東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

山の下草刈り

2012年04月30日 | 草刈り,整地

 春真っ盛りのため、そろそろ野菜などの種をまかなくてはいけません。しかし、畑や山の草取りがまだまだたくさん残っているためなかなかできません。今後のことを考えて種まきより草刈りを優先しています。今回も、山の木々の根元に茂っている笹を刈り取りました。最初、山の通路に生えて歩行の邪魔をしている笹を中心に刈り取りしました。

                どこが通路か分からないほど茂っている笹


 これからしばらくは笹を中心とした山の下刈りをする必要があります。効率よく刈り取るため笹の刈り取り専用のチップソーを買いました。その専用のチップソーを草刈機に取り付けると、うそのように簡単に刈り取ることができました。

        笹を刈り取った山の通路、この通路を中心に今後笹刈りを継続


 チップソーは石ころに当たってチップがよく飛ひます。石ころに当てないように注意しながら急斜面で踏ん張りながら笹を刈り取っていきました。今回笹刈りした場所は、家の周りのほんの少しです。この連休中にすべての山の下刈りを終えることができるといいなと思っています。

      笹刈り前の別の山道             笹を刈り取り終わった山道
 

 山の急斜面を笹刈りしているとだんだん腰が痛くなったきました。そこで、途中で場所を変えて桃園の下草を刈り取りすることにしました。桃園は平らな場所ですので、比較的刈り取りが容易です。ただ、つる草などが草刈機に巻きつくのでこれまた難儀な草刈りでした。すべての畑や山の草を刈り取り終わるのはまだまだ先のことでため息が出ます。

              笹刈りして歩きやすくなった山道の一部

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トラクタGL-23の前輪を分解修理(2/9)

2012年04月29日 | 農機具,工具

クボタ製トラクタGL-23の前輪分解修理の履歴です。それぞれをクリックしてください。
  修理(1/9) 修理(2/9) 修理(3/9) 修理(4/9)
  修理(5/9) 修理(6/9) 修理(7/9) 修理(8/9)
  修理(9/9)



 トラクタの前輪部品(ボールベアリングなど)が届くまでに、交換する部品回りを綺麗にしました。水で洗いたいところですが、錆に弱い部品ばかりのため軽油で洗いました。軽油を別のボールに入れて、軽油をかけながら歯ブラシで部品を一つずつ洗いました。どの部品も長い間に泥にまみれていたのか、茶色の錆に覆われていました。

              前輪を構成する歯車の一つを軽油で清掃


 一番汚れがひどかったのはギヤケースカバーでした。錆かと思っていたら泥と錆が一緒になったヘドロ状のものが内側にくっついていました。ドライバーでこそげ落としながら丁寧にその泥錆を落としました。また、周辺にオイルシールがくっついていたので、ノミの一種で取り除きました。このオイルシールは再度前輪を組み立てる時に張り付けます。

 泥錆が付いたギヤケースカバーの内側       オイルシールを取り除く
 

 ギヤ,ギヤケースカバー,ハブなど軽油で丁寧に洗うと、地肌が出てきて綺麗になりました。最後に油を吹き付けておきました。次にギヤケースを洗いました。ここにはさらに大量の錆泥が溜まっていました。指でかき出すと、田んぼ固有の臭い匂いが漂いました。田んぼの泥が永い間に溜まったようです。指でかき出したり圧縮空気を吹き付けるなどして、泥錆を全部取り除きました。

             金属片(丸の部分)が挟まったギヤケース内のピニオンギヤ


 驚いたことに、ピニオンギヤーを回すボールベアリングにたくさんの金属破片が挟まっていました。そして、ボールベアリング自体も少し破損しいているようでした。右側タイヤを回して左のピニオンギヤを回しながら挟まった金属片を取り出しました。金属片は破損したバラバラになった車軸のベールベアリング破片のようです。金属片を取り除くと、ピニオンギヤが軽く回るようになりました。このボールベアリングの破損は少ないようですが、交換しようと思います。

      反対側のタイヤを回す       ピニオンギヤに挟まった金属片を取り除く
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新緑の季節到来

2012年04月28日 | 樹木,果樹

 山口県に引っ越した当初は、桜が開花を始めていました。しかし、その桜も散って代わりに淡い緑が山いっぱいに広がり始めました。この萌黄色の季節はとても気持ちがいいものです。暖房も冷房も必要なくさわやかな日々です。家のすぐ近くの林に行ってみました。

               昔は牧草地だった林、木々の葉が茂り始める


 今は林ですが、私が子供のころは父親が牧場を経営していた関係で広々とした牧草地でした。この元牧草地に、孫(私の息子)が将来家を建てるためにと、父親が木をたくさん植えています。一番多いのはけやきです。このけやきは、20年前八王子の我家近くにある昭和天皇御陵下に自然に芽生えていたたくさんの小さなケヤキを、父親が大切に拾ってきてずっと育ててきたものです。一方で一番最近植えた苗木は、3年前に孫(私の息子)が就職したお祝いにと植えた木です。父親の思いが孫(私の息子)に伝わるでしょうか。

         大きく育った、20年前昭和天皇御陵下に自然に芽生えていたけやき


 春先は、桜やチューリップなどが花盛りでした。5月に近づいてくると咲く花の種類が変わってきました。山の裾をあるくと、はなみずきが咲いていることに気が付きました。白い花が一般的ですが、桃色の花も咲いていました。「はなみずきの花は、農作業開始の合図」とのことを聞いたことがあります。この花が咲くと、もう霜が降らないので安心して種をまけるとのこと。昔は、この花が咲くと、いっせいに田畑に出て農作業したのでしょうね。

