10月も終わりになって雑草の勢いが弱くなりました。これからが、草刈りの本番です。真夏のように汗が出ることはないですし、蚊も夏よりは出なくなりました。比較的草刈りがしやすい季節になりました。草刈りで一番面倒なのは山の斜面です。草というよりも笹がびっしりと生えているのです。これからの季節、笹を刈ったり山道が通りやすいように下草を刈る日々が続きます。今回は山道の一部を刈りました。
我家から伸びる山道の一部 歩きやすいように道際の草を刈り取り
今回は、山道の一部だけ草を刈り、次に庭木の剪定をしました。庭木は毎年、軽く選定してきました。そのため、背がだいぶ高くなりました。数年前の写真を見ると、その高さの違いは歴然としています。今回は高さを20cm程度低くしようと思います。また、左右は30cm程度縮めようと思います。
左の庭木の左右高さをカット 右の庭木も左右高さを縮める
私は田畑は興味がありますが、庭木にはあまり興味がありません。そのため、庭木をどんどん処分しています。大きくなったカイズカイブキはだいぶ伐採しました。今年もどんどん伐採して、焼却しようと思っています。シンブルで管理しやすい庭にしようと思います。
上から見た庭木。まだまだ剪定続行中、疲れる!
5月に苗を植え付けた藍、夏に生藍染めをしてみました。そして、一週間ほど前に再び生藍染めをして、今度は染めた布を二枚重ねにしてコースターに加工してみました。
ところで、いろいろ試行錯誤をしていますが、なかなか思うように色がついてくれません。布は、絹が一番良いようですが、コーティングされている絹は染まりにくいです。葉の質も大切です。夏の濃い色の葉が良いようです。また、アルカリ水の濃度や吹きかけ量も微妙です。試行錯誤の連続です。
絹布に上に葉を置く サランラップの上から叩く 葉を潰すように叩く
こ
藍を育てている畑から、数枚の葉を千切ってきます。そして、絹布の上に葉を置いて、サランラップで包みます。そして、その上から金槌で叩くのです。葉が潰れて汁が絹布に浸みこむよう叩き続けます。一度サランラップを開いて、アルカリ水を霧吹きで吹き付けます。ただ、葉を叩き過ぎてドロドロにならないようにします。
絹布を伸ばすアイロン 絹用の低温に設定 霧吹いてアイロンがけ
次に一時間程度放置します。すると、色が緑から藍色に変色してきます。一時間を過ぎると、サランラップを外してさらに一時間程度放置します。そして、流水で強くこすって洗います。すると、緑色が流れ出し、葉の形をした薄い紺色(藍色)が残ります。その後、布を天日乾燥します。
二枚重ねにしてミシンでコースターに加工
乾燥が終わると、布はしわが出ています。布に霧を吹いた後、アイロンを使って伸ばします。そして、染まった布を二枚重ねにして、ミシンでコースターに加工します。このミシンは下糸がない機種のため、とても使いづらいミシンです。さらに、小学校以来ミシンを使ったことがないこともあり、曲がりくねった変なコースターになってしまいました。しかしながら、コップを置いてみると、とても味があるコースター(自称)となりました。
ミシンを使ってコースターに加工 角が曲がりくねった変なコースター
菅原天神社の次に、大恩寺に行きました。このお寺には飢民の供養塔があります。江戸時代享保年間の飢饉で亡くなった方々を弔うための供養塔です。享保の飢饉時は西日本でたくさんの方々が飢えて亡くなりました。当時の1/3位の方が亡くなったそうですが、その多くは子供だったようです。栄養状態が悪くなると体が弱くなります。そのため、飢えるよりも病気で亡くなることが多かったのではないでしょうか。
元田布施町役場近くを散策 飢民の供養塔を見る 平和霊場のお地蔵様
続いて、元金星小学校跡地を訪ねました。そして、石垣で囲まれた大内弘直邸跡も見学しました。あえて言えば、波野の町は大内弘直邸の城下町のようなものだったのではないでしょうか。次に国森の古塚を久しぶりに訪れました。そして、田布施町郷土館に立ち寄ってトイレ休憩兼見学をしました。
郷土館に立ち寄る 古い曲を視聴 砂田のお地蔵様
郷土館で休憩兼見学をした後、出発地点である交流館に向かいました。途中、砂田のお地蔵様を見学しました。歩道ができる前まで、このお地蔵様は道路のセンターを向いて安置されていました。歩道ができたことによって、お地蔵様は歩道側を向くよう逆向きに安置されたのでしょう。
