、平生~竪ヶ浜~灸川~田布施を結ぶ街道に架かっていました。この橋は今、通行禁止となっていますが歩いての通過はOKのようでした。この橋の近くに泉が湧く場所がありました。以前は屋根がありましたが朽ちて無くなっていました。その昔は貴重な水源だったようです。
灸川傍の水源跡 かつての田布施川の幅 曼殊沙華が道沿いに咲く
石橋を注意しながら渡ると田布施に向かって旧道を歩きました。その道に沿ってかつての田布施川跡が残っています。江戸時代の田布施川はここを流れていたのです。川幅12m位しかなく堤防も無かったようです。そのため氾濫に悩まされていました。その氾濫を避けるため、400年をかけて今の場所に田布施川が作られました。
船を回転させる池跡 水の流れを制御する装置
しばらく広い田んぼ道を歩いていると、電柵を片付けている方がいました。声をかけるとイノシシ除けの電柵とのこと。田んぼにもイノシシが入るのですね。稲の穂をこさいで食べ、さらに田んぼ内で転げ割るようです。お米を作る農家も大変です。ここ最近、イノシシ,熊,タヌキ,アライグマなどの被害が増えました。なんとかならないものでしょうか。
大晃機械工業(株)の近くに船を回転させる船回しの池跡があります。江戸時代後半から明治にかけて、ここまで船が入港して波野の商品や人を平生湾に運搬していました、その船の舳先の向きを変えるための池だったのです。これまた知る人がいない史跡です。
平生~竪ヶ浜~田布施川史跡巡りウォーキングの下見コース
秋冬野菜の種まきを進めています。先日耕した畝に黒マルチを被覆した後、野菜の種を蒔きました。蒔いた野菜の種類は、小松菜,チンゲンサイ,葉大根,そして壬生菜です。小松菜はいつも安価な種を購入していますが、虫に食べられたり病気にかかって枯れたりすることが少なくありませんでした。そのため、今回は耐病性の小松菜を種を購入しました。その種を蒔いて耐病性の意味が分かりました。種に殺菌剤がまぶしてありました。てっきり耐病性のある品種だとばかり思っていたので少しがっかりしました。
小松菜は一年で一番多く食べますので、多めに種を蒔いておきました。続いてとても育てやすい大根葉です。葉は大根と同じように少しチクチクしますが、炒めるとしんなりして食べやすいです。大根葉も多めに種を蒔いておきました。
黒マルチの穴に秋冬野菜の種を蒔く
チンゲンサイは野菜の中で一番好きです。ですが、なかなか根が膨らんでくれません。一番の原因は虫に食べられることです。殺虫剤をまかない主義なので仕方ありません。地道に虫を指で摘まんではポイしています。最後、壬生菜は数年ぶりに種をまきます。うまく育つと株がとても大きくなります。軽く炒めるとシャキシャキして美味しいです。なお、春の管理が大変なエンドウ豆類は今年は栽培を止めました。
今後はニンニクやタマネギ苗の植え付けや小麦の種まきなどがあります。花の種や球根を植える作業もあります。11月中旬頃までは忙しいです。
種を蒔いた野菜の種 黒マルチを被覆 最初に小松菜の種まき
小さな籠を作るための組み立て式木枠を試作しています。今回は小さな4枚の板を組付けて木枠にします。最初一枚の板に図面を引いた後、その線に沿ってノコギリで切りました。そして4枚の板を切り出しました。次に先日作った木枠と同じようにダボをはめ込む穴を開けます。板の厚さが狭いので穴あけ位置に注意を要します。
四つの板がそれぞれ直角になるようにダボを取り付け
板が小さいから簡単だろうと思っていましたが意外に難しいのです。特にダボの穴を開ける位置に苦労しました。板の幅が狭いためダボを通す穴が変形することです。板の外側が陥没したり凹んだりします。手持ちドリルではなくボール盤で穴を開けるべきでした。今回は試作なので次に作ることがあればボール盤を使おうと思います。
四つの板を切り出す 穴あけ深さを決める ダボ穴を板に開ける