        はなみずきの白い花          はなみずきの桃色の花(園芸種)
 

 一週間ほど前、桜はまだかろうじて花が咲いていました。そして、さかんに花びらを散らしていました。代わって今は、葉が次々に展開しています。かろうじて小さな葉の向こうに空が見えます。しかし、もうすぐ葉が茂りつくして空を見ることができなくなります。

            小さな若葉が展開中の桜、もうすぐ葉で緑一面に覆われる

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畑の道端側を草刈り

2012年04月27日 | 稲:田植え,草取り



 先日、畑に生える木々を切り倒しました。今回、その畑の道端側を綺麗に草刈りしました。この畑は去年の夏にも草刈りをしましたが、約半年経ってまた草が生い茂っていました。田舎のことですので、草を茂らせていると苦情が来ることがあります。また草だらけにしていると、管理不行き届きで嘲笑の的にもなりかねません。

                  去年の夏にも草刈した、畑と道の境界


 まだ春なのでそれほど草は生えていませんでした、しかし周りの畑では草刈機の音が聞こえてきます。どこの畑でも草刈りをしているようです。草の背がまだ低い今のうちに草刈りしておくと、次に草刈りする時に楽になります。3ヶカ月後にもう一度草刈りすることになると思います。

     最初、往路で道端の草刈り           復路で隣りを草刈り              
 

 草刈りを済ませる頃、畑に隣接する家に住んでいる方とお話をしました。この畑に隣接する土地の方ですので、今後もいろいろとお付き合いがあると思います。道や畑の境界について親しくお話をしました。40年間も東京にいて田舎にいなかったので、私の知らないお話をいろいろと聞くことができました。

                  草刈りを終えて綺麗になった道端


 畑の道端は綺麗になったのですが、畑の一部しか草刈りできませんでした。今後時間があれば、先日切り倒した木々を縛って撤去したり、その跡の草刈りをしようと思います。この畑はこの地区のメイン道路に接しているため、いろんな人が通ります。知らない人がどんどん通り過ぎていきますが、今後その方々の顔を覚えていこうと思います。

            午後から晴れ、草刈りをした道端と反対方向に青空が見える

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トラクタGL-23の前輪を分解修理(1/9)

2012年04月26日 | 農機具,工具

クボタ製トラクタGL-23の前輪分解修理の履歴です。それぞれをクリックしてください。
  修理(1/9) 修理(2/9) 修理(3/9) 修理(4/9)
  修理(5/9) 修理(6/9) 修理(7/9) 修理(8/9)
  修理(9/9)

 4年ほど前に東京からトラックに積んで持って帰ったトラクタの左前輪が故障してしまいました。畑を耕していると、時々妙に前輪が引きずるようになりました。最初はギヤの入れ方が悪くて引きずるのかと思っていました。しかし、どうやっても前輪の引きずりは直りません。前輪の故障のようです。トラクタは農機具屋さんに修理を頼むと修理代が10万円は軽く飛んでいきます。このため、自分で修理することにしました。

   左前輪が故障して動かなくなったローダ付きトラクタ、クボタ製トラクタGL-23


 耕運機などはこれまで何度も修理した経験があります。しかし、トラクタを修理すのは初めてです。自分の修理技能を試す意味でもトライすることにしました。まずは、トラクタの前輪を待ちあげて前輪をフリーにしました。そして、前輪を手で持って左右に振ってみると、グラグラするため車軸が異常なことはすぐに分かりました。明らかに前輪車軸の破損です。

      前輪のタイヤを外す          異常にグラグラするホイールハブ
 

 前輪ホイールハブ軸が折れているか、ホイールハブ軸を包むボールベアリングが壊れている可能性があります。そこで、前輪車軸部を分解してみることにしました。そのためには、前輪軸を覆っているギヤケースを外さなければなりません。慎重にボルトを外してギヤカバーを外しました。すると、泥と油が混じったものがどろりと出てきました。長い間に田んぼなどの泥などがギヤケースに入り込んだようです。

      前輪ギヤケースを外す          泥にまみれた前輪ギヤ内部
 

 前輪ギヤカバーを外すと、泥にまみれたボールベアリングが数個ポロリと出てきました。少なくともベールベアリングの破損は確定です。作業の途中で昼になったので、昼食のため家に戻りました。その戻る途中の道にパチンコ玉のような粒が二個落ちていることに気が付きました。手に取ってよく見ると、まさしくトラクタのボールベアリングでした。走行中に前輪から落ちたのでしょう。

              タイヤを外しギヤカバーを外した、トラクタ左前輪部


 外した前輪軸は泥油にまみれてよく見えません。そこで軽油で洗ってみました。すると無残なボールベアリング(ベアリング)部が出てきました。長い間泥にまみれていたのか錆びて茶色に染まっていました。綺麗なベアリングは銀色に光るのですが軽油で洗い磨いても銀色になりません。破損したボールベアリング部を外して新しいものに交換するしか修理の方法はありません。

     破損したベアリングを手に持つ       ベアリングを軽油で洗浄
 

 交換する部品が分かったため、近くにある山口クボタ田布施営業所にその部品が注文できるかどうか行ってみました。すると、細かい部品図を見せてもらった上で注文できることが分かりました。これで修理できることが分かり安心しました。部品が届きしだいすぐに修理しようと思います。広大な畑を耕すにはこのトラクタは必須ですので。
 ※その後山口クボタ田布施営業所から電話で、前輪タイヤのサイズ(6-14又は8-16)の問い合わせがありました。タイヤサイズによって部品に違いがあるようです。

