これまで、麻郷史跡巡りウォーキングのため、麻郷北部と麻郷中部南部を調査しました。今回は、その調査を元に実際にウォーキングするコースを想定して下見して来ました。4人での下見です。実際に歩いてみて、コースを変更するか短縮するか決めようと思います。夏場ですので、何とか10km以内にしようと思います。
畑仕事中のT1さんに偶然会う ブルーベリー農園 花夢果夢
田布施交流館を出発すると、西田布施の矢田部に向けてウォーキングを開始しました。20分程度歩いていると、畑仕事をしている方がこちらに顔を向けていました。良く見ると、時々一緒にウォーキングするT1さんではありませんか。彼女は、私の中高校時代の同級生です。本当に偶然の出会いでした。時々実家に戻って、お母さんのお世話をしているとのことでした。しばらく立ち止まって、皆で談笑しました。
麻郷奈良地区の大岩、とても巨大な卵型の岩
T1さんと別れてしばらく歩くと、ブルーベリー農園 花夢果夢が見えてきました。よく育ったブルーベリーの木が林立していました。この農園の設立当時から関わっているYさん(先日バラ園を鑑賞させていただく)に、ウォーキング当日に説明をお願いしています。これから実が熟して収穫を迎えるのでしょう。そして、収穫した実の一部は、Y君の工場の一つでゼリーに加工して販売されるのではないかと思います。今はまだ、試作試販のようですが。
階段を登り稲荷神社に到着 稲荷神社近くの観音堂
ブルーベリー農園 花夢果夢の近くのラベンダー畑を見た後、T2さんの自宅を拝見しました。T2さんは東京におられるようで、家には誰もいませんでした。蔵内の、はぜの実ろうを抽出する機械や実をつぶすだいがらを見せていただきました。
T2さんの家を出ると、畑や田んぼの畔などを通って西田布施から麻郷に入りました。そして、奈良の大岩に向かいました。いつ見ても不思議な、卵型の巨大な岩です。この岩の下はどうなっているのでしょう?個人的にとても気になります。この下を調査することによって、この岩の成り立ちを知る手掛かりの一つが得られます。
麻郷幼稚園併設の常楽寺 道路の改道記念石碑を見学
大岩を過ぎると、麻郷の尾迫に入りました。そして、広い田んぼを横切って丘の上にある稲荷神社に行きました。続いて、その神社近くにある観音堂に行きました。史料によると、観音堂に旅僧が住んでいたことがあったそうです。観音堂を見学すると、丘を降りて麻郷幼稚園を併設する常楽寺に行きました。下見4人のうち、2人はこの幼稚園の卒園生です。懐かしそうに常楽寺や幼稚園を見ていました。この常楽寺でお昼休憩を取りました。
尾迫から奈良,竹重にかけての、広々とした田んぼ
常楽寺を出ると一路、高松八幡宮に向かって歩きました。途中、道路の改道記念石碑を見学したり、田布施の名木の一つであるクロガネモチの大木を見上げました。この木は、下から首が痛くなるほど見上げないと樹木全体を見ることができません。この付近のシンボルツリーではないかと思います。
江良碧松の石碑を見学 高松八幡宮前の長福寺
クロガネモチの大木を見終わると、どんどん歩いて江良碧松の石碑に着きました。私が小学生の頃に生存しておられたとのことですが、どうして知らなかったのかと思います。当時の小学校の国語の時間にでも来ていただくことがあれば、もしかして覚えていたのではないかと思います。江良碧松の石碑からすぐの所に高松八幡宮があります。その鳥居の向かい側すぐの場所に長福寺があります。高松八幡宮に入る前に、このお寺にを見学しました。恥ずかしい話ですが、最近まで、ここにお寺があることを知りませんでした。
こんもりとした森に囲まれた、高松八幡宮の社殿
長福寺を見学し終わると、石の鳥居をくぐって高松八幡宮をお参りしました。私は、この神社の氏子の一人です。このため、お正月の初もうでなど子供の頃から何度もお詣りしました。そして、どんぐりを拾いに来るなど子供の頃によく遊びました。この神社は県内でも有数のこんもりした鎮守の森に囲まれています。そして、田布施の名木や大木が何本もあります。
蓮輪に向かう道すがら西円寺を見学 浜城Mさんのバラ園を見学
高松八幡宮を参拝すると、西円寺に寄ってから蓮輪方面に向かいました。軽い下り坂のため、どんどん足が進みます。蓮輪に着くと、稲荷大明神に行きました。そして、浜城地区に入りました。浜城では、お地蔵様や亘理南山の石碑を見た後、国道188線沿いにあるMさん宅を訪ねました。そして、素敵なバラ園を見学させていただきました。ただ、6月の本番ウォーキング時は、バラは盛りを過ぎています。スキップすることになると思います。
蓮輪の塩谷天王社 金毘羅さん下の千光寺
バラ園を見学後、江戸時代の米出港跡を見学しまた。そして、米出港跡近くにある恵比寿様の祠を見学しました。なお、下見ウォーキングをする前、この近くのコンビニに寄りました。その時に小中学校同級生のT3さんのお母さん(96歳)に偶然出会い、この恵比寿様のことを教えていただきました。ありがとうございます。
金毘羅さんに向かう途中の石鳥居 取り外された絵馬などの天井板
恵比寿様を見学後、丘の上にある塩谷天王社に行きました。続いて、蓮輪公会堂近くにある千光寺に寄った後、その上にある金毘羅さんに行きました。金毘羅さんはかつて立派なお社があったようです。祠の中を拝見させていただくと、天井から外して保存してある絵馬が束ねて置いてありました。台風か何かでお社が倒壊したのではないでしょうか。とても残念なことです。いつか、この絵馬を調査しようと思います。
金毘羅さんがある山を下りると、最後の訪問地である光泉寺に行きました。とても手入れがされており清々しい気持ちになりました。本堂に上らせていただき、冷たいお茶をいただきました。お心遣いありがとうございました。光泉寺を出ると、最終点である麻郷公民館まで歩きました。ウォーキングメーターで測った距離は13.1kmでした。本番のウォーキングでは10km程度に抑えようと思います。
見学させていただいた光泉寺、お心遣いに感謝
