先日、今年2回目の田布施町少年少女発明クラブがありました。前回と同じように、私が最初と最後の号令をかけました。あとは、会場の田布施農工高校の先生方や指導する生徒さんにお任せしました。私は各机を巡回しながら、子供達一人一人の進捗状況を確認しつつ困っていないかなど見守りしました。
制作手順などを教えていただくため、先生を取り囲む
低学年生にはやや難しかったのでしょう、泣いている子がいました。そこで、その子の隣に座って一緒に工作しました。その子を見ていて、ふと私が小学生の頃泣いたことを思い出しました。あれは地球儀を工作する時間でした。球にした地球儀が机から転がって床に落ちてしまったのです。そして、壊れてしまったのです。私は、悲しくなって思わず泣いてしまいました。それを先生が気が付いたのでしょう、泣いている私に近づいて、作りかけだった先生の地球儀と交換してくれたのです。実は、10年ほど前に開催した小学校卒業後40年周年同窓会にその先生をご招待したく、光市のご自宅を訪れました。しかし、酸素が欠かせないご病気とのことでその夢はかないませんでした。
コードの皮むき後、半田メッキ リレーなどを基板に半田付け
しばらくすると今度は、工作がうまくできないのか、声を荒げている子がいました。その子の隣に行って手伝いました。泣いている子や声を荒げている子を見ていると、私の子供時代を思い出します。子供はちょっとした困難を少しずつ乗り越えながら大人へと成長します。たかが工作ですが、子供が成長するための要素がたくさん詰まっていると思います。
高校生に教わる子供達 工作の終了タイム 静かな田布施農工高校
紡いだ毛糸を短く束ねたリ玉にする場合、これまで2人で向かいあって作業していました。私は一人で作業することが多いため、かせくり車を購入することにしました。ど素人の私には新品はおこがましいので、中古を買うことにしました。オークションで探していると、たまたま数百円の中古が出されていました。紙ケースは時代を感じさせるようなくすんだ色でした。しかし、コンパクトに分解でき、組み立ても容易で、持ち運びも便利なかせくり車です。
持ち運び、分解・組み立てが容易なかせくり車
去年から羊の毛を使って毛糸を紡いでいます。その一番オーソドックスな道具が紡錘子です。スピンドルとも言います。私が使っているは、下画像の下段と中段の紡錘子です。中段のものは、購入したものです。下段のものは、不要なCDを使って私が制作したものです。上段は大波野のOさんにお借りしている綿糸を紡ぐ小型の紡錘子です。
各種紡錘子、中下段は羊毛用、上段は綿用
ところで、田布施で古代紡錘子の円盤部分の土器(石器もある)が発見されてます。古代においては、木を円形に加工することが難しかったようです。そのため、古代田布施では土器として作ったのでしょう。又は、土器の破片を加工して作ったのでしょう。今では木工旋盤を使って容易に作ることができます。なお、木製品は古代で使われたのかも知れませんが、腐るので遺跡として見つからないだけかも知れません。
紡錘子を使って毛糸を紡ぐ
田布施で発掘された紡錘子円盤部には横溝があります。その溝の意味が分かりません。Oさんに借りた現代の紡錘子を見ると、根元に抜けや滑り止めのための細い留め具が刺してあります。古代も円盤が抜けたり滑らないように何か工夫したはずです。そのため、その名残が横溝として残っているのではないかと思います。その紡錘子や円盤部の固定方法を再現するため、田布施の陶土を使って、中央公民館にある窯でこの紡錘子や皿を焼く計画です。
二つの部品からなる紡錘子 現代紡錘子の細い留め具
