2月のウォーキングの下見に友達2人と行ってきました。事前に調査してコースを決めていたため、見どころ,説明内容,何気ないお地蔵様,トイレなどを確認しながら楽しく下見しました。いつもは一人で下見するので、のんびりと談笑しながら下見できました。愉快な(でもないかな?)ハプニングもありました。事前調査したコースのうち、海岸コースを省いたコースを下見としてウォーキングしました。
最初に菅原天神を訪れる 片野川傍の何気ないお地蔵様
最初、柳井川に沿う波止場跡に沿って歩きました。そして、最初に訪れたのは朱色が綺麗な菅原天神です。そして、次の目的地である代田八幡宮に向いました。その途中、片野川にかかる橋近くのお地蔵様を掃除している方にお話しを伺いました。そして、そのお地蔵様建立の由来を聞きました。すると昔、柳井に大火にあった後に弔いのため建立された80基のお地蔵様の一つだとのことでした。そのお地蔵様の貴重なお話を伺った後、しばらく歩いて代田八幡宮に着きました。
建立1300年の記念碑が建っていた代田八幡宮
代田八幡宮にお勤めの方に少しお話しを伺いました。この神社は、九州の宇佐神宮が由来とのことでした。確か、麻郷の高松八幡宮も同じではなかったかと思います。代田八幡宮の境内を見学後、軽い上り坂を茶臼山古墳に向けて歩きました。途中柳井病院の真ん中を通りました。古墳に着くと、古代の田布施,平生,柳井の鳥瞰地図を見ました。鳥瞰地図を見ながら、三人で古代について談笑しました。
古代のこの地域の鳥瞰地図を見る 右手にウォーキングメーターを持ち
方墳部から円墳部に登るN君
鳥瞰地図を見終わると、茶臼山前方後円墳に登ってみました。今回も天気が良く、琴石山などの山々,柳井湾,柳井市街や田布施方面が良く見渡せました。この頃ちょうどお昼でしたので、円墳の途中に座ってお昼休憩にしました。
この古墳は横穴式ではなく竪穴式ですので、時代的には古い方ではないかと思います。近くの古墳との対比では、国森古墳が最古で、次に茶臼山古墳、そして後井古墳の順に作られたそうです。国森古墳と後井古墳は、田布施川沿い史跡巡り8回シリーズの5回目で訪れました。ちなみに、国森古墳と茶臼山古墳は竪穴式で、後井古墳は横穴式です。
快晴の中、茶臼山古墳に登ってお昼休憩
茶臼山古墳を降りると、資料館に行ってみました。トイレをお借りした後、資料を見学させていただきました。この資料館の目玉は、日本最大(最近まで)で最重量(今でも)の銅鏡です。この銅鏡は国産とのことで、その証拠のお話も伺いました。卑弥呼の時代、これらの銅鏡を作る技術者集団が当時の日本にいたのでしょう。
古墳脇の資料館を見学 古墳を後に、軽い坂道を下る
茶臼山古墳を見学し終わると、丘の上公園に向かいました。その途中、とても愉快なハプニングがありました。歩いた距離を測るウォーキングメーターの電池蓋が紛失していたのです。どこかに落ちていないか探しながら、元来た道をどんどん戻りました。そして、見つけました。茶臼山古墳の方墳部と円墳部の間に落ちていました。いやあ、見つかって良かった!
そもそも紛失に気が付いたきっかけは、私がYさんとの携帯電話に気を取られてうっかり道順を間違えてしまったことです。Yさんから電話がかからなければ、ずっと気が付かないまま歩き続けていたことになります。Yさんありがとう(笑)。
紛失物を発見しているN君 国木田独歩旧宅に到着
ウォーキングメーターの電池蓋を発見後、同じ道に戻り丘の上公園に行きました。ここにもトイレがあります。今回のウォーキングコースは、トイレの場所に困らないので嬉しいです。丘の上公園で、立ったまま休憩しました。そして、これまで歩いたコースを振り返りました。次に国木田独歩旧宅に行きました。そして、普慶寺に行きました。山門の力士像がとても立派なお寺です。
柳井市で一番古い普慶寺、力士像がとても立派な山門
普慶寺を過ぎると、入り組んだ細道を左右に抜けて湘江庵に行きました。そこで、五代目の柳の木と井戸を眺めました。平成7年頃に四代目の柳から五代目に柳に継いだようです。四代目の柳の切株が飾ってありました。湘江庵を見終わると、隣りの誓光寺に行きました。幹がとても太いイチョウの木を見上げたり、ヒマラヤ杉を見上げました。たまたまN君の頭上にヒマラヤ杉の種(松ぼっくり)が落ちてきました。頭に当たったら痛かったことでしょう。
誓光寺を見学し終わると、近くの白壁の街に出ました。本番のウォーキングではこの白壁の街で解散にしようと思います。N君とEさんは電車で、私はバイクで柳井を後にしました。
五代目柳の木と井戸の湘江庵 屋根のカーブが見事な誓光寺
家に帰ってから、今回下見で歩いたコースを振り返ってみました。ウォーキングメーターの値は、スタートしたJR柳井駅から戻ったJR柳井駅までジャスト8kmでした。古代から近代までの名所旧跡を訪ねることができました。下図のA(赤色)地点でウォーキングメーターの蓋が紛失していることを見つけ古墳まで戻ったことはハプニングでした。当分はこの話題で笑いが絶えないことでしょう。
2月予定の柳井市街ウォーキングのコース
ウォーキングの下見をして家に帰り着くと、宅急便が届いていました。娘から私への誕生日のプレゼントでした。あらかじめメールで知らせてくれていましたのですぐに分かりました。去年は食べ物でしたが、今年は服でした。以前、パイロットシャツがいいかな、と言ったことがあるので服を贈ってくれたのでしょう。
届いた宅急便を開ける 透明な袋に入った長袖
袋から出してみると、色がネイビーブルーの夏の長袖シャツです。カタログを読むと涼感効果がある服のようです。携帯電話を納めるポケットも付いています。今はまだ寒い冬なので着ることは出来ませんが、春先になって暖かくなれば着てみようと思います。ありがたいことです。娘は今年結婚するようです。幸せになって欲しいと願っています。
清涼感のある服、暖かくなった春に着てみよう