下の画像は、今回の下見でウォーキングしたコースです。歩いた距離が13.1kmでしたので、本番ウォーキングでは蓮輪や浜城付近をスキップするか切り詰めようと思います。そして、熱さのため参加者が疲れているようであれば、以降のコースをスキップして終点の麻郷公民館に直行しようと考えています。
下見でウォーキングした、麻郷の13.1kmコース
次の朝、昨日庭で見た建物が食堂であることに気が付きました。朝食はバイキング形式かと思っていたら、案内された席に朝食が配膳されていました。窓の外に広がる庭をめでながら食事を楽しむことができました。
庭をめでながら朝食 今回の朝食、どれから食べようか
朝食が終わると、北門屋敷のレンタサイクルを無料で借りました。ちなみに、昨日借りた自転車は有料でした。昨日それを知っていれば、と少々後悔しました。
最初訪れた場所は、高杉晋作が生まれた家屋です。普通の武家屋敷でした。この時、先日田布施町郷土館に来られたTさんに電話しました。すると、萩市内を案内するとのことで、わざわざ自転車で高杉晋作の家屋までみえました。私,息子,Tさんの3人で萩市内を自転車で散策しました。
高杉晋作が生まれた武家屋敷 萩市内を流れる運河の船まわし
萩市内を自転車で巡っている時に、意外なものを発見しました。それは、萩市内を縦横に走る運河(クリーク)の所々にある船回しです。この船回しで船の舳先を回転させて、船の向きを変えるのです。この船回しは、かつて江戸時代から明治にかけて田布施町にもありました。上ゲの法寺坊付近にあったと言われる船回しです。その船回しの実物を見て嬉しくなりました。かつて田布施町にあった船回しもこのようではなかったかと思います。
最古級プール脇に建てられた、明倫館小学校の新しい建物
あちこちを散策しながら、長井雅楽碑などに行き、明倫館小学校に立ち寄りました。この小学校の卒業生であるTさんに、この小学校内の敷地を案内してもらいました。最初、とても古いプールを説明していただきました。知らない人が見るとただの四角形の池ですが、これは日本最古級のプールとのことです。四隅は石で囲まれていました。少し濁っていましたが、綺麗な水で満たされていたならば今でも泳げそうです。
Tさんに案内されて萩市内を散策 日新館から贈られた木を説明するTさん
続いて、明倫館小学校の校庭でとても珍しい樹木を見ました。この樹木は、大正時代に会津藩の日新館から贈られたものだそうです。この頃はすでに廃藩置県で、会津藩は福島県に、長州藩は山口県になっていました。その樹木が贈られてきたことにより、両藩は名目上は和解が成立したのでしょう。
校内をあちこち見学し、最後に明倫館小学校の玄関を見学しました。皇室の方が来ることがあるらしく、とても立派で威厳がありました。
明治建築らしく、とても威厳が感じられる明倫館小学校玄関
昼過ぎにTさんと別れました。Tさん、お忙しいところ案内していただきありがとうございました。昼食は、たまたま近くにあったお蕎麦屋さんでとりました。お蕎麦を食べ終わると、次に木戸孝允旧宅に行きました。高杉晋作生家と同じような武家屋敷でした。
萩市内のうち、武家屋敷がある場所は碁盤の目状になっています。毛利氏がこの地に入った時、家臣達を住まわせるために人工的に作られたことが良く分かります。おおざっぱには、農民,商人,武士,そして藩主の屋敷の順に整然と作られたようです。
お蕎麦を食べた、がんこ庵 武家屋敷界隈の木戸孝允旧宅
木戸孝允旧宅の向かい側に、しゃれた喫茶店がありました。キモノスタイルカフェです。浴衣や着物のレンタルもできるそうです。私はアイスコーヒーを頼みました。息子は、ホットコーヒーに抹茶ケーキです。面白いことに、Facebookをしている方は、値引きしてくれるそうです。息子がスマートフォンでこのカフェを取り込むと、値引きしてくれました。Facebookで「このカフェに来たよ!」と表示すればいいようです。
末茶ケーキとホットコーヒー Facebookを確認中のメイドさん
キモノスタイルカフェを出ると、萩博物館に行きました。この博物館の立派な事!驚きました。敷地も広い重厚な和風建築です。私は、明治維新関連の資料を丹念に見学しました。しかし、博物館らしく維新関連以外の萩市の文化や物産についても展示してありました。ただ、古代の萩に関する資料があまりありませんでした。古代に関しては、山口県南部の瀬戸内海側の遺跡が顕著です。日本海側は古代人が住むには適していなかったのでしょうか。
木材をたくさん取り入れた、重厚な和風建築の萩博物館
萩博物館の高杉晋作関連の資料を見ていると、どんどん時間が過ぎていきます。帰る時間が迫ってきたため、今度は萩史料館に行きました。ここも幕末に関する資料がたくさん展示されていました。吉田松陰や高杉晋作の一世代前の村田清風,周布政之助,そして長井雅樂などの資料がたくさん展示されていました。
最後に立ち寄った萩史料館 村田清風などの資料を見学
萩史料館を見学していると、残念ながら時間がきました。すぐに北門屋敷に戻って自転車を返しました。そして、預けていた荷物を受け取って萩バスセンターに向かいました。途中、田中義一の銅像前で軽く休みました。そして、その前から真っ直ぐ伸びている道を進みました。
バスに乗り込むと、疲れがたまっていたのか寝込んでしまいました。眠りから覚めると、もうすぐ新山口駅でした。ここで息子と別れました。息子は大阪に、私はこだまで徳山駅に行き田布施の我家に帰りました。我家に帰った後、半年前の会津旅行を思い出しました。幕末当時、会津と長州は対局な立場にあり、両藩の苦難に思いをはせました。
今回も良かった萩市でした。
26日、あちこち回った萩市内のコース
8年前、息子と萩市内を日帰りで幕末関連史跡巡りをしました。今回再び5月25日と26日に、歴史好きな息子と萩市内を史跡巡りをすることになりました。今回は余裕をもって史跡巡りができるようにホテルに泊まりました。止まったホテルは北門屋敷と言う和風ホテルです。息子がスマートフォンを使って予約したようです。
新幹線で新山口駅まで行き、定期バスで萩バスセンターに行きました。バスを降りると、歩いて宿泊する北門屋敷に向かいました。到着すると、荷物を預かってもらいレンタサイクルがある萩史料館近くに行きました。※北門屋敷でもレンタサイクルをしていことを後で知る。