交流館に向かうため、あいさつ橋を渡る 交流館に着いた頃、晴れ間
今回のウォーキングでは、田布施町の古代と中世時代の痕跡などを散策しました。古代において、田布施町の中心部は海であったこと、そして江戸時代初期竪ヶ浜周辺は海岸であったこと、そして、田布施川が人工の川であることを知っていただけたらと思います。肌寒い曇り空でしたが、皆さん元気に歩くとことができて良かったです。お疲れ様でした。来月は城南川西方面をウォーキングする予定です。
今回歩いた、田布施の古代と中世の痕跡散策ルート
田布施町郷土館で、11月末まで懐かしいレコードを視聴できるようにしています。11月に真空管に関わる歴史の講演会を企画しているのですが、同時にレコードなどの歴史も解説しようと思っています。その時、音楽を記録する媒体についての歴史も解説しようと思っています。
bloothtooth接続装置 付属品を取り出す 装置に繋げるコード類
最新の音楽媒体についてbloothtooth接続を講演会で少し解説してみようと思っています。レコードの次にてCD,MDなどが登場しましたが、今や媒体の代表はスマホ内のメモリです。スマホからbloothtooth接続を通じて、メインアンプに音楽データを流しスピーカーで音を聞くのです。
bloothtooth接続装置からメインアンプへ、コードで繋ぐ
メインアンプとbloothtooth接続装置を繋げると、スマホのbloothtoothをONします。そして、bloothtooth接続装置IDをタップすると、スマホとbloothtooth接続装置が繋がります。すると、スマホの音楽がbloothtooth接続装置を通じてメインアンプに流れ、電力増幅されてスピーカーで音楽が流れるのです。音量はスマホでコントロールできます。そんなに難しいことではありません。音楽はデータをダウンロードして聞く時代になったのです。この辺のところを解説しようと思います。
スマホのbloothtooth接続をON スマホで音量をコントロール
灸川排水機場を出ると、しばらくは灸川右岸堤防沿いの道を上流に向かって歩きました。灸川は、江戸時代頃からほとんど流れが変わっていません。左右に曲がりくねる川筋に沿って歩きました。ほどなく熊毛南高校を目の前にして歩き、柳井市余田方面へ抜ける道を横切りました。数年前までこの川筋周辺には亀がたくさんいましたが、灸川の浚渫工事のため亀がほとんどいなくなりました。
灸川をどんどん上流へ 余田に向かう道を横切る 心地良い川の流れる音
余田に入ってすぐ、清水が湧き出る場所に出ました。少し前までは雨水が振り込まないように屋根があったのですが、崩れ落ちていました。この清水は、江戸時代以来つい数十年前まで使われていました。水道が普及した今、不要な施設になってしまったようです。少し寂しい気持ちになりました。次に、トイレ休憩のためコンビニに寄りました。
使われなくなった清水 トイレ休憩したコンビニ 菅原天神社
コンビニを過ぎると、次に菅原天神社に行きました。この境内には菅原道真が座ったと言われる石があります。菅原道真が太宰府に流された古代、この付近は海岸線でした。田布施には古墳が多数あることから、小国家(古周防国か熊毛王国か)があったはずです。菅原道真が立ち寄ってもおかしくはありません。なお、菅原道真が座ったと言われる石の隣に松尾芭蕉の大きな句碑があります。
菅原天神社本殿前、少しばかり座って休憩
サツマイモの苗を植え付けてから約5ヶ月、やっと収穫する日がやってきました。真夏の日照りで枯れそうだった茎や葉、どのくらい芋が収穫できるでしょうか。事前の試し掘りの結果、収穫量は少ないだろうとの予想でした。残念でしたが、その予想は当たりました。
黒マルチを剥がした後、芋掘り 芋掘り完了、少なかった収穫量
最初、サツマイモのツルや葉を取り除きました。そして、剥ぐように黒マルチを外しました。そして、いよいよ芋掘りです。やや日当たりが悪かった場所は、小さな芋ばかりでした。日当たりが良かった場所は、タヌキかアライグマなどの小獣に食べられていました。やれやれ!
