別所池近くでの楽しい昼食休憩が終わると、別所薬師堂に向かいました。別所薬師堂は7月にお大師講を見学した所です。今回訪問することを地元の方に事前に言っていたため、お堂の扉が開いていました。このお堂は、江戸時代の文献にも出てくるほどの古いお堂です。数百年前から今まで、このお堂で今もお大師講が開かれています。とても貴重な無形文化だと思います。
別所薬師堂;7月お大師講に参加
別所薬師堂の隣りには、荒神様,地鎮様,そしてお稲荷様の三つの祠があります。この祠群も江戸時代の文献に載っているほど古いものです。昔は別々にお祭りをしていたのではないかと思います。今は9月にまとめて、湯立ての神事としてお祭りがされています。とても珍しい神事です。やはり数百年の由緒ある神事ではないかと思われます。
別所薬師堂で休憩 左から荒神様,地鎮様,そしてお稲荷様
別所薬師堂を出ると、来たコースを戻りました。そして、別所池の堤防を歩き、城南方面を見下ろしながら太子堂に向かいました。このお堂は最近改築されたようで、元々あったお堂を縮小したようです。元々の屋根の頂上にあった瓦が、お堂の傍に置いてありました。昔は立派なお堂だったのでしょう。
快晴の中、別所池の堤防を通って太子堂に向かう
太子堂近くの道は、田布施から光市へ抜ける旧道です。この旧道を歩いて次の史跡に向かいました。次の史跡は地蔵が刻まれた祠です。この祠の由来などは分かりません。面白いのは、祠の向きが道ではなく南側に向いていることです。なぜこの方向を向いているのか謎です。
太子堂に到着 旧道を通り祠に到着 田んぼの道を光喜庵に
この祠の謎については今後の課題です。この祠に限りませんが、史跡の由来を知っている方に巡りあうことはなかなかありません。このため、祠,お地蔵様,石碑,お堂について調査するには時間がかかります。次に光喜庵に向かいました。
今回ウォーキングした城南宿井方面コース
宿井団地を南から北へ横断し、火伏地蔵に行きました。このお地蔵様は宿井の市でかつて火事がよく起きた時に安置されたそうです。市の北側にもう一体の火伏地蔵があります。火伏地蔵を見学後、石城神社の御旅所を見ました。三体の御神輿を同時に置けるように、長方形になっています。この御旅所を見学していると、先日この付近を調査した時にお話を伺った元町長のKさんが来られました。そして、この御旅所について追加説明をしていただきました。ありがとうございました。
火伏地蔵尊 御旅所を説明するKさん 田村知義の顕彰碑
御旅所の見学が終わると、元奇兵隊士かつ初代宿井村長の田村知義の顕彰碑を見学しました。とても大きく立派な石碑です。なお、明治4年に周善寺の和尚が脱退奇兵隊士襲われた時、田村知義が助けに行きましたが、着いた時すでに和尚さんは息途絶えていました。
もう一体の火伏地蔵尊と宿井観音堂跡を見学
続いて、その顕彰碑隣の小さな恵比寿様も見学しました。そして、50mばかり北に歩いて、もう一体の火伏地蔵を見ました。さらに、その傍にかつてあった、宿井観音堂跡を見ました。宿井観音堂にあったお大師様像は今、周善寺に安置されています。
鉄塔下の巨大石鳥居残骸 天行居本殿を見学 別所池隣りでお昼休憩
宿井観音堂跡の次は、かつて石城神社まで続く参道を跨いでいた巨大な石鳥居の残骸を見学しました。その石鳥居の下をバスが通っていたことがあったそうです。続いて、天行居に行って本殿を見学させていただきました。そして、トイレ休憩をさせていただきました。ありがとうございました。天行居を出た頃、時計を見るとお昼になっていました。そこで、別所池の近くでお昼休憩をとることにしました。
お弁当を広げて元気いっぱいの子供達 お昼休憩中、たくさんのお接待