ひかり観音 調査編 に関する履歴です。それぞれをクリックしてください。以降は、実証編へ続く。
調査(1/5) 調査(2/5) 調査(3/5) 調査(4/5) 調査(5/5)
先日、呉麓山ウォーキングの調査のため田布施町城南西山地区にあるひかり観音に登ってみました。そして、その鏡のような岩を見ました。その岩と、古代にピカリと光っていたと言う伝説の関係を確かめてみたくなりました。そこで、その鏡のような岩がほぼ東を向いていることから、もしかしたら東に登った太陽光をひかり観音が反射しているのではないかと思いました。そこで、その反射先の範囲(反射光が見える場所)を想定してみました。
下の図で、中心の赤い線はひかり観音から真東を向いた線です。上に向かう赤い線はひかり観音が見えやすい北限線です。下に向かう赤い線はひかり観音が見えやすい南限線です。
ひかり観音が見えやすい視界の北限南限範囲
ひかり観音が見える視界の角度範囲は、真北を0度として83度から101度の範囲です。なお、真東は90度です。真東90度の位置にある太陽は、夏の7~9時の頃です。もし、真東に太陽があるときに、ひかり観音からの反射光が見えたと仮定すると、下の図の中心の赤い線上です。場所は、田布施駅脇の陸橋、祇園様などの線上です。
伝説では航行する船から光が見えたそうです。古代、柳井~田布施~平生にかけては海でしたので、船が航行していたのは間違いないようです。ところで、古代の船は、今のような動力はありません。風,オール,そして潮流で航行していたはずです。今のヨットのように風を使いこなせかったと思われるため、主にオールと潮流だったのではないでしょうか。何かの資料に、古代の航法が載っていたように思います。
柳井から船で来て、平生に船を進める場合の航行方法は次のようだったと思われます。柳井から上げ潮に乗って余田近くまで行きます。余田に着くと、オール(櫂)で八和田近くまでこぎます。そして今度は、下げ潮に乗って平生を抜け瀬戸内海に出ます。このように潮の干満を使って船を進める航法は、速度がやや遅いものの一番楽ちんな省エネ航法です。上関側を通るより楽ではなかったかと思います。
なお、これに近い航法はつい最近の明治時代まで行われていたようです。今の大晃機械傍の法寺坊近くあったらしい船回し、上げ潮の時に水場や八海から灸川を経由して運河の堀川を上りました。そして、田布施の荷物を載せた後、舳先を戻して下げ潮の時に同じく堀川を通って八海や水場に向けて下ったようです。なお、灸川にできた排水機場のため、今は堀川に潮が上がることはありません。
11日に数人でひかり観音に行って、岩の正確な傾斜角,仰角,高度,北緯東経,方角などを調査する予定です。この調査結果と天文知識を総合して、真意を精査しようと思います。
黄色は予定観測ポイント、青線は古代の航行ルート(推定)
1/2からの続き。
茶臼山古墳の円墳部に登って、周りの景色を眺めました。この古墳ができた頃、今の柳井市の古開作,新庄,余田は海だったはずです。さらに田布施,平生方面に海が続いていたはずです。この古墳ができるさらに数百年前、この付近の勢力の中心は柳井ではなく田布施だったと思われます。余田付近の海が閉じて、上関半島が島ではなく半島になった頃に何かが変わったのではないかと思います。私は、余田付近の海の閉鎖による海上交通の変化が勢力に変化をもたらしたのではないかと思います。
茶臼山古墳脇の資料館 石鳥居の向こうに代田八幡宮の社
茶臼山古墳の脇にある資料館を少し見学して、次に代田八幡宮に向かいました。途中柳井病院隣を通過したのですが、誤って川に沿う道を下ってしまいました。道を戻って予定のコースに戻りました。ため池横を通って代田八幡宮に入りました。代田八幡宮を見学後、しばらく歩いて菅原天神に行きました。境内には、青銅製の大きな牛が寝そべっています。
青銅製の大きな牛が寝そべる、色鮮やかな菅原天神
菅原天神を過ぎると、柳井川の堤防沿いの道を下流に向かって歩きました。柳井湾に出ると漁港がありました。漁協関連の方にお話を聞くと、この漁港は山口県漁協の柳井支部的な所だとのことでした。阿月にある建物に、事務などをする人が勤めているとのことでした。この漁港からは、さきほどまで歩いていた茶臼山古墳や柳井病院などが見えました。漁港を後にしてすぐ、柳井排水機場に着きました。その排水施設に並行する橋を通って、川の反対側に渡りました。
漁港から琴石山を見て 〇:茶臼山古墳 柳井川排水機場 矢印:渡った橋
柳井川排水機場の橋を渡ると、火力発電所に向かって歩きました。しばらくすると、国道新188号線が通る大きな橋の下をくぐりました。橋をくぐっていると、橋の下に火力発電所の煙突が見えました。橋の下をくぐり抜けると、少し響くような音が聞こえてきました。周東環境衛生組合清掃センターのゴミ焼却場です。とても高い煙突から、煙がもくもくと上がっていました。
国道新188号線の橋の下をくぐっていると、火力発電所の煙突が見える
火力発電所を左手に見ながら、ぐるりと北浜に沿う堤防脇を歩きました。しかし、堤防は防潮堤にもなっているのでしょう、とても高くて海を見ることはできませんでした。このため、景色を堪能しながらのウォーキングは望ませんでした。対岸が伊保庄の、工場地帯を抜けるようにもくもくと歩きました。しばらくすると、さくら土手が見えてきました。
対岸が伊保庄の、工場地帯を抜けるとさくら土手に出る。向こうに旭橋が見える
さくら土手の途中にとても古い橋、旭橋が見えてきました。旭橋は昨年の今頃までは歩いて渡ることができました。しかし、今は渡ることができません。解体を待っているようです。橋の袂に、昭和6年架橋とうっすら彫ってありました。旭橋を見終わると、柳井市内に向けて歩きました。
途中、とても貴重な遺跡天津橋を見ました。ルネサス柳井セミコダクタの敷地に保存してあります。とても珍しい石の橋です。私が子供の頃、運河に架かっていたこの橋を覚えています。運河はすでに埋め立てられているため、一見すると今は巨大な庭石にしか見えません。
