麦畑の傍を耕運機で耕しました。先日、草刈機で綺麗に雑草を刈っておいたので、比較的楽に耕すことができました。今日は久しぶりの晴天で、しばらく作業していると汗ばんできました。作業が終わるころには喉が渇きましたが、うっかり飲み物を忘れてしまいました。次回からは必ず水分補給の準備を怠らないようにしようと思います。せめてジュースを買えるくらいのお金をポケットに入れて来ようと思います。
今日は全体を広く耕しました。明日は移植したり種まきする場所をもう一度耕します。明日は耕した後、次の作業をしようと思います。藍の苗を移植、綿(緑)の種まき、キビやモロコシやハト麦などの種まきです。時間があれば渋柿周りの草刈りをしようと思います。
快晴の中、麦畑の隣をのんびりと耕運
ところで、麦畑が散々です。私が耕運機を運び込むと、麦畑からいっせいにスズメが飛び立ちました。先日、スズメなどの害鳥に食べられないように糸を張っておいたのですが効果がなかったようです。スズメにはその糸が見えるようで、糸を避けるようにホバリングしています。これはもう、スズメが羽を広げた幅より狭く糸を張るしかありません。
明日もう一度耕せばOK あーあ、スズメに食べられた麦穂
以前、糸ではなく網を張っていたことがありました。スズメたちを見ていて驚きました。その網の上に来てホバリングすると、羽を閉じるのです。羽を閉じて網の間を落ちるようにして通っていました。スズメは羽を閉じると、体の大きさが2cm位しかありません。そんな細かな網はありません。私だけが麦を作っている現状では、スズメの餌場を作っているようなものです。何軒かが一緒に麦を作らないと被害は避けられません。防鳥に一番良いのはカスミ網ですが、野鳥保護のため今はもう販売していません。やれやれ!
かろうじてまだ食べられていない麦
来月6月の史跡巡りウォーキングは柳井市の柳北方面を予定しています。今回、訪れる史跡,コース,距離,トイレなどを確認するための下見ウォーキングに行ってきました。スタートしたのは新庄Maxvalueです。朝10:00に集合して、参加者5人を確認後すぐに歩き始めました。最初歩いたコースは4年前に歩いたコースと同じです。フラワーランド近くからコースが変わります。新庄の水越地区の良照寺跡周辺などを歩いた後、柳北小学校方面に向かいました。そして、江戸時代に岩政次郎右衛門が作った水路沿いも歩きました。江戸時代に作られた水路は今だに現役です。今は田植えの時期ですので、水路には水が勢いよく流れていました。ところで、良照寺跡周辺を歩いていると、警官が一人歩いておりパトカーが走っていました。近所の方々も外に出ていました。イノシシが徘徊しており注意するようにとのことでした。
防陽八十八ヶ所霊場第八十六番札所の良照寺跡に向かう
最初に行った史跡は、正念寺の裏にある佐藤継信・忠信供養塔です。この兄弟は源義経に従って東北から関西にやってきました。兄弟は源義経に関わり非業の死を遂げています。続いて源義経供養塔に行きました。この付近で平安時代後期に源平合戦があったのでしょう。山向こうの平生町宇佐木でも源平合戦に関わる話が伝わっています。柳井,上関,平生周辺で激しい源平合戦が行われたようです。上関の矢櫃神社傍などに平家塚が伝わっています。
新庄MaxValueに集合 佐藤継信・忠信供養塔 源義経供養塔
続いて、同じ道筋にある多々野古墳跡に向かいました。この古墳は6世紀後半に築かれたようです。しかし、江戸時代に岩政次郎右衛門による水路建設時に破壊されたとのこと。古墳の形は失われており、かつ天井石もありません。周辺には弥生時代遺跡もあるとのこと。この付近は古代に栄えた地域なのでしょう。
天井石が無い多々野古墳跡 同じ道沿いの延命地蔵
次に延命地蔵に行きました。このお地蔵様は最近安置されたのではないかと思います。スライドドアがアルミ製ですし、「延命」の言葉は現代風です。ところで、4年前の史跡巡りウォーキングでは六地蔵,荒神社,明神社,人丸様に行きましたが、時間の関係で今回はパスしました。続いて、フラワーランド横の道を歩き、良照寺跡に向かいました。