先日、西田布施公民館で田布施町社会福祉大会が開かれました。たまたまその日空いていましたので参加を予約していました。当日表彰されるらしいことは分かっていました。玄関を入ると何と胸にリボンを付けることになりました。表彰される方々を見ると知っている方ばかりでした。子供や福祉関係のボランティアを永くしておられる方々です。
私の表彰の理由は10年間福祉委員をしたことのようです。高校卒業後40年間田布施町を離れてすっかり故郷を忘れていました。しかし、この10年間の活動で何とか地元に溶け込めたかなと思っています。ありがとうございます。
福祉関連の活動で表彰された方々
福祉委員として活動は常日頃お年寄りの様子を見守ることなのですが、それほど忙しくはありません。介護などの必要な方や亡くなった方がいれば民生委員に届け出るくらいです。
大変なのは地区でお年寄りの世話をする事でしょうか。オレンジカフェ(認知症予防カフェ)でのお話、生き生きサロン(敬老イベント)のお世話、今月末のお年寄りを連れての史跡散歩、そして来月お年寄りを連れて周防大島にミカン狩りに行きます。私自身がお年寄りなのでしょうが、お世話になる立場にならないように精進しようと思います。
入口でリボン 恥ずかしながら 災害現場の報告
子供の頃歩き回った思い出深き竪ヶ浜を歩いていると知願寺が見えてきました。そして、左側に竪ヶ浜公会堂が見えてきました。昔は竪ヶ浜の端っこがこの公会堂だったのです。この公会堂から田布施までの間に民家はありませんでした。今は田布施に向かって何処までも家が続いています。
ところで、大歳神社がこの近くにあったのですが場所を忘れてしまいました。そこで道を進んで知願寺のお墓がある高台に行きました。すると、山裾に大歳神社が見えました。知願寺の10m位南側に神社への入口があったのです。
左側に荒木神社の森を、右側に熊毛南高校を見て
神社の拝殿まで距離があったため今回の下見では拝殿までは行きませんでした。続いて、知願寺の高台のお墓を右に見ながらどんどん道を登りました。すると三角小屋が見えてきました。この小屋の近くの山の斜面に山羊がいました。草を食べまくったのかその斜面には草が生えておらず剥げ地になっていました。また、以前小屋の前には竹炭を作るための窯がありましたがありませんでした。今は竹炭を作っていないようでした。
竪ヶ浜端の知願寺 竪ヶ浜公会堂 山裾にある大歳神社
三角屋根の小屋からは道を下りました。以前はちゃんとした田んぼや畑がありましたが今はどれも荒地になっていました。川傍にポツンと一軒だけ家がありました。この山ぎわに何と暖竹がたくさん生えてしかも穂が出ていました。海岸端にしか無いと思っていた暖竹がこんなところにあるとは。
荒木地区に出ると、眼下に熊毛南高校が見えてきました。私が入学した当初は木造校舎でしたが、私が卒業する頃に鉄筋コンクリート製校舎に変わりました。個人的には昭和を思わせる木造校舎が好きです。当時は暖房が達磨ストーブで燃料は石炭でした。
三角屋根の小屋、向こうに山羊 穂が出ていたたくさんの暖竹
熊毛南高校を左手に見ながら荒木地区の道を田布施に向かって歩きました。途中荒木神社のこんもりした森が見えました。今回は行きませんでしたが、本番ウォーキングでは荒木神社を参拝する予定です。ちなみに今回歩いた荒木地区の道は江戸時代は岩国藩の領地でした。つまり吉川氏が治めていました。江戸時代は岩国から続く竪ヶ浜街道でした。それを知る石柱が近くに建っています。
平生~竪ヶ浜~田布施川史跡巡りウォーキングの下見コース
ケナフを栽培しているのですが、なかなか皮を剥いで繊維にする時間がありません。そうこうしているうちに花が咲き始めました。そして、授粉したのでしょうか、実がだんだん大きくなりました。このままでは良い皮が得られないため急遽数本のケナフを切り倒しました。そして、茎を根元から1.5m位の長さに切りそろえました。
花が咲き実が大きくなりはじめたケナフ