                丸は破損した2つのボールベアリング部

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チューリップ球根移動と放棄畑の開墾

2012年04月25日 | 草刈り,整地

 やれやれ田舎に引っ越してきたとおもったら、とんでもないインターネット僻地でした。最初、引越し前に光ファイバーを契約していました。ところが、いざ光ファイバー工事の段階で「林の中を通さなければならないので工事できない。」とのことで没になりました。工事するとしても2ヶ月後になりそうです。そんなに待てないので、光ファイバー工事ができるまでつなぎとしてADSLを開通させることにしました。
 ところで、今日は田舎で草ボーボーの放棄畑の開墾をしました。その畑の一部で四月初めにチューリップの花が咲いていました。その花びらが全部落ちたので、開墾前にその球根を別のところに移動しました。

              雑草だらけの放棄畑にあったチューリップ(花は散る)


 チューリップは花が散った後、球根を育成する必要があります。そのためには、葉を枯らさないようにしなければなりません。立派な葉が球根を太らせ、その結果として来年の春に再び立派な花を咲かせます。

    球根を畑から注意深く引き抜く        抜いた球根は一輪車で移動
 

 チューリップの球根を移動すると、草だらけの放棄畑を開墾しました。二年程度放置されていた畑のため、あちこちに冬枯れした雑草が生えていました。その雑草を取り除きながら、クワで畝を崩しました。この放棄畑は、二年前父親が山芋栽培用に畝を高くしていた畑です。トラクタで耕運したかったのですが、前輪が故障して使えません。仕方なく、クワをふるって開墾しました。人力は疲れます!!

           山芋用の高畝をクワで切り崩す、枯れた雑草がクワに絡みつく


 二時間程度クワをふるうと、高畝が少し平らになりました。明日が明後日、耕運機で耕せば畑として使えそうです。この場所はやや湿り気があるので、里芋を植えようと思っています。その隣には、陸稲(うるち)をまこうと思っています。

         だいぶ平らになった放棄畑、明日か明後日耕運機で耕す予定

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

娘、山口県を離れる

2012年04月24日 | 家族関連

 シンガポールから帰国していた娘が、山口県を離れる日がやってきました。午後3時頃の新幹線で東京に行くため、午前中はのんびりして過ごしました。朝はゆっくり起きて、家の周りの畑や山などをのんびり散策して写真を撮ったりしました。

       朝のんびり起きて、今回帰国での山口県最後の朝食


 私が、家をぐるりと取り囲む山を案内しました。まだ山の下刈りを済ませていないので、笹が生い茂っています。サンダルでなんとか歩けるルートを探しながら、娘を連れて山を歩きました。歩いていると、きれいな山ツツジが咲いていました。

      サンダルで山を散策       綺麗なピンク色の山ツツジの花
 

 竹藪を散策している小さなとタケノコが生えているのを見つけました。シイタケも少し生えていました。10月の従妹の結婚式で再度帰国するので、それまでにこの山を綺麗に下刈りしておこうと思います。出発の時刻が来ました。駅へは私が車で連れて行きましたが、母親はとてもさびしそうでした。

            駅に向かう前、写真に写った母親と孫娘

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母親、孫娘に我家の家風ほか解説

2012年04月23日 | 家族関連

  昨日に続いて父親の見舞いに行ってきました。だいぶ良くなって、食事介助ではありますが食べることができるようになりました。まだ食事はミキサー食ですが、早く普通の食事を食べることができるように回復して欲しいと思います。

      孫娘がヨーグルトを食事介助       病院から戻ってお菓子タイム
 

 そろそろ娘も山口県を後にします。今日は、母親と娘とがわきあいあいに話をしていました。遠くから見ていると、母親が娘時代に習ったお茶やお花に娘が興味を持っているようでした。これまで、日本の伝統的なしきたり文化にあまり興味もたなかった娘ですので意外です。

           お茶について、その作法を楽しそうに話している母親と娘


 その後、母親は我家のいろいろな文物を娘に見せていました。最初に神棚と仏間です。キリスト教など世界で多い宗教は一神教です。日本のように、一つの家に二つの宗教があるなんて考えれば不思議なことです。遠く古代ギリシャやローマ帝国などでもさまざまな神が祭られていました。日本は世界的に見て古い国なのでしょうか。

       我家の神棚                        我家の仏間
                                 右上:
元首相岸信介から父親
                                手向けられた字が飾られている

 

 一神教と多神教の違いの一つに、経典がありそれを教える専業者がいるかどうか、だとの話を聞いたことがあります。例えばキリスト教にはバイブルがありそれを解説する神父と呼ばれる専業者がいます。多神教にはありません。たとえば、ギリシャの神々や日本の神道には神話はありますがバイブルはありません。神主は専業者ではありません。根本的には、多神教は人に生き方を教えません。生き方は自分で決めなければなりません。しかし、キリスト教などの一神教では宗教そのものが人の生き方を教えます。例えば、イスラム教は宗教そのものが生き方のような気がします。

     掛け軸、満州から持ち帰ったとか     日本建築にしかない、ふすま
 

 広間にはいろいろな表彰状が飾れています。母親が、これら表彰状の一つ一つを娘に説明していました。左から、父親が林業の功績でもらったた農林大臣賞,母親が小学生教諭時代の研究でもらった文部大臣賞,父親が県から林業貢献でもらった表彰状です。夫婦それぞれが大臣賞をもらったのは、日本では稀有なことではないかと思われます。
 母親が娘に言いたかったのは単なる自慢話ではなく、努力していればいつか報われるとか、家に恥じない生き方をするといいよとか、プライドを持って行きなさいとか、ではないかと思います。娘はどう感じ取ったでしょうか。

