今日30日、私の母校である麻郷小学校に行きました。去年完成の真新しい校舎に入ったのは初めてです。とても立派な校舎でした。ただ私が卒業した当時(1965.3)、記念樹として植えた「くすの木」が伐採され、その真上に校舎が立てられていたのは少し残念なことではありましたが。
さて麻郷小学校に行った理由は、小学3年生との「昔を知ろう集会」のお手伝いをするためでした。私が小学生達と交流したのは一昨年の稲刈り以来のことです。大人が昔の遊びを教えたり、子供達から昔の生活などについてのインタビューがありました。昔の遊びについて、私はコマの回し方を教えました。
熱心に、コマにひもを巻きつけている3年生
麻郷公民館の方から事前に「今の子供たちはコマを回せない。」と教えてもらっていました。まったくその通りなのには驚きました。まず、コマにひもを巻きつけることができません。ひもをまき終った後、ひもとコマの持ち方が分かりません。そして、コマの投げ方が分かりません。私が子供の頃は、外で遊ぶ時間が圧倒的にありました。外遊びの一つにコマを回しがありましたが、回せない子は一人もいませんでした。40年近い間に、子供達を取り巻く環境が激変したのでしょう。
コマ回しを教えている大人 コマのもち方を、手取り教える
コマ回しは、今の子供達にとってもう遊びではありません。いわゆる、昔の遊びの一つにすぎないようです。私が小学生の頃の、お手玉のようなものではないかと思います。当時すでにお手玉は廃れて誰一人遊べませんでした。今回、子供の遊びは時代とともに変わっていくものであることをより実感しました。
コマ回しも、今や廃れた遊びです。しかし、小学生達は興味を示してくれました。飽きず何度もトライしていました。たった一人でしたが、コマを回すことができた児童がいました。
熱心に教える大人と、熱心に教わる子供達
今の子供の遊びと昔の子供の遊びを比較して言えるのは、昔はコマにしても,ビー玉にても,チャンバラにしても,基本的に野外の群れた集団遊びでした。今は、その野外遊びに代わって地域サッカーなどのクラブ活動が主体になってしまったような気がしています。チャンバラ遊びなどは一見意味のない遊びに見えますが、唯一優れていると思うのは子供たち自身が遊び場,ルールなどを決めることです。子供版ほうれん草(報告,連絡,相談)でしょうか。大人は誰一人介在しませんでした。今の子供たちは、自分たちで決めて行動する自立体験やリスク体験が圧倒的に少ないのではないかと危惧しています。
昔、田布施町にはプールがありませんでした。そのため、子供たちは田布施川で水泳や水遊びをしていました。私の知らない、年少者やお兄さん達がたくさんいました。泳げない私に、ある日お兄さんが声をかけてきました。「泳がしちゃろうか?」と。そして、そのお兄さんの背中に乗って川を往復しました。その時、そのお兄さんを尊敬したものでした。当時は、いろいろな学年の子供たちが群れて遊んでいました。いじめなど無く。お兄さんたちは年少者を見張ったり教えたり仲裁したりすることを当然のように思っていました。また、年少者は自然にそのお兄さんたちを尊敬していました。そして、それが自然に受け継がれていました。子供なりに、納得した主従関係や社会秩序の必要性を学んでいたのではないかと思います。今はどうでしょう。
ところで、昔の遊びは比較的熟練を要します。コマ回しはその代表です。1時間や2時間ではとうてい回せません。今の子供達の遊びの代表であるテレビゲームは、スイッチやボタンです。経験や熟練はそれほど必要ありません。良い悪いは別にして、対人遊びではなく対機械遊びが多くなっている気がします。
今の時代、遊びも,交通も,仕事も、より容易で楽で効率良くできます。例えば、昔は車の運転は特殊技能でしたが、今はオートマ車の普及もあってか誰でも運転できます。大人が心配しているパソコン遊びも、もしかして新しい文化創造に貢献するのかも知れませんが、はたして?
コマの投げ方を教える メンコ初体験の子供達
子供達からインタビューを受けながら、気が付いたことがあります。それは、私が子供の頃は、子供とはいえ貴重な労働力だったことです。私の場合で言えば、風呂たき,牛のえさやり,牧草刈り,稲刈りなど、大人に交じって働いたことです。私はしませんでしたが、当時は新聞少年がたくさんいました。「僕は月200円もらった」とか「月300円もらった。」とか、そんな話をよく聞きました。当時の新聞配達の報酬は、1円/軒日程度の報酬だったのでしょう。そう言えば「新聞少年の歌」が流行ったことがあり、紅白歌合戦で歌われたことを覚えています。それらの労働が終わって初めて遊ぶことができました。今はどうでしょう。
別のコーナーで、あやとりを体験している子供達
コマ回しの他に、次のような昔の遊びを3年生は体験しました。メンコ(パッチンとも言う),あやとり,おはじき,けん玉,そして折り紙です。男性の大人は、主にメンコとコマ回しを教え、女性は、あやとり,おはじき,けん玉,そして折り紙を教えました。なお、ビー玉,釘刺し,ケンケンパーなどは人数や場所の関係で題目にありませんでした。
うまく折れたかな、折り紙 なかなか難しいけん玉
小学3年生はもうパソコンを使うようです。昔のことを教科書と、少しはインターネットで調べたようです。あらかじめ、昔のことを調べて質問を用意していました。質問の中に、ランドセルのことがありました。私は、昔ランドセルの代わりに肩掛けカバンを使っている小学生がいたことを説明しました。また、食品を氷で冷やすアイスボックスを説明しました。また、学校帰りにスイカを盗んで食べたり、おやつがあまり無い時代だったので、海岸に行って貝や牡蠣を剥いて食べたことを話すと驚いたようでした。庭で飼っているニワトリを食べたことなども話をしました。今の子供達は、野山の果物や自然の生き物を食べることはしないようです。
おはじきに興じている子供達、遊び方分かるかな
「昔を知ろう集会」は1時間位で終わりました。あっと言う間の1時間でしたが、今の子供気質を少しは知ることができました。総じて行儀の良い子供達でした。今回の行事は、昔の遊びを学ぶ以外に地域の大人との交流の意味合いもあったのではないかと思います。
その後、バイクを置いている麻郷公民館に戻りました。そして、我家に帰ったのは正午頃でした。今後、時間的余裕があれば、これら子供達との交流事業に参加できればと思います。
最後にお礼の言葉を話す子供達、立派な大人に巣立って欲しいものです
今日29日は、田布施町議会議員選挙の公示日でした。朝、麦畑東側の木(けやき)を前回に続いて伐採していると、次々に宣伝カーが通り過ぎて行きました。亡き父親は昔、町議会議員だったことがあります。当時、毎日のように朝早く我家から宣伝カーが出発していました。大勢の方々に応援していただき、我家は連日お祭りのようでした。今日から宣伝カーに乗る立候補者の方々は、投票日まで目の回るような忙しい日々が続くと思います。
宣伝カーでの立候補者の連呼を聞きながら、木を伐採する準備としてチェーンソーの刃を砥ぎました。刃が砥がれているか砥がれていないかで、能率が何倍も違います。
伐採前にチェーンソーの刃を砥ぐ 倒す方向(矢印)にロープを張る
麦畑に倒れないように、また自分の安全確保のために、伐採した木を倒す方向を決めます。方向を決めると、伐採する木にロープを結んで張ります。そして、引っ張る側に手動ウィンチを取り付けます。これで、ロープを張った側に木が倒れます。木の伐採では、木が倒れる方向を正確に読んだりコントロールすることが安全につながります。以前、倒れた木が私の足指先に落ちて痛い目にあったことがあります。これが、足指先でなく自分の頭だったら軽傷ではすまなかったはずです。
倒す先に手動ウィンチを付けてロープを引っ張る(矢印側に木が倒れる)
ロープを張ると、いよいよチェーンソーで木を伐採します。最初チェーンソーで、倒す側に数センチ切れ目を入れます。これは伐採時、倒れやすくするためであり,木が幹から完全に離れるためであり,また割れを防ぐ意味もあります。切れ目を入れ終わると、予定する切断面に沿ってマジックで線を入れます。太い幹は切断線が見えにくいためです。そして、その切断線に沿ってチェーンソーでどんどん切っていきます。ロープで引っ張っているため、少しずつ切断面が口を開けてきます。するとチェーンソーで、より切れやすくなります。そのうち、「メリメリっ」と言う轟音とともに、木は幹から離れるように倒れます。木が倒れる瞬間、一種の快感を覚えます。
切断面が分かるように線引き 全ての枝を伐採した木(けやき)
前回の反省を元に、チェーンソーの刃を研ぎ、ロープで倒れる方向をコントロールしたため、やや時間はかかりましたがとても楽にしかも安全に作業できました。踏み場もないほどの伐採した木や枝ですが、雑草が伸び始める4月までには片づけしようと思います。片づけした場所は畑にして、サツマイモやジャガイモなどを植えようと思っています。
伐採した木や枝で足の踏み場もない畑
だいぶ前から、田布施町にある富永有隣碑を見たいと思っていました。しかしながら、これまでその場所がはっきり分からずにいました。介護老人福祉施設田布施苑の近くであることは知っていました。そこで、実際に行って探してみることにしました。まずは、田布施苑傍にバイクを置いて周りを探索することにしました。
田布施苑傍にバイクを止める 古いお墓に向かう坂道
バイクを止めてまわりを見渡すと、丘の上に古いお墓があるのが見えました。そのお墓に行ってみました。新しいお墓やとても古い様式のお墓までいろいろありました。その中で、明るくも奥まった場所に少し大きめの二つ並んだお墓に注目しました。正面に書かれた文字は戒名らしくて誰やら分かりませんでした。しかし、後ろに回って文字を確かめると富永有隣と分かりました。二つ並んだうち隣のお墓は、奥方のお墓かも知れません。
明るくも奥まったこの場所にある富永有隣の墓所
次に、住居跡近くに立てられているという富永有隣碑を探すことにしました。瓜迫農業公園傍にあるとのことで、まずはその公園を探すことにしました。その公園は、墓所から北側に少し下がった場所にありました。農業公園とのことで、畑か農園に関わるのかと思っていたら普通の広場でした。また遊具がたくさんある公園のイメージとも違いました。
墓所から暗い道を下る 見えてきた瓜迫農業公園
広場のような瓜迫農業公園に着くと、碑を探しました。すると、北側のこんもりとした木々の間に富永有隣碑が立っていました。思っていたよりも巨大な碑でした。また、そばに住居があったとのことでしたが、長い間に腐ったのでしょう。住居はあとかたもありませんでした。木片ぐらいはあるのかと思いましたが何もありませんでした。地元の方が片付けたのでしょう。
仰ぎ見るような巨大な富永有隣碑
碑を見終わると、元来た道を引き返してバイクを置いた田布施苑傍に戻りました。そして、来たついでに子供の頃よく行った城南小学校に行ってみることにしました。途中、遺跡の埋め戻し作業を左手に見ながら田んぼの横を通りました。
今の城南小学校は立派な鉄筋コンクリート製ですが、私が子供の頃は木造でした。私が中学生の時、たまたま訪れた木造校舎の城南小学校は運動会でした。その賑やかさがとても懐かしく思い出されます。思い起こすと、私の母校の麻郷小学校も、そして東田布施小学校,麻里府小学校などみんな木造でした。昭和30年代にすでに廃校となっていた、麻郷高塔にあった麻郷中学校や西田布施奥にあった国木小学校などもみんな木造でした。当時、高塔子供会などで麻郷中学校跡の旧校舎で映画会やイベントをしたものでした。まだ高塔公会堂がない頃のことです。今、その場所に麻郷中学校碑が人知れず置かれています。
小中学時代、私は友達とこれら各地の木造校舎を自転車で遠く訪れたものでした。
遺跡を埋め戻し中の田んぼ道 今は鉄筋の城南小学校
午後3時頃、シンガポールで働いている娘からの贈り物が届きました。私の誕生日である24日に娘から次のようなメールが届いていたので、ずっと待っていたところでした。
「パパに誕生日プレゼント送ったよ・・・・・60歳から新しい人生スタートだね。東京で仕事して持ち家もあって、退職後は故郷に戻って野山に囲まれて親と過ごせるなんて人からしたら、とっても羨ましい人生ですよ。これで可愛い孫でもいて、農作業を一緒にしてくれれば文句無しですけどね笑!・・・・・・」
次、可愛い孫をプレゼントしてくれたら言うことなしだけど、こればかりはねえ(笑)。
冷たい袋、最初これ何だろう?と 5品目の冷凍海鮮食品
朝いったん届いたはずでしたが、耳が遠い母親がドアチャイムを聞き漏らしたようです。それで届くのが午後になりました。最初袋が冷たかったため、何が入っているのかと思いました。袋を開けると冷凍食品でした。いくら,カニなど5品目の海鮮食品が入っていました。さっそく夕食に、いくら丼にして食べて見ました。ありがたくごちそうになりました。
娘からの贈り物を丹念に見ている私の母親(娘の祖母)
おんぼろ中古ハンマーナイフモアの刃の交換に手間取っています。手間取っている理由は、刃を交換したり油をさしたりするメンテナンスの形跡がなく、刃を止めるピンや割ピンが錆ついて固着していたためです。まず割ピンを外すのが大変です。いくつかの割ピンは破損してしまいました。
刃の交換に手間取っている中古ハンマーナイフモア
一番やっかいだったのは、割ピンが破損して残骸がピンの穴に取り残されて詰まってしまうケースです。この穴が詰まってしまうと、新しい割ピンを通すことができず、結果的に刃を交換できません。細めのドランバーや釘を叩きこんでみましたが、一向に取れません。やれやれ。
ピンの穴に取り残された割ピンの残骸、摩耗してできた段状の窪み
穴に取り残された割ピンの残骸は、ドリルで取り除くことにしました。ピンの穴径と同じ4mmのドリルを使って、穴を開ける要領で残骸を取り除くことにしました。ドリルをこのような目的に使うのは初めてのことです。
穴径と同じドリルを選択 穴に当てて径が合うことを確認
ピンを万力で挟んで、ドリルを穴に通して回しました。すると、簡単に穴が開きました。これで、割りピンを通すことができます。しかし壊れた割ピンは新たに購入するしかありません。近くのDIYのお店に行って割ピンを購入しようと思います。売っているか心配です。
ドリルを使ってピンに穴を開ける 割ピンの残骸が取れた穴
このように割ピンが破損すると、残骸がピンの穴に残ってしまいます。一度残骸が穴に残って詰まると、その残骸を穴から取り出すにはドリルを使うしかありません。ハンマーナイフモアの5刃が3列あります。つまり、全部で15刃を交換しなければなりません。割ピンが固着しているため、一日に1列5刃を入れ替えするのがせいぜいです。
根本のピンを外して、刃をひっくり返し再びピンで止める
しかしながら、割りピンが壊れるとピンを止めることができません。今回割りピンが3個壊れてしまったため、3刃は外したまま取り付けることができません。刃を再度取り付けることができなければ、刃を交換したことになりません。そこで昔、細い釘を割りピンの代わりに使っていたことを思い出しました。今、釘を使うことはそれほどありません。しかし私が子供の頃は、釘を使って遊んだり,叩いて平らにしてナイフにしたり,電磁石に使ったり,手裏剣に加工したり,ヤスリでこすって鉄粉にしたりと、何にでも加工しました。釘は軟鉄ですので、子供の私にも容易に加工できたのです。今回、割りピンの代用として釘を使うことにしました。
壊れなかった割りピンと止めピン 細い釘をねじって割りピンの代用に
いろいろ創意工夫しながら、刃を交換していますが、一列交換するだけで腰が痛くなります。無理な姿勢での交換作業のためです。寒い野外での農機具修理は体にこたえます。しかし、残り一列の交換で全ての刃を交換完了ですので頑張ろうと思います。
壊れなかった割りピン、刃を入れ替え後に元のように止める
2月の田布施川沿い史跡めぐりウォーキング8回シリーズ(その2)の下見に行ってきました。シリーズの1回目は11月に田布施の麻里府から麻郷八海まで歩きました。2月は、同じ田布施川河口の対岸である左岸を歩きます。平生イオンタウンのバス停10:09発のバスに乗って、田名バス停で降りました。最初の目的地は神花山古墳です。女王像を見上げながら古墳に登りました。この場所は、私が子供の頃に何度か来たことがあります。近くに海水浴場もあり、小学校の写生大会で来たことがあります。
神花山古墳に立つ女王像 回天が置かれた阿多田交流館
神花山古墳を降りて、防空壕跡や特別少年院新光学院跡を見ながら阿多田交流館に行きました。ここには人間魚雷回天が置かれています。交流館内部には回天に関する資料が置かれています。本番ウォーキング時には入館してみようと思います。阿多田交流館傍の水産大学校のカブトガニを見学後、阿多田半島を歩いてみました。半島の先端近くに行くと、対岸は田布施の麻里府です。田布施川沿い史跡めぐりウォーキング8回シリーズ(その1)で歩いた、麻里府漁港や馬島渡船場などが対岸間近に見えました。
阿多田半島から、対岸の田布施の麻里府を見て
阿多田半島から戻ると、百済部(くたなべ)神社を見学しました。石垣作りの太鼓橋がなかなか見事です。神社を一周しました。ここからは、麻里府と阿多田半島に挟まれた田布施川の河口が目の前に見えます。次に、南周防大橋が完成するまで、対岸の戎ヶ下と平生水場を結んでいた渡船場跡を見学しました。半ば崩れ落ちた桟橋がありました。桟橋跡からしばらく歩くと、南周防大橋に到着です。橋の袂には、詩人久保周一の記念碑があります。種田山頭火,江良碧松,久保周一は三羽烏と呼ばれていたそうです。
田布施川河口の百済部神社 南周防大橋の久保周一碑
南周防大橋の中央まで歩いてみました。この橋を車で通る人はたくさんいますが、歩いて渡る人はまれです。橋の歩道には、平生や佐賀などの小学生の寄せ書きがたくさん埋め込まれていました。その寄せ書きのタイトルの多くは「夢」です。今回、橋の中央にある展望所に立って平生湾を眺めてみました。南周防大橋から戻ると、橋の袂の芝生に座って昼食休憩を取りました。
南周防大橋の展望所まで歩く、歩道には小学生の寄書きが埋め込まれている
南周防大橋を過ぎると、今度は埋立地に作られているソーラー発電所を見学しました。以前来た時は整地中でしたので、中に自由に入ることができました。しかし、今回はフェンスが張られていてソーラーパネルに触ることはできません。しかし、フェンス数メートル先にパネルが敷き詰められているため、その構造をつぶさに見ることができました。
赤子山や麻郷八海を見ながら、ソーラー発電所傍の堤防を歩く
この埋立地は昔塩田でした。私が幼少の頃、麻郷米出/鳥越,平生角浜/西浜,そしてこの水場東の埋立地など平生湾に面した場所はほとんど塩田でした。浜子さんと呼ばれる人が塩を含む砂をかき集めていた光景を思い出します。そのうち流下式と呼ばれる方式になり、浜子さんの姿を見ることが無くなりました。その後、しだいに製塩業はすたれてしまいました。
ソーラー発電所のパネル群 曽根児童公園で休憩
ソーラー発電所を見学後、埋立地をぐるりと回るように平生湾に沿って歩きました。そして、いったん水場東に出た後、平生街に向かって歩きました。途中、曽根児童公園で休憩しました。その後、平生街に入って野島神社に寄り、足早に旧平生保育園跡地や旧習成小中学校跡地を通り過ぎました。そして、出発地点である平生イオンタウンに到着しました。ウォーキングメーターを見ると、歩いた総距離は10.5Kmでした。帽子が飛ばされそうなほど風が強く寒い一日でした。
野島神社の鳥居とその向こうの石階段
この日立製トランジスタラジオ TH-660の修理履歴です。それぞれをクリックしてください。
修理( 1/10) 修理( 2/10) 修理( 3/10) 修理( 4/10)
修理( 5/10) 修理( 6/10) 修理( 7/10) 修理( 8/10)
修理( 9/10) 修理(10/10)
とても古い日立製トランジスタラジオTH-660を久しぶりに修理しています。先日、シグナルトレーサーを改造してから、局部発信周波数が正確に測定できるようなりました。これで、ラジオの周波数変換部の確認や修理がより容易になると思います。今回、修理中のTH-660の受信状況を確認してみました。1000kHz付近で、ラジオ放送と混信しない周波数910KHzを選び、1000Hzで振幅変調してこのラジオを受信してみました。
局部発信周波数は1361kHz SGは910KHzを発信
スピーカーから1000Hzのピーっと言う音が出ました。この状態で周波数変換部を測定してみました。局部発信周波数を測定すると1361kHzでした。この値から455kHzを差し引くと906kHzです。SGの910kHzとほぼ同じです。この値からすると、周波数変換部はほぼ正常のようです。
基板の上から見た、トラッキング調整するOSCやIFT
念のため、中間周波をチェックしてみました。今から40年以上前、私が高校生の頃に購入したオシロスコープで測定しました。すると、中間周波がきれいに1000Hzで振幅変調されていることが分かりました。ちなみに、検波後の低周波を周波数カウンタで測定すると、1043Hzでした。問題ありません。
前回のような「受信周波数が高い方にずれている」といった現象はありませんでした。高い方は相変わらずでしたが、低い方は正常に受信できました。前回さわって以降、引越しなどでこのラジオは相当にがたがた揺れたはずです。もしかして、部品の傷みや微妙な接触不良が低い方が直ってしまったのかも知れません。または、前回低い方を測定するときに音が小さくて受信できないと勘違いしたのかも知れません。
振幅変調された中間周波 1043Hzの低周波
そこで、トラッキング調整しようと、最初OSCコイルを回そうとしました。しかし、私の持っている調整棒が入らないのです。さらに、汎用品ではないOSCコイルためか調整棒先端の幅と合わないようです。これは困った!無理に差し込んで回すと、調整棒か又はOSCコイルのどちらかが壊れてしまいます。OSCコイルを回すことを諦めました。古いラジオを直す場合、部品を壊さないことが絶対条件です。壊さない見極めがとても大切です。
OSCコイルに調整棒が届かず合わず、回せない・・・・困った!
ところで、トラッキングを合わせようとすると、ガリガリ音が出る上に、頻繁に音が出なかったり出たりします。特に、ボリューム周辺を触ると頻発します。どうもボリューム周辺に接触不良があるようです。ボリュームそのものがグラグラしますので、ボリュームそのものか、取付け部の故障が疑われます。次回、このボリュームを外すなどしてガリガリ音を修理しようと思います。トラッキング調整はこの故障を直してからにします。
ボリュームを触ると、音が出なかったり又は大きなガリガリ音
今年の9月に柳井市伊保庄から歩いて大星山に登り、平生の神護寺方面に下るウォーキングを計画しています。だいぶ先の話ですが、神護寺の場所をよく知りません。今回、その神護寺付近を散策してみることにしました。最初、平生大野から大星山方面に出かけてみました。
楼門が立派な常春寺(大野南) 大野郵便局から大星山を見て
神護寺に行く前に、大野南にある常春寺に寄ってみました。この寺の楼門は二階になっており、なかなか立派です。次に、常春寺すぐ近くの大野郵便局に行き、そこからまっすぐ神護寺に向かいました。地図を見ながら進みましたが、道を間違えてしまいました。案内版があったのに見落としてしまいました。
神護寺への案内板 日向平の棚田に寄る
曲がりくねった急斜面の山道をどんどん進むと、神護寺入口の案内板がありました。しかし、すぐに神護寺に行かないで日向平の棚田を見ることにしました。ここの棚田は、山口県の棚田20選に入っています。神護寺と同様に一度見たいと思っていたので寄り道してみました。神護寺入口から500m位離れた所に棚田がありました。
神護寺入口から500m位離れた所にある日向平の棚田
日向平の棚田は、冬でしたので稲が栽培されていませんでした。夏にもう一度来てみたいと思います。さらに、上の方にも棚田が続いているようでしたが、今回は場所を確認しただけです。棚田をざっと見終わると、神護寺に向かいました。
神護寺と箕山への入口 神護寺手前にある棚田
神護寺に向かうと、その手前にこれまた立派な棚田がありました。その棚田を横に見つつ進むと、神護寺がありました。この神護寺には、いわれのある銅鐘があります。その鐘の近くに、いわれが書かれた衝立がありました。それを読むと、明治初期の廃仏毀釈で石城山にあったものがここに移転したきたと書かれていました。そう言えば、この正月に石城山に行った時に、神護寺跡があり、平生大野に移転したとの記述がありました。
明治4年に石城山から移転した銅鐘、第二奇兵隊員も鳴らしたのでは
幕末、第二奇兵隊は石城山の神護寺に駐屯していました。この銅鐘も石城山にあったはずです。おそらく、当時の奇兵隊員もこの鐘を鳴らしたのではないかと思います。石城山にあった神護寺はいくつかの宿坊もありました。規模の大きいお寺ではなかったかと思います。廃仏希釈で廃寺となった石城山の神護寺、ここで修行していたお坊さんたちは残念でたまらなかったのではないかと思います。
人が一人、潜り抜けられる大岩 箕山,大星山へ続く道
神護寺横には、箕山や大星山に続く山道があります。少し登ってみました。以前は車が通ることができたようです。幅広い急坂の道が上へ上へと続いていました。急坂を休まず歩くと、息があがります。大星山への道を確認できたので、今回はその山道の途中まで行くだけにしました。神護寺から降りていると、平生や田布施方面を見渡すことができました。平生街の野島や玖珂島,そして田布施川がよく見えました。
下見と本番ウォーキングで、伊保庄福井畑から登りこの神護寺に下る予定
先日中古で購入したハンマーナイフモアですが、それなりに草刈りしますが、刃がだいぶ磨耗していることが分かりました。このため、刃を交換することにしました。普通の草刈機と違い、ハンマーナイフモアの刃は一つ刃の両側が刃として使えます。片方が磨耗すると、片側の刃と入れ替えすることができます。中古のハンマーナイフはもう片方の刃が使えることが分かったため、今回刃を入れ替えすることにしました。
磨耗した刃(丸の部分)を入れ替えることにしたハンマーナイフモア
最初刃は簡単に交換できると、たかをくくっていました。ところが実際に刃の交換作業に入ると、いやあ大変でした。今回は、3列の刃のうち1列しか交換できませんでした。その一番の理由は、とても古いハンマーナイフモアでしたので、刃が割りピンで止められていたことでした。その割りピンが錆などにより固着して、なかなか取り出せません。叩いたり,引っ張ったり,削ったり,油を注いだりと、苦労の連続でした。
なかなか抜けない止めピン やっと一対の刃を取り出す
一つの止めピンで一対(2枚)の刃を止めています。取り外した刃を見ると、片側は磨耗していて丸くなり、もう片方はまったく磨耗していせんでした。この刃を見ると、新品時からまったく刃を入れ替えてこなかったことが分かりました。下の画像で、黄色の線が新品時の刃の位置です。
左側は磨耗していない側の刃、黄色の線は磨耗した右側の刃
刃は一対(2枚)からなります。磨耗した側の刃をひっくり返して反対にすると、磨耗しない刃側が表になります。そして、磨耗していない側を表にしてピンで止めると、草を刈り取る能力が元に戻ります。このように、ハンマーナイフモアは変わった刃の構成になっています。
磨耗した一対の刃をひっくり返す ひっくり返すと新品側の刃に
しかしながら、この中古ハンマナイフモアは古すぎるのか、刃をピンと割りピンで止めています。このため、その割りピンをはずすのが、とても大変です。ほとんどが錆ついているため簡単には外れません。何個かは割りビンが割れていまいました。ちなみに、今販売されているハンマナイフモアは、外れない特殊ネジで止められています。割りピンを新たに購入するか、ピンを特殊ネジに交換しないと刃を交換できない事態になってしまいました。やれやれ、これは困った!
右は壊れた割りピン、左は段がついた上に、割りピンが穴に詰まったピン
注文していたサトウカエデの苗が届きました。我家の山には雑木がたくさん生えています。これから数年間にかけて有用な樹木を植えてみようと思います。特に自給自足に役に立ちそうな木です。今回植えるのは、10年以上後にメープルシロップが取れるらしいサトウカエデです。大小の二つの苗が届きました。
届いたサトウカエデの苗 穴を掘って苗を埋める
植えた場所は、梅を伐採した場所です。伐採した梅はまだ幹の一部が残っていますが、その横に植えました。二つ目の苗は、そこの場所から7m位は離れた場所です。まずは春にちゃんと芽吹くか心配です。芽吹いたとしても、今後5年位は世話をしなければならないのではないかと思っています。
サトウカエデの苗を植えた、梅が茂っていた場所
これまで、亡き父親が管理していた山ではありますが、少しずつ変えていこうと思います。5月に甘柿,渋柿,そしてイチジク苗を移植しました。今回は、それに続く植え付けです。これから植えたいと思っているのは、カヤ,カリン,ナツハゼ,シャシャンボなどです。しいたけを作るために必要な、コナラやクヌギなどの木は残すつもりです。ところで、伐採した梅の根元に一昨年八王子から持って帰り、植えつけた福寿草が花芽を出していました。なんとか根付いたようです。2月にパラボラアンテナのような黄色の花を咲かせてくれそうです。
2本目の苗を植えた場所 根付いた福寿草の花芽
10月に下調べをして、11月に実踏した柳井市おだいっさー詣りと三ヶ岳の本番ウォーキングに行ってきました。下調べの時は琴石山に登る前提で調査しましたが、一緒にウォーキングする方々の足の具合が分からないため少し容易な三ヶ岳に変更しました。そして、下見の実踏時に、距離をウォーキングメーターで正確に測定しました。今回、私は三度目になるので迷わずのんびりと歩くことができました。10時に柳井駅に集合し、いったんおだいっさーの金剛寺まで車で行って、そこに駐車しました。予定通りその金剛寺でおだいっさー詣りをして三ヶ岳へと登りました。
これから、おだいっさー詣り 三ヶ岳への途中、小休止
今回参加したのは、私に加えてEさんとNさんの3人です。私が先頭を歩きながら時々振り返り、EさんとNさんの調子を見ながら歩きました。何度か下りつつ登りつつ、次第に高度を上げていきました。このルートは山口県下でも有数のハイキングルートです。歩く道はよく整備されています。また、景色が見えやすいように道の周りの木々が刈り払われています。おだいっさーからしばらく登ると、柳井湾や柳井市街がだんだん眼下に見えるようになりました。
おだいっさーからしばらくして、柳井市街を眼下に
三ヶ岳と琴石山は、周東地区で一二を争うほど景色が良い山ではないかと私は思います。このルートは何か所か岩場を歩きます。この岩場の尾根を歩いていると、若い頃歩いた、北や南アルプス,そして奥秩父金峰山を思い出します。切り立つ尾根を歩いていると、一種アルペンルートのようです。
見晴らし良く、立ったまま一息 岩の脇を縫うように登る
この三ヶ岳ハイキングコースの魅力は、登っていくたびにその高度感を味わえることではないかと思います。登るごとに、周りの山が自分の下に見え、より遠くを見ることができるようになります。一種の達成感を、体で直に感じることができます。
三ヶ岳直下の最後の岩場、注意しながら一歩一歩登る
三ヶ岳すぐ近くには、一番の岩場があります。足で踏みしめるだけでなく、両手で岩を持ちつつ体を支えるように登ります。足元がガレているので、踏み外しやすい場所です。高度も一気に上がります。この岩場を乗り越えると、そこは頂上です。
三ヶ岳頂上直下の岩場、振り返ると素晴らしい景色が広がる
頂上に着いたのは、12時22分でした。歩き始めたのが10時半頃でしたので、約2時間登ったことになります。山歩きに不慣れなEさんとNさんでしたが、なかなかどうしてほぼ標準時間で登りきることができました。なお、東峰はテレビ塔が立っており他の登山者がいたため、三角点があり祠もある西峰で昼食休憩をしました。
登り切った三ヶ岳山頂で思わずバンザーイ (足元の石は三角点)
三ヶ岳の三角点の近くで、シートを広げてお昼休憩にしました。そして、干しイモ,飴,木の実などを食べながら三人で談笑しました。今回一緒に登った3人は小学校,中学校,そして高校の同級生です。子供の頃や学生時代の話題で盛り上がりました。30分位談笑していると体が次第に冷えてきたため、下山することにしました。再度、三ヶ岳からの眺めを堪能しました。
霞がかかる柳井湾と上関半島 柳井市街や平生方面を見下ろして
下山途中、三ヶ岳の東峰に寄りました。東峰にはテレビ塔が立っています。不思議なのは、お昼休憩した西峰(487m)より東峰(495m)の方が標高が高いのですが、西峰に三角点があります。西峰の方が他の山から分かりやすいのでしょうか。石城山もそうですが、一番高い頂上よりも近くにある低い頂上に三角点があるケースがあります。高いだけが三角点の条件ではないようです。
三ヶ岳最高峰の東峰(495m)にて、西日を背に
三ヶ岳東峰からは、ころげ落ちるような急階段をひたすら下りました。注意しないと、足が笑ってすぺりそうです。しばらく下ると、林道に着きました。そこからは快適な下り坂です。300m位でしょうか、ゆるやかな下り坂の林道を降りると、三ヶ岳と琴石山の鞍部に着きました。そこで、トイレ休憩にしました。そして、琴石山グリーンパークガイドマップを見ながら立って一休みしました。
三ヶ岳と琴石山の鞍部、琴石山グリーンパークガイドマップを見つつ一休み
三ヶ岳と琴石山の鞍部は、柳井市街と日積を結ぶ舗装された林道が通っています。その林道をひたすら柳井市街に向かって歩きました。舗装された緩やかな下りです。たまに車や歩いて登っている人とすれ違いました。下りつつ時間を忘れて談笑しました。
日差しも明るく舗装された林道 顔がほころぶ最後の休憩
林道の終点は、おだいっさー詣りをした金剛寺です。ここから車で柳井市街に行きました。私は柳井市街にバイクを置いています。私を下した後、EさんとNさんは田布施に向かいました。私はバイクで二人の後を追いました。途中大波野でバイクを降り、さっきまで歩いていた三ヶ岳を振り返りました。田布施で、再びEさんとNさんと喫茶店スイートメモリーで落ち合いました。そして、コーヒーを飲みながら今回のウォーキングを振り返りました。お疲れ様でした。
大波野から振り返ってみた三ヶ岳
==========健康ウォーキングクラブ==========
コバルト台地で展望を楽しんだ後、安らぎの広場に行ってみました。冬のためか、この広場入口には誰もいませんでした。木製の階段を数十段登りしばらく進むと、休憩用の木製テーブルが一つポツンとありました。そのテーブルを過ぎると、すぐのところに展望が開けている場所がありました。眼下に室積半島,光海水浴場,そして光から下松方面の街が見えました。
安らぎの広場入口 広場には木製テーブルが一つ
眼下に見える光市街は、子供の頃から何かにつけてよく行きました。夏の花火大会や普賢寺のお祭りなどです。また、私の中学時代の友達もヨットハーバーのすぐ傍に住んでいます。近々またその友達を訪問してみようと思います。時間が遅くなってきたため、やすらぎの広場には10分程度しかいませんでした。時間があれば弁当でも広げてくつろぎたい場所です。
やすらぎの広場から見下ろした、光市から下松にかけての街並み
やすらぎの広場から数百メートル北西に行くと、田布施町と光市の境界の十字路があります。北東に行くと田布施町、南西に行くと光市室積、正面の北西に行くと千坊山です。今回は、光市室積方面に向かってコバルトラインから一気に下りました。西日がだいぶ傾いてきたため足早に下りました。
田布施町と光市の境界線 下山中に見下ろした室積街
下っている途中、鉄骨製の展望台がありました。その展望台に登ってみると、室積半島や室積の街がよく見えました。海に伸びたフィッシングパーク,漁港,峨媚山もよく見えました。ただし、西日が強かったため普賢寺などの建物の輪郭ははっきり見えませんでした。もうすぐ日没です。
下山途中の展望台から見えた室積半島、もうすぐ日没
室積に降りると、一目散に田布施に向かいました。もうすぐ日没のため急ぎました。コバルトラインに登った入口に到着した頃、日没が始まりました。せっかくですので、日没を見ながら堤防際を進むことにしました。一度海岸に降りてみました。
五軒屋近くの堤防で、日没寸前の太陽を眺める
五軒屋の堤防で日没を眺めましたが、日没までもう少し時間がかかりそうでした。五軒屋を過ぎて、梶取岬近くの田布施町麻里府海岸で日没を眺めることにしました。麻里府海岸は先日ウォーキングした場所です。この海岸の波打ち際で静かに日没を眺めました。そして、日が完全に落ちると、我家に向けて進みました。
麻里府海岸の波打ち際で日没を眺める
この山口県に帰って、特に夏場は畑などの草刈りに苦労しました。刈り取りに加えて、刈り取った草の移動や細断がまた一苦労です。そして、1ヶ月もすれば、草がまた元のように伸びてきます。草刈りと草の追いかけっこです。このため、ある畑は草刈りを放棄せざるをえませんでした。
今年も草刈りで悩むことは必至の状況です。これを解決するため、ハンマーナイフモアと呼ばれる農機具を購入しました。新品で購入すると、うん十万円もします。おんぼろの中古品を見つけたので購入しました。それなりの安値でしたので使えるかどうか心配でした。
中古品で購入した、おんぼろ中古のハンマーナイフモア
このハンマーナイフモア、耕運機のようにハンドルを持って後ろからついて行くだけです。さらに、私が気に入っているのは刈った草をその場で粉々に細断してくれることです。このため、刈り取って集草し、その草をさらに細断する作業から解放されます。今年の夏は、効率よく草刈りでき助かりそうです。
上丸はチョーク,下丸はフロート室 ガソリンコックとフィルター
このおんぼろハンマーナイフモアをチェックしてみました。とても古い機種ですが、全体が再塗装されているため、遠目に見ると新品のように見えます。しかし、エンジンを見ると、古い機種であることがすぐ分かります。キャブレターのチョークやフロート室は懐かしい形式です。今のものは華奢で小さいですが、この機種は大きく頑丈そうです。ハンマーナイフモアで一番大切な刃を調べてみました。すると、だいぶ摩耗して刃が丸くなっていました。しかし、片側の刃が摩耗していないことを見ると、刃を逆転交換しなかったようです。いつか、左右の刃を逆に取り付け直そうと思います。
刃の角が丸く摩耗。左右の刃を逆に取り付ければ刃が生き返る
続いてキルスイッチを見ると、とても古い懐かしい形式の防水スイッチです。このようなスイッチ、数十年見たことがありません。一通り点検を済まれせると、エンジンをかけてみました。ガソリンを入れて,ガソリンコックをひねって,チョークを入れて,始動ローブを引っ張ると一発でエンジンがかかりました。エンジンは快調そのものです。よかった!そこで、雑草だらけの畑で試運転してみることにしました。その畑に入るには深い窪みがあります。その窪みを乗り越えるための板を2枚作って一緒に持っていきました。
古い形式のキルスイッチ 窪みを乗り越える板、2枚
15分位のろのろとハンマーナイフモアを移動させて、雑草だらけの空き地に着きました。夏の雑草と違って枯れていました。その枯れた雑草を試しに刈り取ってみると、予想したとおり楽に雑草を刈り取り、粉々にしてくれました。ただ、乾燥して固くなった雑草の茎だけは細かくなりませんでした。また、一度に大量の草が入ると、負荷がかかり過ぎてエンジンが止まることがありました。今回は試運転でしたが、安値にもかかわらず満足できるものでした。今回、畑の1/4程度を除草しました。次回は、すべての草を刈り取ってみようと思います。
右側は試運転で刈り取った雑草、まあまあ綺麗に細断される
今日は朝から小雨です。このような時は、農作業などの野外の活動ができません。読書をするか,家でパソコンを使うか,ラジオを修理したりして過ごしています。さて、コバルトラインの小さな十字路(岩屋方面,竹尾方面,五軒屋方面,コバルト台地方面)を過ぎてしばらくすると、コバルト台地が見えてきました。そのコバルトラインの手前に、休憩所が見えました。
コバルト台地少し手前の竹を伐採した山裾
その休憩所、私は初めてです。数年前にできたのに違いありません。その休憩所は展望台も兼ねて、室積半島や瀬戸内海周防灘が眼下に見下ろせました。この休憩所でしばらく景色を楽しみながら休憩しました。この休憩所の隣りに「つばきの里」の立て看板がありました。説明書きはありませんでしたが、つばきがたくさん植生されているのでしょう。
つばきの里の立て看板 室積半島を見下ろす休憩所
このコバルトラインは、そのまま尾根を進むと千坊山に続いています。40年ほど前の高校時代、学校の社会科授業だと思いますが千坊山に来たことがあります。麓まで自転車で来て、途中から歩いて行きました。当時は道が整備されておらず、舗装されていない荒れた道を歩きました。しかし、山頂に着いて眼下に広がる瀬戸内海周防灘を見下ろして感嘆しました。山頂付近に大昔お寺があり、付随するたくさんの宿坊があったとの話を聞きました。そのお寺は火事で焼けたとのことで、今は影も形もありません。
休憩所から見下ろした、室積半島と周防灘
休憩が済むと、すぐ近くのコバルト台地に行きました。ここは車が何台も駐車できる広場になっています。ここには、去年の6月にも来ました。この時は、田布施の国木から登ってきました。そして、室積に下って普賢寺や光ふるさと郷土館や半島の突端を巡りました。
広々としたコバルト台地 牛島や祝島を見下ろして
コバルト台地はコバルトラインの中で、一番の展望を誇っています。東に目を向けるとおなじみの山々や町が見えます。町は、田布施町,平生町,柳井市の余田や新庄などが見えます。山は、三ヶ岳,琴石山,赤子山,石城山,行者山,大星山などです。山口県に帰ってからいろいろな山に登ったので、すぐにどの山が分かるようになりました。
コバルト台地から東方面を見て
左丸は三ヶ岳,中上丸は琴石山,中下丸は赤子山,右丸は柳井発電所の煙突
今回は少し霞がかかっていたため、南方面や西方面があまりよく見えませんでした。霞がかかっていなければ、四国や九州が見えるはずです。視力が良い人であれば、周防灘を通る船の航跡も見えるはずです。双眼鏡を持ってくるのを忘れたのは失敗でした。持ってきていれば、北の山々も見渡すことができたのにと思います。
東南方面、平生町の向こうに大星山が、その向こうに周防大島の山々を遠望
私は、高校までこの山口県で暮らしていました。当時暖房と言えるのは火鉢と風呂たきでした。小学4年生の秋に突然父親に呼ばれ、その日からお風呂(五右衛門風呂)当番になりました。事前に山に行って枯れ木を拾い、その枯れ木を燃やして毎日お風呂沸かしました。冬は、沸かす火を暖房の代わりにして体を温めていました。
伐採した木を燃やすため、毎日のようにたき火
その風呂たき、雨の日は山に枯れ木を拾いに行けません。そこで、晴れた日に枯れ木を余分に拾ってきます。その余分な枯れ木をノコギリで切っては斧で割って、雨の日に備えて蓄えておきました。どのくらい薪を用意しておけば足りるか、どこに行けば枯れ木が落ちているか、この木は燃えやすいかなど、子供なりに知らず知らずに風呂たき管理をしていました。そして、お風呂をたきつつ、燃える火の明かりで勉強したこともありました。
ところで今、毎日のようにたき火をしています。大量に伐採した木を燃やすためです。燃やしていると子供の頃の風呂たきを時々思い出します。
たき火をするために使っている道具は下左の写真の下から順番に、防護メガネ,けん付き鉈,ノコギリ,電動のこぎり,火吹き竹。そして火勢をコントロールするための道具として、下右の写真の右から順番に、スコップ,鉄棒,ジョロです。
たき火をするための道具 火勢をコントロールするための道具
防護メガネは、燃やすための木を折ったり切る時に飛び散る破片から目を守るためです。これら道具の中で、けん付き鉈を一番使います。けんとは鉈刃先端に付いた突起です。これがあると枝などをたぐり寄せやすく重宝します。電動ノコギリは最近購入したもので、力を入れずに簡単に木を切ることができるので重宝します。ただし、電池切れが早いのが難点です。火勢をコントロールするための道具のうち、スコップは周りの土を火にかけて鎮火させる時などに使います。
ところで山口県に帰ってからこれまで、ずっと暖房なしで頑張ってきたのですが、耐え切れず石油ファンヒーターを買ってしまいました。やぐらコタツがあるのですが、本を読んだりノートパソコンを使う時だけしか使えません。デスクトップパソコンを使うときや、ラジオ修理をする時は寒さに震えていました。これからは寒さに震えることはなさそうです。
時間設定中の石油ファンヒーター 大きめの石油タンク約7リットル
ちょっと価格が高めの1万5千円の石油ファンヒーターです。価格が高い理由の一つは、石油タンクの容量が大きいことです。普通5リットルですが、この石油ファンヒーターは7リットルです。二つ目は、火力出力が大きいためです。これで、寒い夜でもラジオを修理したり工作できそうです。田舎に帰ってから、この石油ファンヒーター購入のように毎日を快適に過ごすための出費が少なくありません。今後、なるべく節約するように生活したいものです。
購入した石油ファンヒーター、これで寒い冬も快適かな?