毎年のように12月中旬までにはしていたサトウキビの越冬作業、仕事などで忙しくお正月直前になってしまいました。今日までに零下の日が続いたため、サトウキビが傷んで今年は越冬できないかも知れません。それでも、一縷の期待をして作業をしました。まずは、サトウキビの茎を何本も伐採しました。そして、太い茎を選んで長さ30cm位に切り分けました。経験的に、茎の表面が硬いものや太い茎を選ぶことが大切です。根元に近い茎がその条件に合います。もくもくと作業をこなしました。
伐採したサトウキビの茎をノコギリで30cmに切り分け
私は2種類のサトウキビを栽培しています。1種類は田布施を含む瀬戸内海地域でサトウキビと呼んでいるものです。正式名はサトウモロコシです。サトウキビのように茎が甘いのが特長で、種をまいて栽培できます。その昔は貴重な甘みの一つで、主に子供のおやつだったようです。上関町の古老に聞いた話では、明治・大正時代に子供は種をもらって空き地で栽培し、自分でおやつとして甘みを楽しんだそうです。また、お祭りなどで茎を売っていたそうです。売って得たお金はお小遣いになったとか。
枯れそうなサトウキビ 茎の根元を切断 ノコギリで茎を切断
もう一つのサトウキビは、暖かい場所に育つ正真正銘のサトウキビです。育つ北限は徳島県のようです。徳島県特産の和三盆はサトウキビを使って製造されています。田布施町は北限より北にあるため越冬が困難です。毎年のようにサトウキビを栽培しているのですが、越冬できるのは良くて50%位です。これまでの経験からすると、越冬する最大の条件はやはり温度です。最低10℃は必要です。また、湿度も必要です。乾いていると、茎の水分が損なわれて割れる茎もあるほどです。私は湿度対策のため、濡れた雑巾を一緒に保存箱に入れています。
約30cmに切った茎 保存箱に入れて暖かい室内で越冬
去年初めて、畑に残していた株が越冬しました。越冬できるように厚く土を被せていたからだと思います。また、温暖化の影響もあるかも知れません。今年も越冬できるかも知れないので、同じように株元に土を被せました。6株のサトウキビの根本に土を被せました。2株でも越冬できたら御の字です。来年は放課後学習の成器塾などで、サトウキビを絞って黒砂糖作りを体験させようと思っています。
草刈機で刈り取り 綺麗に株を刈り取り 株に土を厚く被覆
数日前、田布施農工高校の生徒さん達と田布施川や溜池に関わる史跡を巡ってきました。ご一緒したのは土木課の生徒さんと先生です。巡りながら、400年以上前に人工的に流れを変えた田布施川の歴史をお話しました。記録によると本能寺の変の2年後に工事が開始されました。また田布施川に関係する灸川も歩きました。そして、江戸時代にさかんに作られた溜池やその溜池を鎮守するお地蔵様などの史跡も訪れました。
上段溜池の堰堤と、明和元年(1760年)と刻まれたお地蔵様
いろいろお聞きすると、文科省プロジェクト「農工維新!田布施あい3プロジェクト」の第1弾として、地元のことをよく知ろうとの活動のようです。今回私がご一緒したグループ以外に、古墳の調査、地元のお祭りやしきたりを調査、地元の文学者の調査、古代のお城の調査などなど10テーマ位あるようです。他の学科は地元の交流館と関わる活動をするようです。
400年前の旧川跡の散策 旧川跡の川幅 天井川の実地見学
田布施農工高校の校門を出ると、最初に定井手に向かいました。この場所は400年前、ここから川の流れを人工的に変えた起点です。この場所には、お地蔵さま,記念碑,石碑などが建っています。次に街中に入って住宅街を歩きました。そして、江戸時代に川が流れていたと思われる住宅街の幅を巻き尺で測定しました。13mです。続いて、田んぼにはっきりと分かる川跡の幅を測りました。きっかり13mでした。これで分かることは、400年前の川幅が13mだったことと、その川だった場所に沿って今は家が立ち並んでいることです。