一泊した北門屋敷の入口、ホテルとは思えない趣のある門
自転車を借りると、8年前と同様に菊ヶ浜に出て、海岸線伝いに松陰神社に行きました。直線コースで行っても良いのですが、海岸を見ながら自転車を走らせることにしました。そして、萩漁港を経由して松本川上流に向かって進みました。そして、数台の観光バスが駐車する松陰神社前に着きました。駐輪場に自転車を停めて松陰神社を見学しました。
指月山を見ながら菊ヶ浜で休憩 松陰神社の明治維新胎動の碑
松陰神社では、松下村塾の他に、薩長土会議碑や明治維新胎動の碑を見ました。そして、松陰神社宝物殿「至誠館」に入りました。ここには、吉田松陰の生涯が分かりやすく、またたくさんの書が展示されていました。その書を読んでいると、すぐに時間が経ってしまいます。有名な留魂録もじっくり読みました。
松下村塾の学習室 松陰神社の鳥居
松陰神社を見学すると、坂を歩いて吉田松陰の叔父である玉木文之進旧宅に行きました。続いて、急坂を登って吉田松陰の墓所や生誕地に行きました。お年寄りにはきつい上り坂です、何人かのお年寄りはタクシーでこの墓所に来ていました。墓所には、松下村塾で学んだ久坂玄瑞や高杉晋作達のお墓もありました。
吉田松陰ほか、松下村塾で学んだ久坂玄瑞や高杉晋作達のお墓
墓所には松下村塾に関わる志士達のお墓が林立していました。その墓所すぐ近くに、吉田松陰と金子重輔の銅像があります。思っていたよりも大きな、見上げるような銅像でした。この場所は、展望が良く萩市内が良く見えます。ここで、少しばかり休みました。
吉田松陰と金子重輔の銅像 吉田松陰生誕の家屋跡
萩市は、幕末の史跡がとてもたくさんあります。私は幕末にも興味がありますが、古代史も興味があります。この萩市も古代には人々が住んでいたと思われます。縄文遺跡や弥生遺跡、あるいは古墳などはないのだろうかと思います。これだけの平野があれば、弥生時代にも人が住んでいたに違いないと思います。
吉田松陰生誕地から萩市内を見下ろして
吉田松陰墓所や生誕地からは下り坂を降り、いったん松陰神社に戻りました。その途中で伊藤博文の別宅に寄りました。なお、2年ほど前に光市の伊藤博文生誕地に行きました。伊藤博文は、父が伊藤家に養子に入らなければ、ただの下級武士として一生を過ごしたかも知れません。不思議な巡り合わせだと思います。
伊藤博文の旧宅 吉田松陰が入獄した野山獄
伊藤博文の別宅を出ると、松陰神社に戻りました。松陰神社では餅まきをしていました。何かの行事があったのでしょう。松陰神社に置いていた自転車に乗って、今度は野山獄に行きました。野山獄はもともとは民家だったようで、犯罪を犯した家を取り潰して獄にしたとのことです。その後、海岸近くの女台場に行きました。道しるべが無いので、あちこち道を迷いました。
自転車で走った、萩市内の趣のある白壁通りの一つ
自転車を返すと、宿泊する北門屋敷に戻りました。なかなか立派な和風ホテルです。庭が綺麗だったので、外に出て庭を見学しました。出てすぐの場所は、バラの花が咲いていたりジキタリスの花などが咲いていたりと洋風の庭に見えました。池がありました。階段を渡ると、和風な庭もありました。庭を進むと、大きな建物がありました。何の建物だろうと思いましたが、食事をする別邸だと後で分かりました。
見ごたえのある洋風庭園と和風庭園、そして大きな別邸(食堂)
北門屋敷から外に出て散歩しました。北門屋敷のすぐ前は萩高校でした。日曜日なのに生徒たちが大勢歩いていました。試合があったのでしょう。遠征から戻った高校生達が、高校内に次々に入っていきました。この高校はとても趣のある高校です。大きな松の木が何本が生えており、いくつかある裏門はゲートのような立派な門でした。伝統がある高校なのでしょう。
遠征帰り?高校内に入る生徒達 趣のある萩高校の裏門
萩市内をあちこち散策した後、夕食を取りました。東京と違って夕方は店じまいが早いようです。午後5時頃までには、みんな店が閉まります。ぎりぎりセーフで夕食をとることができました。夕暮れ時、北門屋敷に戻りました。iPadで表示した地図を見ながら、明日巡る史跡コースの計画を練りました。そして、お風呂に入りました。
お風呂は誰もおらず、広いお風呂は貸切り状態でした。こんな大きな湯船にたった一人で浸かるとは、贅沢のきわみでした。夕涼みしようと軒下に出るとパラパラと小雨が降っており、庭池のカエルが大合唱していました。軒下の椅子に静かに座り、雨音とカエルの声に聞き耳を立てました。
iPadで明日の計画を練る 眠くなるも、先にお風呂に入る
下画像は、今回25日に通った萩市内のコースです。萩バスセンターを降りて、北門屋敷までは徒歩、それからはほとんどレンタルサイクルを使っての移動です。松陰神社では自転車を置いて、坂道を吉田松陰墓所まで歩きました。萩市内は、自転車で走るにはとてもよい距離です。8年前は、反射炉付近まで自転車で行きました。
25日、萩市内の史跡を巡って移動したコース
先日、来月6月の麻郷史跡巡りウォーキングの1回目の調査に行きました。その時は、奈良,竹重など麻郷の北側を主に調査しました。2回目の今回は、麻郷の中部,南部の史跡を中心に調査しました。まず最初に、前回の終点近くだった観音堂をスタートしました。この観音堂にはとても古い石像や五輪石があるため、歴史的には古くからあるお堂ではないかと思われます。
趣のある尾迫の観音堂 麻郷幼稚園併設の常楽寺
丘上の観音堂を降りると、次に常楽寺に行きました。このお寺は、私が小学生時にお習字を習いに行ったお寺です。常楽寺は習い事をする場所ではありましたが、子供の遊び場であったように覚えています。このお寺は麻郷幼稚園を併設していました。私の友達の何人かはこの幼稚園の卒園生です。当時は子供達が走り回っていたためか、泥面の境内でしたが草1本生えていませんでした。今は境内が綺麗に舗装されています。
尾迫と竹重を結ぶ田んぼ道脇のクロガネモチ、田布施の名木の一つ