麻郷公民館祭りの焼芋に使えそうな芋は約50ヶでした。芋掘りが終わった後、畑の中にテーブルを広げて、楽しく昼食をとりました。サツマイモ掘りを手伝ったくれた方々、ありがとうございました。
畑の中にテーブルを広げて楽しく昼食、ピクニックみたい
これまでは、寺社,お堂,祠,山,河川,海,田んぼなどを中心にウォーキングしてきましたが、今回は田布施町の古代から中世の地形が残る場所を中心にウォーキングしました。そのためウォーキングする前に、下に示すような「古代田布施町の海面推定図」と「江戸時代初期の海面推定図」を皆さんにお配りしました。なお、後者は当時の岩国藩が作成した図面を元に作成しました。図面に書いた赤線は、今回歩いたコースです。
古代田布施町の海面推定図 江戸時代初期の海面推定図
今回は麻郷小学校で行事があったり、城南公民館祭りがあったりして参加者がいつもより少な目の9人でした。最初、史跡とは関係ないのですが、田布施町商工会館(サリジェ)の北側にある田んぼの稲刈りを見学しました。子供を含む何人もの方々が古代米の刈り取りをしていました。ご苦労様でした。続いて田布施川の左岸を河口に向けて歩きました。
古代米の刈り取り 関戸橋近くのお大師堂 E邸に寄って休憩
最初に訪れたのは、流れ荒神様と火伏地蔵です。それぞれについて説明しました。次に、田布施川の堤防を歩きながら、古代の海の広がりについて解説しました。そして、新川の浮島が古代において島だったことなどを話しました。そのうち関戸橋に着きました。その近くにあるお大師堂について、近々お堂が建てられる予定であることを解説しました。そして、庄山橋のたもとで江戸時代の田布施川の流れが今と違うことなどを話しました。
灸川のかつての河口堤防跡に生えるカヤに沿って歩く
続いて、古代において島だった浮島の中心部を通りました。そして、浮島の南端から見渡したスポーツセンター方面を見ながら、山崎原遺跡について話しました。次に、トイレ休憩するためにE邸を訪れました。しばらく休んだ後、再び田布施川に戻りました。そして、川尻を通り過ぎて灸川河口に行きました。灸川河口に着くと、江戸時代には灸川から竪ヶ浜の間に海が広がっていたことなどを話しました。続いて、当時の堤防跡に植えられたカヤに沿って灸川を上流に向かいました。
灸川排水機場でお昼休憩 コーヒーなどを配膳 灸川排水機場を出発
灸川排水機場に着くと、ここが海であった時代のお話をしました。そして、お昼休憩を灸川排水機場で取りました。たわいない話をしながら楽しく休憩をとりました。30分位休憩すると、再び灸川を上流に向けて歩きました。灸川は、江戸時代の姿を残す貴重な川なのです。人工的に作られた田布施川が直線なのに対して、灸川は曲がりくねっています。
江戸時代の流れの姿を残す灸川を、上流に向かう
少年少女発明クラブの活動も、10月で区切りを迎えます。10月までは田布施西小学校で工作活動をしますが、11月からは活動場所を移します。11月は田布施中学校で活動し、来年は田布施農工高校で活動します。今回が最後の田布施西小学校での活動です。なお、活動ではないのですが、12月はこれまでの工作成果発表会があります。
先々週に続いて工作 どんどん釘を打つ 絵も大切な要素です
さて、今回は10月2回目の活動日です。作っているのは釘を並べて板に打ち込み、その釘の上をビー玉を転がるようにする工作です。ビー玉が上から下に長い時間転がるように釘を打つのです。いかに長い時間転がるようにするかは、子供達の釘の打ち方の工夫次第です。この工作は、基本的な大工道具であるノコギリや金づちなどを使います。子供達は、前回よりも器用に釘を打っていました。例えば、釘を強く打ったり,弱く打ったり,斜めに打ったり,抜いたり,釘の間隔を工夫したりしていました。