天津橋からどんどん歩いて線路を超え、午後5時頃にJR柳井駅に到着しました。歩いた距離は15kmです。8kmほどに絞ってから再度下見をしようと思います。ただし、茶臼山古墳は外さないようにしようと思います。
通行禁止の旭橋(昭和6年架橋) 石橋の天津橋、運河は埋め立て済み
下図の橙色のルートは今回、柳と井戸~国木田独歩旧宅~茶臼山古墳ウォーキング調査のため歩いたルートです。あちこち試行錯誤しながら歩きやすいルートを探索しました。本番のウォーキングでは、訪れる名所旧跡を絞ってウォーキングする距離を9kmほどに短縮し、29日に下見をしようと思います。
柳と井戸~国木田独歩旧宅~茶臼山古墳ウォーキング調査のため歩いたルート(2/2)
2月に柳井市内をウォーキングする予定です。その準備のため、24日調査に行ってきました。JR柳井駅をスタートして、柳井駅を終点にするコースです。歩いた個所は、JR柳井駅から誓光寺,柳と井戸の湘江庵,普慶寺,国木田独歩旧宅,丘の上公園,法務局,茶臼山古墳,代田八幡宮,菅原神社,漁港,柳井川排水機場,周南環境衛生組合清掃センター,旭橋(現在通行止め),さくら土手,天津橋,そしてJR柳井駅です。
歩いた距離は15kmほどでした。本番ウォーキング時は、少し省いて9km位に抑えようと思っています。今回は午後から歩き始めたため、JR柳井駅に着いた頃は午後5時頃でした。ほぼ休みなしで歩いたため、少しばかり疲れてしまいました。
JR柳井駅から見た広島銀行方面 むろやの園を誓光寺に向かう
柳井駅近くにバイクを止めて、JR柳井駅に向かいました。そして、駅北口の北東方面のまっすぐな通りに向けてスタートしました。広島銀行前を通り、橋を渡り、有形民俗文化商家博物館むろやの園の角をまがり、最初に誓光寺に行きました。いつもながら立派や屋根瓦です。続いて、柳井の由来となったと言われるの柳の井戸の湘江庵に行きました。
柳井の名の由来と言われる柳と井戸、湘江庵
湘江庵を見学し終わると、今度は普慶寺に行きました。このお寺は柳井で一番古いお寺とのことです。普通のお寺は仏教寺院だけあるのですが、ここには神社のような仏教ではないと思われる建物があります。一種不思議な空間に立ち入った感覚です。
続いて、普慶寺の隣りにある国木田独歩旧宅を見学しました。この旧宅に来たのは、去年の3月のお大師様詣り以来のことです。地図上では普慶寺の北隣りではありますが、崖の上にあるため回り込まないと行くことができません。回り込むように坂を上がっていくと、その旧宅があります。麻郷や麻里府の仮寓は残っていませんが、柳井のこの旧宅は綺麗に保存されています。
柳井で一番古くからある普慶寺 丁寧に保存されている国木田独歩旧宅
国木田独歩旧宅を見学し終わると、丘の上公園に行きました。丘の上公園の南に隣接して田んぼがあります。この田んぼ、どこから水を引くのだろうと不思議に思います。遮るものがない田んぼですので、稲は良く育つと思います。この田んぼから南を見ると、これから行く茶臼山古墳,代田八幡宮,火力発電所などがよく見えました。
丘の上公園の南に隣接する田んぼからの展望
左〇から、茶臼山古墳,柳井病院,代田八幡宮,火力発電所
丘の上公園を降りると、あちこち道を試行錯誤して通りながら茶臼山古墳に向かって歩きました。法務局付近から、やや登りの道を2km位歩きました。大屋団地を過ぎる頃に、巨大な古墳が目の前に現れます。回り込むように道を歩いてようやく茶臼山古墳に到着です。この古墳に来たのは去年の5月以来のことです。本番ウォーキングでは、この古墳の上か傍の芝生の上で昼食休憩にしようと思います。2/2へ続く。
茶臼山古墳の後円部から見上げた琴石山
下図の橙色のルートは今回、柳と井戸~国木田独歩旧宅~茶臼山古墳ウォーキング調査のため歩いたルートです。あちこち試行錯誤しながら、道を間違えてしまったり、同じ道をぐるぐる回ったりしました。全15kmほど歩きました。本番のウォーキングでは訪れる名所旧跡を絞って9kmほどに短縮しようと思います。
柳と井戸~国木田独歩旧宅~茶臼山古墳ウォーキング調査のため歩いたルート(1/2)
昨日(24日)、久しぶりに小中高校の同級生と会いました。そして、上関にあるレストラン瀬里家に行きました。この今月始めにはほぼ同じ同級生と、去年は家内と行った場所です。今回、私はキスやアジなどの天ぷら料理を食べました。
瀬里家から見た八島方面 キスやアジなどの天ぷら料理
美味しい料理を食べ終わると、Nn君が運転する車で去年ウォーキングで行った上盛山に登りました。Nn君、運転ありがとう。展望台からの360度の景色は最高です。九州の国東半島の一部や、四国の佐田岬などがうっすらと見えました。同級生4人で談笑しながら景色を楽しみました。
レストラン瀬里家で、魚料理を楽しむ同級生4人
上関から帰るといったん家にもどりました。家に戻ると、猫のリンちゃんが去年作った猫小屋で幸せそうに寝ていました。電気のヒーターが暖かく、ポカポカしていたのでしょう。
6時半頃に田布施町の中央公民館に行き、Na君が芝居する舞台をセッティングする手伝いをしました。そして、Na君の芝居の練習を見ました。3月の22,23,24日に、Na君が講演する刑事物語の準備の一つです。
暖房付きの猫我家でおだやかに寝ているリン、幸せそうな顔
一通り舞台を作ってスポットライトをセッティングし終わると、Na君の芝居の練習開始です。まだ完全にはせりふが入っていないようで、ときどき詰まることがありました。しかし、本番までには彼の体に完全に入ると思います。ぜひ頑張って欲しいと思います。本番時にも手伝いするかたわら応援しようと思います。
舞台床を組み立てて布を張る スポットライトをセッティング