           飾られた、農林大臣賞、文部大臣賞、山口県林業貢献賞

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父親の見舞い、古い写真整理ほか

2012年04月22日 | 家族関連

 午前中、父親の見舞いに母親と娘とで行ってきました。相変わらず酸素マスクは取れない状況です。だいぶ良くなってきましたが、ただ会話が一方的です。こちらの会話は分かるようで、返事したりうなずいたりできますが発語はあまり多くありません。自分から問いかけるようなことはありません。少しずつ良くなって自分からは話しかけたりできるまでに回復できるといいと思います。

      おしぼりで顔を拭いている娘      病院から帰ってくつろぐ母親と孫娘
 

 病院から帰って昼食を食べた後に、昔の写真を取り出して母親や娘に見せました。すると母親が懐かしそうに説明をし始めました。娘も興味津々に古い写真を見ていました。私がよく知らない写真もたくさんありましたが、いろいろ話をしてくれました。 

   古い写真を懐かしそうに見る母親      私が生まれたばかりの時の写真
 

 私が生まれたばかりの時の写真を見て、娘が「かわいい!」ととてもはしゃいでいました。自分が小さい時の写真はよく見ますが、父親が子供の頃の写真を見たことが無かったので珍しかったのでしょう。そして、私の家の名前「高橋」の由来を母親が娘に話をしていました。四国出身の人「高橋」と私の父方祖父の姉が明治後期に知りあって結婚し、その姉が「高橋」姓になったことが元々の発端です。
 下の写真で、J:父方祖父の姉 K:四国出身の「高橋」 L:中田久子

  左は父方祖父の姉、高橋に嫁ぐ          養女に行った父親の姉「中田久子」
   (
大正5年8月10日の日付)           若くして早世(下写真Fの娘)
 

 しかし、高橋姓になった父方祖父の姉は子宝に恵まれませんでした。そこで、私の父方祖父「中田幸槌」の娘である「中田久子」が高橋家に養女に入りました。しかし、若くして早世しました。自転車に乗っていて転倒し胸を強く打って大怪我した予後が悪く、また結核を併発するなどして早世したとのことらしいのです。その母親である私の父方祖母「中田ソメ」はそれがとても悲しかったようで、我家に来るたびに仏壇に飾ってあった上の右写真をよく見つめていました。そして、「ひーちゃん、ひーちゃん」と何度も言っては背中を丸めてよく泣いていました。お気に入りの娘が早世したことが、とても辛く悲しかったのでしょう。

 方祖母と父方祖父(父親兄弟の親)   父親の兄弟(もう一人の久子は早世)
                                                             父親の S:弟,R:長兄,P:姉

 

 その後早世した「久子」の代わりに、今度は私の父が養子に入り高橋姓になったとのことです。ところで、父方の中田姓の由来は祝島からだそうです。江戸後期か明治初期に塩田で使う薪を運ぶ人のなかに祝島出身の中田姓の人がいて、この人が平生町人島に住んでいた女性と結婚して住みついたらしいとのこと。
 ところで、私には私をとてもかわいがってくれた祖母が二人います。一人は父方の祖母Fです。私が保育園に通っていた幼児時に学芸会などには必ず見に来てくれました。いろんなお祭りや平生町にあった平生座で公演していた劇や映画などにもよく連れて行ってくれました。とても信心深いおばあちゃんでした。小学生時代にも運動会など必ず来てくれました。かけがえのない私のおばあちゃんでした。しかし、私が20歳代後半に亡くなりました。

          父方祖母(中田ソメ)の笑顔      父親の姉の娘二人(上写真Pの娘)
 

 私はこれまで、父親の兄弟にずいぶんとお世話になりました。例えば、父親の姉夫婦にはこれまで何これとなくお世話になりました。また、その娘(上右の写真参照)とも親しくさせてもらっています。今、娘の一人(上の写真U)は母親(父親の姉P)を介護をしています。先日、お邪魔させていただき親しく歓談しました。

     父親の姉家族を自宅に招いて      国立市在住だった母方父の妹(右端)
  P:父親の姉、T:Pの娘、右端:Pの夫,       私が小学生の頃一緒に
  Pの左:私の妹,その左私の母,           柳井市伊保庄(よのしょう)を
    しゃがむ父,
Tの娘二人             訪ねるも今は物故 下写真Dの娘
 

 次に、私の覚えがある写真で出てきました。母方の写真です。下の写真は昭和初期の写真で、私の母親が二十歳頃の写真です。母親の兄弟3人,母親の母(私の祖母:小林やえ),そして母親の祖母(小林タケ:私のひいばあさん)が写っています。小林タケは伊保庄の福井畑(ふくいばた)の山崎家から山近の小林家に嫁にきたとのこと。母親が子供の頃、小林タケの実家(山崎家)によく遊びに行ったとのこと。そして、山崎家にあったたくさんの本を読んだりもらったそうです。母親の父親(小林安太郎)は母親が10歳頃に亡くなっているため写っていません。なお、母親の母(小林やえ)には兄弟がたくさんいました。アメリカ在住の姉(物故)、家を継いだ柳井市伊保庄の弟「奥原良一」(物故)、宇部市在住の妹(物故)などです。

 下の写真は、A:私の母親,B:母親の母(私の祖母),C:私の母親の弟,D:母親の祖母,D:母親の妹

        A:高橋三笠,B:小林やえ,C:小林力,D:小林タケ,E:金福みほ


 次に私の知らない写真がありました。この写真は私の母方祖母(小林ヤエ)の姉の写真だと母親が説明してくれました。アメリカのデトロイトに住んでいて、二人の娘がいるとのことです。年齢的に、第二次世界大戦の時にアメリカの日本人収容所に入っていたのではないかと思れますが今や確かめるすべはありません。