古代の紡錘子の棒の部分は木質だったので、遺跡には残っていません。細かな木の加工技術が未熟だったことと、金属はなく石器を使っていたことを考えると、その当時どこにでもあった笹の茎を使ったのではないかと思います。細長く芯が丸い笹は、当時はどこにでも生えています。その笹の茎の根元を裂いて、笹の葉や何かの繊維を詰めて、円盤土器に挿せば容易に固定できるようにも思います。そして、今でも田布施のどこにでもある古代の繊維と言われるカラムシを紡いでいたのでしょうか。どこかの博物館に古代の紡錘子を再現したものがあるかも知れませんが、自分で考えるのは楽しいものです。円盤土器を作った後、笹の茎やいろいろな木を試してみようと思います。
毎年の事ですが、今年も町内の小学低学年生が郷土館を見学にやってきました。自分のおじいさんやおばあさんが子供時代の頃の道具を見聞きすることで、昔の生活を勉強するのです。ところで、せっかく郷土館に来たので最初に、郷土が生んだ兄弟宰相である岸・佐藤元宰相のお話を少ししました。子供達が大きくなった時、故郷を誇りに思って欲しいためでもあります。事前に学校で習ったようで、7割位の子供達が両元宰相のことを知っていました。
郷土も誇りでもある岸・佐藤兄弟元宰相を子供達に解説
両宰相を手短に解説すると、昔の道具を展示している部屋に行きました。面白かったのは、一階と二階の階段を子供達がすたすたと歩くことです。郷土館には多くの年配の方々が見学に来るのですが、いつも手すりを使ってやっとのこと昇り降りする方が少なくないのです。しかし、さすがは子供達、背が低い低学年生でもひょいひょいと階段を昇り降りしていました。去年11月東京の大雪で右足を痛めた私としては、うらやましい限りです。
農具コーナーから解説 昔の田んぼの道具 唐箕や精米機
さて、今回やってきたのはは50人位の子供達、二つのグループに分けて解説しました。解説のだいたいの順序は、最初に岸・佐藤元宰相のお話、続いて田んぼで使った古い道具、むしろなどのわら細工道具、無くなってしまった職業の道具、そして、昔は普通にあった家庭用品などです。
最近まで、どの家庭にもあった古い道具
今の時代、おじいさんやおばあさんと一緒に暮らしている子供は少ないようです。20人の子供のうち、一緒に暮らしているのは数人のようです。そのため、今日見聞きした昔の道具を、おじいさんやおばあさんに会った時に聞いてみるように子供達にアドバイスしました。郷土館で学習するのも良いですが、自分のおじいさんやおばあさんに聞くと、より実感がわくのではないでしょうか。
昔田んぼの使役に使った牛の解説 米作りや麦作りに使った古い道具
毎年子供達がやって来ますが、今年やって来た子供達は目を生き生きさせながら聞いていたように思います。面白おかしく子供達に質問すると、子供達は興味を持つようです。子供達と共鳴しあいながら説明するのは、とても心地よいものです。
むしろを編む道具 古いミシンなどの家庭用品 今はない職業の道具
天気が良い日には、もくもくと畑を耕したり、山の笹などの下刈りをしています。今の時期、日に当たりながら耕耘機を動かすと体が温まります。今回は、家前の山すその畑を耕しました。去年、半ば放置していたため笹が入り込んでいました。そのため、まずは笹を刈り取りました。笹が厄介なのは地下に根が張っていることです。これらの根を退治するには何度も耕耘機で耕すしかありません。
笹が生えていた山すそ 山すそぎりぎりを耕耘 去年使った畑も耕耘
笹の根が張っていると、耕耘機の刃が通りが悪いのです。そのため、ロータリー刃を同じ場所で回転し続けます。すると、根が掘り起こされます。掘り起こされた根は、天日に当たると乾いて枯れます。笹より厄介なのは、畑の南側にある竹林です。毎春、竹の根が畑に侵入してきます。竹の子が畑に生えるとすぐに倒す必要があります。竹の根は大きく太いので、根が入り込むとスコップで掘らないと退治できません。
太陽の日差しに当たりながら畑をのんびりと耕耘