金づちを使って器用に釘を打つ子供達
この工作は大きく分けて、絵を先に書いて釘を打つか、先に釘を打って絵を書くかになります。見ていると、先に釘を打つ子供は釘を打つ線のデザインに悩むようです。そして、絵を書くのが遅れるようです。釘打ちは初めての子が多いので、どんなデザインに釘を打つか悩むようです。
そろそろ釘打ち終了 ビー玉を転がして確認 後ろの支えを取り付け
それに対して、先に絵を書く子供達はさらさらと絵を書いている子が多かったように思いました。絵を書く行為は家や学校でいつもしているので、図案をすぐに考えつくのでしょう。すぐに絵を書き終わり、釘打ち工程に入っていました。全体的に、絵よりも釘打ちに時間がかかっているようです。
板の後ろに支えを取り付け、ビー玉の最適な転がり角度を見つける
絵も書き終わり釘も打ち終わると、板の角度を決める支えを板の後ろに取り付けます。細い板をノコギリで切りだして支えにし、蝶番で板の後ろに取り付けるのです。キリで穴を開け、蝶番を木ネジで固定します。最初その方法を指導員が教え、子供達自身が支えを切りだして取り付けます。
審査の始まりです ビー玉を転がして競う 最後に転がした6班
工作の最後は審査です。全員が班ごとに前に出て競います。審査されるのは、ビー玉が転がる時間です。最も長い時間転がった板が一番です。途中でビー玉が止まったり、板から落ちると失格です。2番目にデザインの審査です。
そして、3番目にビー玉が転がる時に釘が良い音を出しているかの審査です。釘を強く打ちこむと高い音が、弱く打つこんでいると低い音がでます。つまり、釘の打ち方によっては音階が出るのです。その音の連続で良い音がメロディのように聞こえるのです。
とても綺麗な絵、デザイン賞 良い音が出たで賞、よかったね
麻里府港から麻里府公民館に戻ると、水田のぶほの歌碑の説明を受けました。水田のぶほは、元々はお医者さんだったそうです。続いて、軽い山登りです。麻里府尾津西地区の墓地がある大平山の東裾野の山に入りました。軽い登り坂を歩いて立石墓地に向かいました。
水田のぶほ歌碑 立石墓地への登り道 大谷仲之進墓石前で
この墓地には、幕末の加徳丸事件で殺害された大谷仲之進の墓石があるのです。墓石には「大谷仲之進」でなく、忠義を尽くしたとの事で「大谷忠之進」と刻まれています。その墓石前で説明がありました。
国木田独歩と石崎トミの話 住吉神社を参拝 明楽寺を見学
立石墓地がある山から降りると、次に麻里府小学校跡前に行きました。そして、国木田独歩が石崎トミとデートしたと言われる場所などについて解説がありました。そのお話を聞いた後、住吉神社に行きました。狭い急階段の山の上に鎮座しています。
最後に見学をした麻里府上郷の大泉寺
住吉神社を降りると、麻里府中郷の明楽寺に向かいました。明楽寺に着くと、ご住職の奥様と子供達が待っていました。明楽寺の次に、最後の訪問地である大泉寺に向かいました。曹洞宗のお寺です。お寺の歴史などを聴いた後、出発地の田布施町中央公民館に戻りました。
事務手続きなどをした私としては、事故も無く、皆さんが楽しんで史跡を探訪できたようなので、とても嬉しく思いました。参加された方々お疲れ様でした。
麻郷,麻里布の史跡探訪コース
そろそろサツマイモの収穫時期です。来週、数人とサツマイモ掘りをする予定ですので、総収穫量を占う意味で事前に一株だけ試し掘りしてみました。葉が結構茂っているため、たくさんのサツマイモが収穫できるのではないかと期待して掘りました。しかし、がっかりでした。
サツマイモの茎葉を切断 サツマイモの茎葉を撤去 黒マルチを外す