私は、かつてジャズを演奏していたことがあります。スポットライトが当たって客がよく見えず、又あがってしまって、本来の演奏ができなかったことなどがありました。今回手伝った舞台やスポットライトを見ていると、わくわくしていた昔の自分を思い出してしまいました。
舞台が完成して、これからNa君の練習開始
我家の前にある庭木、亡き父親が30年位前に植えたようです。しかし、今では茂りすぎて冬は1階が影になってしまいます。そこで、一部の庭木を伐採して燃やすことにしました。庭木も小さなうちは綺麗で見栄えが良いのですが、大きくなるとあつかいに困ります。伐採や焼却などが大変です。
今回伐採した庭木4本 最初、門の南側2本を伐採
この庭木を畑側に倒すため、あらかじめ倒す側の畑にトラクタを用意しておきました。幹の畑側にV字型の切れ目を入れた後に、幹上部にロープを縛ってトラクタに結び付けました。そして、わずかに引っ張りました。そして、切れ目を入れた反対側からチェーンソーで3/4位切りました。
幹にロープを結びつけ引っ張る 幹をチェーンソーで切る
手で押すとぐらぐらするほどさらに幹を切ると、幹を縛ったロープをゆっくりとトラクタで引っ張りました。すると、バリバリ音を立てながら庭木が倒れました。幹が完全に切断されていることを確認して、さらに引っ張ると庭木が畑側にゴロンと倒れこみました。
ロープで結びつけた庭木を引っ張ると、畑側に倒れる
倒れた場所では庭木を解体できないため、さらにトラクタで引っ張り畑の中央まで運びました。このようにして、次々に4本の庭木を伐採しました。伐採後、幹の切り口から樹木特有の臭いが漂いました。
解体しやすい場所に運ぶ 綺麗に伐採した4本の庭木
伐採した庭木は少しずつ枝を切って燃やそうと思います。今回は4本のうちの一本の枝を切り燃やしました。生木ですのであまり燃えないかと思っていたら、意外とよく燃えました。
この伐採で、一階の部屋には太陽の光がよく差し込むようになりました。後日、伐採した跡に新しい落葉樹を植えようと思います。できるなら紅葉が綺麗な落葉樹が良いです。
伐採した庭木の枝を切りながら、生木のまま燃やす
ひかり観音 調査編 に関する履歴です。それぞれをクリックしてください。以降は、実証編へ続く。
調査(1/5) 調査(2/5) 調査(3/5) 調査(4/5) 調査(5/5)
4月、田布施町と光市の境界にある呉麓山をウォーキングする計画を立てています。この時期に計画を立てた理由は、早い時期に登っておかないと展望が望めなくなるためです。一年前に呉麓山に登った時のことです。頂上付近は少し茂っており、なんとか展望が望めました。2,3年後はさらに木が茂って展望が望めなくなると思います。今のうちに行っておく必要があります。
出発地点に予定にしている妙見神社 林道からの呉麓山登山口
当初、城南公民館を出発地点にしようと思っていました。しかし、呉麓山までだいぶ距離があります。そこで、城南の西山地区付近に車を停める場所がないかどうか今回調査に行きました。すると、呉麓山の麓にある妙見神社に少し止めることができそうです。今回は調査ですが、次回は下見で本番どおりに実際に全コースを歩いてみようと思います。
ひかり観音の案内石版 ひかり観音隣りの大岩
呉麓山に行くついでに、ひかり観音もお参りする予定です。このため、今回ひかり観音も調査しました。一年ぶりのひかり観音です。案内の石版から、がれた急斜面を登るとしばらくして大岩が現れました。その大岩の隣りがひかり観音で、古代、八和田の付近を航行していた船からピカリピカリと光って見えたとの伝説があります。
今は苔むしていますが、東向きでやや上向きのまっ平な岩(ひかり観音)
実際にこの岩を見ると、その伝説があながちウソではないと思うようになりました。岩は鏡のようにまっ平です。そして、東を向いておりやや上向きです。この岩の方角と角度から考察すると、夏至の頃の朝に、田布施方向に太陽光線を反射してもおかしくありません。特に雨後は光を反射しやすいと思います。もし古代において、この岩がつるつるだったならば可能性はさらに高くなります。真夏に鏡かブリキ板を試しにこの岩にピッタリと立てかけておけば、もしかしてと思います。真意は別として古代のロマンです。
ひかり観音正面に展開する景色
このひかり観音に体をぴったりくっつけると、正面に田布施,赤子山,琴石山などが見えます。方角も東です。夏至の頃、真夏にはこの方角のやや北から太陽が上るはずです。真夏の早朝、このひかり観音に行って日の出を見たいと思います。
もしひかり観音が太陽光を反射していると仮定すると、どの月日かをざっと調べることができます。下の図は、ひかり観音の位置から見た日の出と日の入りの角度です。この図を見ると、4~8月にかけて太陽光の反射がありえます。9月から3月にかけては、ひかり観音からの太陽光の反射はありえません。
3月,9月の日の出と日の入りの角度 4月,8月の日の出と日の入り
考えられるのは、4月から8月のある数日間の8~9時頃ではないかと思われます。また、光が見える場所も太陽の動きに合わせて北西へ移動(おそらく、荒木>八和田方向)していると思われます。また、動線(太陽の動きに合わせて移動する、光が見える場所の移動ポイント)も初夏は東から西へ(余田から田布施方面へ)、晩夏は西から東へ(田布施から余田方面へ)動いていると思われます。さらに、4,5月で光る場合は、7,8月の同じ太陽位置で光ると思われます。ひかり観音岩盤の正確な方位,傾斜角,そして高度を測定できれぱ、光が見えるその場所,日付,時刻,そして動線がより正確に分かると思われます。また、正確な模型を作ればシミュレーションできるかも知れません。
5月,7月の日の出と日の入りの角度 6月夏至の日の入りと日の出の角度
下の図は、古代においてひかり観音が太陽光(朝日)を反射したと仮定した場合の想像図です。