とても天気が良かったため、歩いていると汗ばんできました。そこで、涼しい木陰に陣取ってのお弁当タイムです。私も木陰にシートを敷いて、買い弁当を食べました。今回のウォーキングは比較的史跡が多かったためか、参加した子供達はやや退屈そうでした。でもお弁当タイムになると元気が出たようでした。
秋晴れの中、21人のウォーキング参加者(撮影:私)
今回のウォーキング参加者は比較的多く、私を含めて21人でした。さすがに20人を超えると、先頭と最後尾では間が伸びがちになりました。そのため、先頭を歩いた私が時々振り返りながら最後尾が追いつくのを待つことがしばしありました。でも、のんびりウォーキングのため、皆さん和気藹々に楽しく歩くことができたと思います。お昼休憩が終わると、別所薬師堂に向かいました。
今回ウォーキングした城南宿井方面コース
毎年、猛暑の8月はウォーキングをしません。そのため、今回は7月以来2ヶ月ぶりのウォーキングです。ウォーキングした場所は田布施町城南の宿井方面です。7月に下見ウォーキングをしたため、道を迷わずにすんなり歩くことができました。城南公民館を10時にスタートしました。最初に訪れた場所は、城南保育園近くの周善寺です。これまで何度か訪れましたが、いつも留守でした。今回も留守かと思っていたら、若いご住職ともう一人お年の方がおられました。
城南公民館10時スタート 周善寺でお話を拝聴 柱に付いた刀傷
明治維新頃に周善寺で起きた事件についてお話を聞くことができました。それは明治4年のことで、脱走した奇兵隊員が周善寺を襲撃した事件です。夜不意に襲われ和尚さんが亡くなりました。柱に付いた刀傷を見せていただきました。その時、小僧さんが宿井方面に助けを求め、田村知義などが駆けつけましたが、和尚さんはこと切れていたそうです。
幕末のお話を伺った後、周善寺を出る
周善寺で、もう一つ面白いお話をお聞きしました。周善寺の庭にある観音様の話です。この観音様は、元々広島の原爆被災地にあったそうです。原爆慰霊施設を作る時、無宗教施設でなければならず、この観音様を当地に置けなくなったそうです。行き場が無くなったその観音様を、この周善寺に持って来たそうです。また、元々宿井観音堂にあったお大師様も見学しました。宿井観音堂が解体された時、周善寺に持って来て安置としたとのことです。なお、周善寺は防陽八十八ヶ所霊場の第三十四札所です。かつては巡礼される方が多かったことと思います。
牧場の馬にタッチ 時貞観音堂を見学 荒神社を見学
周善寺を出ると牧場に寄りました。最初寄るつもりはなかったのですが、馬が近寄ってきたため急遽牧場の柵に近寄りました。そして、馬を撫でたりしました。子供達は最初、馬の大きさに怖がっていましたが、勇気を出して馬をタッチしていました。続いて、時貞観音堂に行きました。時貞観音堂は防陽八十八ヶ所霊場の第三十三ヶ所札所でした。かつては、巡礼にふさわしい立派なお堂がありました。
荒神社の参道に、並ぶように咲いた彼岸花
時貞観音堂を見学すると、荒神社に行きました。近くに住むMさんに、荒神社の扉を開けていただき、中を見せていただきました。ありがとうございました。荒神社の祠の多くは、野ざらしになっているものが少なくありません。ここの荒神社はとても大切に管理されていることが分かります。荒神社を見学すると、次に宿井団地に向かいました。
今回ウォーキングした城南宿井方面コース
先日、株元の草取りをした大豆,小豆畑。その後、雑草が再び伸びていました。そのため、今朝は草刈機で雑草を刈り取りました。いつもは紐で草を刈るのですが、茅のような硬い草でしたのでチップソー丸刃を取り付けて刈り取りました。さすが、チップソーはすいすいと草を刈り取ることができました。
草刈り前の畑 1/3位刈り取った畑 すべて草を刈った畑