常楽寺を過ぎると、田布施の名木の一つであるクロガネモチの大木を仰ぎ見るように見ました。そして、高松八幡宮方面に向けて道を進みました。20分位でしょうか、江良碧松の石碑に着きました。地区の方々が手入れしているのでしょう、綺麗に草が刈り取りしてありました。この石碑は地元の方々に大切にされているようです。
手入れされた江良碧松の石碑周辺 高松八幡宮前の長福寺
もうすぐ高松八幡宮です。その八幡宮前に長福寺があります。今回、このお寺は遠くから見るだけにしました。長福寺を見終わると、いよいよ高松八幡宮を拝殿しました。長い境内の左右にはたくさんの田布施の名木があります。去年秋の大祭,一昨年の10年に一度の大祭に参加しました。小学生時代、どんぐり拾いなどでよく来た、思い出のある神社です。
こんもりした高松八幡宮 蓮輪の稲荷大明神
高松八幡宮を過ぎると、あちこち回って蓮輪に向かいました。途中、西円寺に立ち寄ろうと思いましたが、今回はスキップしました。下見では立ち寄るかも知れません。蓮輪では最初に稲荷大明神に行きましたが、狭くうら寂しい場所でした。続いて山道を通って、千光寺に行きました。お寺と言うよりも普通の民家のような作りでした。
蓮輪の山の中腹にある千光寺
千光寺を見終わると、そのお寺のさらに山上の金毘羅さんに行きました。石の階段が乱れているため、やや歩きにくいのが難点です。蓮輪の方にお聞きすると、年に1度お祭りをするようです。しかし、お年寄りがこの急な石段を上がれないため、今では蓮輪公会堂でお祭りをするとのことでした。その金毘羅さんには石の鳥居があります。何年か前の台風時に倒れたそうです。このため、今は針金のようなもので補修をしてありました。びっしりと文字が刻んでありました。今回は解読する時間がありませんでした。
蓮輪の金毘羅さんの石鳥居 浜城のお地蔵様
金毘羅さんを降りると、浜城に向かいました。ここは私が子供の頃によく来た場所です。お地蔵様や江戸時代の漢学者亘理南山の石碑があります。江戸時代、浜城は麻郷の文化地区だったのです。次に、第1回田布施川沿い史跡巡りウォーキングの時に見学した上関宰判勘場跡の碑を見ました。そして、その裏山にある天王さんの広場に行きました。そして、終点である麻郷公民館に着きました。下見では光泉寺を見学したいと思います。
漢学者 亘理南山の碑 終着の麻郷公民館
下の画像は、今回調査した麻郷の中部,南部です。本番のウォーキングで全てを歩くと、相当な距離になると思います。このため、次回どこ歩けば良いか考えながら下見しようと思います。なんとか10Km以内のウォーキングルートにしようと思います。麻郷と言えども、とても広く、いろいろな史跡があることに気が付かされた調査でした。なお、麻郷東部の八海,、鳥越,高塔,新川方面は、これまで第3回田布施川沿い史跡めぐりウォーキングなどで歩きました。このため、6月の麻郷史跡巡りウォーキングでは省くことにしました。
調査のため散策した麻郷の中部と南部
去年苗を植え付けたブラックベリーがだいぶ大きくなりました。今年は実が少しは収穫できそうですが、まだ数粒食べることができるほどの少量です。ジュースを作ることができるほどの量は、再来年頃になると思います。今年は枝がだいぶ伸びてきたため、U字支柱を立てました。そのU字支柱に横棒を取り付け、枝を固定しました。
子供の頃は、トゲがあるブラックベリーが繁茂していました。実も大量に収穫して、何杯ものジュースを作って飲みました。再来年はぜひブラックベリージュースを作ってみたいです。
枝がだいぶ伸びてきたブラックベリー、横棒にからませ中
ビワと桃の袋掛けをしました。今年は袋掛けが1ヶ月遅くなってしまったため、だいぶ実が大きくなってしまいました。
最初、ビワの袋掛けをしました。いつもは4月に袋掛けします。ビワは冬に開花し、夏に実が成熟します。ビワ独特の甘さと風味がたまりません。種がやや大きいのが欠点ですが、夏には欠かせない果物の一つです。
小さな実などを摘果して実を数個に ビワ用の袋で覆うように掛ける
ビワは実が数個かたまって付いています。その中で、色が変色したもの,虫が食った跡があるもの,小さなものなどの不良果を摘果します。そして、3個か4個に調整します。そして、ビワ用の袋を被せるようにして掛けます。そして、袋の根本をしっかり縛ります。これでOKですが、ビワの実が多いためこれを何十回と繰り返します。今年も美味しいビワを収穫できるでしょうか。
袋を掛け終わったビワ、約1ヶ月後に収穫
続いて桃の袋掛けをしました。ビワと同様に袋掛けの時期が遅れてしまいました。去年は5月上旬に袋掛けしました。実が大きくなっていたため袋掛けがやや大変でした。実が大きくなると、摘果が大変です。実が大きいので、摘果中に枝を傷めてしまうことがあるのです。1ヶ月前ならば、指でなどるようにすると、ポロポロと摘果することができるのです。このように、作業にも適期があるのです。
摘果後、袋を覆うように掛ける 袋の根本をしっかり縛る
私は、我家の果物の中で桃が一番好きです。7月上旬に収穫しますが、桃は熟れてくると木の周りに甘い匂いが漂います。その熟れた時の桃はジューシーで最高です。しかし、収穫が遅れるとカブトムシなどの大型昆虫が袋を破って入ってきます。やはり適期に収穫することが大切です。今年もジューシーで甘い桃がたくさん収穫できるでしょうか。
全ての実に袋をかけることができなかった桃
父親の三回忌法要をしました。一昨年葬儀をして、去年一周忌法要をして、あっと言う間の今回の三回忌法要です。来たのは、私の妹夫婦と私の息子です。息子は、出張先の富山県高岡からの参加です。昨日の深夜、山口県の我家に着きました。
当日午前、田布施発明クラブの催しが西田布施小学校であり、午後1時からの三回忌法要でした。法要が済むと食事を取りに行き、我家でそろって食事しました。その後時間が少し余りました。私の息子が田布施郷土館に行ってみたいとのことで、午後4時過ぎに連れて行きました。30分位田布施の歴史などを説明しました。息子は私以上の歴史マニアなので、第二奇兵隊や富永有隣などの話を興味深く聞いていました。
そんなこんなで、忙しく立ちまわった一日でした。
