小麦の種をまく予定の畑で芋掘りをしました。掘ったのは、春に植え付けたサツマイモ、そして8月に種芋を植え付けた秋ジャガイモです。最初、秋ジャガイモを収穫しました。このジャガイモを植え付けたのは木々の影になる畝でした。午前中は日陰になるため成長が思わしくなく、芋の収穫量は少ないものでした。なお、夏ジャガイモは3回程度に分けて掘り上げ、食べきれないほど収穫しました。
収穫した後の秋ジャガイモ畝 収穫した秋ジャガイモ、収穫量少
秋ジャガイモに続いてサツマイモも掘り上げました。今回収穫したサツマイモは表皮が赤いベニアズマです。簡単に収穫できると思っていたら、とても大きな芋がザクザク出てきました。このサツマイモは収穫量が多いことと、表皮が赤いので美味しそうに見えることが特徴です。ただし先日収穫して焼き芋にした安納イモより味(特に甘さ)で劣ります。
大きな芋がザクザク 手でつかめないほどの大きさ
ジャガイモは肉ジャガなど何の料理にでも使えますが、サツマイモは甘いため調理が限られてしまいます。この今回収穫したサツマイモ(ベニアズマ)を美味しい焼き芋にするためには時間をゆっくりかけて焼かないと甘くなりません。焼き芋ではサツマイモ(安納イモ)にはかないません。どう料理しようか思案のしどころです。
ところで、田布施町麻郷の高塔公会堂で11月11日に行事が行われます。この行事で、サツマイモ(安納イモ)を使って美味しい焼き芋でも作ろうかと思っています。幸いサツマイモ(安納イモ)は3株程度掘っていない株がありました。子供達に掘らせ、自分たちで焼き芋を作る体験でもしたらどうかと思います。私が小学生の時は、風呂焚きや野焼きでよく焼き芋を作りましたので。
収穫した秋ジャガイモやサツマイモを一輪車で家に運搬
大星山への舗装道路に出ると、箕山(みやま)に行きました。私が住む麻郷から箕山を見ると、形を変えた富士山のように見えます。私が子供の頃に通った麻郷小学校の校歌に箕山が歌われています、「~箕山の雄姿仰ぎ見て~」と。子供の頃、まだ本当の富士山を見たことがありませんでした。このため、この箕山の形を富士山の形だとずっと思いこんでいました。高校生の修学旅行で本当の富士山を見た時、本当の富士山の方が立派で雄大だと思いました。箕山は擬似富士山でしょうか。
箕山の山頂392m 箕山山頂は公園になっている
箕山山頂の公園で少し休みました。この山から平生、田布施方面を見下ろすことができるはずでした。5年前来た時はとても良い眺望でした。しかし、数年の間に木が茂って見下ろすことができませんでした。少しがっかりしました。眺望は望めませんでしたが、公園内は綺麗に草が刈ってありました。箕山から戻り、尾根道を戻りました。そして、古い地図に書いてある県道伊保庄平生線があったあたりを探しました。
笹が茂るなどして、旧県道伊保庄平生線は跡形もなし
旧県道伊保庄平生線が通っていたらしい個所を探しましたが、全く道らしい跡は探せませんでした。昭和50年の地図ではこの付近に県道があったのですが、尾根道が整備された時に廃道になってしまったようです。県道があったらしい場所に分け入ってみましたが、笹がびっしり生えてとても道があったとは思えません。しかし、すぐ近くに柳井市黒島方面に下りる古い道はかろうじて残っていました。
右は、柳井市黒島方面に下りる道 雑草の向こうに周防大島を遠望
旧県道伊保庄平生線が無くなっていることを確認すると、尾根道をどんどん柳井方面に下りました。そして、般若寺に向かいました。このお寺は、数回来たことがあります。子供の頃に一度、高校生の頃に歴史か何かの授業で来たことがあります。その後数回来ました。高校生の頃は、まだ舗装されておらず道を歩いて行きました。しかし、当時は発電所が作らせておらず柳井湾の眺望は素晴らしいものがありました。
般若寺から柳井湾を見下ろして 周防大島方面を遠望
般若寺から数百メートル南に行った場所に、さらに景色が良い展望台がありました。ハイキングコースになっている場所です。数人の方がリュックを背に歩いていました。よくは分からないのですが、番号が付いているたくさんのお地蔵様を訪ねて歩けるようです。
展望台への登り坂 柳井市余田方面は眺望悪い