これからどんどん涼しく、また寒くなるため、草の勢いがだんだん無くなります。今回ちゃんと草刈りして、あとは耕運機かトラクターで畑を隅々まで耕します。そうすれば、この晩秋から来春にかけてもう草が生えることはありません。毎度面倒くさい草刈りですが、晩秋までの辛抱です。
背が高い茅のような雑草、チップソー刃で刈取り
草を刈り取っていると、いろいろな小動物に出会いました。最初見つけたのはカヤネズミの巣です。雑草の葉をくるくると巻いて、ソフトボール大の巣です。中にネズミがいるかと巣を壊してみましたが、いませんでした。巣立った跡のようでした。そして、小豆の茎に緑色のバッタがいました。よく見ないと分かりません。そして、シマヘビがいました。捕まえてみると、嫌がってぐるぐると腕や手首に巻き付いてきました。ヘビの顔をよく観察した後、逃がしてやりました。
カヤネズミの巣 緑色のバッタ 手首に巻き付いたシマヘビ
雑草の刈取りが終わると、枝豆と小豆畑の株元を除草をしました。それほど背が高くない草のため、耕運機を使って除草をしました。耕耘機のロータリーを回しながら、枝豆と小豆に沿うように耕耘除草しました。昨日雨が降ったためか少し土が粘っていました。今日は天気が良いので、明日には土が乾くと思います。
枝豆(右)と小豆(左)の畝の間を丁寧に耕耘除草
ところで、枝豆は鞘は大きくなりましたが、実はまだ大きくありません。あと2週間ほどで収穫できそうです。この枝豆は、鞍掛豆と呼ばれる関東や中部などでよく栽培される品種です。山口県では見かけない枝豆です。美味しいこの枝豆を早く食べたいものです。その時は、仲間を集めて枝豆パーティーにでもしようかと思います。
小豆は、育ちがバラバラです。2~3週間位の差があるようです。そのため、収穫を2度に分ける必要がありそうです。小豆は水羊羹にして食べると最高ですが、甘納豆やおはぎにしても良いかも知れません。
莢の中の枝豆は、まだ小さい 育っている小豆の鞘
今年もたき火の季節がやってきました。たき火と言っても、暖をとるのではなく枯草や伐採した木を燃やすのです。春から夏にかけて草刈りした後の枯草がたくさんあります。また、山などで伐採した木がたくさんあります。また、我家に送られてきた贈り物を包む紙や段ボール箱などもあります。これらを燃やすのです。
この秋初めてのたき火、さっそく枯草や枯れ木を燃やす
私がたき火を始めたのは子供の頃です。小学4年生の時、私は毎日の風呂焚き係になりました。その時から風呂焚きや野焼きで火の扱いを覚えました。火を使う時は必ず傍に水を置いておきます。万が一、火が周りに移った時に備えるのです。いつも備えているためか、一時も火事になったりボヤを発生したことはありません。もっと寒くなれば、暖をとりながらのたき火になります。
最初は小さな炎 だんだん大きな炎 枯草や枯れ枝を投入
私が勤める田布施町郷土館では、10月から「冨永有隣と明治維新に関わる人達」と題して展示会をします。N館長さんなどと協力して、館内にある該当資料を整理したり、資料を所蔵している方々の家を訪れたり、展示スペースのレイアウトなどを考えたり、そして展示資料を解説するパネルを作ったり、と大忙しです。一週間後には展示しなければならず、この連休は郷土館は休館でしたがそのすべての日に出て資料作りをしました。
展示スペースの中央に置く衝立
幕末、冨永有隣は吉田松陰の盟友でした。野山獄での松陰との出会いは劇的でした。吉田松陰亡きあと、松下村塾に招聘されて塾生を教えたこともありました。しかし、すぐに松下村塾を去りました。俗論派や正義派などの争いなどに嫌気がさしたのか、彼の性格上塾生とうまが合わなかったのかも知れません。その後、奇兵緒隊に関わり幕長戦争を戦いました。明治初期、脱退事件を指導したとの嫌疑をかけられ、土佐に逃亡していましたがついに捕まりました。