柳井市柳北方面の史跡巡り下見コース
去年、トゥルーシーと呼ばれるハーブの穂をいただきました。このハーブに、ブルービーと言うとても綺麗な蜂がやって来るとのことです。青色のメタル色をした蜂です。種を取るためにトゥルーシーの乾いた穂をもみほぐしました。すると、どこからともなく良い香りが漂ってきました。枯れているとは言え、もんだためハーブの香りが発散したようです。この香り、とても気に入りました。今回、畑に種を蒔きました。一方で、苗箱に種を蒔いて苗を育てようと思います。真夏、育ったトゥルーシーにいったい何匹のブルービーがやって来るでしょうか。
雨後の畑に、トゥルーシーの種を蒔く
かさかさに乾いた穂をもむと、香りと共にゴマ粒大の黒い種が落ちてきます。その種を集めて畑に蒔きました。初めて栽培するハーブなので、育て方はさっぱり分かりません。浅く掘った筋に種を蒔きました。一方で、箱苗にも種まきしました。苗箱で育てた苗は、別に作った畑に移植しようと思います。いつ発芽するでしょうか、楽しみです。
乾いた穂をもむ ゴマ粒大の種 種まきした苗箱
吉見家跡を出ると、しばらく歩いて招魂場(現麻郷神社、当時の惣田山招魂社)に行きました。石階段を登りきると鳥居があり、その鳥居をくぐるとちょっとした広場が現れます。その広場の南側に行くと、平生湾を見下ろすことができます。独歩がこの招魂場に来た時、眼前に田んぼが広がっており、その向こう側に塩田がありました。当時はたくさんの浜子さんが働いていたはずです。その塩田の向こうには波がさざめく平生湾が広がっていました。その湾をたくさんの帆船が通っていました。そして、帆船が通る平生湾の対岸に、水場の街がありました。当時の水場は、遊郭が二軒ある賑やかな港だったようです。水場の名前の由来は、船員の飲水に欠かせない良質な清水が湧いていたからとのこと。実際に金毘羅社のすぐ下にその清水が井戸として残っています。今なお、綺麗な水が湧いてます。ちなみに「少年の悲哀」の舞台はこの水場のようです。
1:独歩が仮寓した吉見家
2:吉見家裏の吉見山
3:水場を望む惣田山招魂社
4:独歩が愛した高塔山
5:石城山を望む三角点尾根
麻郷神社(惣田山招魂社)の広場から見下ろした平生湾
麻郷神社の広場からお社に向かいました。そのお社の東側奥にたくさんの列柱が並んでいます。この列柱には、幕末から太平洋戦役にかけて亡くなった方々が慰霊されています。幕末に限ると、長州藩の歴史に名を遺した方々の名前が刻まれています。私個人の考えでは、奥羽列藩同盟創設の一因になった世良収蔵が一番でしょうか。第二次長州征伐で、周防大島を幕府の占領から解放した第二奇兵隊の総監でした。しかし、司馬遼太郎などが書いた著名な歴史小説に極悪人として描かれています。これらの小説で、極悪人のイメージが定着したようです。大河ドラマ「花燃ゆ」では、装束を含めて滑稽なほど極悪人として描かれていたのには少々がっかりしました。
麻郷神社のお社 志士を慰霊する列柱 国道188号線に出る
その他、幕末に非業の死を遂げた松宮相良も慰霊されています。大野毛利家臣で平生の吉見隊に関わっていたそうです。ちなみに、大野毛利は江戸時代初めに吉見家と関りがあります。江戸時代初期、吉見家を絶やさないために岩国藩当主の次男が吉見家に婿養子に入りました。その後、初代大野毛利創設時に初代当主になりました。 そのため、大野毛利初代当主の奥方は吉見家です。その奥方の墓所が平生町の秀巌寺にあります。ちなみに大野毛利氏の当主代々の墓所は海前寺に、代々の奥方は秀巌寺に墓所があります。なお、海前寺は廃仏毀釈で廃寺となり、代々当主の墓石だけが残っています。
大師堂跡(こつり地蔵)跡に向かう 今は無き大師堂跡(こつり地蔵)跡