三回忌法要が無事終わって、遅い昼食
陸稲(うるち)の種まきをしました。去年は5月初めに種まきしましたが、今年は少し遅れました。まず、去年収穫して保存していた種籾を保存袋から取り出し禾(のぎ)を取りました。禾は、種籾から出たヒゲのようなものです。禾があると種まき機が詰まります。このため禾を取るのです。手で揉んでもよいのですが、私は餅つき器を使っています。
餅つき機で種籾の禾を取る 風選で、しいなを取り除く
禾を取り終ると、次に唐箕を使って細かな藁屑を取り除きます。そして、何度も風選して、しいななど痩せた種籾を取り除きます。本当は比重選すると良いのですが、私は強めの風を送って痩せた籾を取り除いています。風選が逢わると、種籾を種まき機の中に入れます。種まき機をコロコロ転がすと、15cm位ごとに種籾が数粒ずつ吐き出されます。
種まき機の中にいれた種籾 定間隔ごとに吐き出された種籾
軽く種まき機を転がすと、定間隔ごとに種籾がき出されることを確認して、いよいよ陸稲の種まきを始めました。陸稲の畝間隔は、今後耕耘除草しやすいように90cmにしました。種をまくときは、真っ直ぐ前を向いて、種まき機を押しながら歩きます。時々、正常に種が排出されるか確認します。
種まき機のハンドルを押しながら、陸稲の種をまく
種が正常に排出されているのを確認する時、ついでにチェーンに泥が付いていないか確認します。泥が付いていれば取り除きます。泥が付いていると、チェーンが回転せず種の排出ができなくなるのです。
この種まき機の欠点は、種をまいた後に土を被せてくれないことです。このため種まきが終わった後、足を使って種の上に土を被せます。種まきした跡をたどるようにして土を被せます。これで、今年の陸稲の種まきは終わりです。
なお、今年は陸稲(もち)の種まきはしませんでした。やはり、お米はうるちをたくさん食べます。もちは作っても、それほど食べず余らせてしまいますので。さて、雨が降れば一週間後頃には芽が出るはずです。
足を使って種の上に土寄せ 陸稲の種まきが終わった畑
18日、田布施町でバラ園を巡る観賞会がありました。しかしながら当日、私はウォーキング日でしたので参加きませんでした。このため20日、Yさんのバラのお庭を観賞させていただくことになりました。Yさんありがとうございました。ところが、当日は雨がシトシト降るあいにくの天気でした。
午後1時からの見学でしたので、それまでYさんの家の近くのフランス食堂で待ち合わせがてら昼食をとりました。まずは、3人が一緒にフランス食堂で食事をしました。私はハンバーグ関連の料理を食べました。
フランス食堂で昼食、私はハンバーグ 庭の外から見た,こぼれるようなバラの花
約束の13時になると、Yさんがフランス食堂に迎えにみえました。その頃、Mさんがやって来ました。雨が降る中、4人は笠をさしてYさんのお宅をお伺いましした。細い通路を通った後、最初は外からお庭を見ました。すると、美しいバラの花がこぼれんばかりに咲き誇っていました。その見事さに、私はびっくりしました。
庭の通路の左右に、バラまたバラでびっくり
雨が降っていなければ丹念に見ることができたのですが、バラのトゲが笠にひっかかって通行を邪魔します。ひっかかる笠に気をとられつつ、それでも見事なバラに見とれてしまいます。それぞれのバラには育て方の個性があると思います。これだけ各種のバラを育てるあげるのは大変だったのではないかと思います。
Yさんにバラについて教えていただく あまりの見事さに思わず笑顔
私もバラの花は好きですが、育てるのがとても苦手です。ずぼらだからでしょう。1本1本に手間をかけるのが苦手なのです。5月初めに植え付けたミニバラ、ちゃんと育てられるか心配です。私はどちらかと言うと、稲や麦のように畑全体で世話をするのが好きです。人それぞれ、好きな植物やその育て方に得意不得意があるようです。
見渡す限りバラまたバラ、地表にはジキタリスなども開花
雨の中、じっくりとバラを見させていただきました。この見事なお庭を見ていると、私も何か1本でも丹念に育ててみたくなりました。バラはとても無理そうです。東京の我家でクレマチスを咲かせたことがあります。このクレマチスをいくつか育ててみたい気持ちになりました。または、私は花より実が好きなので、今育てているブラックベリーなどを大々的にアーチ棚に這わせてみようかと思います。
バラの綺麗な花をたくさん見ていると、心が軽くなり自然に笑顔を出てきます。良いものを見せていただき、ありがとうございました。
お庭のバラを観賞後、ウォーキングや花作りなどの話題で楽しく歓談
先日、光ファイバーを通すため樹木を伐採しました。その光ファイバー工事のため、2台の工事車両が我家にやって来ました。1台は屋内配線などの工事用、もう1台は屋外で光ファイバーを柱に沿って配線する工事用でした。
我家にやって来た工事車両 光ファイバー取り付け位置の相談中
工事の中でも、興味深かったのは光ファイバーの屋外配線工事です。柱間の基準線に巻き付けられた発条状の間に光ファイバーを通す工事は見ものです。柱からその発条状の間に、スルスルと橙色の太いを通します。続いて、その橙色の線に、光ファイバーを繋げて引っ張ると、柱間に光ファイバーが見事に通ります。その効率良さは、見ていて感心します。
丸の先端(橙色太線の先端)が、矢印の方向に発条状の間をスルスルと通過
無事光ファイバーが我家に繋がると、今度は屋内の工事です。今までは、電話コンセントからスプリッタを経由してADSLモデムに繋がり、そこから無線LANに繋げていました。今度は、光コンセントから光モデムに繋がり、そこから無線LANに繋がります。
工事が終わってさっそくパソコンを繋いでました。やはりADSLより格段に速くなりました。特にYouTubeなどの動画ダウンロードは体感的に数倍の速さです。これで我家も人様と同じパソコン環境になりました。今まで2度断られ、3回目の申請でようやく繋がりました。2年越しの光ファイバー化でした。
向こうの柱まで光ファイバーを接続 光モデム(奥)と無線LAN(手前)
