来週10月に実施する予定の、国木,竹尾周辺ウォーキングの下見をしてきましたこの周辺は、去年ウォーキング候補調査のために来て以来です。当初私一人で出かける予定でしたが、だんだん増えて8人での下見となりました。天気が良いので、欲張って国木小学校跡地から多賀神社(小行司の多賀神社と同名)に行ってみました。そして、さらに多賀山山頂に登りました。
旧国木小学校校舎から多賀山に登頂 広々した恩額山モニュメント広場
多賀山山頂は三角点があるのみで、歩くことが困難なほど木々が倒れていました。以前登った時よりも山頂は荒れていました。せっかく多賀山に登ったので、ついでに恩額山のモニュメント広場に行ってみました。そして、ふもとに降りて受付所で記帳しました。美味しい梅ジュースをいただき、ありがとうございました。
次に、川西大田の道をひたすら真殿に向けて歩きました。旧国木小学校校舎~多賀神社~多賀山山頂~恩額山~真殿。これが、その後の1.5時間の遅れとなりました。
川西大田地区の広々とした道を、真殿に向けてウォーキング
真殿に着くと、連華寺に向かいました。そして、連華寺に着くと県指定文化財の黒地蔵尊を見学しました。黒地蔵尊を見学後すぐに出発しました。道の途中、思いがけずトチの木を発見しました。来春、花が咲いていないかどうか来てみようと思います。なお、時間の関係で真殿十字路脇の古代米アートと幸ヶ丘農場には行きませんでした。
真殿の静かな連華寺 連華寺内でお祈り後、小休息
お菓子の「たけした」付近で川沿いの道に行きました。そして、川と田んぼに挟まれた道をのんびりと歩きました。川を覗き見ると、はやでしょうか反り返る背中がピカリと光りました。その後、しばらく歩いて、郷土館長Niさんの家に、1.5時間ほど遅れて着きました。お昼がだいぶ過ぎてしまいましたので、Niさんの家でお弁当を食べながら休憩することになりました。NiさんとNiさんの奥様、たいへんありがとうございました。感謝いたします。
Niさんの家で昼食休憩 千坊山光福寺内を拝謁
Niさんの家を出ると、千坊山光福寺に向かいました。狭い道を歩いていると、アケビがあちこちにぶら下がっていました。いくつか採集して食べてみました。口に含むと、溶けるような淡い甘さは最高です。甘さを楽しむと、ペッペ,ペッペと種を吐き出しました。
しばらく歩くと、しばらくぶりの光福寺に着きました。お寺内に上がらせていたただきました。ありがとうございました。田布施のあちこちで噂に聞く、先代ご住職のお姿を写真で初めて拝見しました。先代がお元気な頃に会えていたら良かったのにと思いました。残念ですが、時は待ってはくれません。
現ご住職様に、平和巡りについて少しばかりお聞きしました。すると、竹尾で毎年11月に実施しているはずの平和巡りでは、やはり松尾の瑞松庵を経由していました。今年は、平和巡りをするのでしょうか。ご住職はご高齢のため、今後難しいのではないかと思いました。
千坊山光福寺を過ぎて、竹尾の観音様に向かう道すがら
千坊山光福寺を出ると、いったん道を戻りました。そして、脇道を通って竹尾の観音堂に向かう道に出ました。その道は、穏やかな山里風景が広がっていました。しばらく歩いていると、観音堂に着きました。去年か今年、観音様は引越ししたようです。お地蔵様の隣りに、観音様が引っ越しした小さな建物が建っていました。
時間がだいぶ過ぎていたため、観音様を見学すると急いで岸田に向けて歩きました。真っ直ぐな道をひたすら急いで歩きました。岸田の田縫に着くと、小中高同級生のNaさんの家に寄らせていただきました。到着時間がだいぶ過ぎて申し訳ありませんでした。美味しいお茶をいただき感謝いたします。ありがとうございました。
Naさんの家で10分位休憩すると、スタート地点の国木小学校跡地に向かいました。一緒に下見をした8人の方々、本当にお疲れさまでした。
竹尾の観音堂に到着 竹尾から岸田に向けひたすら歩く