麻郷神社(惣田山招魂社)を出ると、国道188号線を鳥越地区から八海地区に向けて歩きました。しばらく歩くと、鳥越地区と八海地区の境にある大師堂跡に来ました。この大師堂跡は20年位前に、周防大島の帯石観音に鳥越地蔵として移設されました。その大師堂跡から高塔山に向かうことにしました。高塔山西裾の竹藪に囲まれた山道を歩きました。私が子供の頃は人が通ることができました。
高塔山西麓の山道 山深い山道で休息 山道の十字路
独歩もこの山道を何度も歩いては、高塔山に登ったり降りたり、鳥越,米出,そして麻里府(別府)に通ったはずです。やや暗い竹藪の山道をしばらく進むと、私が覚えている山道の十字路に出ました。右に行くと高塔山、左に行くと、吉見山方面に、真っすぐ進むとしゃみせん山と田んぼ跡の分かれ道に出ます。田んぼ跡へ進むと平地を通って吉見家に行くことができます。今は工場ができたため、かつてのルートが分からなくなっています。
実踏調査した国木田独歩関連ルート
穂モロコシ(高キビ,コーリャンとも言う)を栽培しています。今回、穂が長くてほうきの材料になる品種の苗を畑に植えました。去年せっかく収穫した穂でしたが、中古で手に入れたハーベスタの脱穀力が強すぎて穂が大部分ちぎれてしまいました。ほうきを作るどころではありませんでした。今年もう一度栽培して、ハーベスタのドラム回転数を落として脱穀しようと思います。また、収穫した実を精米して食べてみようと思います。私の亡き父親が戦前に中国にいた頃、小豆の代用品として穂モロコシの実が入った赤飯を食べたとのこと。まずくて食べられなかったそうです。栄養価は分かりませんが、美味しくなかったようです。その昔、私が山梨県の山奥で雑穀栽培の調査したことがありました。穂モロコシの実を搗いて、餅のようにして食べていた家がありました。
穂モロコシの苗を、去年のジャガイモ畑跡に移植
2週間ほど前に苗箱で育てていたほうきモロコシ、苗箱から取り出して移植しました。植えた場所は去年ジャガイモを育てた畑です。去年にイノシシにやられてから、この畑で芋類を育てることができくなりました。芋類の代わりに、今年はほうきモロコシを育ててみることにしました。クワで苗を植える筋を掘り、10cm位の間隔で植えました。ただ、この畑は根土質であるためうまく育つか分かりません。うまく育ては高さ2m位に育ちます。この秋に立派な穂を収穫できるでしょうか。
移植を持つ苗束 苗を数本持つ 移植された苗
これからの季節、草刈り作業が多くなります。そのため、草刈機を適時整備しておくことが欠かせません。このところ、草刈機の調子が良くありません。調子が良くない箇所は、①始動時にエンジンのかかりが悪い。②エンジンの回転数を上げられないなどです。今回、エンジンの故障修理の鉄則にのって整備することにしました。まず初めにプラグを抜いて火花が飛ぶ隙間の焼き具合を調べました。それほど汚れていませんでした。また、始動ロープを引くと正常に火花が飛びました。つまりプラグは正常でした。続いて、キャブレターを調べることにしました。草刈機の故障で多いのは経験上、キャブレターの詰まりです。キャブレターを取り外して、微細なゴミが詰まっていないか調べました。
最初に草刈機のプラグを調査、汚れもなく火花OK
キャブレターを点検するには、キャブレターを草刈機本体から外さなければなりません。最初に吸入口カバーを取り外し、ゴミを取り除くスポンジを外しました。この草刈機は二つのナットを緩めるとキャブレターを取り外すことができる構造です。ポンピング管と燃料管を外し、さらにアクセルワイヤーを外してナットを緩めました。そして、キャブレター(キャブ)を草刈機本体から取り外すことができました。
本体からキャブを外す 外したキャブ キャブを分解
キャブレターの故障で一番多いのは、ガソリンを霧状に噴き出すニードル部です。極小の穴(メインニードル)からガソリンが吸い出されて霧になります。その穴に微細なゴミが詰まることがよくあるのです。ゴミそのものが詰まることがあったり、長い間草刈機を使わないでおくとガソリンが気化してタール状のものが詰まることがあります。草刈機を使い終わるごと、ガソリンを抜いておくと本当は良いのです。しかし、つい忘れがちになります。