なお、私がボーイスカウトにいた頃、小さな鏡を使って太陽光線を反射させ数キロ先に遭難信号を送る練習をしたことがあります。このひかり観音から、同じように田布施方面に光を送ることを再現できたらと考えるとロマンを感じます。
※おっ! 今日は私の誕生日でした。また一つ歳をとってしまった、しくしく。
古代の田布施,平生,柳井 ※柳井市茶臼山古墳脇の古代鳥瞰地図から抜粋
一昨年の秋に採種して植木鉢に種まきしたマテバシイとスダジイ、発芽後育苗しました。そのマテバシイとスダジイがだいぶ大きく育ってきました。そして、植木鉢から根がはみ出るようになりました。そのため山に植えました。これから数年間は、雑草を取ったりする世話が欠かせません。
だいぶ大きくなったマテバシイ クワで植える穴を掘る
この二つのシイは、生食できる貴重などんぐりです。特に、マテバシイは生食できる一番大きなどんぐりです。美味しいとは言えませんが、そのまま食べることができます。ただし、生のまま食べることができるとは言っても食べすぎると胃がもたれます。私は実験的にたくさん食べてみたことがありますが、1日中胃が重くなって困りました。
これらのどんぐりは、いわば飢饉食ではないかと思います。神社近くによくスダジイが植えてあります。飢饉がよく起きた昔、神社に行ってこの実を食べて飢えをしのいだのでしょうか。
日当たりの良い場所に植えたマテバシイ
マテバシイは2本の苗を植え付けました。スダジイは神社によくあり珍しくありませんので、一本だけ植えました。神社に生えているような大木に育つには永い年月がかかるようです。
同じどんぐりでも椎茸の原木にする楢やクヌギは、15年もすれば立派な大木に育ちます。しかし、シイの木が大木に育つにはその倍以上の年月がかかります。同じどんぐりでどうして成長速度が違うのでしょうか。落葉樹と常緑樹の違いでしょうか。
ところで、去年,一昨年とだいぶ大きくなった、種から育てた野性のクルミ。今年は実を付けてくれるでしょうか。早くクルミの実を取って食べて見たいと思っています。
スダジイの苗、一つの鉢に3本育つ 数年後、一本に間引く予定
今年も椎茸(しいたけ)菌を植菌するための原木を何本か伐採しています。今回伐採したのは、田んぼの近くに生えているクヌギの木です。田んぼに倒れないようにしなければなりません。そのため伐採前に、田んぼと逆の方向に倒れるように手動ウィンチで引っ張りました。
倒す方向に手動ウィンチで引っ張る チェーンソーで切れ目を入れる
手動ウィンチで引っ張る方向に、チェーンソーで>字型の切れ目を幹に入れます。そして、切れ目と反対方向からチェーンソーで切り始めました。時々チェーンソーを止めながら、切り口の隙間をチェックします。幹にチェーンソーを挟み込まないための確認です。私はまだチェーンソーの素人ですので、挟み込まず,横一直線になるよう,そして綺麗に切れるように気を使います。
切り口にチェーンソーを挟みこまないように注意しながら切断
幹を3/4適度切断すると、手動ウィンチで強く引っ張りました。すると、バリバリっと音を立てながら木がどーんと倒れました。切り口を見ると残念!綺麗に切れず切断面がいびつになってしまいました。
倒れた木は、椎茸菌を植え付けるまで1~2ヶ月倒れたまま自然乾燥させます。3月に幹を90cmごとに輪切りにして、原木として我家に持ち帰ります。そして、その原木に椎茸菌を植え付けます。
切断面が不連続でいびつ 倒れたくぬぎの樹、1~2ヶ月自然乾燥
倒したクヌギは、きれいに枝を切り落としておきました。プロの椎茸農家は、この枝も無駄にしないようです。枝をチップ状にして圧縮して固め、熱消毒してから椎茸菌を植え付けます。ビンで椎茸を作る場合は、このチップをビンに押し込んで固めた後に熱消毒して椎茸菌を植え付けます。
余分な枝を切り落とす、取り除いた枝は薪として燃やす
ところで、伐採したクヌギの幹の切り口を観察すると年輪がはっきり出ていました。この年輪を見ると、このクヌギを植えたのは今から13年位前です。そして、植えてから6年間はなかなか大きくならなかったようです。ところが、7年位前から急に成長が加速したことが分かります。そして、この7年間毎年直径が2cm位ずつ大きくなっていました。おそらく、この樹木を遮っていた別の樹木が7年前に伐採されたのでしょう。急に日当たりが良くなったようです。
年輪を見ると、樹木の年齢や育ち具合などが手に取るように分かります。最近の考古学では、14炭素を使わなくても、年輪を計測することによってその樹木の成育年代を2000年程度さかのぼることができるそうです。
なお、この木の伐採跡に砂糖カエデ(サトウカエデ)を植える予定です。樹液を煮詰めるとメープルシロップになる樹です。去年2本植え付けしました。20年後頃に樹液を採取できるようですが、その頃私はまだ元気に生きているでしょうか。次の世代に渡すつもりの木です。
今回、椎茸(しいたけ)栽培用に伐採したクヌギの年輪
19日(日曜日)、早朝から曇空で天気予報では雪が降るかも知れないとのことで心配していました。しかし、集合した10時頃、西の方からだんだん晴れてきました。集合した平生町MaxValuを10:05にスタートしました。まずは、沼八幡宮に向けて歩き始めました。この神社は、私が平生保育園の園児だった50年以上前によく遠足で来ました。当時の習成小学校そばから伸びた田んぼの一本道をみんなと行きました。
沼八幡宮の石鳥居に到着 石階段と参道を仲良く歩く
江戸時代初期、干拓前の平生は沼八幡宮付近までは海岸でした。当時の石灯台だったと言われる灯篭の山側に、沼八幡宮の石鳥居があります。その石鳥居をくぐって石の階段を登り、長い参道を通って沼八幡宮の社殿に着きました。
その社殿の前で少しばかり休憩して、今回の参加者同士で自己紹介をしました。何名かの方は今回が始めての参加です。ウォーキングの無事をお祈り後、赤子山へ登るための整備された登山道をのんびり進みました。
田布施町や平生町などから集まったウォーキング参加者