今回の下見、予定になかった多賀山や恩額山などに行きました。このため、思っていた以上に時間がかかりました。そして、歩いた距離は15.1kmもありました。10月の本番ウォーキングでは、今回下見したルートを見直して9km程度に短縮するつもりです。
今回歩いた、国木,竹尾周辺ウォーキングのための下見ルート
防陽八十八ヶ所霊場の三十番霊場である円満寺には、円満時を一番ヶ所とした長合の山を巡るお地蔵様の八十八ヶ所があります。波野周辺のウォーキングルートを探索した時、その八十八ヶ所をお参りしました。
次の防陽八十八ヶ所霊場の三十一番霊場である光喜庵はなかなか見つかりませんでした。宿井団地でお店をしている同級生のFさんに聞いてやっと分かりました。宿井のお墓群傍にその建物はありました。庵と言うので、人が住めるほどの大きさの建物を想像していたら全く違いました。かつては人が住んでいたのでしょうが、今はお地蔵様を守るような小さな建物でした。建物内を覗くと、異形のお地蔵様がありました。不思議な形相をしたお地蔵様でした。
お地蔵様を守る小さな建物、光喜庵 不思議な異形のお地蔵様
続いて、防陽八十八ヶ所霊場の三十二番霊場である八幡寺を探しました。ところが、これまたさっぱり場所が分かりません。そこで、宿井の円満寺(長合の円満寺と同名)に行って聞いてみる事にしました。すると、石の口八幡宮の入口にあると教えていただきました。教えていただき感謝します。
八幡寺に着くと、庵のような小さな建物がありました。ただお寺のようには見えませんでした。その昔、廃寺になったのではないかと思われます。周辺には、古そうなお地蔵様がたくさん安置されていました。相当昔に巡礼が途絶えてしまったようです。この八幡寺、地元の方々が定期的にお掃除しているようでした。
地元の方々が綺麗にお掃除、防陽八十八ヶ所霊場の三十二番霊場八幡寺
石の口から宿井に戻り、時貞にある防陽八十八ヶ所霊場の三十三番霊場である観音堂に行きました。光喜庵の場所を聞いた時に観音堂の場所も、宿井団地でお店をしている同級生のFさんに聞いておきました。このため、その場所はすぐに分かりました。観音堂は土台が綺麗にセメントで張られていました、最近建て替えたようです。観音堂の中には、たくさんの観音様が安置されていました。
土台が新しい時貞の観音堂 たくさんの観音様を安置
続いて、防陽八十八ヶ所霊場の三十四番霊場である周善寺に行きました。城南小学校の北側近くにある道から少し奥まった場所にあるお寺です。このお寺で御札所について聞くことにしました。ところが、出てこ来られた方は御札所や三十四番霊場について知っておられませんでした。それだけ防陽八十八ヶ所霊は古い巡礼ルートで、途絶えて永い時が経ったことを暗示しています。
私見ですが、江戸時代後期に防陽八十八ヶ所霊が作られたのだと思いますが、すべてを巡礼するには宿泊所に泊まる必要があります。当然宿泊するには費用もかかります。これらの手間ゆえにだんだん衰退したのではないかと思います。その後、よりルートが小さい霊場が開設されたり、又はお寺の敷地内に八十八ヶ所を作って回ることができるようにしたのではないかと思います。実際、長合の円満寺,平生の般若寺,千坊山光福寺のように、寺近くをぐるりと巡るお地蔵様の八十八ヶ所が多くあります。先日ウォーキングした光市室積の象鼻ヶ岬で一部回った、八十八箇所の例もあります。
防陽八十八ヶ所霊場の三十四番霊場だった周善寺
江戸時代後半に始まったと思われる巡礼ルートは、50km位とかなり距離があります。ところが、時代が過ぎるにしたがって、短い巡礼ルートが好まれるようになったようです。その後、お寺やその地域だけを回るような、距離が極端に短い巡礼ルートに収束していったようです。並行して、一部のルートをだけを巡礼するようにも変わっていったようです。