詰まりやすい極小の穴 キャブレターを元の位置に戻す
キャブレターを修理中、ガソリンを吸い上げる燃料管が割れてしまいました。長い間に硬化したのです。ポンピングすると割れた個所からガソリンが噴出するようになりました。そのため、燃料管を新品に交換しました。今回修理した草刈機は4サイクルエンジンです。エンジンオイルが少なくなっていたため追加しておきました。ちなみに、2サイクルエンジンは、ガソリン自体にエンジンオイルを混ぜています(混合ガソリン)。そのため、草刈機本体にエンジンオイルは入れる必要はありません。
これらの整備が終わってガソリンを入れました。ポンピング後に始動ロープを勢いよく引きました。すると、チョークなしで一発でエンジンがかかりました。一発でエンジンがかかると嬉しいものです。
新品の燃料管 硬化した燃料管 快調な草刈機
毛糸で布を織っています。いわゆる平織りなのですが、模様が織れないか奮闘しています。模様と言っても、二色の横糸が斜めに接触するだけの単純な模様です。近づいてよくみると、接触部分は階段状になっています。ちなみに横糸が二色あるため、単純に二倍以上の時間がかかります。
困ったことに、経糸が単糸なので綜絖を通る間に撚りがほどけるのです。そのため、切れる経糸が続出しています。そして、そのたびにその経糸を補修しながら織っています。織りと補修で大変な時間がかかります。それでも、気落ちしないでのんびり織っている日々です。いつ毛糸布が完成するやら。
二つの横糸の接点をずらすようにしながら傾斜模様に織る
他の方がどう模様を織っているのか知りません。私は経糸の左右の端から、それぞれの色のシャトルを差し込んでいます。そして、両者が出会う部分でシャトルを引き出しています。そして、綜絖を上下して経糸を交差後に再度シャトルを通して経糸の両端に戻しています。再度綜絖を上下して、その経糸の両端から再度シャトルを差し込んでいます。シャトルが出会う場所を少しずつずらしながら傾斜模様にしているわけです。
二つの横糸が出会う 単色の横糸を20段 次の色の横糸シャトル
経糸8本ごとに、二つの色が出会う場所をずらしました。経糸は128本ですので、128 / 8 = 16 つまり横糸16段で傾斜模様が一つ完成します。実際のこの傾斜模様を織ってみると傾斜が意外に急角度であることが分かりました。次に織る傾斜模様は経糸16本ごとに二つの色が出会うようにずらそうと思います。
傾斜模様後、20段の同じ色の横糸
ところで、経糸と横糸の色の相性があることに気が付きました。私だけかも知れませんが。例えば赤と黄色は✖で、赤と橙は〇ではないかと。毛糸は糸が太いため、経糸の色と横糸の色が違い過ぎると布が荒く見えるように思います。あれこれと反省しながら、勉強だと思ってのんびり織っています。
経糸16本で左右の横糸が出会う 低角度の傾斜模様に
先日からずっと今でも、絹さやエンドウ豆を収穫し続けています。そのエンドウ豆の隣にソラマメを栽培しています。ソラマメの鞘が下に垂れるようになると収穫時期とのこと。何本か鞘が垂れ始めたため、今年初めて収穫しました。鞘の根元を剪定バサミで切りました。垂れたすべての鞘を収穫すると、鞘から豆を取り出しました。緑色の美味しそうな豆が出てきました。
下に垂れたソラマメの鞘を全て収穫
鞘から取り出した豆を婆様に見せると、軽く塩ゆでしたいとのこと。すべての豆を渡したところ、それが大失敗でした。今年94歳の婆様は最近衰えがひどく、耳が聞こえにくくなりました。そのため、毎日怒鳴るように話をしています。耳と同じように味覚も衰えてきたようです。味付けが濃い過ぎるのです。塩ゆでされたソラマメは塩辛くて食べられせん。怒る訳にもいかず、困ったことです。
収穫したソラマメの鞘 鞘から取り出した豆、美味しそう!