多賀神社で田布施町名木の一つであるヤマモモの大木を見上げました。根元にはまわしの縄が回してありました。何回かこの多賀神社に来ましたが、このヤマモモに実がなっているのを見たことがありません。おそらくこのヤマモモは雄の木ではないかと思います。境内を見学していると、Aちゃんが、多賀神社を清掃している方にラムネをいただきました。ありがとうございました。ラムネが初めてのAちゃん、家に持って帰ってから蓋の開け方がわかるかな。
ラムネをバッグに入れるAちゃん 石階段の最上部からの景色を堪能
ところで、多賀神社の鳥居に彫られた年代は大正や明治です。それほど古い神社ではないように思われます。さらに昔はちょっとした祠がだけあったのかも知れません。明治,大正,昭和初期に、なぜ多くの方から参拝されてきたのか調べてみました。
すると、この神社は地域の方々から「多賀さま」と呼ばれ、命の神様として祀られてきたことが分かってきました。赤紙で召集された息子の無事を祈る母親や祖母達が賢明に参拝してきた歴史があるのです。境内に大砲の弾が祭られているのは、その証拠の一つではないかと思います。砲弾や銃弾が避けてくれるよう、母親たちは懸命に祈ったのではないでしょうか。戦争が終わり無事に帰ってこれた息子たちは、母親の懸命な「多賀さま」参りに感謝したことでしょう。
多賀神社を出ると、しばらく木漏れ日ロードを散策
多賀神社を出ると、しばらくは木漏れ日ロードが続きます。ところどころの茂みでは、あちこちに野イチゴがありました。みんな摘まんでは食べました。ほんのりとした懐かしい甘みが口内に広がります。そう言えば、私の庭で野イチゴの改良品種であるブラックベリーを栽培していますが、どういう訳か今年は実ができません。野イチゴは、隔年で実がなるのでしょうか。
野イチゴを摘まんでは食べる 柳井市の余田畑地区に到着
木漏れ日ロードを30分位歩いていると、柳井市の余田畑地区の家々が見えてきました。ここから、柳井市街の東にそびえる三ヶ岳や琴石山が見えました。そして、北の方角には伊陸の氷室岳や岩国市の高照寺山が見えました。余田畑に着くと、稲荷神社で少しばかり休憩をしました。
余田畑地区から、柳井市街の東にそびえる三ヶ岳や琴石山を展望
余田畑に初めて来た時、不思議に思いました。それは、この地区は余田よりも馬皿に近いように思ったからです。余田の本庁に行くよりは、黒杭川下流の馬皿に行った方が近いように思います。山の峠を越えて、保生地を通って、余田の本庁に行くにはとても時間がかかったと思います。どのような経過で、この地区が余田地区になったのか歴史的に興味があります。なお、江戸時代は今の平生町の竪ヶ浜なども余田でした。
余田畑の稲荷神社 余田畑から生野へ向け出発
稲荷神社での休憩が終わると、余田畑と生野を結ぶ生野畑林道を歩きました。しばらくすると、山間に作られた田んぼや畑が見下ろすことができる場所に出ました。ちょうど田植えが終わったようです。どの田んぼも稲の苗が綺麗に植えられていました。
生野畑林道から見下ろした、綺麗に田植えされた田んぼ
生野畑林道をどんどん進むと、生野と畑の境の峠に着きました。この峠がまさに、田布施川沿い史跡巡りウォーキングの最終地点で、今回の目的地の一つです。そして、この峠が、田布施川水系と柳井川水系(黒杭川)の接点です。この峠より東に降った雨は、黒杭川を経由して柳井川となります。この峠より西に降った雨は、田布施川となり平生湾に流れます。つまり、この峠は田布施川の源流の一つなのです。
生野と余田畑の境の峠、すなわち田布施川の源流の一つ
源流と言うと、奥深い山裾から清水が湧き出るイメージがあります。残念ながら、そのような場所はこの峠では見つけることができません。峠直下の荒れた田んぼ跡に、もしかして清水が湧いている個所があるのではと思いますが。
峠から少し生野に向かって歩いていると、しだいに水音が聞こえてくるようになります。道下を覗き込むと、小さな小川が流れていることが分かります。これらの水の流れが集まって田布施川となるのです。
道下に水音が聞こえる 広々とした生野に到着
峠から生野への道を歩いていると、水音がだんだん大きくなりました。しばらく道を歩いていると、急に視界が広がって生野地区の広々とした田んぼが目の前に展開しました。ほとんどの田んぼは田植えが終わっていました。左右に広がる田んぼを見たり、正面に見える石城山を見ながら歩きました。
正面の石城山を見ながら左右の田んぼを鑑賞
この生野の里山風景を見ていると、昔の事を懐かしく思い出しました。私も子供の頃は、田んぼでよく手伝いをしました。父親は、当時まだ珍しかった耕運機やトラクターを得意げに使っていました。それは、先進的な農業の機械化の走りだったようです(その頃、祖父は牛を使って農業)。全国から研修生が来ていました。その研修生を泊める小屋もありました。
その耕耘機はもうありませんが、トラクターはまだ我家に残っています。暇をみては、その父親愛用のトラクターを修理しています。これら子供の時の経験が、東京で小学生,中学生,高校生,大学生,地域グループなどの方々に稲作指導するのに役立ちました。また、私が指導した稲作で作ったお米が、運良く高校生の大会でテレビに出たこともありました。そもそも東京で稲作をするようになるとは思いもしませんでした。今回ウォーキングに参加された方々もそれぞれの子供時代を思い出しながら、生野の素晴らしい田んぼを見たのではないでしょうか。
綺麗に田植えされた生野の田んぼ
生野の美田を抜けて、林を抜ける道に入りました。そして、しばらく歩いているとようやく終点に到着しました。これで、田布施川沿い史跡めぐりウォーキング全8回の終了です。なお、この8回シリーズすべてに参加された方が1名おられました。Eさんです。今回ウォーキングされた方々の前で、全8回の写真を印刷した賞状(完歩賞)を差し上げました。
田布施川(本流)沿いシリーズが終わったため、次のシリーズを考えています。例えば、田布施町&平生町河川域の史跡を巡るウォーキングなど。
今回歩いた、にこにこパーク~多賀神社~余田畑~生野までのコース 後編