展望台からの眺めは、さらに良いものでした。特に発電所,古墳,琴石山などがよく見えました。かすみがかかっていなかったら、もっとくっきり見えたはずです。琴石山と三ヶ丘山の間の鞍部もよくみえました。先日琴石山ウォーキングの下調べにこの鞍部まで行きました。そして、般若寺方面を見下ろしたことを思い出しました。
上の丸は琴石山と三ヶ丘山の間の鞍部、下の丸は古墳
般若寺の展望台でしばらく眺望を楽しんだ後、平生町宇佐木(うさなぎ)に向かって尾根道を降りました。そして、途中の山田地区に寄りました。この山田地区の公会堂横にはたくさんのお地蔵様があります。よくは知らないのですが、般若寺への登り道の途中にあるので、般若寺と何らかの関わりがあるのではないかと思います。この山田地区から南へのコースをたどり平生町大野地区に向かいました。
般若寺から宇佐木に下りる途中の道、のんびりした里山風情
昨日(10月25日)の夕方、思いがけない親戚から電話がかかりました。母親の従弟Uさんからです。母親の父親(小林安太郎)の姉が嫁いだ先の親戚です。今から40年ほど前のことですが、大阪万博(1970年)があった時、私の父母と妹はこの親戚宅に泊まって万博を楽しみました。私は当時、高校3年生で受験を控えていましたので、万博に行かせてもらえませんでした。このため、この親戚を全く知りませんでした。話だけは聞いていましたが。
亡き父親前でお祈り 親戚のお墓に向かう
ただその親戚の一人の今は亡きSさんを、私はよく知っていました。私が小学校の頃によく大阪から来ては私をかわいがってくれました。当時Sさんは車メーカーのダイハツに勤めており800ccの自家用車を持っていました。その車によく乗せてくれました。今日来た方は、そのSさんの弟とその奥様でした。
我家でくつろぐ母親の従弟と奥様
田布施駅に着いた母親の従弟夫婦を迎えに行った後、いったん我家に寄って楽しく昼食をとりました。2時間ばかり談笑したのち、従弟夫婦のお墓詣りに付き添いました。私が子供の頃によく遊んでくれたSさんはこのお墓に眠っています。訪れたのは、私が7月に訪れたお墓です。お墓に着くと、一緒に草を取ったりして清掃しました。
一緒にお墓のまわりを清掃 江戸時代の古いお墓も清掃
お墓は山の中腹にあるため、足の悪い母親はお墓詣りに同行できませんでした。このため、私が車で母親の従弟夫婦を連れて行きました。その途中、いろいろ親戚のお話しを聞きました。母親と母親の従弟の共通の先祖は、母親の祖母(私の曾祖母D:小林タケ)です。お墓詣りが済むと、柳井駅まで送りました。
この従弟のお父さんは戦時中海軍に勤めていたそうですが、戦後大阪で商売をして母親の従弟達兄弟6人を育てたそうです。この兄弟のうち4人の名前がこのお墓に刻まれています。今この老従弟夫婦は大阪の和歌山県寄りに住み穏やかに暮らしています。子供は二人で、そのうち長男は名古屋に住んでおり時々お孫さんがこの老従弟夫婦の元に遊びに来るそうです。※夜、この従弟夫婦からの電話を母親が受け取りました。「今日のお墓詣り、とても楽しかった。」とのこと。
ご先祖様や親、そして兄弟が眠るお墓に深くお祈り
10月も終わりになって昆虫など小さな生き物の様子が変わってきました。気温が寒くなり餌も少なくなったのか動きがとても緩慢です。夏のカマキリは、人の姿を見るとすぐに草の中に逃げ込むか威嚇してカマを振り上げます。しかし、今のカマキリは動作が緩慢です。すぐに人に捕まってしまいます。
手で捕まえた雌のカマキリ、卵を産む場所を探している様子
草の間を探してみるとカマキリの卵塊を見かけるようになりました。冬に備えて卵を産み付けているようです。カマキリ以外に、小さな子供のヘビもよく見かけるようになりました。私が想像するには、草の間は寒くて動きが鈍くなるため、太陽で温められて暖かい道路に出てくるのではないかと思います。この子ヘビ、無事冬を越せるか心配です。
産み付けられたカマキリの卵塊 逃げようとする子ヘビ
それと、不思議な昆虫を見つけました。どうもナナフシのようですが、私が知っているナナフシはもっと細長いのですがこのナナフシは胴が短く太いのです。いろいろ調べた結果、背中にとげがあるのでトゲナナフシのようです。木の枝にとても似せて擬態しているので、私もめったに見ることがありません。やはり、冬に備えてこの秋に卵を産むのでしょうか。