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国木田独歩は吉見家に仮寓中に何度も、吉見家の後ろにある山「屋後の山」に登っていたとのこと。吉見家の子供達を連れて登ったことが何度もあったようです。また、頂上に登って演説の練習をしたこともあったようです。その山は地元では「ゆりの山」と呼ばれていたようです。また、その南隣にある山は「吉見山」と呼ばれていたようです。今の時代、地元の人でも山に登ることはまずありません。そのため、昔呼ばれていた山の名前がどんどん忘れ去られています。独歩は、吉見家を中心に周辺の山や丘をよく散策したようです。私は地元の友人などを誘って、独歩の追体験をするため周辺の山を散策してみました。
1:独歩が仮寓した吉見家
2:吉見家裏の吉見山
3:水場を望む惣田山招魂社
4:独歩が愛した高塔山
5:石城山を望む三角点尾根
独歩が参拝した麻郷神社(招魂場:当時の惣田山招魂社)を訪れる
ところで、吉見家の後にある山「屋後の山」は、今は住宅建設のため頂上はありません。昭和45年頃に団地を造成する時に削られてしまいました。独歩のことは全く知らない小学生の私(60年位前)は、この山の頂上が好きでよく登っていました。360°の展望を楽しめました。南を見ると高塔山が、東を見ると田布施川や赤子山が、北を見ると田布施街とその向こうに石城山が、そして西を見ると確か千防山の尾根が見えました。空を見上げると、流れる雲や渡り鳥がよく見えました。そして、静かな風の音が聞こえました。夜に登ったことはありませんが、星空や月が綺麗だったことでしょう。独歩もこの景色を見たのではないかと思います。今は無き「屋後の山」頂上の思い出です。
頂上が無い現在の「屋後の山」 頂上がまだある1965年頃
ちなみに小学生の私がその頂上に登ったルートは、下図のように吉見山を西に迂回するルートでした。1960年頃のことです。山にそれほど樹が生えておらず、楽々に登ることができました。山に樹が生えていない大きな理由がありました。当時、風呂やカマドなどの燃料として山に生える笹や灌木を燃やしていました。私も小学四年生から高校卒業まで、風呂焚きするため毎日のように灌木を刈っては燃料にしていました。灌木を刈っている人の姿があちこちに見られました。そして、もう一つの理由は平生や麻郷の塩田の燃料に木が使われたのです。アルバイト感覚で、樹を切っては塩田に供出してお金を得ていたとのこと。
1960年頃、私が「屋後の山」頂上に登っていたルート
独歩が吉見家に仮寓していた明治24年からすでに130年の月日が経っていますが、当時の面影がわずかに残っています。その一つに吉見家の墓地跡があります。その墓地跡、今では落葉が厚く積もっており言われないととても墓地跡とは分かりません。地元在住の方から聞いた話です。墓地跡には小石がたくさん敷き詰められており、落葉を取り除けば小石があるかも知れないとのこと。その墓地跡に行ってみました。吉見家や現在の高塔が見下ろせる場所に墓地跡がありました。かつてあった墓石は今、柳井市新庄の欣慶寺に移っているとのこと。近々そのお墓を訪れてみようと思います。
墓地跡は灌木の中 墓地跡に生える樹 墓地付近を藪漕ぎ中
吉見家は昭和16年頃に、現在の高塔から引っ越しせざるを得なくなりました。その理由は、現在の高塔地区と旭地区を陸軍が接収することになったためです。太平洋戦争が始まった頃、大刀洗飛行場の燃料などの軍事物資を分散避難するための処置だったようです。二年前にたまたま太刀洗平和跡記念館に行きましたが、戦争中に何度も米軍に空襲を受けていたとのこと。そのための避難処置ではないでしょうか。麻里府港に陸揚げした軍事物資を集積所に保管したそうです。回りは鉄条網で守られ、憲兵が見回りしていたそうです。