   M:私の母方祖母小林やえBの姉    N,O共にMの娘、どちらかが節子
 

 私の母方の親戚(叔父,叔母,従弟たち)は、私が8歳の時にブラジルに移住しました。私はその従弟たちとよく遊んだので、後でブラジルに行ったと聞いてとても悲しかったことを覚えています。特に下の写真の金福よしふみとその母親の金福みほはよく覚えています。確か、金福よしふみには小さな妹が一人いました。数年前に母親の妹である金福みほが山口県に来たとのこと。その時のもらったらしい写真(下左の写真)が我家にありました。

 I:金福よしふみ,E:金福みほ ブラジルに出発する船から旗をふる祖母、叔母、従弟
      2007.12.7付                  1960

 

 東京から山口県に帰ってから時間があるせいか、少しずつ親戚の動向に興味を覚えるようになりました。特に、母親が住んでいた伊保庄の山近に興味が湧いています。子供の頃に山近に何度か行ったため、記憶にわずかに残っています。小学生の頃、母の父親の妹と山近を訪れた時に、いろいろ山近のお墓や周りを散策したこどかあります。また、最近小林力の遊び友達だった通称:きよちゃんに逢うことができました。近々、山近に行ってみようと思います。

       飼っていた羊の前で         E:金福みほ、B:小林やえ(物故)


 私が保育園に行っていた頃、家族写真を撮ったことをかすかに覚えています。麻郷の写真館までとぼとぼ歩いて撮影しに行きました。写っている私と母親を除くと、B:私の母方祖母の小林やえ,F:私の父方祖母の中田ソメ,父親兄弟の長兄の娘Gと長男Hです。当時、写真機は高価でした。この時代、写真を撮影するためにわざわざ写真館に行って撮影していました。このため、写真を撮ることはとても貴重な家族の証でした。なお、B,Fはすでに亡くなっています。

               私が幼稚園の頃、写真館で撮った家族写真


  上の写真Bは、母親の母(私の祖母:小林やえ)です。私が幼少の頃にとても私をかわいがってくれたおばあちゃん二人のうちの一人です。面長美心の人でした。夫(私の母親の父)は銀行員でしたが、株関連の失敗で一夜にして家屋敷を失ったとのこと。そして、それを補うために大分県の別府に引っ越しして旅館を経営するも、母親が10歳の頃にその夫は流行病で亡くなったとのこと。このため、人に言われぬような苦労をしたと思います。例えば、極貧になったため私の母親を含む兄弟3人(三笠,力,みほ)がバラバラに親戚に引き取られる話まで出たようです。しかし、子供たち三人を手元に置いて必死に働いて育てたとのこと。私から見ても、とても働きもののおばあちゃんでした。
 私の妹もこの祖母にかわいがられ、我家の別室で一緒に暮らしていました。しかし、自分の娘(三笠)の嫁ぎ先に暮らさせてもらうのが負い目だったのか、私が小学2年生の夏に自分の息子(母親の弟:力)、娘(母親の妹:みほ)と一緒にブラジルに移住しました。とても好きだったこのおばあちゃん。ブラジルに移住後一度も会えず、20年位前に亡くなりました。亡くなった後、このおばあちゃんのベッド下から日本の写真や手紙がたくさん出てきたそうです。私は一生、このおばあちゃんの笑顔が忘れられないでしょう。

       苦労するも働き者で、その笑顔が忘れられない大切な祖母(小林やえ)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

娘と広島散策、バイク受け取り

2012年04月21日 | 家族関連



 7日に引っ越しを済ませましたが、唯一届いていない物がありました。それは、7年近く乗っている150ccのバイクです。原付バイクは引越し屋さんのトラックで運ぶことができますが、それ以上の排気量のバイクは専門業者でしか引越しできないからです。150ccバイクが広島に届いたとの電話連絡があっため今回取りに行くことにしました。娘も広島を散策したかったため二人で広島に行きました。

                広島駅前で乗った通称チンチン電車(路面電車)


 広島駅に降り立つと、駅前に路面電車の始発駅がありました。そこで、車両二つが連結した路面電車に乗りました。娘が広島名物?のお好み焼きを食べたいとのことでしたので、路面電車を降りるとすぐにお好みや屋さんを探しました。そして、小さなお好み屋さんを見つけて入りました。

        お好み屋さんを探す娘           お好み焼き調理を見学
 

 東京でのお好み焼きは、最初にお好み焼きの具が出てきます。その具を自分で混ぜるなどして自分で鉄板上で焼きます。ところが広島では、店員さんがお好み焼きを作って、お客は食べるだけなんですね。調理する店員さんの手元を見ながら持つこと10分位、美味しそうなお好み焼きの出来上がりです。私は、具にうどんが入ったお好み焼きを食べました。娘はソバでした。

                 原爆投下当時の写真を見入っている娘


 お好み焼きを食べた後、近くにある原爆ドームに行きました。8年ほど前に娘と原爆資料館にも行きましたが、今回は時間がなくて原爆資料館には行けませんでした。ここで、娘と別れました。娘はデパートなどでウインドショッピングなどを楽しみ、私はバイクの受け取りのため広島市の南にあるバイク店まで歩きました。

                        原爆ドームをバックに


 母親は第二次世界大戦末期、広島県の隣り山口県で小学校の先生をしていました。ある夏、海からとてつもない大きな音が聞こえてきたそうです。その時、アメリカ軍が艦砲射撃をした音だとばかり思っていたところ、後でそれが原爆の音だと知ったそうです。音だけにすぎませんが、母親は原爆を体験しました。

        原爆ドームバックに私も         8年前の娘(2004/8/11)
 