ところで、田んぼの土手にでも座ってお弁当でも食べる予定でした。しかし、雨が降っていたため急遽東田布施公民館に寄って休憩しました。
古墳時代後期の納蔵原古墳 石積みで作られた納蔵原古墳の石室
今回は田布施川や灸川を中心に巡りましたが、古墳グループが行くとよい古墳などもついでにも巡りました。訪れた古墳は、古墳時代後期に築かれたとされる納蔵原(なぐらばら)古墳です。全長30m位の小型の前方後円墳です。後円部に登ってみると、前方後円と言われる形が良く分かります。また、石室を覗き込むことができます。古代城(7世紀頃)の石垣の積み方の一つ「石積み工法」で作られていることが分かります。
巨大な上段溜池と堰堤 超傾斜階段から見た溜池 校門に無事帰還
続いて、上段溜池に向かいました。しばらく緩い上り坂を歩いていると、巨大な溜池の堰堤が見えてきました。満水のため溢れた水が流れ出ていました。この溜池は明和元年(1760年)に作られたようです。それが分かるのは、この溜池を守るように堰堤に鎮座しているお地蔵様に「明和元年」と刻まれているからです。
田布施町は享保年間(1716年頃)に大飢饉がおきて約1/3の方が亡くなりました。それも子供が多かったようです。この飢饉以降、さかんに溜池が作られたようです。溜池の両側に鎮座する賽様と超急階段上にあるゆうが様も訪れました。その後、惣津と木地境の峠を越えて田布施農工高校に帰りました。参加した生徒さんや先生、雨の中お疲れさまでした。この史跡巡りの成果を2月に発表するとか、時間があればぜひ見学させていただければと思っています。
田布施農工高校の生徒さんや先生と巡った田布施川や溜池などの史跡
4年ほど前に石臼の取っ手を修理しました。その後、石臼の製粉能力が落ちてきたように思います。今回久しぶりに石臼を修理(目立てなど)して調整し、製粉能力を回復することにしました。石臼が日常的に使われていた明治・大正時代は、数年に一度必ず修繕していました。当時は石臼を修理できる職人がいましたが、今そのような方はいるでしょうか。30年以上前に山梨県の雑穀などの山村農業調査中に古老から石臼の修理方法を学びました。また、店をたたんだ古い鍛冶屋さんから、石臼の目立て用金槌をいただきました。まさか今、その技術を郷土館の石臼修理に生かすことになろうとは思いもよりませんでした。石臼の修理は次の工程で行います。
石臼をひっくり返して上臼と下臼を分離、付着した粉を掃除機で吸引
最初、石臼が置いてある台に散らかる粉を掃除します。今回は掃除機でその粉を吸引しました。その昔は、刷毛で粉を寄せるようにして取り除きました。続いて、下臼の上に乗る上臼を取り外します。重いので注意して外します。下臼には製粉途中の粉が残っていますので、同じようにして取り除きます。粉を取り除くと、下臼の中心の芯棒を取り外します。
石臼周りの粉を取り除く 上臼と下臼を分離 下臼の芯棒を取り外す
これからが石臼の修理の一番難しい所です。それは摩耗した上臼と下臼の溝を再生する工程(目立て)です。石臼用の金槌(無ければロックハンマーで代用可)で、溝に沿って軽く打ちます。リズミカルに軽く叩くようにすることが肝心です。打っていると、極小の石粒が顔に飛んでくることがあります。そのため防護メガネが必要です。グラインダーで溝を掘った石臼を見たことがありますが、もうその石臼は使い物になりません。グラインダーなどの道具を使うことは厳禁です。
下臼に残った粉を取り除く 下臼と上臼の溝を再生