高さが3m近くまで伸びたケナフがありました。あまり大きく育つと茎が硬くなり皮を取るのに力がいり大変です。皮を得るため高さが2m位で花が咲いていないケナフを選んで切り倒しました。そして、皮を剥ぐために邪魔な枝を全て取り除きました。そうすると、1本の棒のような茎だけになりました。そのケナフをクラフト小屋に持ち帰って皮を剥ぐことにしました。
薄黄色の大きな花弁 天高く3m近く伸びたケナフ
ケナフの茎の上から根元に向かったナイフで一本線を引くように切りました。その切れ目に沿ってめくるように皮を剥ぎました。夏に一本だけ皮を剥いだことがありますが、10月になると若干皮が厚くなり硬いようです。クルミ,楮,イヌビワは夏が剥ぎやすいです。そのため、ケナフも夏に皮を剥ぐのが良いのではないかと思います。
その後、ケナフの皮を水に浸けておきました。水に浸けると養分が水に溶け去り、皮の乾燥後にカビが生えにくくなります。一週間程度水に浸して置こうと思います。それでも繊維分が取れないようでしたらアルカリ性の液に浸してみようと思います。
茎から剥くように皮を剥ぐ 水に浸して養分を取り去る
比較的簡単に作ることができるほぼろの一種として、ペットボトル用ほぼろを新たに試作してみました。今回は蓋(またはキャップ)元までピッタリ包むことができるものを作りました。そのため保温性が良いのではないかと思います。見た感じ、蓋だけが外に見えます。
そして、田布施農業工業高校で飼われている羊(茶々丸)の毛を紡いだ毛糸を模様にしてみました。その毛糸を藍と紫根の二色で染めました。紅花で染めても良かったかも知れません。その単糸を二本重ねて模様として編み込みました。
なんとか完成したNewペットボトル用ほぼろ
最初つくったペットボトル用ほぼろは蓋元をすぼめることができません。そのため、紐を引くとすぼめるように長い藁と短い藁とを交互に編み込んでみました。側面と底部は今までのもと同じ作りです。慣れれば半日で完成します。
長短の藁を交互に 底部は今までと同じ 側面に模様を入れる
側面の模様入れが終わった後、最後にループエンドとコードストッパーを首紐に通します。コードストッパーを引くと蓋のところまでペットボトルケースがすぼまります。次に同じようなペットボトルケースを作る場合、今度はフード付きにしてみると面白いと思います。
今回作ったペットボトル用ほぼろを次の史跡巡りウォーキングに持って行こうと思います。そして、皆さんから評価を伺い、使い勝手を確かめようと思います。
側面の模様(紺と紫)入れ完了 コードストッパーとループエンド
日差しはまだ強く日中は暑いのですがのんびりできません。秋冬野菜の種まきを急がなければなりません。まずは畑の整理を始めました。最初に去年タマネギを栽培した畝二つを耕運機で耕しました。雑草を鎌で草刈りをした後に耕運機で耕しました。草の根などを枯らすために数日間乾燥します。その後黒マルチを被覆してからて種まきをします。
先日植えたワケギとネギの傍を耕運除草
以前はたくさんの種類の野菜の種をまいていました。しかし、種類が多いとが管理が大変です。一番多く食べる小松菜,チンゲンサイ,大根葉,京菜だけにする予定です。また来月上旬タマネギの苗を購入して植え付ける予定です。
一方でつるの管理がたいへんなエンドウ豆類は今年は種を蒔きません。また、花菜,白菜,キャベツもやめることにしました。
刈った草を集める 黒マルチを取り外す 耕運機で耕す
8月下旬から洋綿が次々に開花していました。10月に入り今度は綿が次々にはじけるようなりました。今回そのはじけた綿を収穫しました。今年は綿を紡ぐ時間がとれそうもありません。そのため、来年の種まき用としての収穫です。
ちなみに羊毛と比べて綿の繊維は極細です。そのため、細い糸を紡ぐことができますが紡ぎ機を操るのはやや難しいです。私が栽培している綿は洋綿(バルバゼンセ)なので細くて長い繊維です。そのため、他の綿よりも紡ぎやすく細い糸にすることができます。ところで、長い間綿の繊維を紡いでいません。時々は紡ぎ機を出しては紡ぎを思い出す必要がありそうです。