赤子山山頂まで、沼八幡宮から30分位だらだらとした登りが続きます。途中の道の脇には、杉や楢の大木があちこちに生えています。また、竹林もあります。
周りの木々を眺めながら、そして楽しく雑談しながら歩くと時間を忘れてしまいます。大人が森林浴しながら楽しく歩いている間、子供達は足元を見ながら歩いていたようです。落ち葉に隠れていたどんぐりや松ぼっくりを見つけては拾っていました。
見つけた松ぼっくりを見せる子供達 森林浴しながらのんびりと
赤子山の尾根十字路に着くと、そこから東方向に登りました。山頂までもう一息です。見晴らしの良い開けた場所をいったん通り過ぎて、頂上に向かって歩きました。潅木の中に頂上があるため、展望がなく三角だけがポツンとあります。その三角点にタッチした後、見晴らしの良い場所に再び戻りました。頂上を含む赤子山の柳井市側は、あまり整備されていないようです。
潅木に囲まれ見通しの悪い赤子山頂上の三角点にて
三角点の周りには、不思議な陥没した大きな穴がいくつかあります。また無造作に転がる石に、人の手が加えられたような窪みがありました。それらの不思議を話しながら尾根道を戻りました。そして、平生の街を見下ろせる展望の開けた南斜面でお昼休憩にしました。
頂上から尾根道を少し戻る 開けた南斜面でお昼休憩
休憩していると、平生方面から何やら放送が聞こえてきました。何かの大会のようです。今回のウォーキングに参加した私の幼友達N君の話では、周南駅伝とのこと。この駅伝は光市,田布施町,平生町,柳井市が持ち回りで主催しているようで、今年は平生町の担当のようです。N君は、中学生の時にこの周南駅伝に出場したことがあるそうです。彼はその後大学でキャプテンとして箱根駅伝にも出場したので、駅伝に関わる行事や放送は気になるのでしょう。
見下ろした平生の町並み、周南駅伝の放送が聞こえてくる
お昼休憩をした南斜面には桜の木が植えてありました。それらの桜を傷めないように避けて座りました。そして、ザックを下ろしてお弁当を広げました。眼下に広がる平生の町並み,平生湾,瀬戸内海などを見ながら談笑しました。私はN君の隣に座り、駅伝の話,子供の頃の話,昔の平生や田布施の話をしながら楽しくお昼休憩しました。お昼休憩して30分過ぎた頃から、にわかに曇空になり、ちらちらと雪が降り始めました。
眼下の平生の町並みを見下ろしながら、楽しいお昼休憩
ちらちら雪が降る赤子山を降りました。天候が悪くなり雨が降れば、登ってきた沼側に降りることにしていました。しかし、ちらちら雪ですので予定通り尾根十字路を余田側の中村林道に下りました。赤子山の北側斜面はこんもりと木が茂っています。やや薄暗い山道をひたすら下りました。
薄暗い赤子山北斜面をひたすら下る 積もった落ち葉で滑りそう
20分位下ると中村林道に着きました。着いた場所からは、柳井市のウェルネスパークやフラワーランドが良く見えました。この頃になると、雪がおさまり再び日が照るようになりました。中村林道は人通りがとても少ない林道です。12月に下見した時もそうでしたが、今回も軽トラにも人にもすれ違いませんでした。両側を木々や竹林に囲まれたとても静かな林道を、談笑しながらのんびり歩きました。
中村林道から柳井市のウェルネスパークやフラワーランド方面を見て
私が高校生だった40年位前、クラス全員で赤子山北面の学校林に下草刈りに来たことがあります。その時に通ったはずの山道の一つが、今の中村林道として整備されたのではないかと思います。あるいは柳井湾に火力発電所を作った時、光市方面に送電するために建設した鉄塔に併設して中村林道を作ったのかも知れません。なお1年ほど前、柳井市の臥龍梅を見るために中村林道を通った時、昭和50年に中村林道が作られたとの碑がありました。
両側を竹林や樹木に囲まれた静かな中村林道
静かな中村林道には、道路が見えないほど落ち葉が大量に残っていました。そして、栗やどんぐりがまだ残っていました。大人は談笑しながら歩いていましたが子供達は落ち葉が楽しいのでしょう、落ち葉を蹴散らしながら,栗やどんぐりを拾いながら,そして歓声をあげながら歩いていました。
しばらく歩くと、柳井方面から田布施に抜ける舗装道路に出ました。車が通るので一列になって、松風苑に向かいました。下見の時にトイレをお借りできるようお願いしていたため、すんなりトイレに通していただけました。トイレをお借りした松風苑の丁寧な対応に感謝いたします。
落ち葉を投げ散らかし遊ぶ子供達 トイレをお借りした松風苑に感謝
松風苑を出た後、車が行きかう車道を一列になって歩きました。歩きながら年配の方々は「入れるように今から予約しておこうか」などと冗談を言いながら、松風苑の話をしていました。私も年齢的には20年後には松風苑のようなデイサービスにお世話になるかも知れません。今の私には他人事とは思えません。10分位歩くと、柳井市余田から平生町竪ヶ浜の荒木地区に入りました。
トイレ休憩した松風苑などの話をしながら、一列になってウォーキング
荒木地区に入ると、最初に荒木神社にお参りしました。私は特に信心深い方ではないのに、神社の前に立つとお祈りをしてしまいます。荒木神社を過ぎると、威勢の良い声とキャッチボールの音が聞こえてしました。熊毛南高校野球部の部員が元気に練習をしていました。私が通っていた頃より運動場が広くなり、施設も立派になっています。
熊毛南高校すぐ東にある荒木神社 熊毛南高校野球部員の練習を見つつ
熊毛南高校からは、荒木川沿いに上流に向かう小道に入りました。しばらく進むと、屋根が付いた大きな壷のようなものが畑にどんと置いてありました。近くに最近切った竹筒が数本置いてありました。この大きな壷に見えるものは、竹炭を作るための釜です。陶器などを焼く釜とは形状がまったく違います。釜の傍らには、ソバを脱穀した後に残った茎殻が置いてありました。