普通のナナフシと比べて、胴が短く太いトゲナナフシ
前回倒木の枝を切りましたが、今回は切った枝を綺麗に整理しました。枝には葉がまだたくさん付いているため、大風が吹くと枝が飛んでいきそうです。枝があちこち飛んでしまうと、近所迷惑になりますし、回収するのが大変です。
前回切り払った枝、大風が吹くと飛ばされそう
枝は、太い枝と細い枝に切分けました。太い枝は、後で家に運んで薪などに使用しようと思います。細い枝は、このまま畑に置いて朽ちるのを自然に待とうと思います。特に葉や小枝は一年もしないうちに朽ち果てます。
太い枝と細い枝に分ける 太い枝は、家に持ち帰り薪に
太い枝はチェーンソーで切りました。細い枝はノコギリで切りました。太い枝は、持ち運びやすいように道のそばに集積しました。後日、一輪車で家に持ち帰って乾燥させるつもりです。一年程度放置しておけば乾くため、その頃に野火などで燃やそうと思っています。
太い枝は搬出しやすいように舗装道の傍に、細い枝は畑内に集積
細い枝は、畑に集積したままにしておくと、風が拭いたときに飛んでしまいます。そこで、風が来ない林の間に積み上げることにしました。やはり一年程度林内に放置しておけば、自然に朽ちて良い肥料になるのではないかと思います。
細い枝を全て林内に移動したため綺麗になった畑
今日は朝から雨でした。このため、ほとんど家の中にいました。お昼少し前に雨が上がったため、サツマイモを掘ることにしました。そして、焼き芋を作って食べることにしました。スコップを持って娘と畑に行き、よいしょよいしょとサツマイモを掘りあげました。芋を堀りあげると台所に持ち帰りました。すると、待っていたように母親が芋を洗いました。そして、焼き芋にするための小石入りの専用鍋に入れて焼き上げました。
サツマイモを堀りあげている娘 掘った芋を洗っている母親
焼き芋にした芋、先日野焼きして焼き芋にしたのと同じ品種(安納イモ)のサツマイモです。とても甘くて美味しいサツマイモです。15分程度表を軽く焦げ目がつく程度に焼いて、ひっくり返してさらに15分程度焼くと出来上がりです。見るからに美味しそうな焼き芋です。
見るからに美味しそうな焼き芋の出来上がり
焼き芋を食べ終わると、軽い昼食をとって柳井市に行きました。娘がシンガポールに持って帰るお土産を買うためです。久しぶりに柳井市のyoumeタウンに行きましたが、お菓子類はこんなに種類が多いのかびっくりしました。乾物から駄菓子まであれこれと探しては購入しました。私にはさっぱり分からないのですが、シンガポールでは購入できないもの,珍しいものを中心に買っていました。
焼き芋をほおばる娘 スーパーマーケットでのお買物
お土産を買って帰りしばらく休憩すると、夕方近くになっていました。薄暗くなる中、畑にいきました。娘にニンニクの植え付けを手伝ってもらいました。一粒一粒の小さなニンニクを黒マルチの穴に入れていきました。一週間もすれば芽が出てくると思います。来年の6月頃には美味しいニンニクが収穫できると思います。
ニンニクを一粒一粒植え付け 枝豆を収穫して嬉しそうな娘
ニンニクを植え付けている畝のそばに、枝豆用の大豆(鞍掛豆)を栽培しています。この大豆は来年用の種子を取るために栽培しています。しかし、とても美味しそうなので、一株だけ食べることにしました。根ごと引き抜いて葉をすべて取り払い、台所に持っていきました。そして、鞘を取り外しました。ほんの数分間煮て塩をまぶして食べました。すると、とても美味しかったこと。私,娘,母親の三人が競うように食べました。
娘は一週間山口県に滞在していましたが、次の日(24日)の夕方福岡に泊まり、さらに次の日(25日)の早朝飛行機でシンガポールに帰っていきました。あっと言う間の一週間でした。今回は姪(娘の従弟)の結婚式で帰国しましたが、次の帰国はいつになるのでしょう。結婚した姪のような幸せがいつ娘に来るのかと、やきもきする日々が続きそうです。
ゆでたての枝豆を美味しそうに食べている母親と孫娘
娘とのんびり、岩国市の錦帯橋を散策してきました。娘が1歳の時に来たことがありますが、当たり前ですが本人は覚えていません。まだよちよちでしたので、手を引いて橋の上を歩きました。さらにその昔、私の妹が幼児の頃にもこの錦帯橋に来たことがあります。その時、錦帯橋袂のうどん屋さんでエビ天入りうどんを食べました。ところが、数時間後に妹の体中にに赤い斑点(アレルギー?)ができたことを覚えています。
河川敷に車を駐車した後、錦帯橋下を散策
広大な河川敷に車を駐車しましたが、平日のため好きな場所に駐車することができました。駐車後、その河川敷を歩いて錦帯橋下に行きました。橋を下から見上げると、錦帯橋の木構造がよく分かります。その錦帯橋下を流れる川で、投網を使ったアユ漁がおこなわれていました。
川岸に休む鵜飼船数隻 錦帯橋を渡る前に渡橋券を購入
私が子供の頃は行われていませんでしたが、今では錦帯橋下の川で鵜飼が行われています。今回は平日でしかも昼でしたので鵜飼船が川岸に繋がれていました。次に、橋の袂に行って渡橋券を購入しました。錦帯橋を渡るのは9年ぶりのことです。錦帯橋の木質床を渡る時の足裏感覚を懐かしく感じました。
錦帯橋の最上部でしばしたたずむ 吉川記念館付近を散策
橋を渡り終えると、佐々木小次郎の銅像を訪れ、その道筋にある吉川記念館に行きました。明治維新当時や400年前の関ケ原合戦当時の手紙などが展示されており、当時の切羽詰まった状況を読み取ることができました。その後、シロヘビ観察館に行きました。この館に行くのは初めてです。岩国城に登るロープウェイ搭乗口近くにあるとは知りませんでした。
ロープウェイに乗って、岩国市街を見下ろしながら岩国城に向かう
ロープウェイから下りると、岩国城まで数百メートル歩きました。巨大な大阪城と比べると、小さな砦のような城です。城内には主に日本刀や鎧などが展示されていました。城の最上部からの眺めは最高です。岩国市街が箱庭のように小さく見えました。
砦のような小さなお城 錦帯橋袂のお店で岩国寿司を食べる
岩国城を見終わると山道を歩いてロープウェイ搭乗口に行きました。そして、ロープウェイで山を下りると、元来た錦帯橋に向かいました。途中アイスクリームを食べました。なんと100種類ものアイスクリームがあり選ぶのに困りました。無難なプリンアイスクリームを食べました。
錦帯橋からの帰り道、この地域の名所「山賊」に来る
錦帯橋を渡って戻ると、ちょうどお昼時。錦帯橋の袂近くで岩国寿司を食べました。笹に包まれた岩国寿司はなかなか美味しかったです。昼食を済ませると、家路に着きましたが、途中国道2号線を下る途中にあるこの地域の名所「山賊」に寄りました。この「山賊」は前に一度着たことがありますが、毎日が縁日のような場所です。
赤色が目立つ金魚すくいコーナー 山賊焼きとぜんざいを注文
娘はこの「山賊」名物の「山賊焼き」を注文し、私はぜんざいを注文しました。この「山賊」からの帰り際、母親ヘのお土産として「ヨモギ入り餅」を飼いました。娘は、大きなおにぎり三つにおはぎを買っていました。今回は平日でしたが、休日は行列ができるほどの混みようとのことです。極彩色が飾られた、毎日がお祭り会場のような場所でした。
「山賊焼き」をほおばる娘 母親へのお土産を購入
姪の結婚式の次の日、息子は早々に大阪に帰っていきました。毎朝6時から夜10時頃までの超忙しい職場のようで、車で毎日500Km位運転しているそうです。そして、この金曜日からは岡山の山奥に住み込んで働くそうです。今の時代の働き方は、超忙しいか,又は仕事がないかの両極端のように思います。健康にだけは気を付けて欲しいものだと思います。
母親と孫達で朝食 息子を送るまえに家の前で
息子を駅に送る前に、一昨日夕日を見た大星山に連れて行きました。綺麗に晴れて瀬戸内海が澄みきっていたため遠くまで見渡すことができました。ただ夕日の時のように、四国や九州までははっきり見通すことができませんでした。澄み切った青空の中、昨日の結婚式を含めて息子は少しは疲れが取れたのではないかと思います。ところで、昨夜シンガポールから電話がかかりました。そのとき、その相手と娘は英語で会話を、息子は中国語で会話をしていました。今や息子世代は世界をまたにかけたグローバル社会なのだなあと、つくづく感じました。
息子と並んで、大星山から瀬戸内海を見下ろす
息子を柳井駅に送ると、娘と柳井市街を散策しました。私は先日柳井市の白壁の町を散策したので、それほど目新しいものはありませんでした。しかし、娘は初めての柳井市街のためなんでも新鮮に見えたようです。さかんにデジカメのシャッターを押していました。
畳の長椅子に座って休憩 白壁の町で抽選、3等が当たる
娘は、あらかじめインターネットで柳井市街の白壁の町を調べていたようです。自分が見たい所をどんどん歩いて行きました。私はもっぱらお供でした。シンガーポールに住んでいる娘からすると、このような町並みは世界に無いそうです。「海外の友達を呼んだらきっと喜んでくれるよ。」と言っていました。
白壁の町のメインストリート、今回はちょうどイベント日
白壁のメインストリートを歩いていると、抽選券をもらいました。メインストリートで抽選会をしているようでした。人ごみをかき分けると、行列になっているところが抽選会場でした。さっそく、並んで抽選をしました。私は4等で醤油が当たりました。娘は3等で私より良いものが当たりました。
江戸時代から明治にかけての古い商人の町並み
メインストリートを一通り見終わると、脇道に入りました。そこには、古い醤油製造所がありました。その醤油製造所内に入ると、ブーンと醤油の香りが漂ってきました。お風呂より大きく深い樽がたくさん並んでいました。その樽の一つに錦鯉が飼われていました。
古い醤油製造所の大きな樽穴 樽内で飼われていた錦鯉
古い醤油製造所を出ると、隣りに伝統工芸を教える建物がありました。その中に入ると、織りを教えているコーナーがありました。娘が織り機で織りの体験をしてみました。右左の足を踏み具合と、糸を飛ばす飛び杼の操作が難しいようでした。数人の方が、織り機に座ってのれん用の布を織っていました。
伝統工芸を体験する建物 織物を体験している娘
織物の体験を済ませると、さらに白壁の町のいろいろな個所を回ってみました。散策途中に寒露アイスクリームを食べてみました。また、女の子がたくさん入りそうなアクセサリー小物売り場,柳井の歴史館,松島詩子の展示館なども見学しました。
たくさんのアクセサリーを売っていた小物店
10月20日に、私の妹の長女である姪(Eちゃん)の結婚式がありました。姪と私の娘は同い年です。このため娘が小さいころ、姪は私の娘とよく遊んでいました。また、その弟(Mくん)も一つ下のため、その弟ともよく娘は遊んでいました。小さいと思っていた姪も、今は立派な社会人。山口県の小学校教諭として活躍しています。
今回嫁ぐ、私の姪(Eちゃん) 私の妹,姪,そして妹の夫
私はこの山口県に帰るまでずっと東京に暮らしていましたが、妹は山口県内で結婚したためずっと山口県で暮らしていました。このため、姪も山口県で暮らし、結婚後も山口県の下松市で暮らします。私の家族は、私が親の介護で山口県に、家内は仕事で東京に、息子は仕事で関西近辺に、そして娘は仕事でシンガポールと、バラバラですので正反対です。
姪(Eちゃん)一家、妹(Mちゃん),私の妹,姪,私の妹の夫,弟(Mくん)
この結婚式に従弟達も招待されました。姪の家族に私の家族です。私の父親が亡くなった5月に逢って以来の全員再会です。東京で暮らしていると、なかなか従弟達は逢うことができません。子供の頃は、私が子供たちを連れて帰省した時に何度も逢いました。しかし、子供たちが中学高校大学と大きくなるにつれ、なかなか逢う機会がなくなりました。
久しぶりに逢った従弟達、私の甥や姪
結婚式の会場は、周防灘に面した海岸にあるseahorseで行われました。海に面しているとても開放的な会場です。会場の方に聞くと、20年以上前に作られ7年位前に結婚式場として使うようになったとのことでした。夕日がきれいな事や、演出に船が使えることが結婚式として人気な理由なのではないかと思います。式の前に、6月に結婚したMくん夫妻と一緒にクルージングを楽しみました。
クルージングを楽しむMくん夫妻 姪の叔父、そして私の息子と娘
クルージングを楽しんだ後、船から降りるとすぐに結婚式が始まりました。二人が式場に入るときの入場歌(生演奏:バイオリン&合唱)が、確かヘンデル作の「Lascia ch'io pianga(私を泣かせてください)」でした。私はこの曲がとても好きなので、歌を聴きながらとても嬉しい気持ちになりました。またプッチーニ作の「私のお父さん」も流れてきたように思います。この曲も好きな曲です。式はキリスト教式です。神父さんの元で二人は結婚の誓いを宣言しました。これで、二人は正式な夫婦として公式に認められました。あの小さな姪が、結婚式をするような大人になったのかと思うと、とてもうれしい気持ちになりました。
結婚宣言をする神父さん 幸せそうな新カップル
二人共、山口大学教育学部出身です。姪は卒業後、講師を経て小学校の正式教諭になりました。姪の彼氏は卒業後に体育講師を経験後、下松市役所の正式職員として働いています。夫婦ともに公務員で、下松市内が勤務先です。
クルージング船が現れ、皆に祝福される姪夫婦
姪は小学校の教諭のため、この結婚式に何人かの教え子が招待されていました。ウェディングケーキ入刀の前に、姪は教え子から祝福の花束を受け取りました。姪は、私の母(姪の祖母)が教師だったことを子供の頃から何度も聞いていたことでしょう。私の家内も教師ですし、親戚には比較的多くの教師がいます。姪は、これら何がしかの影響をうけて教師の道を選んだのではないかと思います。私の母親(姪の祖母)は足腰がとても悪く、孫娘の結婚式に来れませんでした。とても残念のようでした。
ウェディングケーキ入刀式 新婦から新郎へ、ケーキを
海に面したデッキでのウェディングケーキ入刀式後、室内に移動して披露宴です。新婦はお色直し後、皆の前に現れました。この頃になると、会場の外は薄暗くなり三日月がうっすらと見えるようになりました。夕焼けの中での、披露宴はなかなか素敵な演出です。
お色直し後の新夫婦を拍手で迎える皆
今回の結婚式はキリスト教式でした。海辺での披露宴は新郎新婦のアイデアがそこかしこに入っていました。そして、招待客一人一人に合わせた趣向が凝らしてありました。今の若いカップルの手作り感あふれた式ではなかったかと思いました。
お色直し後、和装の新郎新婦 1つの飲み物を2つのストローで
料理もとても美味しかったです。料理を食べる時に、料理長から料理の内容説明がありました。色もカラフルでしたので、味を楽しむ以外に目でも料理を楽しむことができました。海に面している会場なので、最初はシーフードかな思っていましたが、肉や果物などさまざまな組み合わせの食事でした。
目でも楽しめる料理 姪の同僚の丸テーブル
この姪の結婚式で、さらに嬉しかったことがありました。それは、私が高校時代の同級生に逢えたことです。彼は3年生の時に同じクラスでした。当時それほど親しくはなかったのですが、彼と話したことはありました。その彼が、姪が勤めている小学校の校長になっていました。つまり、彼は姪の上司でした。
彼と、高校時代の懐かしい思い出を語りあいました。さらに野球の話で私の息子や娘と盛り上がりました。私の息子が高校時代甲子園を目指して野球をしていたこと、娘が甲子園に出場した高校でチアリーディングをしていたこと、彼の息子が甲子園に出場したことなどで、大いに盛り上がりました。本当に、縁とは不思議なものです。
姪の上司(校長)の、私の同級生 新カップルによるキャンドルサービス
結婚式の最後、姪からの両親にあてた感謝の言葉。続いて、新郎のお父さんから新夫婦への励ましの言葉がありました。この言葉を聞きながら、はるか30年前に私の妹(姪の母)が嫁ぐ時の言葉を思い出しました。もう30年も経ったのかとの時の重み、そして人はどんどん世代を重ねて行くのかとの感嘆の思いです。
新夫婦に励ましの言葉を述べる新郎のお父さん
結婚式は、午後3時頃始まりました。終わったのは午後8時頃でした。式場は一日貸切りでしたので、終わりの時間を気にしないで済みました。最後に、暗くなった海辺に親族が勢ぞろいして写真を撮影しました。今後、姪はどんな家庭を作っていくのでしょうか、とても楽しみです。いつまでも幸あれ。
新夫婦を中心に、海辺に勢ぞろいした親族
小麦畑の倒木を撤去しました。もともとこの倒木は、数年前に斜めに倒れかかったけやきです。父親と私がさらに倒れないようにつっかえ棒をしました。その木か倒れてしまいました。これだけ倒れると、もうもとに戻すことはできせん。このため、この倒れたけやきを撤去することにしました。
倒れて横になつたけやき すべての枝を刈りはらう
この倒木はとても重いため、そのままではとても撤去できません。そこで最初、撤去できる重さになるように枝をすべて刈り払うことにしました。そのため、チェーンソーを使って枝を綺麗に撤去しました。枝は軽いため簡単にできました。
倒木の枝を全て、チェーンソーで刈り払う
全ての枝を刈り払いましたが、倒木はまったく動きません。倒木を撤去するには、根元の根を掘ってすべて刈り取らなければならないことに気が付きました。そこで、倒木の撤去はとりあえずおいて、周りの草を刈り取っておくことにしました。草刈機を持ってきていたので、倒木周りの雑草を綺麗に刈り取りました。
倒木周りに生える雑草 雑草を綺麗に刈り取った畑
娘が帰国した次の日、田布施交流館に行ってみました。お目当てはイチジクアイスです。私は知らなかったのですが、娘がシンガポールでインターネット検索してこのイチジクアイスのことを知ったとのこと。私も初めてイチジクアイスを食べてみました。田布施交流館そばのハミングロードで食べました。日当たりの良い場所に座って、田布施川を見ながら食べました。
イチジクアイスを受け取る娘 田布施川を見ながらハミングロードで
イチジクアイスは思っていたより美味しかったです。イチジクアイスを食べた後、下松駅近くにあるザ・モールに行って散策しました。いわゆるショッピングモールです。下松から帰ると、しばらく休憩して大星山に行きました。そこで、何年ぶりか日没を見ることにしました。
日没30分位前か?まだ明るい
日没20分位前の周防灘、大星山より
日没を見たくなったのは、この田布施町の「のんびランド馬島」で日没を見ながら、ハワイアンダンスなどを鑑賞するイベントを知ったためです。馬島には船で渡らなければなりません。そこで、車でいける大星山に行って日没を見ることにしたわけです。
日没時の周防灘、あたりが少しずつ暗くなる
同じように日没を見たい方が二組いました。私と同じようにカメラで日没の写真を撮影していました。日没が過ぎると、急に暗くなりました。暗くなりつつある夕焼けを見終わると、車で家に帰りました。そして、母親,娘,私の3人で夕食を取りました。
日没後、だんだん暗闇に 母親,娘,私の3人で夕食
4月にシンガポールに戻った娘が、従弟の結婚式(10月20日)に出席するために帰国しました。早朝シンガポールからの直通便で福岡空港に着き、昼に田布施駅に着きました。私が田布施駅に迎えに行きました。重いトランクを引きずるように駅内から歩いてきましたが、思ったより元気そうでした。私の母親は孫娘に逢うのが待ちきれなかったのか、娘が家に着くと母親が玄関前に立って待っていました。
母親にお土産を見せる娘(孫娘) 銀行に寄った後、中山湖を散策
娘は家の中に入ると、さっそくたくさんのお土産を母親の前に広げて見せていました。しばらく歓談すると、娘を連れて銀行に行きました。そして、結婚式のお祝儀のお金(ピン札)を窓口で引き出しました。銀行の帰り、柳井市の中山湖を散策して小行司を経由して家に戻りました。夕食後、娘はシンガポールで撮影した写真を母親に見せていました。
シンガポールで撮影したデジカメ写真を、母親に見せている娘
先日、平生の大野から古道を通って大星山方面に行き、宇佐木方面を散策しました。始めに、大野南から大星山方面に登る古道を通りました。この道は、今から50年位前でしょうか、実質的に廃道となった県道(伊保庄平生線)です。モータリゼーションの普及がまだなかった当時、この古道を通って人々は徒歩で伊保庄と平生を行き来していました。
大野南からの県道(伊保庄平生線) ふもと近くのお地蔵様
戦前は特にこの伊保庄平生線はよく使われたそうです。伊保庄に住む人は、柳井市街に行くよりも峠を越えて平生に行った方が近かったそうです。私が平生保育園に通っていた頃、平生街はとても賑やかでした。当時あった平生座では、映画,演劇,遊戯会などが毎日のように催されていました。私も父方祖母に連れられて平生座によく行きました。私自身も平生座で遊戯を披露したことがありました。
伊保庄平生線の平生側最奥にある民家、石垣が見事
伊保庄平生線はとても細い道で、これがとても県道とは思えません。ただ、所々にお地蔵さんがあるなどして道の趣が往時の姿を連想させます。昔、この山道をたくさんの人が行き来したのかと思うと、時代の移り変わりを感じます。この道の最も高い位置にある峠近くには、古代遺跡の高地集落跡があります。このため、この道ははるか古代から使われたに違いありません。
趣のある山道の連続 藁ぶき屋根が点々と見える
この伊保庄平生線は、途中で途切れています。使われなくなってから約50年。その間にすっかり荒れ果て、今では笹がびっしり生えて入ることすらできません。今、その道は50年位前に作られた地図上でしか確認できません。
この付近で道が途切れている伊保庄平生線
道が途切れているため、脇道を通って上に登りました。今ある山道は、農道として近所の農家の方が細々と使っているようです。寂しい山道を最上部に登り尾根道に出ました。その尾根道近くに、古代高地集落遺跡(吹越遺跡)があります。年代的には6世紀頃とのことですが、この時代にすでにこれらの山道が使われていたのでしょう。現代のモータリゼーションの普及によって。千数百年にわたって使われてきた山道が次々に廃道になっていきました。古代から使われてきた道が消えて、人々の往来が無くなっていくのは少しさびしい気がします。
さびしい山道を登る 古代高地集落遺跡(吹越遺跡)
大根の最後の間引きをしました。大根は、これまで間引きで2本立てにしていました。しかし、この二本がだいぶ大きくなったたため最後の間引きで1本立てにしました。2本とも同じように育っているので、どの1本を引き抜こうか迷います。
2本のうち1本を引き抜く 大根1本だけ残すように間引く
間引いた大根を見ると、大根らしく根が長い一本になっていました。この根が太った大根になるのだと思います。間引いた1本は葉がだいぶ大きくなっていましたので、間引き菜として食べることにしました。試しに葉をかじると、大根らしいピリッとした味が舌に伝わります。
間引いた大根の葉、間引き菜として食べる
大根を作るにあたって、黒マルチと路地で育てています。その両者の育ち具合を比較しましたが、今のところ同じように育っています。違いは、強いて言えば路地の方が小さな雑草がたくさん生えています。黒マルチは当然のことながら雑草は全く生えていません。12月に大根を引き抜いたときに、根の長さ,太さ,色などで両者の違いが分かるかも知れません。
露地で育つ大根、やや雑草あり 黒マルチで育つ大根
最後に残った強敵の切株を取り除きました。この切株、上から見てもそれほど太くないので、取り除くのは楽勝かと思いきや逆でした。根が四方に何本も伸びていたため、つるはしで叩いてもびくともしませんでした。春に幹を切ったので少しは枯れているのかと思いきや、小さな芽が出ていて切株は生きていました。そこで、根を一つ一つノコギリで切っていくことにしました。
根が四方に伸びているケヤキの切株(小さな芽が出ている)
根をノコギリで切る前に、切株の周りをスコップで掘りました。掘らないと、ノコギリが地面に当たって使えません。しかし、スコップで地面を掘るのがこれまた大変でした。切株の周りには太根からさらに細い根が縦横無尽這っていました。その細い根が当たって、なかなか掘り進めません。つるはしを使って細根を少しずつ切断しながら地面を掘りました。
根を一本一本ノコギリで切断 切り出した一本の太い根
ノコギリで根っこを切り出した後、面白いことに気が付きました。根の断面は円かと思っていたら、違いました。円ではなく楕円なのです。楕円の長い方が地上と地下を向いているのです。この根の不思議な断面を見て、熱帯の樹木の根板を思い出しました。この形の方が樹木を強く支えることができるのでしょう。
幹や枝の断面は円ですが、根の断面は楕円
この太い根を6本くらいノコギリで切り出すと、ようやく切株がぐらぐら動くようになりました。つるはしを使って切株から出ている最後の細根を切断すると、するりと抜けるように切株が倒れました。腕や手がとても疲れました。近くのお店に行ってジュースを買ってきて、その切株に座って休憩しました。これで切株をすべて撤去することができました。
グラグラし始めた切株 するりと切株が抜ける