==========健康ウォーキングクラブ==========
田布施川沿い史跡巡りウォーキングもついに最終回となりました。一昨年の秋に第1回目を行い、約1年半をかけて、田布施川の河口がある平生湾から源流まですべてのコースを8回に分けてウォーキングしました。第1回は5名の参加、そして最終回の今回第8回は15名の参加でした。
※第1回から最終回の第8回までのウォーキングは、次のとおりです。クリックしてみてください。
第1回 麻里府~八海 第2回 田名~平生 第3回 八海~交流館
第4回 平生~交流館 第5回 交流館~城南 第6回 交流館~行者山~田布施街
第7回 城南~光市塩田 第8回 小行司~余田畑
小行司にこにこパークでお弁当を受け取り 多賀神社に向かってウォーキング開始
今回は、小行司こにこにパークがスタートです。にこにこパークに着くと、事前に注文していたお弁当を受け取りました。小食な方は300円,普通の方は450円,そして豪華なお弁当(ちらし寿司入り)を食べたい方は700円のお弁当です。お弁当を受け取るとウォーキング開始です。しかし、お弁当を清算するなどしていてスタート時間が30分位遅れてしまいました。このため、市明と郷江の荒神様はスキップしました。
小行司小学校跡地 力士小桜の石碑を説明
にこにこパークをスタートすると広い麦畑脇の舗装道路を歩きました。しばらく道なりに歩いていると、小行司小学校跡地が見えてきました。橙色の屋根が目印のように映えます。この小行司小学校跡地は今、喰道農村公園として地元の方に利用されています。この小行司小学校跡地から下に続く坂道を降りた場所に、小野太市の石碑があります。日清戦争の海戦で軍艦厳島に乗って活躍した人です。
郷江から多賀神社まで続く、古来の参道を登る
小野太市の石碑から50mほど郷江公民館側へ歩くと、力士小桜の石碑が建っています。昔、田舎相撲で活躍し、その後は鍼灸などで地元の方に貢献した方だそうです。石碑が立てられるほどに、地元の方に尊敬されたのでしょう。力士小桜の石碑を見終わると、古来使われた参道を歩いて多賀神社に行きました。
多賀神社への古来の参道を登る 天寿松跡と夫婦松跡を前にした石鳥居
郷江からの古来の参道は、昔から歩かれて続けたためかV字型にえぐれていました。落葉が敷き詰められたような、その古道を上へ上へと登りました。森林の中を通っているため、日陰になっているのはよいのですが、風が吹かないため汗がたくさん出ます。
田布施町名木の一つである小行司の山桜
鳥居は普通、参道に立ちふさがるように建っています。ところが、多賀神社の石鳥居(大正15年建立)は参道の横に、道に平行に建てられています。その理由は、かつてあった天寿松と夫婦松に向かい合う様に建てられていたからだそうです。その二つの松は影も形もありません。わずかに天寿の松の幹が盛り上がった土のようになっていました。半ば土に帰った松です。
展望台で昼食休憩 展望台から田布施や平生湾を見て
石鳥居からすぐに多賀神社に行ってもよいのですが、境内に座ってお弁当を食べるのは他の参拝者から見てみっともありません。このため、いったん展望台に行って休憩することにしました。11:40分頃に展望台に到着しました。展望台は景色も良く広いので、ゆったり座ることができます。そして、適度な木漏れ日もあり涼しく過ごすことができますので。
多賀神社近くの展望台からの景色
小行司の方が手作りしたツリーハウスのような展望台で1時間ばかり休憩をしました。昼食休憩が終わると、出発です。出発するにあたって、展望台傍にある数個の丸い大岩のお話をしました。このような丸い大岩は、世界中にあります。氷河が運んだ大岩,溶岩がゆっくりと固まる時に玉葱状に固まる大岩,津波で運ばれた大岩、,岸で浸食してできた大岩などの話をしました。
多賀神社を回り込む古来の参道 石階段の最下段から見上げた多賀神社
展望台を出ると、来た道を少し戻りました。そして、教円寺への下り口を通過して、郷江からの合流地点を通りました。古来の参道は、急斜面を横切っており大木で覆われています。幾重にも重なった落葉を踏みしめながら、神社を回り込むようにして石階段の最下段に行きました。最下段は余田畑からの参道との合流地点でもあります。その最下段から上を見上げると、多賀神社の山門が小さく見えました。石階段を登って山門をくぐり、多賀神社に到着です。
多賀神社前で、今回参加した方々
小行司は、普段あまり来ることがありません。このため、いつもよりも念入りに何度も調査して下見しました。少しでも小行司の史跡などを知ってもらえたらと思ってこのコースにしました。また。小行司だけではなく、昔はより関係が深かった、生野や余田畑なども訪問するコースにしました。
今回歩いた、にこにこパーク~多賀神社~余田畑~生野までのコース 前編
==========健康ウォーキングクラブ==========
庄地古墳群や庄地水洞などを見学し終わった頃、お昼になりました。そこで、先日家内と一緒に行った道の駅サザンセトとうわに行きました。家内と行った時は、連休のこともあり大混雑していましたが、今回は比較的すいていました。2階のレストランもすぐにテーブルに座ることができました。私は肉料理を、他3人は魚料理を食べました。
手前私は肉料理、ほか3人は魚料理(めばる他)
昼食が終わると、私のリクエストで久賀町にある久賀歴史民俗資料館(八幡生涯学習のむら)に行きました。10年位前は確か醤油屋を改造した資料館でしたが、今はとても立派な建物や敷地となっていました。国のお金も費やした資料館です。この資料館を新設するにあたって、故宮本常一博士が監修したそうです。
久賀歴史民俗資料館(八幡生涯学習のむら) たくさんの展示物を見学
この資料館では、醤油屋,石工,漁業,農具などに関わる資料が豊富に保管されていました。説明員の方にいろいろ説明していただきました。ありがとうございました。
ところで、田布施町郷土館は建物が狭いため収納や展示に苦労しています。古い道具などを寄贈したい方がおられるのですが、お断りせざるをえなかったり、廃棄せざるをえなかったものが少なからずあったようです。とても残念なことです。空き教室や空き倉庫などが利用できると、もっと充実した保存や展示ができると思うのですが。