第二奇兵隊の教科書 有隣使用の易道具 有隣への葉書
捕まった後、石川獄に入りました。その裁判を担当した判事が、有隣と共に幕長戦争を戦った盟友だったことは不思議な巡りあわせです。その後、特赦で許されました。晩年は佐藤信寛(岸信介,佐藤栄作の曾祖父)との関わりで田布施町城南で晩年を過ごしました。有隣と信寛の親密さを思わせる資料も展示します。
有隣は易をしていたようで、易の結果を毎日記録していました。そうした晩年の有隣の日常が分かる遺品や、盟友たちから送られた手紙なども展示します。また、奇兵隊士が使っていた教科書や、戦闘で使っていたと思われる銃や槍なども展示する方向で検討しています。
有隣の遺品の数々 有隣への手紙類 日清戦争に関わる手紙
田布施町の幕末史跡を地図上で分かりやく表示したり、奇兵緒隊の統合や改名などの図を歴史の流れで表してみたり、人物相関図を表してみたりしました。新しい試みですので疲れます。展示会初日までは気が抜けません。展示会場の模型を作って、パネル、展示ケース、掛け軸などの最適なレイアウトを検討しています。今後の進捗によっては徹夜も覚悟しなければなりません。
展示会場の配置模型、展示ケースやパネルの位置をこれでイメージ
今年も高松八幡宮の秋の大祭がやってきました。三年前,一昨年,去年と同じように本殿前に嵯峨音頭の太鼓を持ち込みました。12:30開催ですが、11時頃にはすべて持ち込み据え付けまで完了しました。完了すると、麻郷ふるさとの会の方々はいったん麻郷公民館に戻りました。そして、開催直前まで昼食をとるなど待機しました。
11時頃の高松八幡宮 シートを本殿前に敷く 本殿に向って太鼓を設置
秋の大祭が始まる頃、再び高松八幡宮に行きました。すると、人がずいぶんと集まっていました。私は他の麻郷ふるさとの会の方々と一緒に本殿に上りました。そして、正座をして数々の式典を見守りました。しかしながら、一年ぶりの正座に足がしびれっぱなしでした。
麻郷ふるさとの会の子供達のうしろに正座して式典を見守り
最初にお酒などの奉納があり、巫女舞いがあり、玉串奉奠がありました。この高松八幡宮は、9世紀に宇佐八幡宮より分霊を勧請して高松山の麓に奉斎したとのこと。ざっとみて千年以上の歴史があります。千年の間、どんな式典が行われ続けてきたのでしょう。千年以上前の式典はどんなだったろうか、と思い浮かべてみました。
お酒などの奉納 4人の巫女さんによる舞い
玉串奉奠が終わり神主さんによるお話が終わると、いよいよ嵯峨音頭の奉納です。嵯峨音頭は6月に練習を開始して、この高松八幡宮の秋の大祭での奉納が最後となります。今年は、毎年と違い世界ジャンボリーでの嵯峨音頭演奏がありました。来年は、6月からまた練習を開始することになると思います。
高松八幡宮本殿前で嵯峨音頭を奉納
嵯峨音頭が終わると、くじによる景品をもらいました。私は4等のチョコレートが当たりました。景品をもらうと、太鼓を軽トラックに載せて麻郷公民館に運びました。私は、城南の荒神社の調査に行った後、来月からの展示会の準備のため田布施町郷土館に行きました。
くじを引いて景品をもらう ソーメン流しのコーナー 参道に並んだ多くの出店
9月初めに種をまいた白菜が発芽し育ってきため最初の間引きをしました。育った白菜がある一方で、葉に穴が開いた白菜や発芽後消えてしまった白菜がありました。今回、寒冷紗を外して間引きと食害対策をしました。
せっかく種をまいたのに、発芽後に食害にあった形跡
間引きはいつでもできますが、食害はすぐに対策しなければなりません。虫を探し出して退治しなければ他の白菜まで食べられてしまいます。犯人はだいたい分かっています。夜盗虫です。夜の間に葉を食べて、朝になると土の中に隠れる虫です。白菜の根本を探っていると出てきました。まだ、それほど大きくありません。このまま夜盗虫が大きくなると一夜にして白菜がダメになります。根絶がなかなか難しい害虫です。