現在、羊の毛を使って糸紡ぎをしています。さらに、今年からは綿を栽培して収穫した綿を使って糸紡ぎをしようと思っています。その糸紡ぎに、紡錘車(スピンドル)を使うつもりです。しかも、古代田布施に住んでいた人々が使っていたものと同じ紡錘車をできれば使いたいと思っています。古代の紡錘車はコマの部分が焼物(素焼き)なのです。そのコマを焼いて再現しようと思っています。田布施の陶土を使い、田布施町中央公民館にある窯(現在休止中)を使って焼くつもりです。
田布施町中央公民館の窯、今でも十分焼けるとのこと
手順としては、田布施で採取した陶土を焼物ができるような粘土に加工すること。その粘土を使って、紡錘車のコマや皿などに整形します。十分乾燥させた後、中央公民館の窯で焼きます。今回、中央公民館の窯を使うことができるYさんに指導していただきながら焼くことが決まりました。将来的には、古代田布施の焼物を子供達に体験してもらうプロジェクトにしてもよいかと思っています。一昨年、紙粘土でお皿などを作りましたが、今後は粘土を使った本物の焼物作り体験にしたら良いと思います。
窯の炊き口(薪を入れる炉) 焼物の投入口
まずは、粘土作りから始めます。川西地区にある陶土を採取して持ち帰り、水に溶かします。そして、根や砂などのゴミを細かい網で取り除きます。そして、二週間程度乾かして水分を飛ばして、焼物用粘土を作ります。まだまだ寒いので、温かくなる3月後半に始めようと思います。kさんの持っている陶土と私が作った陶土を焼き比べてみようと思います。古代田布施の焼物を再現できるでしょうか。
右から、窯を指導していただくYさん,私,そしてUさん
石原璋顕彰碑を過ぎると、田布施町の名木の一つであるクロガネモチの大木を見ました。100年以上は経っている木ではないかと思います。続いて、石走山の下にある駐車場に行き、お地蔵様を見上げながら石走山古墳への山道を登りました。そして、藪の中にある石走山古墳に行きました。入口は狭いものの中に入ると、背筋を伸ばして天井を見上げることができます。
周りの藪が切り払らわれている、石走山古墳入口
石走山古墳を見学し終わると、登った坂とは反対側の坂を下りました。次に後井古墳に向かいました。途中、宿井橋などの橋を渡りました。後井古墳は、瀬戸地区の方々が大事に秋葉神社として守っているため道がきれいです。後井古墳は県下一の石室の大きさを誇っています。中に入ると広々しています。暗いので海中電灯が必要です。
JR山陽本線を見下ろして 県下一の石室、後井古墳 富永有隣墓所
後井古墳を後にすると、トイレ休憩調査のため田布施苑に向かいました。着くと、施設長さんにお会いました。施設長さん、どこかでお見かけしたことがあると思っていたら、役場の民生課におられた方でした。2月のウォーキング時にトイレを使わせていただくことをご了解いただきました。ありがとうございます。
富永有隣墓所下の地蔵様 瓜迫の薬師堂 末岡清一顕彰碑
田布施苑でトイレを使わせていただいた後、富永有隣墓所に行きました。そして、富永有隣顕彰碑に向かうことにしました。途中、山道の斜面にお地蔵様が浮き彫りされた石板がありました。今まで気が付きませんでした。続いて、瓜迫の薬師堂に寄り、そばの末岡精一顕彰碑を見ました。
一年ぶりに来た富永有隣顕彰碑
末岡精一顕彰碑を見終わると、一年ぶりでしょうか近くにある富永有隣顕彰碑を見ました。顕彰碑から瓜迫農業公園に向かって小石が道のよう敷かれていましたが、一年も経つと草がだいぶ覆っていました。これで、今回のウォーキング下見は終わりです。スタート地点の城南公民館に戻りました。あちこち寄ったためか、10.8kmの歩程でした。
今回下見した、田布施町の古墳巡りコース
2月に田布施町の主要な古墳を巡るウォーキングを計画しています。今回、いつもの3人でその下見に行ってきました。私にとっては、ほとんど歩いたコースです。歩く距離やトイレを考えながらの下見となりました。城南公民館を朝10時に出発すると、最初に木ノ井山古墳に行きました。この古墳は比較的大きな円墳です。その円墳の周りをまわることができます。回ることによって、その大きさを体感することができます。