来年の種まき用に収穫した洋綿(バルバゼンセ)
はじけた綿の実を収穫すると、殻を取り除いて綿だけを取り出しました。次に、種くり器を使って種と綿を分けます。種は来年の種まき用に、綿は紡いで糸にします。
藍畑のすぐ近くに緑綿も栽培しています。施肥しなかったため背が低いですが実が数個なっています。この緑綿も近々収穫するつもりでいます。
収穫した殻付きの綿 殻を取り去り綿だけに
毎年のことですが、小中学校時の同級生宅から電話がかかってきて稲わらを頂くことになりました。この日たまたま、この地区のお社(神花社:通称じんがさー)のお祭りがありました。5月にこのお社に小学校の児童達を連れて来たことがあります。年に一度のお祭りなので稲わらをいただくついでにお参りさせていただきました。
ちょうどお祭りが始まる直前にお社に着きました。宮司さんの祝詞が始まってから終わりまでおつきあいしました。来年小学生を連れてくる時は、今回のお祭りについてお話をしようと思います。ちなみにこのお社の眼下に小学校を一望できます。
井神、助政地区のお社(神花社)のお祭り
お祭りが終わると、稲わらを集めていた田んぼに戻りました。そして、同級生に稲わらの結束や運び出しを手伝っていただきました。そして、無事に稲わら三抱えを車に入れました。これで、今年来年のわら細工の材料が充足しました。いつもながら稲わらをいただき感謝します。なお、今年もお米30kg買うことにしました。
稲わらを回収した田んぼ 車に入れた稲わら三抱え
11月のウォーキングの下見に行ってきました。ウォーキングする方々もだんだん高齢化して山などのきつい史跡巡りに行くことができる人が減ってきました。そのため、今年から奇数月だけウォーキングすることに規約を変えました。そのため、偶数月が下見ウォーキングで奇数月が本番ウォーキングです。この10月は下見のウォーキングです。
下見したコースは、平生の竪ヶ浜旧道,田布施川運河,そして田布施川から平生に至るこーすです。まずは平生Maxvalurをスタートして竪ヶ浜の磯崎に行きました。この磯崎には平生町開作時代の遺跡が崖に残っています。
岩国~竪ヶ浜往還旧道の史跡を巡る
平生特産センター前を通り、最初に磯崎の崖に行きました。磯崎の名の通り江戸時代初期は海岸でした。今ここに残る崖は平生の干拓時代に海をせき止めるために掘られました。大野~野島~久賀島~磯崎の間に堤防を作って海をせきあるのです。磯崎の突端には磯崎公民館があり隣に祠があります。地元の方々が守りながら信仰しているのでしょう。
平生特産センター 磯崎の崖 磯崎公民館
続いて竪ヶ浜の中心部に行きました。そして、金毘羅社に行く川筋に建つ灯篭に来ました。この灯篭付近には平生保育園時代の思い出があります。当時友達だった弘田君と二人でよく帰っていました。この灯篭前で二人は分かれていました。分かれた後、私は田んぼの畦道をたった一人で歩いて帰りました。当時竪ヶ浜には広大な田んぼが広がっていました。十人位の女性たちが一列に並んで、腰をかがめて賑やかに田植えをしている光景を覚えています。
この灯篭の川向かうに金毘羅社 灯篭の反対側、幼児の私はここで一人帰る
10年位前に弘田君を訪問したことがあります。史跡巡りウォーキングのお誘いで訪れたのです。彼と奥様とお話をしました。今回10年ぶりに彼に会おうと思っていました。
彼の家の近くにたまたまおられた近所の方に彼が元気かどうか聞きました。そして驚きました。去年亡くなったとのこと。近所の方によるとよくお酒を飲んでいたそうです。幼児時代の懐かしい話などをしようと思っていたのにとても残念でした。古希を過ぎると少しずつ仲間が減っていきます。心に寂しさが浸みた下見ウォーキングでした。
平生~竪ヶ浜~田布施川史跡巡りウォーキングの下見コース