例えば、田布施町竹尾では11月に長田の観音様から松尾,河原田を経由して竹尾に戻る巡礼(平和巡り)があります。足が悪いお年寄りが増えたため、今では車で巡礼していると、竹尾のあるお年寄りからお聞きしました。※この巡礼は、光福寺住職のご高齢化に伴い2012年を最後に絶えました。
平和巡りの案内、竹尾地区2012 平和巡りのスタート地、長田の観音様
近年になるほど、長い距離を苦労して回らなくてもご利益がある巡礼ルートが好まれるようになったようです。例えば、千坊山光福寺の八十八ヶ所お地蔵様巡りは100m位しかありません。
防陽八十八箇所 31~34番霊場(御札所)
31番霊場:宿井 光喜庵 32番霊場:石ノ口 八幡寺
33番霊場:時貞 観音堂 34番霊場:周善寺
私は、ウォーキングなどで神社やお寺などを訪れることがよくあります。この田布施町内をあちこち訪れていると、かつて霊場の御札所だったお寺や観音堂などがあることに気がつきました。私が最近知った霊場だけでも、防陽八十八ヶ所霊場、周陽八十八ヶ所霊場,南陽八十八ヶ所霊場,平和八十八ヶ所霊場,そして南平和八十八ヶ所霊場です。なお前者三つの霊場は、柳井市のお大師様(金剛寺)が一番ヶ所霊場か八十八番ヶ所霊場となっています。つまり、柳井市のお大師様(金剛寺)が、この地域の中心的な霊場だったことが分かります。
第一番ヶ所霊場、柳井市金剛寺(お大師さま) 二つの霊場を兼ねる御札所の例
これらの霊場は複雑に入り組んでいます。一つの御札所が、二つの霊場の御札所を兼ねていることが少なくありません。何故兼ねているのでしょうか。
もう一つの不思議ですが、防陽八十八ヶ所霊場は、普通の人ならばとても一日では回りきれない距離です。ざっと見て50km位はあると思います。巡礼者は宿泊をどうしていたのでしょうか。江戸時代後期に船で栄えた、柳井,水場,室積には宿場があったかも知れませんが謎です。ちなみに、巡礼地として有名な四国や埼玉県秩父の八十八ヶ所霊場は、今も宿泊施設が整備されています。
防陽二十六番札所の平生町竪ヶ浜の知願寺
昔話を調べていると「昔、白装束の巡礼者を見かけた。」との話を時々耳にします。そこで、民間信仰を調べる上で外せない、これらの霊場の巡礼地を調べてみることにしました。その中で、使い古されて今にも千切れそうな「防陽八十八ヶ所霊場及里程表」を手に入れたので、この霊場を最初に調べてみることにしました。私が住んでいるために調べやすい田布施町から調査してみました。
防陽二十七番札所、極楽寺の跡 極楽寺本堂跡傍のお堂
最初に二十六番札所である平生町竪ヶ浜の知願寺に行きました。我家の代々の墓所があるお寺です。次の二十七番札所の極楽寺は柳井市余田にあるはずですが、いろいろ探して訪れると廃寺となっていました。本堂跡石碑とお堂が静かに建っていました。近所に方に聞くと、50年位前にお寺の運営ができなくなり、最後の娘さんが廃寺にしたそうです。その時、お墓などの運営を田布施町波野の大恩寺にお願いして移管したとのことです。大恩寺は、続く防陽二十八番札所で、飢民の碑などで田布施町では良く知られたお寺です。
防陽二十八番札所の大恩寺 防陽二十九番札所、祇園観音/大師堂
続く防陽二十九番札所が当初、まったく分かりませんでした。「防陽八十八ヶ所霊場及里程表」には、「上敬会所」と書かれていました。「教会所」の間違いかと思い、波野の天理教の教会所を訪れました。すると、天理教では巡礼はしないとのことでした。距離などをいろいろ調べた結果、波野の祇園観音だと分かりました。ただ、祇園観音と大師堂(弘法大師)の二つがほぼ同じ場所にあります。巡礼は通常「お大師巡り」とも呼ばれるので、後者の「大師堂」ではないかとも思います。近所の方のお話では、最近まで千坊山光福寺のご住職がこの大師堂にお祈りに来ていたそうです。御札所だったことは間違いないようです。
そして次は、防陽三十番札所は長合の円満寺です。このお寺はこれまで何度も訪れましたので、すぐに分かりました。