 娘と別れた後、広島の舟入南町に向かってひたすら歩きました。江波行きの路面電車に乗ってもよかったのですが、このさいのんびり散策しながらバイク店まで歩きました。1.5時間ほど歩いたでしょう。バイク店に着くと、必要な手続きをしてバイクを受け取りました。あとは、ひたすら田布施町まで瀬戸内海側の国道188号線を南下しました。そして、我家に着きました。しばらくして娘が電車で田布施駅まで戻ってきたので駅まで車で迎えに行きました。

     バイクを受け取ったバイク店     国道188号線をひたすら南下して帰宅
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父親の見舞いと木々の伐採

2012年04月20日 | 樹木,果樹

 このところ、1日おきに父親の見舞いに行っています。今回も、娘と母親の三人で病院に行きました。危篤時のような心電図モニターなどが付いておらず、今は酸素マスクと点滴だけです。食事もミキサー食事です。ただ心配なのは、点滴や酸素マスクがかゆいのか手ではずしてしまうようです。そのため、手にミトンをしてあちこちを触れないようなっています。

   見舞いの途中、コンビニで買い物      見舞い時、父親と静かに会話
 

 父親の容体が少し良くなったのを確認してすぐに帰りました。会話をすると疲れるようなので短い時間で見舞いを済ませました。帰って昼食を取った後、畑に生えている木を何本か伐採しまた。木が生えているのはいいのですが、木の枝が大量に落ちていて、草刈りの妨げになるからです。

              道端に近い木を何本か伐採中、根本は雑草だらけ


 効率的に伐採するためにチェーンソーを使いました。チェーンソーは数年前から帰省するたびにしいたけ用の木を伐採をしていたので使うのは容易です。ただし、慣れているといっても大変危険な農機具です。防護メガネや防振手袋などは必須です。また、使う前の点検も大事です。

      いったん地表50cmで伐採        その後、地表面の幹を伐採
 

 私はチェーンソーの正式な講習を受けたことがありません。自己流なのですが、伐採する時は地表50cm程度で伐採後、残った幹を地表面で伐採します。一種の二段切りでしょうか。なお、今回の木は幹の太さが10cm程度ですので、倒れる方向をそれほど気にしないで一気に伐採しました。伐採したばかりの木は、草刈り後に片づけるつもりです。

          道端近くの木々を伐採してすっきりした畑、今後草刈り要

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

娘と日帰り、世界遺産安芸の宮島旅行

2012年04月19日 | 家族関連



 安芸の宮島に娘と行ってきました。本当は、娘は私の母(娘の祖母)の女二人で行きたかったようですが、母は足が悪くあまり歩くことができません。このため、私が娘のお供で宮島に行ってきました。宮島は20年ぶり位でしょうか。確か、前回行ったのは娘が小学生(10歳の頃)の時だったように思います。

                宮島口から乗船          船から見た、安芸の宮島
 

 久しぶりの宮島で驚いたのは、とても外国人が多いことでした。その原因の一つとして、安芸の宮島が世界遺産に登録されたからではないかと思います。英語はもちろん、ドイツ語、中国語、ラテン語、東南アジアと思われる会話も聞こえました。

            干潮だったため、大鳥居まで歩行可


 私が子供の頃からこれまで、何度か宮島に行ったことがあります。しかし、大鳥居に触ったことは一度しかありませんでした。今回、偶然に干潮だったため大鳥居の真下に行って触ることができました。気が付いたことは、大鳥居の下にたくさんの硬貨が落ちていたことでした。よく見ると、大鳥居の柱にたくさんの硬貨が挟まっていました。日本版トリビアの泉でしょうか。

           宮島本殿、干潮のため干潟上にある神社                   

 大鳥居を見終わると、宮島本殿に行きました。天気が良かったたためか、これまで見た中で最高に見事でした。数年前の台風で壊れたことがありますが、すべて直されたようです。一部を残して見ることができました。

          先ほどまでいた大鳥居を後ろに、宮島本殿から


 今回、私が初めて目にしたものがあります。一つは、結婚式です。宮島での神前結婚式はとても荘厳でした。観光客にとっても日本の伝統的結婚式は珍しいようで、パチパチ写真を撮っていました。

     宮島での神前結婚式        能は今春初めてのお披露目
 

                             神前結婚式、静かに座る巫女さん二人の後姿   


 この結婚式をたまたま目にした娘が「ここで結婚式したいな」などと感嘆していました。世界遺産でもあるこの宮島での神前結婚式は、数年前に予約しなければならないようです。しかし、その前にお相手の彼氏がいなければ・・・・

          日差しが差し込み、光るように朱色が映える


 私の小中学生時代の同級生がくれたハガキに、その同級生の長女がこの宮島で神前結婚式をした写真が映っていたことを思い出しました。

             朱色がとてもきれいな宮島本殿正面


 神前結婚式を見学し終わってしばらく歩くと、海上舞台(この時は干潮のため干潟上の舞台)で能を演じていました。数日前の新聞に、この能の上演の記事が出ていました。私は能のことはあまり分からないので、少し立ち止まっただけで通り過ぎました。 

  おみくじを引く娘、どうだった?     遠くの小山に立つ五重塔
 

 前回宮島に来た20年ほど前、子供たちが小学生や幼児だったためあまりゆっくりと見ることができませんでした。それに加え、子供たちも宮島の良さをまだ理解できない年齢だったため歩いて通っただけでした。今ようやく宮島の良さが分かる年齢になった娘は、何度も本殿内を往復して感嘆していました。

          神社内からほんの少し見上げると、五重塔


 日本にある有名な神社はほとんどが、元々はこの宮島のように朱色で塗られていたようです。しかし、1千年以上の月日の流れで、だんだん朱色が褪せてきたようです。このため神仏閣のほとんどは、苔むした枯れた木質そのままの色が多いように思います。