麻郷神社(招魂場所:惣田山招魂社) 広々とした参道の灯篭
吉見家墓地跡を出ると、しばらく歩いて麻郷神社に向かいました。この神社は独歩が訪れた当時は惣田山招魂社と呼ばれていました。この招魂社は戊辰戦争などで亡くなった第二奇兵隊員を慰霊するために幕末慶応二年に建立されました。元々は元治元年に高杉晋作が下関に創設した招魂場(社殿は慶応元年に完成)が起源です。今でも4月1日に慰霊祭が執り行なわれています。この招魂社が建立されて3年後、東京招魂社(今の靖国神社)が建立されました。東京招魂社は、長州藩が建立した招魂社を参考に作ったようです。言わば、靖国神社の母体は長州藩の招魂社ではないかと思います。山口県の人には、明治維新を成し遂げるために亡くなった無数の英霊に特別な慰霊の念があるのだと思います。
実踏調査した国木田独歩関連ルート
あれやこれやと忙しくしていたら、桃の袋掛けをすっかり忘れていました。毎年5月の連休時にする作業でした。袋掛けを忘れた桃の樹に行ってみると、桃の実はすでに大きくなっていました。袋掛けをしていなかったため、ほとんどが虫に食われて実が変形していました。落下している実もありました。やむなく、虫に食われていない実を探し出して袋掛けをしました。
虫に食われていない実を探し出した袋掛け
袋掛けできた正常な実は8個位でした。桃は二種類栽培しています。大きな白桃と小さな普通の桃です。残念ながら、白桃は2個しか袋掛けできませんでした。残った実はすべて虫に食われており変形した実ばかりでした。小さな普通の桃は6個位に袋掛けしました。今年は甘くて美味しい桃を数個しか収穫できそうもありません。桃の栽培は世話が欠かせません。さぼると今回のような残念なことになります。来年はちゃんと世話したいものです。
外れないように袋の根元を縛る しっかり袋掛けした桃
我家で毎年のように実る果実がいくつかあります。その一つにグミがあります。そのグミを収穫する季節がやってました。真っ赤で小さな果実が、ぶら下がるようにいくつも実っています。その実を優しく摘まんで引っ張るようにして収穫します。その実は、例えて言えば小さな宝石です。その宝石のような実を口に入れると、わずかな渋みのすぐ後にしっとりとした甘さが口内に広がります。お金で買うことができない、各家で密かに楽しむ果物ではないかと思います。
小さく宝石ような真っ赤なグミ、しっとりと甘く美味しい
私が子供の頃にもグミがありましたが、もう少し粒が小さく強い渋みがありました。野生種だったのかも知れません。今我家にあるグミは品種改良されたグミのようです。甘みが強いためか、虫が汁を吸った実があります。そんな実は形が変形しています。そんな変形した実が2割位あるでしょうか。その2割のために農薬をかけることはしていません。虫が汁を吸わなかった実を私が選んで収穫しています。
梅雨のしずくが垂れたグミ 二つ並ぶグミを収穫
今年は国木田独歩生誕150年です。国木田独歩が足跡を残した地域では、生誕記念を開催する地域が少なくないと思います。田布施町も短い期間ではありましたが、明治24年から25年にかけて仮寓していました。そして青春時代の独歩に多大な影響を与えました。彼が描いたいくつかの小説に田布施町の風情が描かれており、のちの「武蔵野」の豊かな自然描写に影響を与えたと思います。