続いてさらに山に向かって歩きました。すると、遠くに白いものが動き回っていました。山羊です。大人の山羊や子山羊がたくさんいました。どんな動物もそうですが、動物の子供は可愛いものです。近寄ってきた子山羊を、子供達が珍しそうに見ていました。
後ろに、竹炭を作るための大きな壷状の釜 近寄る子山羊に手を伸ばす
山羊を見終わると、竹炭を作る釜まで戻りました。その途中、Yさんがハゼの実を見つけました。Yさんは、田布施町のハゼの実ロウ復活委員会の会員のようです。私も去年の夏、ハゼの実ろうそく祭りでYさんからハゼの実で作った和ろうそくを買いました。Yさんがみなさんに、ハゼの実のどの部分がろうそくになるのかなどを解説していました。Yさん、臨時勉強会ありがとうごさいました。ウォーキングしていると、偶然のきっかけでこのような楽しい臨時勉強会になることがあります。
ハゼからロウを集めて和ろうそくにするまで、大変な労力がかかったことだろうと思います。この和ろうそくは、幕末長州藩の4大産品の一つでした。4大産品とは、塩,紙,米,そして和ろうそくです。
ハゼの実を手に取って、和ろうそくに関わる説明をしているYさん
ハゼの実と和ろうそくの臨時勉強会が終わると、山を下って大歳神社に行きました。これで、三社目のお参りです。この神社から見下ろす竪ヶ浜に、江戸時代初期まで海岸線があったことなどのお話などをしました。当時、竪ヶ浜の前に広がっていた海を竪ヶ浜浦と呼んでいたようです。田布施から平生に向かう旧道は、かつては海岸に沿う道だったのではないでしょうか。当時平生は影も形も無く、海が広がっていました。わずかに野島と玖珂島が海に浮かんでいたようです。ウォーキングしながら、いしえの地形に思いをはせてみました。
江戸時代初期の平生 沼が「野間」,余田が「与田」となっている
※『平生町史 第2-27図 開作以前の宇佐木・大野一帯
「享保増補村記」絵図による。』 より抜粋
大歳神社を過ぎると、最後に磯崎地区の高台に行きました。高台から玖珂島や野島方面を見ながら、江戸時代の平生のお話をしました。磯崎の山などを削りながら干拓したお話や、江戸時代には大野毛利と岩国藩余田の境が野島と玖珂島の間にあったらしいことなどのお話もしました。
磯崎の高台から下りてしばらく歩き、平生MaxValuに帰着しました。みなさんお疲れ様でした。
大歳神社の社殿 もうすぐMaxVluに到着
==========健康ウォーキングクラブ==========
一日天日干しした白菜を、今回は仮漬けしました。白菜の正式な漬け方を、私はあまり良く知りません。ざっと仮漬けして水が上ったら、次に本漬けすることにしています。今回干した白菜の重さは合計で4.64kgありました。仮漬けに使用する食塩を3%にするので、約140gの食塩を計量しました。
白菜を正確に計量4.64kg 3%の食塩を計量140g
食塩を正確に計量すると、白菜の仮漬けに入りました。白菜の葉を開くようにしながら、まんべんなく食塩をまぶしました。そして、小さ目の白菜を樽の下の方に、大きめの白菜を上の方に入れました。残った食塩をすべて上に振りかけた後、蓋をのせその上に重石を載せました。
2,3日このままにしておくと、白菜の周りに水が上ってきます。そうすると、今度は本漬けに入ろうと思います。本漬けの時には、昆布,唐辛子,ニンニクなどを少量混ぜようと思います。素人ですので、どんな味の白菜漬けができるか分かりません。
なお、去年作った広島菜漬けは美味しくて全部食べました。今年も漬ければ良かった (>_<) 。
白菜に食塩をまぶすと、上に重石を載せる
12月にしようと思っていた、たくあん作りと白菜漬け。今年も1月にずれてしまいました。去年たくあんも白菜漬けもたくさん作りすぎて、食べきれずにだいぶ捨ててしまいました。今回は、10月始めに種まき して、10月終わりに間引き一本立ち させた大根を収穫して天日干ししました。今年の大根は小さ目です。食べきれる分だけたくあんにしようと思います。
大根を何本か抜いて収穫 収穫した小さめの大根
去年は、大根が大きく育って抜くのが大変でした。今年は、種まきが遅れたため小さ目の大根ばかりです。片手でひょういと抜くことができました。抜いた何本かの大根を水で洗って、土やゴミを取り除きました。我家の水は地下水をくみ上げているので、水を冷たく感じません。洗うと、大根の葉を鎌でポンと切り落としました。
洗った大根は、鎌で葉をポンと切り落とす
葉を切り落とすと、水をかけ流しながらさらに綺麗にします。綺麗に洗った大根は、手箕に入れて天日干しする場所に運びました。天日干しする場所は、去年春にタマネギを干した場所です。タマネギは食べつくしていないので、まだいくつか残っています。
さらに綺麗に大根を洗う 手箕に入れた、洗った大根
ところで、吊るしたタマネギは保存の限界のようです。いくつかのタマネギは、芽が出始めていました。それらの干したタマネギの隣に、洗った大根を次々に干していきました。今年は小さい大根ですので、縄にしっかり挟まないとポロンと落ちてしまいます。乾いて柔らかくなった頃に、樽に入れてたくあん漬けにしようと思います。量が少ないため、今年は食べきることかできそうです。
5月に吊ったタマネギの隣に洗った大根を干す
次に白菜を収穫しました。育苗した白菜の植え付けと種まきが遅れたためか、小ぶりな白菜(品種もミニ白菜:小豊)ばかりです。しかし、我家には小ぶりな白菜の方が使いやすいことに気がきました。今後は、小ぶりの白菜だけを栽培しようと思います。
根元に包丁を入れて茎を切断し、枯れたり変色した葉を取り除きます。そして、根元に縦に切れ目を入れて、両手で引き裂くように二つに割りました。
根元の茎を包丁で切断 根元を縦に切り、両手で引き裂く
その二つに割った白菜、根元に包丁で切れ目を入れてから天日干ししました。庭の低木の上に乗せるように南向きに干しました。1日程度干してから、薄く塩漬けにしようと思います。漬物のうち、白菜漬けが一番簡単です。春先まで食べることができます。
低木樹の上に南向きに、立てかけるように乗せて干している白菜
白菜の収穫が終わると、タマネギ畑の除草をしました。タマネギはあまり生育が良くないようです。売っていたタマネギの苗と比べて、自分で育苗したタマネギの苗が小さかったからかも知れません。又は、苗の植え付けが遅かった。さらに、朝は日が当たらない場所だからかも知れません。タマネギ畑の横に座って雑草を一本一本抜きました。この春、去年のようにたくさんタマネギを収穫できるでしょうか。
タマネギ畑の横に座って、雑草を一本一本丁寧に抜く
この古い東芝製トランジスタラジオ 7TL-204Sの修理履歴です。それぞれをクリックしてください。
修理(1/8) 修理(2/8) 修理(3/8) 修理(4/8)
修理(5/8) 修理(6/8) 修理(7/8) 修理(8/8)
まだ音が小さいですが、なんとかラジオ放送が入るようです。そこで、受信できる周波数範囲をSGで調べてみました。すると、低い方は514KHzで、高い方は1530KHzでした。規格が540~1600KHzですので、実用上は問題ないと思いますがわずかに低い方に寄っています。その理由は分かりませんが、パディングコンデンサなど同調に関わる部品の値が永い間に変わったのでしょうか。
低い方は514KHzを受信 高い方は1530KHzを受信
次に、電子回路各部の状況をオシロスコープで確認しました。シンクロスコープではないので、すぐに波形がずれてしまいます。ずれに応じて頻繁に調整しなければならず大変です。まずは、1000HzでAM変調した電波を受信して各部を調べてみました。すると、中間周波の下波形が少しひずんでいます。これはトランジスタの非直線部で増幅しているからかも知れません。検波後の波形もやや歪んでするようです。あとで、トラッキング調整しようと思うので、その時に直るかも知れません。
上下の波形が非対称な中間周波 やや歪んだ検波後の波形
ざっとラジオが受信できることを確認すると、音が小さい故障をさらに直すことにしました。前回、容量が0の結合コンデンサを交換しました。今回は容量低下か認められるバイパスコンデンサを交換することにしました。ストックの中に耐圧3Vで40μFの電解コンデンサが無いため、同じ耐圧の30μFで代用しました。
容量が低下した40μFコンデンサ 30μFコンデンサで代用
しかし基板が外せないため、コンデンサを取り外しての代用コンデンサ置換はできません。そこで、容量が低下した電解コンデンサの背中に乗せるようにして取り付けました。見かけはとても無様ですが、このさい仕方ありません。故障したコンデンサの端を切り落としておくと、万全かも知れません。
容量が低下した電解コンデンサの背中に乗るように取り付け
もう1つの電解コンデンサ8μFは、10μFで代用しました。やはり同じように、背中に乗るように取り付けました。電子回路的にはこれでOKなのですが、見栄えが良くありません。3月に東京に行くので、ちゃんとした電解コンデンサを購入して取り付け直そうかと思案しています。たかが修理と言っても、美しく修理できないと何か納得できない気持ちです。
見かけは悪いものの、背中に乗るように代用コンデンサを取り付け
偶然発見したのですが、時々ラジオの音が消える理由が分かりました。電池ケースから電気を供給する端子が基板上でぐらぐらしていたのです。この端子に触ると、電気の供給が止まることがあるのです。何らかの振動で、断線状態となり電気の供給が途絶えるようです。
基板の裏側からは修繕できません。基板の上側から端子を半田ごてで熱しながら半田を供給しました。すると、基板裏側に熱が回り、銅箔と端子が再度半田付けされたようです。端子はぐらぐらしなくなり、音が突然消える現象が無くなりました。
ぐらぐらしていた端子 根元を熱して再半田付け
山で伐採作業をしたり畑仕事をしている時、ゆっくり腰をかけて休む場所が無いことに気が付きました。山の上には陶器のイスを置いたのですが、畑近くに座るものがありません。いつもは切株に腰をかけたり地べたに座って休みます。しかし今の時期は、地べたは霜が降りているか霜が溶けて濡れています。
そこで近くのDIYのお店に行って、座って休憩するようなイスが何かないかどうか探しました。外に置きっぱなしにしたいので、雨に濡れてもよいイスやテーブルが無いかどうか探しました。
外に置く鋳鉄製のイスセット イスの足を取り付け
すると、鋳鉄製のガーデンテーブルセット(イス2個とテーブル)がありました。座り心地もよさそうです。白色と青銅色の2色がありました。青銅色のイス2個とテーブル1個のセットを購入しました。ただし、イスやテーブルは自分で組み立てなければなりません。去年タンスを組み立てしたほど、組み立てることが大好きです。このガーデンテーブルセットを購入して帰ると、すぐに組み立て始めました。
難なく4本の足を取り付け終わったイス
最初にイスを組み立てました。使用する道具は、平ドライバーとナット回しです。大工道具の中から、その道具を取り出して使いました。イスは最初、4個の足を取り付けます。続いてイスの背もたれを取り付けました。
背もたれを取り付け中のイス 完成したイスと昼寝中の猫リン
イス2個が完成すると、次にテーブルを組み立てました。このテーブルは三本足で、少しばかり組み立てにくかったのですが15分程度で完成しました。このイスとテーブルをどこに置こうかと思いましたが、とりあえず家横の西日が当たる空き地に置きました。これで、畑仕事の途中にゆったりと腰をかけて休憩できそうです。また友達などを我家に呼んだ時、野外で座って談笑できそうです。夏は麻郷小学校おやじの会キャンプ教室で使っていたようなタープを張ればその日陰の中で座って談笑できそうです。地べたに座るよりはるかに楽です。
畑の隣りに置いた、組み立てたガーデンテーブル