        定期的に塗り直されているのでしょうか綺麗な朱色


 この見事な宮島は定期的に朱色が塗られているのでしょう。朱色に塗るのはもともとは虫よけのため、との話も聞いたように記憶しています(朱の成分である水銀が防虫効果?)。

         神殿内は朱色で統一されており見事の一言


 以前、満潮の時にこの宮島に来たことがあります。その時は、神殿の床間際までが海面でした。すると、海面の波に反射した太陽光が神殿の天井に映ります。海面の波の動きに合わせて、太陽光がさざなみをうって天井が照らされます。とても美しい光の演出効果に感心したことがあります。

            満潮時、この天井いっぱいに光の演出


            満潮時、 床すれすれに海面が


 宮島本殿を参拝し終わると、昼食休憩にしました。宮島は「あなご飯」が有名とのことです。さっそく専門料理店に行って、その「あなご飯」を食べてみることにしました。親子丼位の量で、丼の上にあなごが乗っていました。親子丼のような肉系ではないので、さっぱりした美味しさでした。

     あなご飯料理店の前で      のんびりとあなご飯を味わう
 

 あなご飯は少々値段が高かったです(親子丼の二倍程度の値段)。観光地でもあるしリピーターは多くなさそうですので高いのは仕方がないのかも知れません。私は食通ではないので何でもおいしいのですが、多少のグルメ通の娘は、最初からこのあなご飯を食べることに決めていたようです。

    あなご飯を前にした娘         食後、お土産店を散策
 

 昼食後お土産店を散策しました。その後、ロープウェイに乗ることにしました。ロープウェイに乗るのは久しぶりのことです。ロープウェイに乗っていると、ぐんぐん高度が上がっていきます。ロープウェイは四人乗りで、私と娘そしてドイツ人老夫婦の四人が乗りました。外国人のお年寄り老夫婦の姿をたくさん見かけました。金婚式記念などをきっかけに海外旅行している途中の人達なのでしょう。

 ロープウェイ、ぐんぐん高度上昇    はるか下の絶壁を見下ろしている娘
 

 ロープウェイを乗り継ぐと高度数百メートルの頂上に着きました。高度があるので少し寒気がしました。少し歩くと、瀬戸内海の島々を見下ろすことができる場所がありました。目の前には江田島が広がっていました。20分程度景色を楽しんだ後、再びロープウェイに乗っておりました。

     眼下に広がっているのは江田島、他にも無数の島々が見える


 ロープウエイから下りると休憩を取りました。私はアイスクリームを舐め、娘はジュースで喉を潤しました。私がアイスクリームを飲めていると、突然に鹿が顔を出してきました。何かもらえと思ったのでしょうか。「幼児の頃に、手に持ったパンを鹿に取られたことがある。」と娘が言っていました。幼児が持っているお菓子は、鹿にすれば奪いやすい手ごろな餌なのでしょう。この宮島の鹿は人慣れしており平気で人に餌をねだります。

    ジュースで喉を潤す娘     突然顔を出した鹿、何が欲しいのかな?
 


 休憩を取ると、船が待つ桟橋に向かって歩きました。途中のお土産店で、美味しそうな焼き牡蠣を売っていました。そのお店内の長椅子に座って、その焼き牡蠣を食べました。焼き立てで少し熱かったのですが、美味しくいただきました。焼き牡蠣を食べ終わると、軒を並べるお土産屋さんを覗き込みながらウィンドショッピングしました。

 焼き牡蠣を美味しそうに食べる    しかめながら熱い焼き牡蠣を食べる私
 

 お土産を買い終わると、桟橋に行きました。ちょうど船が出港する直前だったので、飛び乗るように船に乗り込みました。桟橋を出港すると、気持ち良い海風が顔に当たってきました。次に宮島に来るのは何年後のことでしょうか。そして誰と行くのでしょうか。

     お土産を選んでいる娘        海上では心地良い海風
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平生町 上関半島の大星山,上関町 上盛山などをドライブ

2012年04月18日 | 家族関連

 父親の見舞いを済ませた次の日、息子と家内は仕事のためそれぞれの家に帰っていきました。家族が勢ぞろいしたのはたった一日でした。もう少し長く滞在してくれれば、もっとゆっくり話もできたのでしょうが仕方ありません。その代わり娘が日本に帰国して1週間程度山口県に滞在するので、娘とはのんびりと話ができました。今回、私の母と私の娘を連れて上関半島をドライブしました。

   朝食後、家内と息子は仕事で帰宅      母や娘と上関半島をドライブ
 

 ドライブの始めに、入院中の父親を見舞いました。少し容体が良くなっているようでした。病院を出ると、大星山に行きました。この山の頂上から、西を見ると佐合島,馬島,牛島,祝島などを眼下に見下ろすことができました。もっと天気が良ければ、九州の山を見ることができます。

      大星山から上関の長島方面を見下ろして、赤丸は次に行った上盛山


 大星山を下りると、次に上関の上盛山に行きました。この山の頂上には展望台があり、天気が良いと360°の展望を楽しむことができます。母親は足が悪いので展望台の階段を上ることができません。このため母親は、私と娘が展望台に上っている間下で待っていました。

    紺碧の空に映える展望台            父親が入院中の病院を見て
 

                                  展望台にて、景色を堪能している娘


 今日の上関はとても天気が良く、眼下の上関以外にも、遠く九州や四国を見通すことができました。展望台の上は360°の景色が見えるように、ぐるりと歩いて回ることができます。私は久しぶりにこの景色を楽しみました。娘はこの展望台に来るのが初めてのためか、私以上に景色を堪能していました。