最初、端っこ一株の茎や葉を切断しました。一番日当たりが良い場所でしたので、茎や葉がびっしりと茂っていました。次に切断した茎や葉を畝の外に撤去しました。そして、黒マルチを外しました。すると、サツマイモ一株が見えてきました。
試し掘りするサツマイモの一株をフォークで掘る
次に、その一株をフォークで掘りました。去年のようにたくさん収穫できた年は、株が盛り上がっています。しかし、今年はフォークを地中に刺しても手ごたえが無いのです。それでも掘ると、大きな芋二つが、狸,アライグマ,又はハクビシンに食べられていました。残りは生育不良の芋ばかりでした。がっくりです。
手ごたえが無い一株 食害された芋 一株の芋、〇:食害芋
試し掘りの結果、焼芋に使えそうな芋一つ,小さくて焼芋として使えない芋五つ,そして食害された芋二つでした。この試し掘りの結果、焼芋に使える芋は一株一つとなりました。一株に一個しか収穫できないなら、全体で50本しかサツマイモを収穫できないことになります。
一株分のサツマイモを家に持ちかえり、焼芋にしてみました。収穫後一週間程度寝かせると良いのですが、収穫したての初物サツマイモを美味しくいただきました。来週のサツマイモ本番収穫で、果たして期待できる数のサツマイモを収穫できるでしょうか。
芋を鍋と小石で焼く 焼芋に、美味しそうな黄色
続いて、麻郷神社に行きました。麻郷神社はかつては麻郷護国神社と言われ、戊辰戦争から太平洋戦争にかけて亡くなった戦没者を弔うための神社です。いわば、田布施町麻郷版の靖国神社と言った方が分かりやすいでしょうか。毎年4月1日に慰霊祭が行われています。近年、高齢化のためか出席者が少なくなっています。
戊辰,日清,日露戦争時の戦没者が弔われている慰霊碑群
麻郷神社を見学し終わると、国木田独歩吉見家仮寓石碑を訪れました。この石碑は今、雑草に覆われやや傾いています。吉見家は戦国時代、毛利と争うほどの勢力を山陰地域に持っていました。その後、江戸時代初期に麻郷高塔に屋敷を移しました。この吉見家は平生町の大野毛利の発祥になりました。吉川から吉見家に養子に入り、その後大野毛利の初代になりました。戦国時代一時は山陰に城を持っていた吉見家に、どんな歴史があったのでしょうか。
国木田独歩吉見家仮寓石碑 麻郷公民館で休憩、紙芝居 上関宰判勘場跡
国木田独歩吉見家仮寓石碑を出ると、麻郷公民館に向かいました。天気が良ければ次の訪問地でお弁当休憩する予定でした。しかし、小雨が降ったり止んだりの天気でした。そのため急遽、麻郷公民館でお昼兼トイレ休憩することにしました。このような史跡探訪やウォーキングでは、天候不順の場合の対応に苦慮します。
亘理南山の顕彰碑 成器堂跡地を見学 国木田独歩歌碑
麻郷公民館でお昼休憩した時、紙芝居の上演がありました。「五人力の清三郎」,「竜宮の使い」,そして新作「享保の飢饉」です。「享保の飢饉」は初公開の紙芝居です。麻郷公民館を出ると、麻郷米出の上関宰判勘場跡に行きました。続いて、戎ヶ下の成器堂跡に行きました。そして、麻郷地区を離れて麻里府地区の麻里府公民館に向かいました。
麻里布漁港で、幕末に起きた加徳丸事件について説明
麻里府公民館に着くと、最初に国木田独歩歌碑を見学しました。かつて、この歌碑は馬島を目前にした国道沿いにありました。しかし、今は麻里府公民館敷地内にあります。麻里府は、国木田独歩が青春時代を送った心の故郷です。国木田独歩が心の故郷麻里府を読んだ詩が歌碑に刻んであります。続いて、麻里府漁港に行きました。港を前に、幕末の加徳丸事件についての説明がありました。
麻郷,麻里布の史跡探訪コース