溝の再生ですが、石臼の中心部はやや広く深くします。逆に石臼の周辺部はやや狭く浅くします。そうすることによって、石臼の周辺部に押し出された粒はより細かく製粉されます。石臼によっては周辺部に溝がないものがあります。つまり、溝が無くなり石の重みでより細かい粉になります。石臼は何年も使っていると溝などがすり減ります。すり減った石は粉に混じります。昔の人はその混じった石を粉と一緒に食べることによって、自然にミネラルを摂取していたのかも知れません。
なお、上臼と下臼は逆方向に溝が彫ってあります。上臼が回転することによって上臼と下臼の溝の交点が外側へ外側へと移動します。つまり、交点にある粒が外側に押し出されるのです。そのため、石臼を逆に回すと、粒は製粉されず石臼の中心部に集まってしまいます。そのような原理を頭に入れながら金槌を叩いて溝を再生します。
石臼の溝の方向と溝の深さと幅、※上臼と下臼の溝方向は逆
溝の再生は無理な姿勢で1時間以上かかり大変ですが、とても大切な工程です。日本語の「辛抱する」はこの作業「芯棒する」から来ているのかも知れません。溝の再生が終わると、上臼がずれないように、また軽やかに回るように芯棒の高さを調整します。それが終わると、上臼を下臼の上に注意深く載せます。
再生したばかりの溝ですので、回転させると再生前よりも重く感じます。小麦などを入れて製粉すると、製粉された粉が一種の潤滑になります。そうなれば、子気味良く石臼が回るようになります。製粉されることを確認して修理は終わりです。約半日かかった石臼修理でした。少々疲れました。
芯棒の高さ調製 小麦を試しに製粉 製粉されることを確認
修理しているカーラジオの交換部品の調査中に、福岡の方から面白いコカ・コーラ型のAM/FMラジオの修理依頼がありました。届いたラジオはコカ・コーラの自動販売機を模した小型ラジオ(OEM)です。故障の症状は、FM放送を受信するがAM放送を受信しないとのこと。症状から推測するに、内部の電子回路が故障しているのではなく、AM放送とFM放送の切り替えスイッチの故障と思われます。まずは、このラジオの裏蓋を
AM放送が受信できない、コカ・コーラ型AM/FMラジオ(OEM)
取り外してみました。裏蓋を取り外す時に少しばかり注意が必要でした。裏蓋にあるネジを外した後、すぐに裏蓋が外せると思っていました。しかし、赤い裏蓋下の黒い枠が本体の周りに接着してありすぐに外せませんでした。その後なんとか工夫して裏蓋を取り外すと、内部の電子回路などがあらわになりました。すると、すぐに故障の原因が分かりました。
コカ・コーラ型ラジオ 電池BOX蓋を外す Made in JapanのOEM
AM/FM切り替えスイッチをよく観察すると、スイッチのベーク版が斜めに隙間が空いていました。その原因は、ベーク板を止めるハトメが曲がって外れているためです。この原因によって、AMに切り替えた時にスイッチの接点が接触しないのでしょう。これはもう、切り替えスイッチを交換するしか修理の方法はありません。来春に東京に行った時に秋葉原に行って最も近いスイッチを購入して交換しようと思います。交換スイッチが見つからない場合、以前分解修理した中波/短波切り替えスイッチのように、スイッチを分解して直すしかありません。
FM放送受信部フロントエンド 故障していたFM/AM切り替えスイッチ
今年もあとわずかになってしまいました。毎年の事ですが、myしめ縄を作りました。売っているものに比べて華やかさはありませんが、お正月に我家を飾っています。しめ縄を作り始めたのは20年以上前のことです。当時、ボーイスカウトの指導者をしていて、子供達やその保護者にわら細工を教えていました。その一環としてしめ縄を作っていました。素朴なしめ縄です。私の作るしめ縄は、
友達にも差し上げている素朴なしめ縄二つ
全て我家にあるものを使っています。ただし、今年は郷土館にわら細工用に置いてあるわらを使いました。我家に溜めていたわらが無くなったためです。来年はしめ縄用に陸稲でも作ろうかと思います。ウラジロは毎年城南の山に取りに行きますが、小さなウラジロを探すのが大変です。ただし今年は、ウラジロを取りに行く前に、DIYのお店で100円位で売っていたためつい買ってしまいました。
乾いたわらを浸水 半乾燥後木槌で叩く みご取り後に束ねて結束
ゆずり葉は我家に植えてあるものを使います。ゆずり葉は葉の付き方が変わっています。去年の古葉の上に、今年の新葉が生えます。新葉が出そろうまで古葉が落ちず、去年の古葉と今年の新葉が段になっています。つまり、親から子へ引継いでいるように見えます。それが縁起物としてしめ縄に使われるようになった理由です。
私は三つの縄を同時に編む 三つの縄を少しずつ編み、巻き付け
しめ縄の編み方のうち、多い方法は、最初二つの縄を編んで巻き付けておき、続いて三つ目の縄を編んで巻き付けます。私は、三つの縄を同時に編みながら巻き付けます。三つの縄がほどけないように左手で握っておくのにこつがあります。田布施では前者の方法を取る方が多いようです。しめ縄を編み終わると、火であぶってしめ縄をこすって磨きます。その後、円に丸めて飾りつけします。しめ縄、ウラジロ、ゆずり葉数枚を、別に編んだ細い縄で形良く縛りつけて完成です。
しめ縄を編み丸める ゆずり葉の採取 形良く飾りつけ
このところの寒さでほとんどの草は枯れてしまいました。藍も例外に漏れず、枯れてしまいました。紺色に縮んで枯れた葉と種が茎に付いています。数人の方と藍畑に入って、むしるようにしながら種を取りました。この種は後日さらに乾燥して、枯れた花がらや葉などのゴミを取って種だけにします。そして、来年の3月に種をまいて育苗し、5月頃にその育った苗を植え付けようと思います。藍の種を取り終わると、
藍の種を取っているコットンクラブの方々
綿繰り,糸紡ぎ,織りなどの定例活動をしている公会堂に戻りました。今回は年末でもあり、織機の話などに終始しました。今回、TさんとSさんが織機を持ち込みました。Sさんが持ってきた大きめの織機は筬1枚に綜絖が2枚あり、経糸がまだ通してありませんでした。そのため、どのようにして経糸を通すのか、あるいはどのように横糸を通すのだろうかなど話をしました。同じような織機をもう一台、中古で手に入れられそうです。その織機と合わせて、まずは経糸張りから勉強してみようと思います。簡単な段ボール織りから少し難しい織機まで、いろいろ揃い始めました。来年は皆さんといろいろな織機を使ってみようと思っています。
枯れた藍に残る種 花がらごと採種 Tさん持ち込みの織機
1日目 絲原記念館 湯町窯/神魂神社/熊野他大社
2日目 松江城/一畑薬師 日御碕神社/日御碕 島根ワイナリー/出雲キルト美術館
3日目 物部神社/医光寺 柿本神社/津和野
※各日付の史跡をクリックしてください。
11月山陰史跡巡り旅行最終日です。島根県益田市の医光寺を出る頃、お昼になりました。そこで、益田市内の食事処を探しました。すると、寿し処「みのり」がありましたので入りました。出されたお寿司のうち、のどが渇いていた私はうどん入り汁がとても良かったです。にぎりと巻きずしもまた美味しかったです。この史跡巡り旅行も3日目、みなさん少し疲れが出ているように思いました。しかし、美味しいお寿司を食べながら談笑していると、その疲れが取れたような気がしました。楽しいお昼休憩が終わると
美味しいお寿司に舌鼓を打ちながら談笑している皆さん
私が一番行きたかった柿本神社に向かいました。念願の柿本神社に着く直前、神様からでしょうか、安全運転に関わる注意がありました。神社への曲がり角でお巡りさんに呼び止められました。やれやれ。しばらくしてお巡りさんが去っていくと、ようやく柿本神社に参拝できました。100段位の石階段を登りきると、見晴らしが良い山の高台に着きました。その山の中腹に柿本神社が鎮座していました。
寿し処「みのり」 柿本神社楼門 参拝前に御手洗
私の念願だった柿本神社参拝の理由は、光市島田の人麻呂神社(人丸神社)の由来が、この柿本神社から来ているからです。今から300年前の江戸時代、光市島田では飢饉などで多くの子供達が亡くなる大変な危機があったそうです。飢饉による栄養失調だと思われます。そんな時に地元有志が柿本神社を訪れて、人麻呂神社(人丸神社)を勧請したとのこと。以来、人麻呂神社(人丸神社)をお守り続けているそうです。この貴重なお話は、島田~岩田ウォーキングの再下見時にお聞きしました。300年前に柿本神社を訪れた時の気持ちになって参拝させていただきました。
人麻呂神社(人丸神社)由来の柿本神社 柿本神社から見下ろした益田市内
享保の飢饉時、山口県東部に限らず関西では多くの人が亡くなったようです。田布施町の大恩寺には飢民の供養塔が残っており史跡に指定されています。また、人麻呂神社(人丸神社)のように飢饉をきっかけに建てられたお堂などが少なくありません。平生町佐賀にある太田の大師堂もその一つで、今でも毎月里人が集まって供養ともとれる「おつとめ」をしています。
参拝前に御手洗 稲荷神社の本殿 「四季音」で夕食
柿本神社に参拝した次の日、不思議なことが起きました。たまたま郷土館を訪れた田布施農工高校の先生と田布施川の歴史などについてお話をしました。話が進んで、偶然その先生が益田市出身であることが分かりました。益田市に鎮座する柿本神社の事をよくご存じでした。柿本人麻呂が歌に詠んだ幻の鴨島についても知っておられて、話がとても盛り上がりました。嬉しかったです。
稲荷神社から見下ろした津和野街
さて、柿本神社を出ると津和野に行きました。津和野に着くと、街を見下ろせる高台にある稲荷神社を参拝しました。夕方近くになっていたため参拝後、すぐに田布施に向かいました。途中、四季音に寄って夕食を取りながら談笑し、この旅行の余韻を楽しみました。参加された方々、お疲れ様でした。3日間の史跡巡り旅行はとても有意義でした。ありがとうございました。
今回訪れた山陰(島根方面)史跡巡りのコース
午前は、婆様の通院や買物で終わってしまいました。午後は久しぶりに麦畑に行って農作業をしました。最初に麦に肥料をやりました。麦は冬に分げつしますので、今の時期の施肥が欠かせません。この麦畑は肥料分が特に少ないので、施肥しないと分げつどころか収量が大幅にダウンするのです。麦がちゃんと育てば、来年も
まだ背が低い麦に、のんびりと肥料を施す
麦刈りすることになりそうです。収穫した麦は製粉してパンかバスタにしようと思っています。さて、麦の施肥が終わると綿の残渣を整理しました。綿の茎は硬いので、耕耘機のロータリーに絡みつきます。絡みつかないように集めて別の場所に置きました。綿の残渣整理が終わると、しいたけ用に伐採した場所を片付けしました。たくさんの枝や葉が散乱していたため、綿と同じように1ヵ所にまとめて捨てました。この場所に渋柿の苗を2本ばかり植える予定です。数年後には渋柿を収穫して、たくさんの干柿ができればと思っています。
施肥した麦の畝 綿の残渣を整理 渋柿用に片付け
山口県立美術館の岸田劉生展は今日22日で終わりました。先週、友達と岸田劉生の作品を鑑賞するために山口県立美術館に行ってきました。山口県立美術館に来たのは毛利敬親展以来です。久しぶりの山口市で、私の車で行ってきました。当日はあいにくの雨でしたが、トラブルもなく予定通り行きました。ただ、私の車にはETCが付いていないので、インターのゲートでそのつど手を伸ばしてカードを取らなければなりません。インターを出る時はさらに悲惨です。お金を入れておつりを受け取らなければなりません。今の車は亡き父の形見で、ETC無しのまま10年以上乗っていることになります。車を買い替える時にはETC付きの車にしようと思います。
小雨の中、山口県立美術館の岸田劉生展
展示は思っていたよりも良かったです。岸田劉生の生い立ちや一生の説明があり、劉生の年齢ごとに作風が変わっていくのが良く分かります。私は岸田劉生は洋風画家とばかり思っていましたが、年齢を重ねるにつれて和風にも目覚めていることが作品に現れています。水墨画の作品もあることを初めて知りました。有名な作品「麗子微笑」は残念ながら8日に広島の美術館に移っていました。
山口県立美術館受付 趣のある旧山口藩庁門 旧山口県会議事堂
山口県立美術館の後、埋蔵文化センターに寄ろうと思っていました。しかし、時間がないためスルーしました。大きく趣のある旧山口藩庁門をくぐり、旧山口県会議事堂を横に見ながら現山口県庁に行きました。そして、2階にある食堂に入りました。各自食券を買い昼食タイムにしました。その後、県庁最上部にある喫茶に行って談笑しました。窓から、山口県立山口博物館や埋蔵文化センターが見下ろせました。1時間位和んでから田布施に帰りました。
久しぶりに来た山口県庁 県庁最上階の喫茶からの眺め
11月の山陰史跡巡り旅行の続きです。3日早朝JR出雲市駅傍のホテルを出ると、大田市の物部神社に行きました。飛鳥時代に仏教を取り入れるかどうかで、物部氏は蘇我氏と激しく対立したとのこと。物部氏は滅んだとされていますが、ひっそりとこの神社などで祀られています。先に滅んだ物部氏が祀られ、その後に滅んだ蘇我氏が祀られていないようです。歴史の不思議です。島根県にこんな立派な物部神社があることを初めて知りました。田布施町の石城山にも物部神社がありますが、小さな祠として祀られています。
物部神社境内にたくさん実っていたカリンをいただく
物部神社で何か催しがあったのか片付け途中の椅子などが置いてありました。何かお祭りがあったのではないでしょうか。そう言えば、車で走っている時に地域のお祭りに出くわしました。物部神社の境内を散策していると、本殿の裏山近くに、学問の神様である菅原道真と柿本人麻呂を祀る祠が並んでいました。
物部神社御手洗所 物部神社本殿 道の駅サンピコごうつ
菅原道真と柿本人麻呂の祠近くに、カリンの実がたくさん落ちていました。カリンを手に取って甘い匂いを嗅いでいると、神社に勤めている方が袋を持って来られました。ありがたいことに、そのカリンをたくさんいただけることになりました。持ち帰り用の袋、ありがとうございました。
雪舟庭園がある医光寺 窯元雪舟焼きを見学
物部神社を出ると益田市に向かいました。その途中の江津市の「道の駅サンピアごうつ」に寄って少し休憩しました。休憩が終わると益田市の医光寺に行きました。このお寺には雪舟庭園がありますが、傍にある窯元雪舟焼きの方を見学しました。
今回訪れた山陰(島根方面)史跡巡りのコース
毎年の今頃、田布施町郷土館はささやかなクリスマスイルミネーションを飾ります。去年まではクリスマスツリーだけでしたが、今年は小人のサンタが入る煙突付きの小屋を飾りました。友達のK君からいただきました。ありがとうございました。今後も毎年飾らせていただきます。来館者へ少しでも楽しんでもらえたらと思います。たまたま今日、総合支援学校の生徒さん達が勉強のため来館されました。雰囲気だけでも楽しんでいただけたのではないでしょうか。
ツリーの右隣は、今年飾った煙突付きのサンタ小屋
クリスマスイルミネーションとは別に、今年も干柿を民具コーナーに飾りました。昔は民家の軒下によく干柿が干してありました。その干柿の雰囲気も楽しんでもらえたらと思っています。この干柿、来館した子供達には基本1個/人でプレゼントしています。そのため、だいぶ無くなりました。その他、石臼も綺麗に掃除しておきました。
民具コーナーにぶら下げた干柿 掃除中の石臼、不要な粉などを吸引
都留市を眼下に尾根道をどんどん歩くと、白木山山頂に着きました。ここまで来ると、もうすぐパノラマ展望台に着きます。立ったまま数分間休憩するとすぐに歩きました。しばらく歩くと、数人が休憩しているパノラマ展望台に着きました。360度見渡せる展望台かと思っていたら、意外と視界が狭かったのは少し残念でした。都留市街を見渡しながら、水分を取りしばらく休憩しました。これから登る、都留文科大学の裏山が遠くに見えました。
パノラマ展望台から見下ろした都留市街
展望台を過ぎると、山道はぐっと下りました。そして、水道橋の下に降りました。水道橋の真下に来ると、巨大なアーチ構造になっていることが分かります。アーチの真下で手を叩いたり大声を出すと、音が反射して不思議な反響音が響きます。柳井市のワンワン寺のような音です。水道橋から離れた所に馬頭観音が見えました。少し道を外れて、その馬頭観音や傍の大室神社を見学しました。ここから道を下ると都留市街に戻ることができますが、馬頭観音を見学すると再び尾根道に戻りました。
都留市街を見下ろす尾根 巨大な水道橋のアーチ 馬頭観音と大室神社
尾根道に戻ると、再び快適な山歩きです。平日だったため比較的年配の方々が多く歩いていました。何人もの方々を追い越しながら、また追い越されながら歩きました。風も吹かず晴れた木漏れ日の中をのんびりと歩き続きました。途中に東屋がありましたので、座って少しばかり休憩しました。しかし、少し休んだだけでも体が冷えます。10分も経たないうちに歩き始めました。
木漏れ日の明るい尾根道 日差しを浴びてまばゆいモミジ
私が20歳代の頃、都留市の山にはよく登りました。今でもよく覚えているのは、登攀の訓練をする三ッ峠です。広い岩壁には登攀訓練するたくさんの人達が取り付いていました。私は登攀(ロッククライミング)が得意ではありませんでしたが、沢登りや軽度の登攀はこなしました。そのため三点支持やロープワークなどの登攀技術を学びました。三ッ峠からは富士山がよく見渡せます。三ッ峠からの緩やかな尾根道を2時間程度下ると富士五湖に着きます。若い頃の懐かしい思い出です。
史跡巡りウォーキングした都留市南の低山
これまでは、購入した丈夫な糸を経糸にして布を織ってきました。今回、田布施農工高校で飼っている羊の毛を選別して洗浄後、紡いだ毛糸を経糸に使ってみました。経糸と横糸も同じ羊の毛で紡いだ毛糸です。自分で紡いだ毛糸のため太さはバラバラです。染色していない白い毛糸ですが、来夏に藍染めすれば見栄えが良くなると思います。子供達に織物の原理を教えるために使っている段ボールで織ってみました。
経糸を張った後、紙製シャトルで横糸を交互に通す
紡ぎ素人の私が、足踏み糸紡ぎ機で紡いだ毛糸です。太さが均一にならず、所々モヘヤ状になった毛糸に仕上がりました。くせを取るため蒸しました。経糸を張る前、すぐに切れるのではないかと心配しましたが杞憂でした。意外に丈夫な毛糸でした。その毛糸を、段ボールの1cm間隔の切れ目に通して経糸としました。
自紡ぎ毛糸を経糸に 紙シャトルに毛糸を巻く 布下部を整える台紙を置く
経糸を張り終わると、厚い紙をシャトル状に切り抜きました。そして、横糸にする毛糸をその紙シャトルに巻きつけました。私は単純に巻くのではなく、シャトル全体が薄くなるように菱形状に巻き付けています。薄い方が経糸に通しやすいからです。次に、織りあがる布の下部を整えるための台紙(薄いプラスチックをハサミで加工したもの)を経糸に通します。
経糸を交互に上下し、シャトルを通す 横糸を通すと櫛でトントン
以降は経糸に横糸を通します。最も簡単と言われる段ボール製織機ですので、筬や綜絖はありません。筬の役目は櫛で、綜絖の役目は物差しです。すべて指や手で動かします。とても面倒ですが、織物の原理を学ぶには一番良い方法だと思います。2時間程度奮闘して横糸を何重にも通しました。疲れました。その後、ハサミで切り離して端を綺麗にしてようやく布の出来上がりです。人様に見せるような布ではありませんが、織物のサンプルに使おうと思います。藍染めすれば、少しは布らしくなると思います。
そろそろ出来上がり ハサミで布を切り出す 端を整えて出来上がり
11月の山陰史跡巡り旅行の続きです。暴風雨の日御碕を出ると、来た道を戻り島根ワイナリー試飲即売館に行きました。試飲即売館の名前のとおり、たくさんのお酒を試飲したり購入することができます。お酒をあまり飲めない私は、アルコール度の低い葡萄酒を一杯試飲しました。皆さんは思い思いにお酒を購入していました。試飲後、私はお土産をあれこれ物色しました。そして、気に入ったお土産をいくつか購入しました。
2日目の夜、美味しい海鮮料理とお酒を楽しむ
島根ワイナリーでお酒を購入したりお土産を購入すると、雨の中を出雲キルト美術館に行きました。なお、私を含めて皆さんは出雲大社に行ったことがある方ばかりです。そのため今回は出雲大社をスキップしました。雨が降りしきる中、趣のある出雲キルト美術館に着きました。この美術館は昔の民家を改造して作ったとのことでした。
島根ワイナリーに到着 試飲即売&お土産 出雲キルト美術館入口
出雲キルト美術館を見学して驚いたのは、この美術館に展示してあるキルト作品は全て芸術品であることです。この美術館に来るまで、残った端切れをたくさん繋げて有効利用したものがキルトだと私は思っていました。世界でも指折りの日本のキルト作家の作品が、この美術館に展示されているとのこと。和風の落ち着いた雰囲気も素晴らしいものでした。
廊下越しに砂庭を鑑賞 夕日をイメージしたキルト作品
出雲キルト美術館内では、お汁粉を頼むことができました。私は数人と、囲炉裏に見立てたコーナーに座ってお汁粉を待ちました。出てきたお汁粉は、小豆粒が入ったちょうど良い熱さでした。やや暗めの落ち着いた空間で美味しくいただきました。
粒入りの薄甘いお汁粉 夜は美味しい海鮮料理 夜のJR出雲市駅
出雲キルト美術館を出る頃には小雨になっていました。夕方に近づいていたため、宿泊するJR出雲市駅に向かいました。しばらくして、駅前にある「スーパーホテル出雲駅前」に着きました。各人部屋に入って1時間程度休憩し、予約していた居酒屋に行きました。そして、海鮮料理を楽しみつつお酒を飲んで、皆さんと談笑しながら楽しい夕べを過ごしました。
今回訪れた山陰(島根方面)史跡巡りのコース
一昨日、麻郷の高塔公会堂で田布施コットンクラブの忘年昼食会をしました。いつもの方々が集い美味しいお食事,飲物,お菓子などをいただきながら和みました。クラブは去年の秋に正式に発足しましたが、その数年前から細々と活動していました。小学校での藍染め体験や紡ぎや織物の体験、そして、桜まつり,牡蠣祭り,鱧まつり,観光協会おいでえでのワークショップなどです。今は小学校の放課後学習 成器塾の教室もサポートしています。
このような活動をするようになったきっかけは、この田布施町が江戸時代~明治時代に綿の生産が盛んで、さらに糸紡ぎや織物が盛んだったことに気が付いたことです。その織物の見本帳が田布施町郷土館に残されています。さらに、藍染めをする紺屋が多かったとの江戸時代の記録があることです。
美味しい食事をいただきながら和むコットンクラブの方々
綿は春に種まきから始めます。秋の綿の収穫後、カーディングして糸紡ぎします。そして、布に織ります。染色に使う藍や紅花も種まきから始めます。藍は葉を収穫して、紅花は花びらを収穫して染色に使います。変わったところでは、皆さんにタマネギ苗の植え付け、麦の種まきなどを手伝っていただいています。もちろん皆さんにお裾分けします。紡ぎなど、全体としてまだまだのように思います。楽しく集いながら、さらに磨きをかけていければと思います。
美味しかった刺身とお弁当 順調に育つタマネギ 大きく育った紫麦