田布施町郷土館は独歩に関する資料を100点ばかり所蔵しています。元々は7月~8月に生誕150年展示会を開催予定でした。しかし、コロナ惨禍と猛暑を避けるため10月~11月に変更しました。今回、独歩が仮寓した吉見家跡周辺と高塔山周辺を実踏調査しました。この実踏調査を元に、3回程度に分けて独歩が愛した高塔山などの自然豊かな風情を案内しようと思います。
1:独歩が仮寓した吉見家
2:吉見家裏の吉見山
3:水場を望む惣田山招魂社
4:独歩が愛した高塔山
5:石城山を望む三角点尾根
国木田独歩がよく登った、吉見家跡の裏山を調査
私を含めて高塔地区に住む四人ともう一人の合計5人が、実踏調査に参加しました。私ともう一人は、子供の頃に高塔山や吉見家周辺を走り回ったことがあり土地勘があります。ちなみに、高塔山麓に我家の土地がありました。将来の木材のためにと、私が幼児の頃に一家で植林をしたことがあります。しかし、その植林した場所が高塔山のどこか忘れてしまいました。
独歩吉見家跡案内板 独歩吉見家跡石碑 跡地に建つ現K氏の家
さて、午後13時に高塔公会堂に5人が集合しました。各人は長靴を履き、灌木を切る鎌を持ちました。出発前に私の方から資料を渡しました。そして、今回歩くルートをざっと説明をしました。私も50年ぶり位に山を歩くため、安全第一で山を歩くことにしました。最初、公会堂から200m位先にある国木田独歩吉見家跡地の案内板前に行きました。その案内板から道を分かれ、国木田独歩吉見家仮寓石碑まで行きました。その石碑を確認後、吉見家跡地に行きました。
昭和30年頃の我家と吉見家跡周辺、今回黄色ルートを実踏調査
現在、吉見家跡地にはK氏が住んでおられます。K氏は留守でしたので、独歩が使ったであろう井戸や池などを確認しました。井戸は、私が覚えているつるべではありませんでした。独歩時代が残っているのは池だけでした。ちなみに、私が子供の頃、K氏の家によく遊びに来ていました。
吉見家時代からの池 吉見家跡の裏山に登るも藪だらけ
私が子供の頃、吉見家跡周辺は広々としており、その周辺の山によく登っていました。吉見家跡の裏山頂上は尖っており360°周りを見下ろすことができました。その昔、独歩や吉見家の子供達もこの同じ場所で景色や空や渡り鳥を見たに違いありません。そして、時間になると山に仕掛けられた鳴子で、家に帰るよう吉見家の主人から合図されたのでしょう。しかし今、住宅建設のため山は削られ頂上はもうありません。残念ですが仕方ありません。
実踏調査した国木田独歩関連ルート
これまで、リジット織機を使って経糸に青色の横糸を通してきました。今回から桃色の横糸を加えて斜め模様を入れることにしました。これまで織物に斜め模様を入れたことが無かったため、二色の横糸をどう交わらせるか悩みました。さっそく失敗してしまいました。青の横糸を経糸の左端に出した時に、桃色の毛糸を経糸の右端から入れました。すると、二色の毛糸がうまく重ならないのです。何度か試行錯誤して織り直しました。青色は経糸の左端から、桃色は経糸の右端から挿入すれば良いことに気が付きました。他にも良い方法があるのかも知れませんが。私は教わることをしないので、最初はいつも失敗ばかりです。
青色と桃色の横糸を斜め模様にするも、段差が気になる
青色だけを20段ほど織った所から、桃色を割り込むようにして斜め模様にしようと考えました。経糸は128本あります。経糸8本ごとに青色を短く織り、逆に桃色を長く織ります。そうすれば、計算上16段で斜め模様が完成するはずです。青色の毛糸を巻いたシャトルと桃色の毛糸を巻いたシャトルを使って斜め模様に挑戦です。
桃色の毛糸の選別 桃色をシャトルに巻く 斜め模様の一段目