一方、ナスとピーマンは秋になってやや小振りになりましたが、10月になってもまだまだ収穫できています。霜が降りる11月になっても収穫できるのではと思います。ナスで失敗したのは、実がとても長い品種なので実のお尻が地面に着いてしまうことです。そのため、地面にいる虫が這いあがって食べるのです。来年は普通品種のナス苗を購入するか、種から育てようと思います。我家に合った品種を選ぶことは大切なことです。
小振りですが、緑が濃くとても美味しそうなピーマン
ところで、10月になって種をまいた、小松菜,チンゲンサイ,ターサイなどは発芽してぐいぐいと育っています。しかし、よく見ると小さな虫か付いていました。農薬は使いたくないのですが、虫に食われて全滅は避けたいです。そのため、低農薬のものをかけてみようと思います。
発芽した小松菜 チンゲンサイも発芽 色が濃いターサイ
野菜ではないのですが、陸稲の穂を収穫しました。収穫したのはうるち性のもので、一昨年まで栽培,収穫,脱穀,精米して食べていたものです。今年は種継ぎのため小規模に栽培しました。来年の種まきに使うためです。幸運にもハトやスズメに食べられていないので安心しました。陸稲は畑に作るお米です。水田のように除草が容易ではないので、日本ではほとんど作られなくなりました。食味も水稲に劣ります。
穂を収穫したうるち性の陸稲
去年はマイクロバスに分乗して、田布施町の大波野,小行司,そして麻郷の史跡探訪をしました。今年は同様にマイクロバスに分譲して、去年行かなかった麻郷の史跡と麻里府の史跡を巡りました。朝9時に田布施町中央公民館前に集合しました。私は早めに来て、点呼を取りながら、参加費1000円を徴収しました。全員が集まったところで挨拶をし、最初の訪問地である浮島神社に向かいました。
全員集合後、挨拶 マイクロバスで出発 浮島神社の説明
浮島神社に到着すると、浮島神社の歴史や傍にある力石に刻まれた江良碧松の句について説明がありました。浮島神社はかつてのお祭り時、女性のお尻をつねる奇習「ひねきり」が行われていました。そのため「ひねきり明神」とも呼ばれていました。今ではセクハラ行為になりますが、当時はおおらかな時代だったのでしょう。続いて、五人力の清三郎の昔話として伝えられる川添橋右岸堤防の記念石碑に行きました。
浮島神社江良碧松の句碑 五人力の清三郎伝説の石碑 正泉寺に到着
この川添橋右岸堤防の記念石碑は、もともと麻郷と麻里府を結ぶ伊佐里ヶ峠の茶屋にあった腰掛石だったとのこと。ある時、清三郎がこの石を川添橋右岸堤防まで運んだというお話です。昔はこのような力自慢の逸話が少なくありません。続いて、麻郷三宅の正泉寺に向かいました。
麻郷三宅正泉寺の本堂で、ご住職のお話を拝聴
正泉寺では本堂に上がらせていただき、ご住職よりお寺の成り立ちなどについてお話を伺いました。続いて、竹重と奈良の境にある奈良の大岩に向かいました。この大岩は有名になりすぎたためか、不法に車を乗りつける人が多くなりました。そのため、地元の不評に繋がっているようです。この日も、その話を地元の方から聞きました。観光インフラを整備しないで観光開発することの危うさを露呈しています。
観光の難しさ奈良の大岩 尾迫の常楽寺を見学 蓮輪の光泉寺に到着
奈良の大岩から、尾迫の常楽寺に行きました。このお寺傍にはお寺が経営する幼稚園があります。平日は園児の声で賑やかですが、日曜日だったため園児がおらずとても静かでした。続いて、蓮輪の光泉寺に行きました。ご住職が本堂で待っておられました。
麻郷,麻里布の史跡探訪コース
菅原天神社を過ぎると、今は溝でしかすぎない旧薬師川沿いに旧街を歩きました。しばらく歩くと、大恩寺の前に来ました。大恩寺と言えば、飢民の供養塔を訪れないわけにはいきません。大恩寺に入ってすぐ左にある飢民の供養塔を久しぶりに見ました。享保の飢饉時にたくさんの方が飢えて亡くなりました。飢民の供養塔は、それを言い伝える貴重な歴史遺産なのです。