木ノ井山古墳の頂上 根っこ傍のお地蔵様 ファームランド
木ノ井山古墳を見学後、木の根っこに飲まれそうな小さなお地蔵様がある小道を歩きました。そして、観光農園ファームランドに行ってオーナーのTさんに会いました。2月のウォーキング時にはここで食事をする予定にしました。2月のウォーキング時、参加者は広い部屋で料理を注文して食べつつ休憩しようと思います。もちろん、トイレも使えます。
大田の長光古墳、比較的小さな円墳
ファームランドを出ると長光古墳に行きました。恩額山入口にある比較的小さな円墳です。石室が残っているのですが、一部だけが残り遺物はほとんど発掘できなったそうです。千年近い間に盗掘にあったのでしょう。続いて、国森古墳に行きました。通常東側から入るのですが、納所側の西側からの山道を通っていきました。途中、地元の稲荷社を見学しました。
長光古墳の全景 納所のお地蔵様 地元の稲荷社
稲荷社内に、神主として石原璋の記名板があり、額の中に俳句が納められていました。数十の俳句が書かれていました。昔は俳句を奉納することが流行っていたようです。この稲荷社以外にも俳句が奉納されている神社があります。石原璋は地域の俳句会の取りまとめをしていたのでしょう。
国森古墳への山道 国森古墳の頂上部 石原璋の顕彰碑
稲荷社からいったん道を戻って国森古墳に行きました。国森古墳を見学すると、一番近い下り道を歩きました。この道が最も近道なのですが、私道のためか、あまり歩かれていません。次に石原璋の顕彰碑に行きました。なかなか立派な石碑です。
今回下見した、田布施町の古墳巡りコース
去年からラジオ付き小型アンプの修理をしています。しかし、一本の定電圧真空管が無かったために修理が滞っていました。普通の電気屋さんで真空管を売っていないため、オークションで見つけた定電圧真空管VR105を購入しました。思っていたより安価でしたので良かったです。一方同じ真空管でも2A3のような出力管は、とても高価で手に入れることができません。
手に入れた定電圧真空管VR105 真空管VR105をソケットに挿す
手に入れた定電圧真空管VR105を所定のソケットに挿し込みました。これで、すべての真空管がそろいましたので、電源の100Vを入れてみようと思いました。しかし、電源100Vのソケットが家庭用のソケットと違うのです。そのため、電源を入れることができません。仕方がないため、電源コードを直付けすることにしました。
すべての真空管がそろったラジオ付きの小型アンプ
直付けして100Vの電源を投入しました。すると、電源ランプが赤く点灯しました。そして、しばらくすると各真空管のフィラメントが点灯しました。ざっとみて異常はないようです。しかし、この小型アンプはスピーカーがないため動作しているかいないのかさっぱり分かりません。そもそも、スピーカー出力端子が無いのです。スピーカー側に付いている出力トランスに高圧線を繋ぐのでしょうか。通常のラジオとは構造が違うようです。その構造を調べてから、次の段階の修理に入ろうと思います。
電源コードを直付け 点灯した電源ランプ 点灯したフィラメント
1年ぶりの健康ウォーキングクラブ年次総会の開催をしました。12名の参加でした。最初、私の方から会計報告をしました。会計のTさんありがとうございました。参加者全員の拍手で了承していただきました。次に今年のウォーキング予定を報告しました。田布施を中心に、平生町、柳井市、光市、そして新たに周防大島のウォーキング予定を報告しました。今年も楽しくウォーキングできればと思います。
2017年の年次総会出席者
今年の予定を報告し終わると、新年会です。並行して、これまで行った数々のウォーキング映像を流しました。みなさん懐かしそうに鑑賞しました。そして、美味しい料理に舌鼓をうちながら近況報告や今後の抱負などで談笑しました。料理を提供していただいた方々、とても美味しかったです。ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
ウォーキングの映像を楽しむ 近況報告や抱負などで談笑
江戸時代から明治にかけて、田布施でさかんに織られた布を再現できないか考えています。今回、田布施で織られた貴重な布サンプル集「島手本」を見つけることができました。はっきりした年代は分からないのですが、「明治」と書かれているため、今から110年以上前であることは間違いありません。
明治時代の布サンプル帖 明治 大波野村 天皇原
そのサンプルは、当時田布施で織られた縞の手本帖です。帳面の表には「島手本」と書かれています。持ち主は、田布施村大字大波野村天皇原のK家です。大波野天王原のK家のご先祖ではないでしょうか。K家はかつて庄屋をしていたとのこと。江戸から明治にかけて、この縞手本を元に織子に布織りを頼んでいたのではないでしょうか。先日織物を見学したOさんの家は、まさに旧K家の建物なのです。その奇遇に驚きました。
20数ページ以上ある「島手本」帖の、あるページの布サンプル
また田布施には染物屋がありました。明治時代、染めた反物を田布施川で洗っていたとの記録があります。写真もあります。K家は、自分でも織っていたかも知れませんが、織物や染めの総元締めではなかったのでしょうか。上方で流行している柄をすばやく取り入れ、柳井や水場経由で上方に売っていたのではないかと思います。
変わった柄の布サンプル1 変わった柄の布サンプル2
「島手本」帖のサンプルを見ると、柳井縞と同じようなチェック模様が多いことに気が付きます。柳井も田布施も同じような柄の反物を織っていたのでしよう。かすり模様など変わった柄の布もありますがわずかです。当時流行った柄が分かるような気がします。今、柳井縞会長のIさんに、郷土館にある古い機織り機を修理していただいています。「島手本」帖のサンプルのような反物を再現できる日がくるでしょうか?
修理を待つ機織り機、サンプルのような反物を再現する日がくるでしょうか?
緩い上り坂は日差しが当たってポカポカしていました。そのため、寒さをそれほど感じることもなく皆で談笑しながら歩きました。子供達ははしゃぎながら走るように歩いていました。楽しく歩いたので、思いのほか早く夫婦松に到着しました。数年前、私は一人で下見などで歩いていました。たった一人でのウォーキングは堪えます。最近は下見も本番も、複数人で楽しく歩くことができるのでありがたいです。
あっと言う間に到着した夫婦松、立ったまま休憩
夫婦松は一昨年夏のウォーキング時に来たことがあります。そのため、今回は詳しい説明はしませんでした。寒いこともあり立ったまま少しだけ休憩しました。そして、すぐに防地峠に向けて出発しました。夫婦松からは車が多く通る舗装道路を歩くため、車に注意しながら歩きました。車が近づくとすぐさま、ホイッスルを鳴らしてみなさんに警告しました。
曽根の板碑に向かう坂道 六地蔵を見学 指定文化財の曽根の板碑
防地峠に着くと、予定では曽根八幡宮目指して歩く予定でした。しかし、時間があったため平生町指定文化財である「曽根の板碑」を見学することにしました。急な坂道を少し登ると板碑や六地蔵があります。そして、その近くに朽ち落ちたとみられる庵のように建物跡を見ました。だいぶ昔に朽ちたようです。瓦とわずかな柱跡が残っていました。曽根の板碑を見学し終わると、防地峠に戻りました。
曽根八幡宮に向かう途中にあったお地蔵様
防地峠からはどんどん下って、次の目的地である曽根八幡宮に行きました。その途中に立派なお地蔵様座像がありました。お地蔵様の坐像下に三界万霊と刻まれていました。仏教界の世界観では、人間界、動物界などの界を表すようです。お地蔵様の下に小さな賽銭箱がありました。
曽根八幡宮に到着 和田川沿いの薬師堂
お地蔵様を見終わると、ひたすら曽根八幡宮に向けて走るように歩きました。この付近からは終点の曽根公民館が見えます。終点が見え、風が寒く、かつ下り坂なので自然に早歩きになります。無事曽根八幡宮に到着後、和田川沿いにある薬師堂(南陽霊場三十八番札所)を見学しました。そして、終点である曽根公民館に着きました。今回のウォーキングに参加された方々、お疲れ様でした。
今回ウォーキングした平生町 曽根,水場,田名,夫婦松方面のルート
寒波が強かったためか風が冷たい一日でした。そのため、日差しがさすとボカボカする一方で、曇りになるとサーッと寒さが体を覆います。寒くならない方法は唯一、止まらないで歩き続けることです。今回は、立ち止まらず歩きながらの笑い声が多かったように思います。いつものウォーキングはだいたい時間を超過することが多いのですが、今回のウォーキングは珍しく予定より早めに終点に着きました。
日差しが温かい教相寺前で、参加者21人の笑顔
そのため、時間的にも余裕でした。訪れる予定ではなかった曽根の板碑や六地蔵も見学することができました。一番心配だった年長さんの子供は、思いのほかスタスタと走るように歩いていました。子供は疲れがないようです。立ったまま休憩するだけで疲れが取れるようです。うらやましいかぎりです。私が子供の頃、祖母がゼイゼイ言いながら私を追いかけてきたのを覚えています。その頃の私は、今回の子供達のように元気だったのでしょう。
百済部神社 阿多田交流館を訪問 回天碑を訪れる
さて、教相寺を出ると百済部地区にある百済部神社に行きました。合祀された後の百済部神社とこの神社の違いがよく分かりません。元々は山の上にあったらしい百済部神社、ある時に百済部地区の平地に移ったようです。そして、明神社と合祀されたようです。そのいきさつの歴史を知りたいものです。次に、トイレ休憩も兼ねて阿多田交流館に行きました。続いて、回天碑を訪れました。
神花山古墳の後円部にある縦穴式のお墓を見学
そして、すぐ横にある神花山に登りました。途中、平生町が建てた女王像の下を登りました。青空に映える女王像にみなさんは感嘆しました。女王か、巫女か、はたまた王の娘だったのかは分かっていません。この女性が見ていたであろう、古代の平生,田布施,そして阿多田半島にはどんな光景が広がっていたのでしょうか。
後円部で楽しい昼食 談笑しながら昼食 景色をみながら昼食
女王像を見終わると、山の頂上にある神花山古墳に行きました。そして、後円部にある縦穴式のお墓を見学しました。そして、ここで休憩を兼ねた昼食タイムを取りました。みなさん好きな場所に陣取って、楽しく談笑しながらお弁当を食べました。ただ、だんだんと風が強くなり寒くなってきたため早めに出発しました。
神花山山麓の神花社 田名を過ぎ、夫婦松を目指す
神花山古墳を降りて、神花山山麓にある神花社に寄りました。そして、田名児童館前の旧道を歩きました。しばらくして、海を見下ろす丘陵地帯に出ました。さらに、どんどんと休まずに歩き続けました。風が強かったため、休んでいると体が冷えるのです。夫婦松目指して緩い坂道を登りました。
今回ウォーキングした平生町 曽根,水場,田名,夫婦松方面のルート
久しぶりに平生町をウォーキングしました。今回は曽根方面ウォーキングです。私にとっては同じルートを、調査,下見,そして今回で三回目のウォーキングとなります。今回は、寒波が強い日だったのでとても寒いことが予想され、参加者も10名ぐらいかと思っていました。ところが21名の参加者でした。小さな年長さんも参加です。
曽根公民館を元気に出発 最初に水場の金毘羅社を訪問
寒い風が吹く中を元気に出発しました。最初に訪れたのは水場の金毘羅社です。ここで、江戸時代から明治にかけて水場周辺はとても繁栄していたことを説明しました。その一例として水場に遊郭があったことを話しました。ちなみに金毘羅社の鳥居は、今から188年前の文政12年(1829)に建てられました。往時の水場を想像しながら旧道を歩きました。