          東方面180°の景色、眼下には上関の街並みが小さく見える


 展望台を降りると、下で待っていた母親と一緒に昼食をとりました。展望台下はちょうど桜が満開で、桜の咲く下で花見をしながら食べました。食べたのは、途中のコンビニで購入した岩国寿司です。おにぎりと違って、粋な一口寿司です。

               満開の桜の下で、休憩長椅子に座り昼食を


 この山の頂上は、景色も良い上に手ごろな休憩場所があります。長椅子や四角のテーブルがありますし、芝生もあります。その上あまり有名でないためか、いつ行っても人がいません。今回は、私達以外に下からわざわざ歩いて来たグループがありました。

               桜の木漏れ日のなかで、のんびりと昼食


 上盛山を下りると、今度は上関半島の柳井側にある伊保庄(よのしょう)と呼ばれる地区に行きました。母親が、この伊保庄の山近の呼ばれる地区で育ちました。このため、私は子供の頃からこの地区によく遊びに来ました。特に、夏は海水浴に毎年のように来ました。海岸は遠浅で白い砂の海岸がどこまでも続いています。

      上盛山途中のモダンなトイレ       伊保庄(よのしょう)の海岸線
 

 伊保庄(よのしょう)の海岸で少し休憩をとりました。この頃になると、風が少し冷たくなってきました。海岸を少し眺めながら小休止をとった後、すぐに車に戻りました。もう少し時間があれば、母親が育った山近やお墓に行ってみることができたのですが残念です。30分ばかり運転して家に戻りました。

             伊保庄(よのしょう)の海岸堤防前で、母親と孫娘 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父親が危篤に、家族が急遽集まる

2012年04月17日 | 家族関連

 4月12日午後突然に、病院から父親の容体悪化の連絡を受けました。急いで病院に駆けつけると、父は酸素マスクをした上に、点滴を受けており、さらに心電図などのモニター用のコードが付いていました。容体も、目はうつろで声をかけても反応がない状況でした。ドクターの面談をうけると「万が一の場合、今夜お迎えが来るかも知れない。」とのことでした。

    父親の危篤に急遽集まった家族         全員で病院に駆けつける
 

 13日の夕方に息子が、深夜に家内が、そして14日早朝に娘がシンガポールから急遽飛行機で帰国しました。久しぶりに家族全員が集まりました。娘は飛行機に7時間位乗った上に、初めての博多空港に降り立ったので、とても疲れていたようでした。このため、少し休んで危篤の父親の元に行きました。

              集まった、私の家族や私の妹の主人と姪


 12日、13日と父親は危篤が続きましたが、14日に親戚や家族全員が見舞いに行った時は少し持ち直していました。会話はできませんでしたが、こちらの言っていることは分かるようで、首や手を動かすなどなんとか話そうとしているようでした。父親に、本人が元総理大臣岸信介の秘書をしていた時の看板を見せると嬉しそうな表情をしました。いろいろ話そうとしていることを耳元でなんとか聞くと、戦時の満州での辛い戦争体験と、岸信介の秘書をしていた時のことをしきりに話そうとしているようでした。

      静かに父親を見守る私の家族     岸信介秘書時代の看板を見せる娘
 

 あまり長く病室にいると父親が疲れるとのことで、静かに見守るなどして早々に病室から出ました。この病院は海に面する山の上にあります。このため、天気がいいと遠くの海まで見通すことができます。病院の食堂兼休憩所のベランダに出てみると、綺麗な海が広がっていました。わずかに四国の山々を確認することができました。

         病院の食堂兼休憩所のベランダに出て、遠くの海を眺める


 病院を出ると、家族で食事をとりました。平生町にある「しょうぶ」と呼ばれる海鮮料理店です。刺身をメインとした食事を取りました。父親が危篤状態から抜け出て持ち直したので、みんな安堵しました。しかし私としては、せっかく山口県に帰ったのに今後は一緒に農作業できないのかと思うととてもさびしいものがあります。

    海鮮料理店に立ち寄る            主にお刺身をメインにした和食
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家の裏山斜面の笹刈り

2012年04月16日 | 草刈り,整地



 生ごみを出す我家の裏は山の斜面が迫っています。数年草を刈らないうちに、今では笹などが茂っています。みっともないので、この笹や雑草を刈り取りました。ついでに、斜面前を野菜が作れるように耕すことにしました。

           山の斜面は以前登り坂があったのですが、今は笹が生い茂る


 最初、草刈機で笹を刈り取ることから始めました。斜面に沿って上から下へ草刈機を振り下ろすだけで刈り取れるため、比較的簡単な作業でした。笹を刈り取った後、その笹を熊手でかき集めて縄で縛りました。

        笹を草刈機で刈り取り         刈った笹を熊手でかき集める
 

 熊手でかき集めた笹は、移動中に笹がバラバラと道端に落ちないように、いったん縄で縛りました。何個が縛った笹束を抱え、いつたん一輪車に積み込みました。そして、一輪車を押して刈り取った笹などを捨てる場所に持っていきました。一年位すれば、風雨でボロボロになると思います。

                  縛った笹を抱えて一輪車に積み込む


 笹を刈り取った斜面は綺麗になりました。まだまだ斜面の上の方は笹が生い茂っているため時間を見ては刈り取ろうと思います。刈り取りが終わると、斜面前の平地を耕運機で耕しました。そして、小さな野菜を作るための畝を作りました。ここは午後しか日が当たりませんが、それでもナスやキュウリ位は育ちます。

     綺麗になった裏山の斜面           野菜を作るための小さな畝
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする