東京に来てから3日目(6月23日)、家内と青梅,奥多摩方面をドライブしました。八王子から五日市を通り過ぎて、青梅に入りました。ちょっと寄り道して、新婚時代に住んでいた東青梅駅近くのマンションに寄ってみました。そのマンションは色が塗り替えられていましたが、30年前そのままに残っていました。思い出がたくさん詰まった懐かしの青梅街道をゆっくり走り、奥多摩方面にに向かいました。そして、奥多摩湖に着きました。
湖畔の「奥多摩 水と緑のふれあい館」 湖に水没した村の記念碑
この奥多摩湖からJR奥多摩駅にかけて、「むかし道」と呼ばれるハイキングコースがあります。このコース、古来から使われてきた渓谷沿いの古道です。昭和の初めまで村人が牛馬と一緒に歩いたであろうこの古道を、家内や子供達とのんびりと歩いたことがあります。今や懐かしい思い出です。
空梅雨で湖面が大幅に下がっていた奥多摩湖
奥多摩湖畔で休憩した後、車で20分位走ると丹波山村と小菅村への分かれ道にさしかかりました。道を左に分かれ、小菅村方面への橋を渡りました。そして、橋の袂にあるお蕎麦屋さん「陣屋」でお昼にしました。私は山菜蕎麦、家内はとろろ蕎麦にしました。このお蕎麦屋さんは、数年前にテレビで紹介されて以降いつも賑やかです。店内は、バイクに乗って奥多摩をツーリングする人で溢れていました。このお蕎麦屋さんの駐車場は、いろんなバイクの展示場のようでした。
奥多摩周遊道路へ渡る橋 橋の袂のお蕎麦屋さん
お蕎麦を食べ終わると、今度は奥多摩周遊道路(旧奥多摩有料道路)を走りました。私が20歳代の頃、原付バイクで横浜から来たことがあります。早朝横浜を出て、夕方遅く横浜に帰り着きました。その頃は有料でしたが、今は無料です。その旧奥多摩有料道路をどんどん登って月夜見第一駐車場に着きました。2年ほど前に来たときは絶景でしたが、今回は梅雨シーズンの事もあり、曇っていました。下界を見ると、つい2時間ほど前にいた奥多摩湖が曇って見えました。
月夜見第一駐車場から奥多摩湖を見下ろして
月夜見第一駐車場を出て数分後、今度は浅間尾根駐車場に行きました。そこからは、都心方面を見下ろすことができます。やはり、曇っていたため都心のビルを見ることはできませんでした。3年ほど前、同じ駐車場で新宿副都心のビルが小さく見えました。今は梅雨のシーズンですので、景色に期待することは無理のようです。
残念ながら、新宿副都心は曇りで見えず
奥多摩周遊道路を走り終わると五日市に着きました。久しぶりに黒茶屋に寄ってみることにしました。15年位前でしょうか、今は病んでいる家内の母親を招待してこの黒茶屋に来たことがあります。
黒茶屋入口の門 古い水車のお出迎え
この黒茶屋を知ったのは、何かの情報で苑内に古い農機具などが陳列されていると聞いたからです。そして、古い農機具を見るためにこの茶屋に来たのが、以降何度も来るようになったきっかけです。苑内全体が緑の中にあり、建物も古民家を移築したのではないかと思われます。梅雨のシーズンは、苔むした茅葺き屋根がとても趣があります。
梅雨のシーズンは特に、趣がある黒茶屋苑内
コース料理もあるのですが、今回は立ち寄りです。奥多摩渓谷を望むカフェテラスで軽く飲食することにしました。その前に、カフェテラスで食べるおやきを苑内の売店で買いました。作りたてなのでしょう、ほんわか暖かく食べごろのおやきでした。
苔むした風情いっぱいの黒茶屋 苑内の売店でおやきを購入
初夏にもかかわらず、渓谷から吹き上げる風の涼しかったこと。注文したコーヒーをゆっくり飲みながら、カフェテラスで家内と談笑しました。日曜日にも関わらず混んでおらず、のんびり座ることができました。時間の流れがとてもゆっくりに感じられました。
奥多摩渓谷を見下ろしながら、カフェテラスでのんびり飲食
カフェテラスで飲食を済ませると、渓谷沿いの小道をあちこち歩きながら緑に包まれた苑内を散策しました。渓谷からの涼しい風を浴びながらの森林浴と言ったところでしょうか。しばらく苑内を楽しんだ後、八王子の我家に帰りました。
渓谷から吹き上げる涼しい風 苑内の小道をあちこち散策
東京に行っている間にスモモが収穫時期を迎えていました。スモモの木には鈴成りに実がぶら下がっていました。枝を摘まんで揺らすと、熟れたスモモの実が2,3個落ちてきます。そして、実の甘い匂いに釣られるのでしょうか、カナブンが飛び回っていました。
真っ赤なスモモの実、上を見上げると鈴なり
落ちた実を手に取ると、少しプニュプニュと柔らかいので熟していると分かります。たくさんある実の一つ、皮を摘まんではがします。すると、ジューシーな黄色の果肉が姿を現します。そのままかぶりつくと、桃に似た優しい甘さが口内に広がります。
触ると少しプニュプニュ柔らかい 皮を剥がして一口食べる
今の時期は、初夏の果物がたくさん収穫できます。先日から収穫しているビワ、もうそろそろ終わりです。スモモは今が最盛期で、一週間後頃が終わりです。そして、スモモと入れ替わるように次は桃の番です。
桃はスモモの後のはずでしたが、今回思いがけなく早生の桃が収穫できました。熟し具合を確かめていると、ポロリと枝から落下した桃です。まだ硬いのですが、食べることができそうです。
初夏は果物の収穫シーズン、スモモ,ビワ,そして早生桃
スモモ,ビワ,そして早生桃以外に、ブルーベリーが初収穫できました。5月に苗をいただいたブルーベリーですが、たくさんの実の中に黒く熟しているものがありました。このブルーベリーは実が巨大です。小さな実のブルーべりーしか知らなかったので驚きました。黒い実を一口食べると、少しとろりとした上品な甘さでした。黒くなる途中の実は、熟していないのか酸っぱさが残っていました。
黒くなったブルーベリーの実を採種 巨大な実はとろりとした上品な甘さ
ところで、今は梅雨のシーズンです。東京に行っている間に、我家のアジサイが満開になっていました。アジサイは最初青色ですが、だんだん赤みが出てきます。土の酸性度がアジサイの花の色と関係があるとのことです。
満開のアジサイ、葉の緑と対照的な青色
アジサイに合わせて、この時期に咲く花があります。それは紫ツユクサです。東京で暮らしていた時に庭で咲いていたものを、山口県に持って帰ったものです。やはり花の色は青色です。梅雨のシーズン、アジサイや紫ツユクサの花が景色に溶け込み綺麗です。
可憐な紫ツユクサの花 白く大柄なクチナシの花
そして毎年この時期、クチナシも花を咲かせます。低い樹木に似合わず、大柄で白い花びらです。この花が散ると、橙色の変わった形のクチナシの実ができます。この実は、たくあんなどの食品の色付けに使われます。去年、たくあんの色付け用にクチナシの実を採種して乾燥しました。
別の品種のアジサイも満開、周囲だけ大きな花弁
東京に来た次の日(6月22日)、ユギ里山保全チームの方々と小麦の刈り取りをしました。このクラブは、ユギファーマーズクラブの畑チームが半年ほど前にそのまま分離独立したクラブです。活動場所は、以前のままで変わりません。私は東京にいた頃、どちらかと言うと分離独立を推奨していました。今回、その仲間達と久々に逢って小麦の刈り取りのお手伝いをすることにしました。昼食、おすそ分けしていただきました。Yさん、Mさんありがとうございました。
麦を刈り取っている方々 刈り取った麦を束ねる方々
ユギファーマーズクラブは発足して30年以上になりますが、当時のクラブ代表が亡くなった12年位前から高齢化に加えてクラブ内で考え方の違いが鮮明になってきました。ユギファーマーズクラブは、染色,畑、田んぼ,バードウォッチング,織物,炭焼き,養蚕などたくさんのチームや顧問のような方々から成っていました。私は、主に畑と田んぼをしていました。
そして、各チーム横断の活動もあり、例えば牛乳販売や牧草刈り取りなどの農家支援にも取り組んだことがありました。さらに、お茶を栽培してお茶にしたり、ソーセージを作るなどしました。落ち葉を集めて踏み込み温床を作り、その発酵熱で苗を育てたこともありました。また私の企画で、地域の方々を集めて里山の希少動物(サンショウウオ)保護活動の一環としての観察会を実施したこともありました。各人が自由にやりたい事をしていました。今や懐かしい思い出ばかりです。
しかし私が感じたことですが、自由すぎて無責任なケースがあった事、地域のかなりの農家に不評だった事実、実活動に出ないでおいて理念ばかり通す顧問がいた事、高齢化が進み若返りができなかった事、報告承認などが煩雑化して自由や意思疎通が損なわれるようになった事などの問題がありました。
これらの問題のためか、長い間に各チームは分離,独立,解散していきました。最後1年前に残ったのは畑と養蚕のチームでした。養蚕チームは自主独立で運営しているようですので、畑チームの分離独立をもって、ユギファーマーズクラブの実質的な解散ではないかと思っています。なお田んぼは、私以外に作業できる人がいないため他のクラブに移譲しています。
束ねた麦をはさに掛ける方々 農作業小屋脇に掛ける方々
私は、これまでユギファーマーズクラブで15年以上農作業を楽しんできました。そのかたわら、田んぼでお米作りをしながら近隣の小学校,中学校,高校,大学と協定して、生徒達に田植えや稲刈りなどを体験をさせる活動もしました。その他、地域の方々,専門学校生,ボーイスカウトなどとも。
この山口県では、畑や山がいくらでもあるのですが、たった一人で農作業するのはしんどいものです。無農薬の小麦やお米、そして野菜、果物などを作って加工することを楽しむ会でも作ったら面白いかなと思っています。例えば、白菜を育てて漬物を作ってみるとか,大根を種から育ててたくあんを作るとか,桃の袋かけをして収穫し食べてみるとか,小麦を作って刈り取り/脱穀/製粉してパンを作ってみるとか。はたして、この田布施町でこのように自分で作物を作って農産加工して楽しんでみたい人がいるでしょうか。
一緒に小麦の刈り取りを楽しんだ、東京の仲間達
ところで、私は家内と買い物の約束があったので午後仲間達と分かれて帰りました。その後、家内と一緒に道の駅(八王子滝山)に買い物に行ってきました。家内は以前からこの道の駅に行ってみたかったようです。この道の駅は、八王子から青梅や奥多摩に行くルート上にあります。このため、私は以前からこの道の駅を知っていました。しかし、実際に行ったのは今回が初めてでした。
地元の野菜がたくさん並ぶ 喫茶コーナーも併設
家内はショッピングが好きのようで、ぐるぐると同じコーナーを品定めしながら回ったり店員に聞くなどしていました。私は、もっぱらカゴを持って家内の後ろに付いてのお供でした。1時間くらいショッピングを楽しんでしょうか、そのうち雨が降ってきたため家に帰ることにしました。
田布施町の交流館も道の駅のようなものです。しかし、今回行った道の駅(八王子滝山)は人口約60万人の八王子市にあります。田布施町と八王子市の人口規模の違いが、店の規模に現れていました。ただし駐車場は、田布施町交流館の方が広大です。これまた土地が狭い都市と、土地が広い地方の差でしょうか。
雨が降りはじめ、路面が濡れた道の駅(八王子滝山)
11月,そして2月に東京の我家に行きましたが、4ヶ月ぶり6日21日に再び東京に行きました。そして、昨日6月25日に山口県に帰ってきました。今後は、4ヶ月ごとに年3回程度東京に行くようです。いつものことながら早朝に田布施駅に歩いて行きましたが、今回は台風4号のため雨混じりの中を歩きました。
早朝、行者山を右手に見つつ田布施川を駅に向かって歩く
行者山背後の石城山は雨で見えず
雨の中を田布施駅に着くと、がっかり!!台風のため、電車が40分の遅れです。余裕をもって歩いてきたので、なんとか徳山駅から乗る新幹線に間に合いそうでした。
しかし、その希望も打ち砕かれてしまいました。やっと乗った電車、のろのろ運転です。徳山駅に着いたものの、指定席を取っていた新幹線に間に合いませんでした。それからは、自由席を乗り継ぎながら東京にやっとこさ着きました。
40分遅れで乗った電車 あーあ、新幹線に間に合わず
新横浜駅で新幹線を降りると、JR橋本駅に向かいました。そこから京王線に乗り換え、さらにバスに乗りかえ、やっと南陽台バス停留所に着きました。雨に濡れた坂道を10分程度歩いて、ようやく東京の我家に着きました。家内が戻るまで2階でゆっくりと寝ました。家内が夕方戻ると、談笑しながら夕食を食べました。今回は台風4号と梅雨に泣かされた一日でした。
雨に濡れた南陽台を歩く 4ヶ月ぶりの我家
今一番よく使っているバイクは、Vecstar150と呼ぶ150ccのバイクです。排気量は少な目ですが、これでも高速道路を走ることができます。東京に住んでいた頃は、八王子と山梨県(上野原など)間の中央高速道路をよく走りました。山口県に住んでからは、機会がないので高速道路を走っていません。
さて、このバイク前輪のブレーキパットが減ったのか、シャリシャリ音をたてるようになりました。1年半前にディスクが段つきするほど摩耗したため、ディスクを交換しました。今回は、ディスクでなくブレーキパットが摩耗しました。山口県ではバイク店が少なく、あっても遠距離にあります。このため、今回は自分でブレーキパットを交換しました。
購入した新品ブレーキパット 硬いブレーキキャリパーのネジ
これまで何度か、摩耗したブレーキパットを新しく自分で交換したことがあります。このため、それほど大変な作業ではありません。一番大変なことは、新しいブレーキパットを手に入れることです。山口県ではバイク店が近くに無いため、どうしても通信販売で手に入れるしか方法がありません。いろいろ調査して、インターネットで注文して、近所のコンビニで支払できることを知りました。コンビニで支払うと、次の日には注文していたブレーキパットが届きました。便利な世の中になったものです。
ネジを2個外して、取り外したブレーキキャリパー
ブレーキパットを交換するには、ブレーキパットを固定しているブレーキキャリパーを取り外しました。2個のネジがとても固いのが一番の難点でした。ブレーキキャリパーを無事取り外すと、ブレーキパットを固定しているピンを抜くため、ピンを固定しているベータピンを抜きました。
これで摩耗したブレーキパットを取り外しました。
ベータピンをゆっくりと抜く ブレーキパットを固定するピンを抜く
摩耗したブレーキパット1個を取り外すと、同じ位置に新品のブレーキパットをはめ込みました。この時油圧ピストンを押し下げて、ディスクを挟める空間を開けておきます。開けないとディスクをブレーキパットが挟めません。
ブレーキキャリパーに組み込んだ新しいブレーキパット
以後、元のようにブレーキキャリパーをバイクに固定するだけです。2個のネジを固定してブレーキパットの交換は終わりです。摩耗したブレーキパット2個を見ると、パットの部分が減って無くなる寸前だったことが分かりました。交換しないでこのままバイクを使用し続ければ、さらに大きな音でシャリシャリ音が出たはずです。
ネジを回してブレーキキャリパーを固定 取り外した摩耗ブレーキパット
これで、前輪のディスクブレーキの修繕は終わりました。今後2年程度は、安心してバイクに乗ることができます。それにしても、バイク店がなかなか無い山口県の田舎で、簡単にブレーキパットのようなバイク部品を手に入れることができるのは嬉しいことです。7年ほど前に買い換えたこのバイク、今後20年位は自分で修繕しながら乗り続けようと思います。
ブレーキパットを交換し終わった私の150cc愛用バイク
我家で飼っている猫のリンちゃんは、先月からの放し飼いにすっかり慣れました。餌をもらうために我家に帰る以外は、気ままな生活を楽しんでいます。私が農作業をしているのを見つけると、静かにすり寄ってきて私にニャーと頭をこすり付けます。
自然の中で、おだやかな老生活を楽しんでいる?リンちゃん
しかし、もう老齢であることと,しばらく紐生活をしていたために敏捷性が落ちました。先日、狙っていた鳩に逃げられていました。以前のように鳩などを咥えて私に見せることはなくなりました。10歳以上のリンちゃん、穏やかな老生活を楽しんでいるようにもみえます。
10年前、2003.8.31のリンちゃん いたずら盛り2003.9.28のリンちゃん
収穫が終わった絹さやエンドウ,スナップエンドウ,グリーンピースが枯れ始めました。このため、これらを整理して夏秋野菜用の畝にしました。最初、半ば枯れた茎や葉を取り除きました。しかし、茎や葉が竹枝に絡みついているため、なかなか撤去できません。
枯れ始めた絹さやエンドウなど、夏秋野菜用に撤去
それでも少しずつ茎や枝を竹枝から外して撤去しました。撤去した葉や茎は一か所に集めて完全に枯らします。そして、小さく裁断して畑の土にうない込もうと思います。茎や葉が無くなると、今度は竹枝を抜いて撤去しました。残ったのは竹枝を支える支柱です。
竹枝から外して葉や茎を撤去 竹枝も撤去して支柱だけが残る
最後に残った支柱を片づけると、畑にはわずかな雑草と4月に植え付けたブラックベリーだけが畝に残りました。次に耕運機を倉庫から持ってきました。そして、丁寧に何往復もしながらブラックベリーだけ避けて耕耘しました。後日このブラックベリーが育つように支柱を立てるつもりです。その他の畝はさらに丁寧に耕耘して、夏秋野菜の畝にしました。
わずかな雑草とブラックベリー(〇の苗)だけが残る畝を耕耘
去年の秋に採種して植木鉢に埋めていたマテバシイが、発芽して小さな葉が出てきました。まず、しいの仲間では一番大きなどんぐりであるマテバシイ、芽も大きく成長も早いようです。このまま、植木鉢で育てて山か畑脇に植えようと思います。マテバシイは生食することができます。このため5~6年後にはどんぐりが実り始め、採集して食べることができるのではないかと思います。
次々に発芽して葉が出始めたマテバシイ