往時の水場の雰囲気 渡船場跡,対岸は戎ヶ下 百済部神社を見学
水場の旧道をしばらく歩くと、渡船場跡に着きます。海に突き出るように桟橋の残骸が残っています。その桟橋跡に立つと、対岸の戎ヶ下が見えます。戎ヶ下の桟橋はだいぶ前に撤去されましたが、水場まだ残されています。桟橋跡を見終わると、百済部神社に行きました。海にせり出すようにある珍しい神社です。昔は島だったのでしょう。神社をぐるりと回りました。
綺麗に飾られていた水場の教相寺
百済部神社は海にせり出すように建立されていますが、かつては海の神様としてあがめられたのでしょうか。鳥居が海に面しており、階段が海中に向かって水没しています。古代において、平生,田布施.そして柳井につながる海峡がありました。この神社はその安寧を祈る大事な場所だったように思います。百済部の地名のとおり、古代は渡来系の人々が住んでいて崇めていたのかも知れません。
お線香の後にお祈り 天井画などを見学 隣の部屋の仏画
百済部神社を過ぎると、道を少し戻って教相寺に行きました。催しがあるのでしょう綺麗に飾られていました。お寺の方に聞くと、午後から催しとのことでした。お寺のご厚意で本堂に上がらせていただきましした。本堂に上がりいろいろと見学させていただきました。合掌を済ませると、本堂内の仏画や天井画などを見させていただきました。教相寺のご厚意に感謝いたします。ありがとうございました。
今回ウォーキングした平生町 曽根,水場,田名,夫婦松方面のルート
今年最初の田布施町少年少女発明クラブがありました。去年は、田布施西小学校、そして田布施中学校でした。今月からは田布施農業工業高校です。工作指導していただくのは田布施農業工業高校の先生方と高校生です。私は、最初と最後の号令をするだけでほとんど見守るだけでした。今年は内容が少し濃くなりました。
小学三年生を中心にした電子回路入門
今年は、習熟別の二クラスに分けての電子工作です。一つは、今年初めて発明クラブに入った子供達を中心にした電子工作入門コースです。半田付けやコードの皮むきなどの電子工作をするための基礎技術を学びます。次の回からはだんだん難しくなります。
半田ごての使い方を学ぶ 半田付けを体験 コードの皮むきを体験
もう一つのコースは、去年の発明クラブで半田付けなどの経験がある子供達向けのコースです。今回は直列と並列やリレーについて学びました。最初、先生からブレッドボード、電源、コード、そしてLEDなどの電子部品の説明がありました。私が小学生の頃はこんな電子回路コースはありませんでした。ようやく五年生で直列と並列を学び、六年生でモーターを作りました。電子回路と言う言葉は中学生になってから知ったように思います。
ブレッドボード,リレー,そしてLEDなどの電子部品を学ぶ
先生の説明が終わると、安定化電源を棚から一人ずつ取り出し机に運びました。そして、各子供達はブレッドボードにコードやLEDを配置してLEDを光らせました。最初は、スイッチ2個を使って直列回路を作ります。スイッチ2個を同時に押した時だけLEDが光るよう電子回路を作るのです。次に、スイッチを同時に押したときだけLEDが消える電子回路を作りました。最後に、次の工作に必要なリレーについて学びました。
安定化電源を運ぶ 電子回路を組む スイッチ2個でLED点灯
電子回路の勉強の合間に、レーザービーム加工機を見学しました。低出力のレーザーを使ってパネルを切り出す機械です。パネルの上に当たったレーザービームが次々に移動します。その移動した通りにパネルが切れるのです。今はこんな便利な機械があるのですね。私が高校の頃、こんな機械はありませんでした。ひたすら糸のこで切っていました。電子回路の勉強が終わると、別室でロボットコンテストのデモを見学しました。指導していただいた田布施農業工業高校の先生方や高校生達ありがとうございました。
レーザービーム加工機を見学 ロボットコンテストのデモを見学