大恩寺の門、門を入ってすぐ左に飢民の供養塔
大恩寺を過ぎると、東田布施小学校の元になった金星小学校跡地に行きました。今、小さな畑になっています。東田布施小学校開校後、金星小学校は無くなりました。その後、青少年育成の学校として残ったようですが、その欠片さえ今はありません。次に、長岡商店の所で左に道を曲がりました。そして、そのすぐの所に「ちえらるこ Open」と書かれた看板を掲げた民家がありました。この看板にひかれて、その民家に入りました。
金星小学校跡地 民家「ちえらるこ Open」 平和霊場六十六番札所
最初は小さな古民家喫茶店かなと思いました。周りを見渡しながら、ゆるりと座敷に上がらせていただきました。すると、赤ん坊を抱いた方ともう一人が出てこられました。この民家、ヨガをしたり、お話し会をしたりするそうです。いろいろお話をしていると、なんと一緒に下見したEさんのお嫁さんのお知り合いのようでした。話がどんどん繋がって、Eさんはびっくりしていました。
田布施町郷土館に立ち寄りトイレ休憩
民家「ちえらるこ Open」を出ると、すぐ近くの平和六十六霊場のお地蔵様を訪ねました。このお地蔵様は、近隣の方々が大切にしているようです。いつ行っても、花が活けてあり服が綺麗です。このお地蔵様の成り立ちをぜひ知りたいものです。大火供養、飢饉供養、火伏など、安置された頃の世相を反映しているお地蔵様ではないかと思います。
郷土館で音楽を聴きながら疲れを癒す 砂田のお地蔵様
平和六十六霊場のお地蔵様を過ぎて、国森の古塚を訪ねようと思いましたが、急いでいたので今回は止めました。次に、トイレ休憩のため田布施町郷土館に立ち寄りました。そして、疲れを癒す音楽を聴きました。11月末まで、真空管アンプや蓄音機でレコードを視聴することができます。郷土館を出ると最後に砂田のお地蔵様を拝みました。そして、出発地点の地域交流館に戻りました。下見に参加された方々、お疲れ様でした。
古代と中世の田布施の地形を知るコース
今年も我家の汚水処理タンク掃除の季節がやってきました。去年までは私が仕事や何かの用事で見る機会がなかったのですが、今年はたまたま用事がなく我家にいたので掃除の様子を見ることができました。一般家庭では下水道が近くに通っているため、我家のようにタンクを地下に置いていません。我家は一軒だけ孤立しているため、個別に汚水処理用タンクが必要なのです。1~2年に一度、掃除する必要があります。
地下にあるタンク水をかき回すモーター タンクの鉄蓋を取り外す
作業員二人がやって来て、掃除の作業開始です。最初、汚水を吸い込む長いホースをタンクローリー車から汚水処理タンクまで伸ばします。伸ばし終わると、汚水タンクの鉄蓋を取り外して溜まった汚水を吸い出します。我家の汚水処理タンクは40年以上前の製品らしく、壊れても部品が無いそうです。そのため、地震などでタンクにひびが入るとタンクを取り換えるしかないようです。今のところタンクは傷んでいません。
汚水をぐいぐい吸い込んでいるタンクローリー車
タンク内をよく見ると、周りの木や草から伸びた根が垂れ下がっていました。今年の夏は日照りでしたので、根がタンク内に伸びたのでしょう。タンク内の汚水をすべて吸い終わると、伸びた根を取り除いたり、水を流してタンク内を掃除しました。その後、水を規定量まで貯めれば掃除が終わりとなります。作業が終わると、タンクローリー車は去っていきました。ご苦労様でした。
管をローリー車に巻き戻す 左は汚水管、右は水を流す管 1時間程度水を貯める