単純な斜め模様ですが意外に大変です。特に両者の色が接する部分です。両者を重ねると、その部分がどうしても厚くなるのです。他の方はどう織っているのでしょうか。模様が複雑になるほど、そして色が増えるほどシャトルが増えます。当然ながら労力も時間も増えます。今回は織物に模様を入れる大変さを体験するつもりで、のんびり織ろうと思います。
二色の毛糸が交わる箇所 斜め模様、ようやく6段目
近所の方に数年前にいただいた「やぐらネギ」を植え替えしました。そのネギはとても変わったネギです。一番身近なネギである長ネギやタマネギは、種を購入して苗を育てて畑に植え替えします。ところが、この変わったネギは、親ネギの葉の先端に生えた芽(子ネギ)を取って植えるのです。普通のネギのように育苗する必要がないためとても重宝します。ネギ坊主に種ができる代わりに芽(子ネギ)が生えるのです。動物で例えることができます。普通の動物は卵を産んで育てますが、哺乳類は胎生で赤ちゃんを産みます。これに等しいように思います。普通のネギが種子を作るのに、このネギはいきなり芽(子ネギ)を作るのです。どうしてこんなに進化をしたのか不思議です。人間が都合良く選抜したのでしょうか。
葉の上に生えたたくさんの芽(子ネギ)、この芽を取って畑に移植
畑に植える前、親ネギの葉の先端に生えた芽(子ネギ)をハサミで切り取ります。芽(子ネギ)は複数まとまっているため、芽(子ネギ)ごとに分けます。分けた一つ一つの芽(子ネギ)を畑に植えるのです。小さすぎる芽は植えても育たないため、大きな芽に付けたまま植えます。うまく活着すれば根が生えて大きく育ちます。なお、普通の長ネギのように大きくなりません。小ネギを使うような料理に使うと良いと思います。
葉の先端を切り取る 芽ごとに分ける 芽を植穴に植え付け
長ネギは、種から育てるため育苗に時間がかかります。しかし、一度にたくさんの種を蒔いて育てることができます。そして、大量に栽培することができます。一方、このやぐらネギは種ができません。そのため、増やすのは容易ではありません。そもそも八百屋で見たことがありません。家庭で密かに育てて食べるのに向いているのではないでしょうか。なお、味は普通のネギと同じです。
芽を植穴に次々に植える 今後根付けばどんどん成長
去年はコロナ惨禍のため、田布施町少年少女発明クラブは4月からではなく9月から活動を開始しました。そのため、アイデア工作やチャレンジ創造コンテストは全くできませんでした。今年は、4月の開講式後に町内にまたもコロナが発生しました。今後のコロナの発生状況によっては、今年も活動に制限がかかるかも知れません。そのため、去年できなかったアイデア工作だけでも活動できればと思います。一昨年全国大会に出たチャレンジ創造コンテストは、会場である東京がコロナ惨禍の現状では今年も開催が難しいと思われます。東京オリンピック開催が危ういほどの惨禍です。困ったことです。
窓を全開にし、全員マスクを着け、なるべく離れて工作
さて今回の活動ですが、作りたい工作の図面ができた子から工作に入りました。プラモデルのように組み立てだけの工作であれば悩むこともありません。しかし、自分で何を作るかを考えその図面を描くことは、特に低学年の子供にとってはハードルか高いようです。指導員も、アイデアを絞り出す方法から教えなければならずなかなか大変です。なかなか図面を書けない子もいれば、さっさと図面を書いて工作に入る子もいます。8月に完成ですので三ヶ月あります。図面が遅いからと言って慌てる必要はありません。じっくり図面を書いた子の方が良い工作ができることがあるのです。いろいろ悩み・考え・工夫しながら工作して欲しいと思っています。
図面を何度も描く 協力して板を切断 風船に新聞紙を接着