久賀歴史民俗資料館(八幡生涯学習のむら)隣りの薬師堂のお地蔵様
久賀歴史民俗資料館(八幡生涯学習のむら)の見学が終わると、隣にある石風呂堂を見学しました。石風呂堂は周防大島八十八ヶ所お礼所の五十二番個所です。車で巡礼していると思われる方が次々に訪れていました。名前のとおり石風呂です。平安時代末期に創建された西日本最古最大の石風呂とのこと。国指定重要有形民俗文化財です。いわゆるサウナで、海藻を使っていたそうです。
石風呂を見学後、すぐ傍の薬師堂や嫁いらず観音を参拝しました。そして周防大島大橋を渡った後、途中柳井港付近の喫茶店でくつろいでから我家に帰りました。
西日本最古最大の、久賀の石風呂 薬師堂や嫁入らず観音を参拝
田布施町から少し離れた周防大島の古墳などの史跡を訪れました。最初、庄地古墳群を訪れました。古墳の紹介板を見ると、古墳後期(7世紀)の古墳とのことです。田布施町の後井古墳や石走山古墳が作られた頃です。このため、大和朝廷がほぼ日本を統一した時代の古墳ではないかと思われます。
庄地古墳群について書かれた説明版
庄地古墳群には1~7号古墳があります。最初1号古墳を見ました。この付近は古墳が作られて以降、周辺は棚田として利用されたようです。竹藪の中にたくさんの棚田跡がたくさんありました。また、斜面に作られているためか、墳墓の形がよく分かりません。おそらく円墳ではないかと思われます。なお、4~6号古墳は、今は見ることができないようです。今回見学したのは、1,2,3,7号古墳です。そして、石室の大きさは田布施町の石走山古墳や稲荷山古墳と同じ位です。
竹藪内の庄地1号古墳 少し離れた場所の庄地7号古墳
庄地古墳近くから久賀町を見下ろすことができます。この古墳に葬られた人は、この集落の族長ではなかったかと思います。近くにいくつも同じような古墳があることから、代々の族長が葬られたのではないでしょうか。
庄地古墳群から見下ろした久賀町
庄地古墳群前の道をそのまま進むと、手入れされた棚田や庄地水洞があります。古墳近くの棚田は放棄されていますが、ここの棚田だけは綺麗に手入れされています。定期的に手入れしているようです。
昔は、海で漁労生活をする一方で、棚田で農作業もしていたのでしょう。山の上部まで棚田がずっと続いていたそうです。
庄地古墳近くの道端で涼む 庄地の棚田を見学
数日前、祝島の平さんの棚田を見学しましたが、庄地の棚田も水が流れる水洞が石組みの下を抜けるように作られていました。実際に、その水洞内を水が流れていました。久賀町の方々が何百年もかけて作り上げてきた、貴重な財産ではないかと思います。
棚田の石組みの水洞、今でも水が流れる
いつもは田布施町か近隣の史跡を訪れることが多いのですが、今回は少し離れた周防大島の古墳などの史跡を訪ねました。周防大島は田布施町などのような平野部が少ないので、古代は住む人の数も限られると思います。それでも、古墳に葬られるような支配階級層がいたようです。
周防大島久賀町の庄地古墳群や棚田
6月のウォーキングは田布施町の麻郷方面史跡巡りを予定しています。このため、これから暇を見つけてはそのコースを決めるための探索をしようと思います。今回は、麻郷の三宅,竹重など麻郷の北部,西田布施の矢田部付近を調査しました。
田布施交流館を出発して麻郷の各地をウォーキングして麻郷公民館に着くコース、あるいはその逆コースを考えています。今回は、必ず行くつもりの大岩を中心に調査しました。
6月のウォーキングでは必ず行く大岩
初めに竹重のお地蔵様から歩いて大岩に行きました。そして、そこから西側の山や畑の小道をどんどん進みました。手入れされていない小道ばかりです。1ヶ月後の6月に通れるかは分かりません。
小道から舗装道路に出たところの道端に、なんとトチの木が生えているではありませんか。トチの木の由来を聞くために一番近くにある家を訪ねました。すると、田布施町まるごと公園化計画やはぜの実ろう復活委員会のTさんがいました。その家はTさんの家だったのです。Tさんをお見かけしたのは、去年の島田洋七講演会以来です。さっそくお話を伺いました。道端のトチの木は。東京で種をまいて芽生えたものを田布施に持って帰り植えたものだそうです。いろいろお話をしたついでに、ハゼの実をつぶすだいがらやハゼの実ろうを抽出するしぼり機を見学させていただきました。
ハゼの実ろうを抽出するしぼり機 ブルーベリー農園 花夢果夢
お話を伺った後、ブルーベリー農園 花夢果夢の入口まで一緒に行きました。道すがら、ラベンダー畑を見せていただきました。そう言えば、先日Yさんからいただいた桜は、田布施まるごと公園化プロジェクトの一つだったことを思い出しました。なお、Tさんは6月田布施にいないとの事ですが、ウォーキング途中に立ち寄って見学してもよいとのこと。とは言え、6月始めに再度お伺いして見学の了承を得ようと思っています。Tさん、ありがとうございます。
矢田部の道路改修碑 観音堂の古い石仏や五輪石
Tさんのブルーベリー畑を過ぎると、あちこち道を探索しました。そして、麻郷の尾迫に行きました。そして、観音堂と近くにある稲荷社に行きました。観音堂にはとても古い仏様や五倫石のようなものがありました。また、稲荷社の石鳥居には江戸時代の年号が刻んでありました。たしか、田布施地方紙研究会の資料にこれらの神社の調査結果がありますので、後日調べるつもりです。6月にウォーキングするコース、最終的にどのコースにするか思案のしどころです。
江戸時代の年号(宝暦?)が刻まれた稲荷社の石鳥居
下は、麻郷ウォーキングのために今回探索した麻郷北部と西田布施矢田部付近です。黄色の線は探索したコース。今のところ、交流館からTさんのブルーベリー農園 花夢果夢やハゼの実ろう関係を見学し、続いて大岩に行き、神社などを経由して、高松八幡宮方面にウォーキングするコースを検討中。次回は、麻郷中部を探索しようと思います。
黄色の線は、今回探索した舗装道,畑道,山道などのコース