マテバシイに加えて、去年の秋に採種した植えたスダジイも発芽して葉が出始めました。マテバシイに比べて小さな葉がでています。神社にあるスダジイは巨木ですが、この巨木もこのような小さなどんぐりの芽からスタートしています。葉が出始めたマテバシイとスダジイ、どこに植えようか考えています。20年後の山の木々の配置をデザインしているのですが、から、なかなか難しいものがあります。
小さなスダジイの芽、神社のスダジイ巨木も元はこのような芽からスタート
雨がやんでいる間をみて、鶏頭の苗を植え付けました。花が綺麗な花鶏頭と、葉が綺麗な葉鶏頭です。私の母親が鶏頭が好きだとのことで、特別に今年は鶏頭の種をまいて苗を作ってから植え付けることにしました。
左が花鶏頭の苗、右は葉鶏頭の苗
ただ、鶏頭は移植に弱いと説明書に書いてありました。このため、いくつかの苗は根が活着しないのではないかと心配しています。このため、日が照っている間は移植しないで、雨が降りそうな前日を選んで移植しました。ちゃんと根が活着するでしょうか。
花鶏頭の苗を移植 移植した葉鶏頭の苗
先月植え付けたキュウリ苗とピーマン苗が大きく育ち、やっと実を収穫できるまでになりました。これからしばらくは、毎日のように収穫できると思います。キュウリは、実の表面に無数のトゲがあります。うっかり素手で触ると、チクチク痛くてたまりません。軍手でキュウリを持って、トゲを取り除いてから家に持って帰ります。
うっかり素手で触ると、トゲでチクチク痛いキュウリの表面
キュウリはキュウリネットに絡ませてあります。だいぶ上まで登りました。しかし、脇芽もどんどん伸びて、キュウリネットに這いあがる茎に加えて地上を這いまわる茎も出てきました。今になって剪定すれば良かったと思いました。地上を這いまわる茎も、なんとかキュウリネットに誘導しようと思います。
キュウリネットを登るキュウリ キュウリの花と幼実
ピーマンは次々に実がなっており、毎日実を収穫しています。そして、毎朝ピーマンを食べています。そのうち、食べ飽きるのではないかと心配しています。こんなに次々に実がなるのなら、植え付け数を減らせば良かったのではないかと思っています。
次々に実がなるピーマン、そのうち食べ飽きるのでは
同じ頃に植え付けたトマトとナスはまだ収穫できません。トマトは小さな実がなっているのですが、なかなか赤くなりません。トマトは雨が降ると裂果することがあります。そのため、雨避けのビニールをトマトの上に張ることがあります。トマト農家が必ずビニールハウスでトマトを栽培するのは、一つ雨避け対策があるのです。雨避けビニールを張らない我家のトマトは、果たして裂果しないでしょうか。
今回収穫したキュウリ三つ ピーマンはザクザク収穫
雨がやんでいるわずかな時間に、育苗していたマクワウリとスイカの苗を植え付けました。これまで何度か植え付けようかと思っていました。しかし、梅雨入りにもかかわらず雨がいっこうに降りませんでした。このため、植え付けがすっかり遅れてしまいました。
育苗したマクワウリの苗 植穴に苗を植え付け
マクワウリは、三つのポットにそれぞれ種を三つまいて苗を作りました。植え付ける時は、1つのポットに三つあった苗を二つに間引きました。今後苗の状況をみて、元気の良い苗一本に間引く予定です。スイカは二つのポットに苗を作りました。片手で持てるほどの小型のスイカです。ちゃんと育てば良いなと思っています。マクワウリは去年、たくさんの実をタヌキに食べられました。今年はタヌキ対策をしっかりしようと思います。
下〇三つはマクワウリの苗、上〇二つは小型スイカの苗
4月に袋をかけたビワ、今が収穫の最盛期です。袋をかけなかったビワはどう言う訳か、きれいに無くなっています。おそらく虫に食われたのか、実を鳥に食われたのでしょう。我家には接するように山が迫っており、鳥などがたくさん住んでいます。早朝、鳥の鳴き声がうるさいほど聞こえます。それらの鳥などが、食べたのではないかと思います。
袋を開けると、とても美味しそうなビワ
ただ、どの実も小さ目のものばかりでした。袋をかける時にもっと実を摘果すれば良かったのではないかと思います。また、実が小さな品種のビワかも知れません。しかし、味は一級です。市販のビワに劣りません。
皮をスーっと剥ぎ取った実 食べると、ビラらしい甘み
ビワの木は一本ですが、袋は30個位かけています。しばらくは、毎日のように実を食べることができます。皮も剥ぎやすいし、果肉もサクサクと食べることができます。昼食後や夕食後、デザートとしてビワを食べています。
手に持てないほどのビワの実、匂いも色も良し
来月予定の石城山山頂ウォーキングの下見に行ってきました。当初、田布施町の交流館から歩いて石城山まで歩く予定でした。しかし、この暑い夏のこと、石城山に着くまでに体力を消耗しそうです。このため予定を変更して、交流館から石城山までは車で移動することに決めました。石城山の駐車場に車を止めて、そこから石城山を一周するウォーキングです。この正月に歩いたルートとほぼ同じルートを下見しました。
ウォーキングするルートは、最初数ある神社をお参りし、古代朝鮮式山城跡(神護石)をぐるりと回って、第2奇兵隊本陣跡や神護寺跡などを見学するルートです。
静かな林の中、宇波奈利社 水に浮かぶ葦原神社
最初に訪れたのは、小さな祠のような荒神社でした。続いて山道沿いに並んでいる小さな神社を参拝しました。そして、建物が一番大きな日本神社に行きました。ここには、国歌に歌われているさざれ石が置いてありました。次に、石城山神社に行きました。前回来た時は見晴らしが悪かったのですが、今回は木や竹が切り払われていて柳井方面の展望が開けていました。
石城山神社からの展望、 大波野,余田,新庄,柳井方面
石城山神社の近くの谷に、神田が作ってありました。冬に来た時はここが何か分かりませんでしたが、今回来て分かりました。谷の小さな田んぼに稲が植えてあり、周りには切り下げが付いたしめ縄が張ってありました。
石城山神社,神田の次にいくつかの神社を参拝しました。そして、石城山最高峰(362m)の頂上に行きました。この山頂には高見神社があり、斜面広場のようで少し広々としていました。展望が良く、柳井方面が遠くまで見通すことができました。本番ウォーキングの時は、昼食休憩に良い場所ではないかと思います。広々としており、座って景色を楽しむことができます。
切り下げ付きのしめ縄で囲まれた神田 石城山最高峰(362m)からの眺め
石城山最高峰から少し降りると、古代朝鮮式山城跡(神護石)を巡るルートのウォーキングです。多少アップダウンがあるものの歩きやすい山道が続いています。最初の石積み跡は東水門です。ここは、まさに石積み工法で石が積み重ねられています。1000年以上の時をこえて、見ている人に何かを訴えるような威圧感があります。
石城山頂を囲むように並ぶ神護石 東水門の石積みの石垣
東水門を過ぎて、数百メートル進むと北水門に出ます。ここの石垣もなかなか立派です。これらの古代山城の石垣を見ていると、いつ誰が何のために作ったのか思わずにはいられません。何百何千人もの人が働いて石積みしたのでしょう。それだけ、この地方には権力者がいたのだと思います。実際、田布施町城南には国森古墳などの古代の墓がたくさんあります。これらの古墳とこの古代山城跡は何らかの関わりがあるに違いありません。また、石積み工法は古代朝鮮の百済や新羅と共通の技術です。はるか古代、大陸から渡ってきた渡来人との関わりもあるに違いありません。
100m近くにわたって積まれた古代山城の北水門の石垣
北水門から300m位の場所に、今度は西水門の石垣があります。ここは、これまでの石垣と違って3段構成になっています。また、これまでの石垣が石積みだったのが、現代の石垣に近い構成となっています。
ところで、山頂を石垣でぐるりと囲む方式は、古代朝鮮の城に多いそうです。百済や新羅にこのような形式の城が点在します。生活基盤である山頂を防御のために石垣でぐるりと囲むのは、一種の城壁ではないかと思います。町ごと城壁で囲む方式は、大陸に数多くあります。城壁を作らない日本では、山頂を囲むようなこの山城跡は珍しいと思います。大陸の影響が強い工法です。
一部が崩れるも、3段になっている西水門の石垣
古代朝鮮式山城跡(神護石)を巡るルートの最後、以前休憩所があった広場に着きます。この広場から山を数分登ると石城山の三角点があります。石城山に登る人はとても多いのですが、この三角点に行く人は極めてまれです。今は木々で覆われた三角点ですが、昔は見通しが良かったのでしょう。
三角点を見終わると、神護寺跡や第2奇兵隊本陣跡に行きました。神護寺は、明治維新の廃仏毀釈で廃寺となりました。ここの鐘などは、そっくり平生大野にある神護寺に移されました。平生大野の神護寺はこの石城山の神護寺が起源のようです。近くの石城神社を参拝後、茅葺きの山門を通ってスタートした駐車場に戻りました。
木々に囲まれた石城山三角点 神護寺跡と第2奇兵隊本陣跡碑
今回、歩いた距離を測るウォーキングメーターは持って行きませんでした。神社や古代朝鮮式山城跡(神護石)ルートは階段多くて正確に歩いた距離を測れません。GPSを持って行ったので、そのGPSで測りました。
下図の黄色の線が今回歩いたルートです。第2奇兵隊の弾薬倉庫跡や三角点に行かなければ距離は3kmほどです。木陰ばかりのルートですので、涼しく歩きやすいのではないかと思います。ただし、ヤブ蚊が出ますので、携帯蚊取り線香が必要かと思いました。
石城山を囲むように歩いたルート(黄色の線)
昨日は雨でしたが、今日(16日)は快晴でした。ほぼ平坦な道ばかりで歩きやすく、しかも程度な風が吹いて快適なウォーキングとなりました。特に平生湾沿いの小道は、海風が吹いて涼しく楽しいウォーキングでした。スタート時に配った史跡資料を説明しながら歩きました。
今回ウォーキングしたルート、平生JAから田布施町交流館まで
最初に平生町の習成中学校跡地に行き、その近くにあった旧平生保育園の跡地も見学しました。続いて南蛮樋にも行きました。そして、昔の平生街中心部を歩きながら久賀島に行き、江戸時代の平生干拓で亡くなった方々を弔う玖珂島観音寺跡に行きました。ここは玖珂島の高台にあり、平生街から宇佐木方面を眼下に見渡せました。
習成中学校跡地にある碑を見学 江戸期干拓犠牲者を弔う観音寺跡
次に真覚寺に行きました。ご住職から、本堂に招かれて冷たいお茶や茶菓子をいただきました。そして、お寺についていろいろお話しを伺いました。お心使いありがとうございました。真覚寺は岩国の吉川が起源とのことで、1660年頃の創建とのことでした。それ以来、平生の教育などに多大な功績があったそうです。幕末にシーボルトとゆかりのあった岡氏のお墓を見学させていただきました。
真覚寺の本堂で、ご住職の方にいろいろお話しを伺う
真覚寺を見学後、平生座があった場所に行ってみました。しかし、その場所にはアパートが建っており往時の町並みは残っていませんでした。次に玖珂島神社に行ってみました。この神社は、平生が干拓され始めた江戸時代中頃(1700年代)に創建されたのではないかと思います。鳥居に正徳6年(1716年)と刻まれていました。この近くは「新市」と呼ばれ、当時は市が開かれていたのかも知れません。玖珂島神社前の通りには立派なお屋敷の跡が残っていました。
正徳6年(1716年)と刻まれた石鳥居 玖珂島神社前通りの立派なお屋敷跡
玖珂島神社をすぎると平生湾に出ました。そして、左手に平生湾を、右手に塩田だった角浜や人島浜を見ながらのんびり歩きました。旧塩田跡地には工場や民家などが林立しており、塩田だったとは思えないほど変貌していました。この平生湾から田布施川河口沿いの小道は、涼しい海風が吹いており快適なウォーキングを楽しむことができました。
八海橋袂を過ぎると、人島浜の北端にあるため池に着きました。水面には、たくさんの水鳥の巣がありました。立ったまま休憩しつつ、サギなどの水鳥を観察しました。
涼しい海風が吹く、平生湾沿いの小道 人島浜北端ため池の水鳥を観察
ため池を過ぎた場所に荒砂神社があります。ここでしばらく昼食休憩にしました。この神社、昔はちょっとした広場でしたが、今は真っ赤な鳥居や灯篭が林立していました。木陰に腰をかけて、談笑しつつ休憩しました。
荒砂神社にて、今回のウォーキング参加者5人
昼食休憩が終わると、私の従兄弟Uさんの家に行きました。そして、おトイレをお借りしました。Uさんありがとうございました。
これまで私は気がつかなかったのですが、従兄弟の家のお庭にはいろいろな木が選んで植えられています。また、その木々を愛でるように茶室があつらえてあります。そして、門の前には毎度花が生けてあるそうです。この家が気になっていたらしい参加者のEさんは、この家に入ってとても喜んでいました。また機会があれば訪問して、お茶室やお庭を見学させてもらおうと思います。
従兄弟Uさんの緑あふれる庭 もうすぐ灸川と田布施川の合流地点
従兄弟の家を出ると、真っ直ぐ田布施川沿いを田布施町に向かって歩きました。ここからは日陰がまったくありません。水分を補給しながらのんびり歩きました。田植えが終わった広い田んぼを左右に見ながらのウォーキングです。関戸橋からは桜の木陰の下を歩きました。しばらく談笑しながら歩くと、田布施交流館が見えてきました。初夏の暑い日差しの中、参加者の皆さんお疲れ様でした。
※前前回4月のウォーキング中、訪れた麻郷神社に祭られている世良修蔵の解説をしました。その世良修蔵、NHK大河ドラマ「八重の桜」にやはり出ていました。ただ、あまりに悪役として出ていたので少し残念です。この人は、柳井市妙円寺の月性に学び、阿月の克己堂で教えていたそうです。さらに第2奇兵隊の総監も勤めるなど、幕末にこの田布施や平生などを駆け回っていたはずです。鳥羽伏見で戦果をあげるなど、木戸孝允とも親交があり、なかなかの戦時指導者だったように思えます。しかし、奥羽鎮撫総督府下参謀として仙台に赴いたときに暗殺されてしまいました。京都で会津藩から手痛い打撃を受けた長州藩の恨みをはらすことを一心に受けたと思われる奥羽鎮撫の政策に、やや無理があったのかも,また奥羽の状況を甘くみていたのかも知れません。
田布施や平生などの史跡を回っていると、幕末から明治維新にかけていかに多くの長州人が犠牲になったかが分かります。
田植えが終わったばかりの広大な田んぼを左右に見ながらウォーキング
※第1回から最終回の第8回までのウォーキングは、次のとおりです。クリックしてみてください。
第1回 麻里府~八海 第2回 田名~平生 第3回 八海~交流館
第4回 平生~交流館 第5回 交流館~城南 第6回 交流館~行者山~田布施街
第7回 城南~光市塩田 第8回 小行司~余田畑
==========健康ウォーキングクラブ==========
先週、麻郷ふるさと会で麻郷嵯峨音頭の説明会がありました。今回(15日)、その麻郷嵯峨音頭の最初の練習がありました。大人は18時に集合して練習し、子供は18時半の集合です。私は、踊りの練習をするのかと思って参加しました。すると、今回は太鼓の練習でした。
子供から順に参加者の紹介 最初、去年太鼓を叩いた子供の実演
太鼓の練習、簡単とは言えやはり一度では覚えられません。あと、3,4回来ないと覚えられなさそうです。
大人の練習が一通り終わった18時半に子供たちが集合しました。全員着席後、子供達から順に参加者の紹介がありました。子供が終わると、大人の参加者の紹介でした。私は、最後に参加登録したので最後に紹介されました。8月の盆踊り本番まで、ほぼ一週間毎に練習があります。願わくば、太鼓,歌詞,そして最低でも踊りだけでも覚えられるとよいのですが。
今年初めて参加の子供達が太鼓の練習
このSONY製トランジスタラジオ TR-610の修理履歴です。それぞれをクリックしてください。
修理(1/6) 修理(2/6) 修理(3/6) 修理(4/6)
修理(5/6) 修理(6/6)
久しぶりの雨ですので、農作業ができません。このため、SONYのトランジスタラジオ TR-610の最後の修理をしました。電子回路の修理はすでに完了しているため、ラジオ全体を拭いたりして外観を綺麗にしました。
このラジオは、落下時にできたのかスピーカーの前面穴あきアルミが少し窪んでいます。最初、この窪みを直すことから始めました。
スピーカーの前面穴あきアルミが少し窪み
窪みを直すためラジオを3枚開きにしました。そして、スピーカーを抑える内枠を外しました。その内枠を外すと、スピーカーと穴あきアルミを支える外枠を外しました。すると、穴あきアルミとスピーカーがポロリと外れました。黒いスピーカーには積年のゴミが溜まっていました。そのゴミを刷毛で取りました。
外したスピーカーには積年のゴミ付着 内枠を取り付けてスピーカーなどを固定
次に、穴あきアルミの窪みを指で押したりして直しました。そして、スピーカー,外枠,内枠,穴あきアルミを元のように筐体に固定しました。固定が終わると、ラジオの電子回路基板を筐体に収めました。さらに、ラジオの裏蓋をはめ込みました。これで、ラジオの内部の掃除は終わりです。
回路基板を筐体に収める ラジオを濡らしたチリ紙で清掃
ラジオの内部と外部の清掃が終わり、トラッキング調整をしようと思いました。しかし、周波数の全域でラジオ放送局がとても良く入ります。局部発信のコアが欠けているため、無理して調整して壊すリスクは避けることにしました。このままでも十分に放送局を聞くことができます。
修理が終わったトランジスタラジオ TR-610
このラジオには黒い革のカバーが付いています。このラジオを包む黒い革です。見た目はそれほど汚れていませんが、濡れティッシユで軽く全体を拭いておきました。
まだ真空管ラジオが全盛だった時代、このラジオを持っていることはとてもステイタスシンボルではなかったかと思います。そして、このラジオは今のIC時代に繋がる半導体時代幕開けの製品の一つだったのではないかと思います。
これで、このSONY製トランジスタラジオ TR-610の修理を終わります。
黒い革カバーを濡れティシュで拭く ベランダでラジオ放送を受信中