食害された白菜 出てきた、憎っくき夜盗虫 隣りの白菜を移植
食害にあった白菜は、隣りの元気の良い白菜を掘って移植しました。間引きした白菜の中で良く育ったものを苗として移植しました。移植後はしなびたりするため、一時的に日陰のための枯草で覆っておきました。活着すると良いのですが。
押しくらまんじゅう状態の白菜 間引いて2本の白菜を残す
食害されなかった白菜は、たくさんの白菜が押しくらまんじゅう状態に混みあっていました。二本の白菜が残るように間引きしました。数週間後、この二本のうち一本だけを残すように最後の間引きをします。11月終わり頃になると、寒さで害虫が発生しなくなるため寒冷紗を外します。そして、12月から2月にかけて美味しい白菜を収穫できます。今年も美味しい白菜を収穫することができるでしょうか。楽しみです。
再び寒冷紗を閉じた白菜の畝、数週間後に最後の間引き
長ネギの植え替えをしました。去年植え替えた長ネギのうち、収穫せず畑に残していたものを再利用して苗にしました。最初、いつものように耕運機で丁寧に耕した後、クワやレーキを使って畝を整形しました。そして、穴あき黒マルチを畝に被せて、その裾を土で押さえました。
クワやレーキで畝を整形 黒マルチを畝に被覆 裾を土で押さえる
植え替えの準備が整うと、畑に残していた長ネギを掘り取りました。去年植え替えた時は1本でしたが、5~8本程度に分げつしていました。それを再び1本ずつに分けて苗として植えるのです。長ネギの苗は園芸店でも売っていますが、我家ではここ数年は自給しています。来年の植え替えを考えて、再度何本かの長ネギを収穫しないで畑に残しておきます。この残した長ネギが分げつして、今回のように来年の苗として使えるのです。
収穫せずに畑に残しておいた長ネギを苗として掘り上げ
苗として使う長ネギを掘り上げると、さっそく黒マルチの穴に植えていきました。一つの穴に一つの長ネギです。小さな苗は一つの穴に二本程度植えます。尖った棒で黒マルチの穴に刺して、長ネギを入れる穴を作ります。その穴に長ネギを差し込みす。そして、土を寄せれば植え替え終了です。
掘り上げた苗用の長ネギ 一つの穴に一本の長ネギ苗
黒マルチの穴のうち、縦5個横15個の75個を長ネギ用に使いました。その75個の穴にすべての長ネギ苗を植えました。根付くのに2週間程度かかると思います。ちゃんと根付けば、今年も美味しい長ネギが収穫できると思います。
長ネギの苗を、次々に黒マルチの穴に植える
長ネギと同じ黒マルチのすみっこの穴に、高菜の種をまきました。高菜は晩秋中に収穫を終えます。その高菜跡に、再分げつした長ネギを冬か春に植えます。その長ネギは再び、来年の長ネギの植え替え時に苗としても使えます。一つの穴に五粒程度の高菜の種をまきました。今月中には発芽することと思います。
高菜の種袋 一つの穴に五粒程度の種 黒マルチのすみっこに高菜
20日、田布施町郷土館で忙しい一日を過ごしました。郷土館を閉めたのは6時前でした。午前中、城南別所の湯立ての神事を見学する予定でしたが、都合のため見学することができませんでした。その神事の様子を後で聞きました。野外に置いた鍋で湯を立てて,その中に縄をいれ,そのお湯を濡らした榊で祓いし,その榊は鍋下の炎で燃やす・・などの神事だったとのこと。来年は絶対に見学したいと思います。
祠の前で湯を立てる 湯に入れる縄 お祓いする神主様
午後は田布施町郷土館で「山口どこでも紙芝居スタンプラリー」がありました。私は初めて紙芝居スタンプラリーを見ました。今回は、田布施町の民話や言い伝えを元に制作した紙芝居の実演です。拍子木の音とともに紙芝居が始まりました。紙芝居の合間に腹話術があり、子供達を楽しませていました。
郷土館入口近くに表示 紙芝居を演ずるHさん 紙芝居の休憩中に抽選会
私は後ろの方で立ったまま視聴しました。堀川の源光,おさん狐,ひっかり観音など知っている民話が次々に演じられ楽しく見聞きすることができました。同日運動会が各地であったので子供の参加がやや少ないように思いました。私は郷土館に来た子供や大人をなるべく紙芝居に引き込むようにしました。紙芝居視聴のべ人数は19人でした。たくさんの子供達にも見てもらいたい紙芝居でした。
熱心に紙芝居を視聴している子供や大人達
パクチョイ,チンゲンサイ,小松菜,葉大根の種まきをしました。これらは代表的な秋冬野菜です。最初に、これらの葉物野菜の種をまく畝を作りました。いつものように耕運機で畑を耕し、クワで畝の形を作り、レーキで鞍型に畝を整形しました。そして、穴あき黒マルチを張りました。
葉物野菜の畝を作る 穴あき黒マルチ張る 穴あき黒マルチを固定
穴あき黒マルチを畝に固定すると、いよいよ種をまきました。どの野菜も粒が小さいので、1つの穴に5粒程度まくようにしました。まき数が多いと、後で間引くのが大変ですので。久しぶりに天気が良かったため、畑作業をしているとじんわりと汗が出ました。
1つの穴に5粒程度播種、天気が良いためじんわり汗
種をまいた順番は、南からパクショイ,チンゲンサイ,小松菜,そして葉大根です。種をまき終ると、その上に寒冷紗を被せました。間引きや収穫の時に寒冷紗が外しやすいよう、レンガで裾を固定しました。今の時期はまだまだ害虫が出ます。特に青虫は大敵です。去年はだいぶ青虫に葉を食べられてしまいました。まだ種をまいていない葉物野菜は高菜です。近日中に高菜の種をまこうと思います。
種をまいた野菜の種袋 寒冷紗を被覆 寒冷紗をレンガで固定
八幡寺を出ると、小雨の中を長くなだらかな登り坂の石ノ口八幡宮の参道を進みました。田布施の中では一番長い参道だと思います。その参道の途中に、平成21年春の御式年祭で使った大きな張子の鯛などの神輿などが置いてある小屋がありました。そして、すぐ近くに忠魂碑がありました。
小雨の中、長い参道を進む 石の口八幡宮に到着 荒神社お社の軒下
長い参道を進むと、石ノ口八幡宮に到着しました。石ノ口八幡宮はお正月に参拝して以来です。この八幡宮は養老三年(719年)に九州の宇佐八幡宮より勧請されたと石碑に刻んであります。田布施を含む近隣で一番古い神社です。ところで、石城山の神籠石は7世紀に作られました。この神籠石が作られてから50~100年後にこの神社が作られたことになります。石ノ口八幡宮と神籠石には関連性はないのでしょうか。
石ノ口八幡宮の本殿周辺を見学
石ノ口八幡宮境内に荒神社のお社が二つあります。不思議なことに、そのお社の軒下ににたくさんの神社や祠らしき名前を書いた板が打ち付けてありました。明治初期の神社統一政策によって、この石ノ口八幡宮に集められたのではないかと思います。防長注進案によると、江戸時代には石ノ口,犬田,吉水にたくさんの神社や祠がありました。それらが石ノ口八幡宮に合祀されたのではないでしょうか。
吉水付近の道を散策 犬田付近のお地蔵様 ハゼの木のお地蔵様
石ノ口八幡宮を出ると、光市方面に向かって舗装道路を進みました。そして、吉水に差し掛かると道を逸れて、城南公民館方面に向かって道をどんどん下って行きました。途中、吉水集会所を通りました。この集会所前の道を北西に向かうと、田布施川沿い史跡巡りウォーキング(その7)で通った石城苑や大和中学校に出ます。城南公民館に向かって歩く途中、ある集落に立ち寄ってお地蔵様を見学しました。その後、ハゼの大木の下に出ました。
ハゼの大木の下を通過、根元のお地蔵様を拝む
ハゼの木は、江戸時代に盛んに育てられました。その理由は、その実からロウソクを作るためです。防長四白政策の一つがハゼの実ろうなのです。防長四白とは、米,塩,紙,そしてハゼの実ろうです。明治以降ハゼの木はほとんど伐採されましたが、このハゼだけは根元にお地蔵様があったため保存されたのです。このハゼの木は、防長四白政策の生き証人なのです。ハゼの木を見終わると、ひたすら城南公民館に向かいました。本番のウォーキングは10月の第三日曜日の予定です。今回の下見ウォーキングに参加された方々、雨の中お疲れ様でした。
今回下見した、城南石ノ口方面
麻郷小学校運動会の予行演習(嵯峨音頭)を手伝いました。運動会当日(10月20日)、私は仕事のため参加することができません。そのため、嵯峨音頭を手伝うのは23日の高松八幡宮秋の大祭が最後となりそうです。
太鼓などを体育館へ移動 太鼓を叩く子供達が集合 紅組の子供達集合
今回の予行演習は小学校の体育館で行われました。理由は雨です。天気予報で雨予想でしたので、あらかじめ太鼓などを前日に麻郷小学校に運び入れていました。そのため、太鼓の移動は職員室近くから体育館への短い移動ですみました。最初、紅組の子供達が練習しました。紅組が終わると、白組の子供達が練習をしました。
体育館の中、太鼓を中心に嵯峨音頭を踊る小学生達
太鼓を叩く子供のうち6年生は、この運動会が最後の運動会となります。そして来春、今の6年生が抜けて太鼓を叩くメンバーでだいぶ減ります。指導者もそうですが、5年生以下の子供達がちゃんと引き継いで欲しいものです。ところで、私が小学6年生の時、今は無き新校舎で運動会でした。まだ、体育館やプールがない頃のことです。
白組の嵯峨音頭練習 そろそろ予行慣習終了 みんなで太鼓の片づけ
9月も後半に入り、畑作業を急がなければなりません。今回は、ニンニク植え付けと高菜の種まきをする畝を耕しました。また、家の周りの草刈り作業もしました。そして、少し先ですが11月に植え付けするタマネギ畝も耕耘しました。昨日の雨ですっかり畑の土は柔らかくなっていました。また、除草した草をそろそろ燃やさなければなりません。仕事も忙しいのですが、これからまだまだ気が抜けない畑作業が続きます。
タマネギ苗を植え付ける畝を耕耘 高菜とニンニクを植える畝を耕耘
先日12日午前、この日は少年少女発明クラブの「全日本学生児童発明くふう展」への作品提出日で、アイデア工作に関わる最後の日でした。作品はあらかた出来上がり、今回はその作品の申込書兼説明書を書くための指導をしました。作品の名前,アイデアを考えたきっかけ,アイデアのポイント,作り方と使い方,説明図,指導者のコメントなどを書かなければなりません。小学生は工作を作るのは好きでも、その作品を分かりやすく文書で説明するのはまだまだ苦手のようです。
アイデア工作の説明書を書いている生徒、そして指導者
今回は、作品を完成させなければならない最終日です。まだ作品が完成していない生徒は、指導者がつきっきりで完成を手伝っていました。私は担当生徒の説明書を書くための指導をしました。審査員がそのアイデアを理解できるように分かりやすく書くのは、小学生にはまだまだ難しいと思います。分かりやすく書くためのヒントやポイントを教えました。
もうすぐ完成です 指導を受けながら記述 説明書書きに四苦八苦
申込書兼説明書が書き終ると、担当指導者に提出しました。作品が壊れないように緩衝剤で包んだ後、大きなビニール袋に収納しました。そして、作品登録番号をそのビニール袋に書きました。これで無事に作品は県に送られます。今回で、ひとまず少年少女発明クラブの一区切りが終わりました。10月に工作をした後、田布施中学校や田布施農業工業高校で科学工作などを学びます。
作品を緩衝剤で包んで、ビニール袋に収納
午後は、田布施町中央公民館で山口県埋蔵文化財センターの方による、埋蔵文化財の保存などに関する発表会がありました。発表会後、文化財の保護や活用に関する意見交換会がありました。埋蔵文化財の保護と相反する道路工事など経済活動との整合性をどうするかなどの質問などがありました。発表会後場所を田布施郷土館に移動して、現在発掘中の遺跡の展示説明がありました。説明中、私もいくつか質問をしました。※この日の早朝、東京調布で直下型地震あり。
発表会後、郷土館に移動 最近発掘された遺跡の数々
了法寺を出ると、小雨の中を円満寺に向かいました。円満寺は田布施町に二ヶ所あります。一カ所は、長合の円満寺でJR田布施駅の北側あります。もう一カ所は、今回訪問した石ノ口の円満寺です。小雨の中、円満寺に着きました。ご挨拶した後、本堂に上がらせていただきました。ありがとうございました。これで、少しばかり雨宿りすることができました。
小雨が降る中、石ノ口の円満寺に到着
円満寺の方にお話を伺っていると、かつてこのお寺では幼稚園(城南幼稚園)をしていたことが分かりました。城南幼稚園の前身は、城南石ノロ地区の季節託児所として、昭和十四年から春の田植えの季節のみ、円満寺の境内で乳幼児を預かり面倒を見たのが始まりだそうです。昭和二十七年に正式に開園し、平成になり閉園しました。
一緒ににウォーキングの下見をしたTさんは、この城南幼稚園の卒園生(昭和36年卒園)とのこと。と言うことは、私の中学・高校時代の城南出身同級生のうち何人かは、この幼稚園を卒園したはずです。そこで、円満寺の方に城南幼稚園のことをいろいろ教えていただきました。
石ノ口円満寺の本堂 幼稚園時代の名簿と写真の数々
私は平生保育園を昭和34年に卒園しています。その同じ年、同級生の何人かはこの城南幼稚園を卒園しているはずです。そこで、昭和34年3月卒園生の写真を見せていただきました。すると、見覚えがある顔が何人かありました。最近一緒にウォーキングしたり、ミニ同窓会で会っている人も写っていました。なお、この秋に田布施で講演予定の日本の宿 古窯 女将 佐藤洋詩恵 美恵? (旧姓T)さんもここに写っていました。残念ながら私は彼女を知りませんが、城南出身同級生の何人かは子供の頃に一緒に遊んだことがあるそうです。
昭和34年3月城南幼稚園の卒園生達、懐かしい顔がいくつか
今回ウォーキングの下見を一緒にしたTさんも、この城南幼稚園の卒園生です。納所近くから城南小学校まで延々と歩いて通園したそうです。あれから50年以上の月日が過ぎています。道路も変わり、通園した道をはっきりとは思い出せないとのこと。この写真を見て、送り迎えをしておられた園長先生が懐かしいようでした。
昭和36年3月城南幼稚園の卒園生達
円満寺に着いてから雨が強くなりました。そのため、ここで昼食休憩をとらせていただくことになりました。城南の同級生達を思い出しつつ、談笑しながらの休憩です。しばらくして雨が止んだ頃、円満寺を出ました。舗装道に出ると、ゆるい上り坂を八幡寺に向かいました。
小雨の八幡寺 八幡寺内のお地蔵様 八幡寺外のお地蔵様
当初、八幡寺の名前を知りませんでした。以前、観音堂とか聞いたことがありましたが、今回「八幡寺」であることが分かりました。このお寺は防陽八十八ヶ所霊場の第三十一霊場札所です。建物を見たところ、寺と言うよりも庵に近いと思われます。どうしてお堂,庵,又は寮ではなく、寺なのか知りたいところです。以前、ご住職様がおられたのでしょうか。ちなみに、江戸時代後期の風土記「防長注進案」には八幡寺の記述は見当たりません。
今回下見した、城南石ノ口方面