防陽三十番札所は長合の円満寺、円満寺内には小さな八十八ヶ所がある
時代を考証すると、江戸時代後半に全国的な巡礼ブームがありました。例えば、お伊勢参りは有名です。この防陽八十八ヶ所霊場は、当時この地域で流行った巡礼地の一つだったのではないでしょうか。そこで、巡礼ルートの一部がある田布施町内の防陽八十八ヶ所霊場を最初に調査・確認しようと思います。そして、言い伝えられている「巡礼」を発掘しようと思います。
防陽八十八箇所 26~30番霊場(御札所)
26番霊場:竪ヶ浜 知願寺 27番霊場:余田 極楽寺(廃寺)
28番霊場:波野 大恩寺 29番霊場:祇園 祇園観音(大師堂)
30番霊場:長合 円満寺
朝9時に田布施町の麻郷公民館に行きました。そして、花の幼苗をポットに植え替えるボランティアに参加しました。最初キンセンカの幼苗を植え替えたのですが、苗が小さすぎたため、苗箱から幼苗を抜くと白い根だけが抜けました。本当は根が土を抱えるようになるまで苗が大きくなってから植え替えるそうです。キンセンカはまだ植え替えには早いようでした。このため、キンセンカの植え替えを止めて、ビオラやパンジーの植え替えに切り替えました。
培養土をポットに詰める 培養土を詰めたポットに水やり
幼苗の植え替え作業は分業体制でしました。ポットに培養土を詰め込む人,培養土を詰めたポットに水をかける人,水を含んだポットに幼苗を植え替える人,そして幼苗を植え替えたポットを広場に並べる人などです。私は最初、幼苗をポットに植え替える作業をしました。
談笑しながら、幼苗をポットに植え替える方々
私は野菜の苗はよく植え替えますが、花の苗を植え替えることはあまりしません。植え替えるよりも、余分に生えた苗を間引きます。このため、今回の植え替え作業は新鮮でした。芽生えた小さな幼苗をピンセットと摘まんで引っ張ると、根が土を抱えたまま抜けます。この幼苗をポットに植え替えました。
ピンセットで幼苗を摘まんで根ごと引き抜く 押し穴を開けたポットに幼苗を植え替え
これらの作業で植え替えた花の幼苗は、後日各地区に配布するそうです。私が住む高塔地区の場合、配布された成苗は高塔公会堂前に植えられます。なお、今回のようにボランティアで植え替え作業に参加された方には、数株の苗がいただけるそうです。数株でも苗をいただけるのではあれば、今後も植え替えボランティアに参加しようと思います。
512個の幼苗が入った箱苗から、幼苗を一つずつ抜いて、ポットに植え替え
キンセンカと金魚草の苗は小さすぎたため、植え替えは延期です。2週間後頃の植え替えに備えて、ポットに培養土を詰め込む作業をしました。最初、土と肥料をスコップで混ぜました。そして、ポットに土を詰め箱に並べました。
この作業中、どなたかが麻郷中学校の生徒だった頃に人糞を担いで運んだ話をしておられました。畑や花壇の肥料にするために運んだそうですが、その時にとても臭かったそうです。そんな話に、みなさん大爆笑しながら楽しく作業をしました。
土と肥料を混ぜ込み培養土にする 作った培養土をポットに詰め込む
ビオラやパンジーの幼苗を植え替えたポットは麻郷公民館の広場に並べました。根が活着するまで間、毎朝の水やりが今後欠かせません。根が活着すれば、この広場は日当たりが最高ですので苗はぐんぐん成長するはずです。11月~12月、麻郷の各地区にこの苗が配布されると思います。
私が今回植え替えたビオラやパンジーの一部も、私が住んでいる高塔地区に配布されるでしょう。11月のクリーン作戦時、苗は高塔公会堂前に植え付けられると思います。そして、来年の春には綺麗な花を楽しむことができるはずです。どんな花が咲くか楽しみです。
麻郷公民館の広場に置かれた、今回植え替えた花の幼苗
先日、田布施町麻郷のある所で、小中学校,高校の同級生などが集まって久しぶりに歓談しました。去年の今頃も同じようなミニ同窓会を開きました。一年ぶりのミニ同窓会と言ったところでしょうか。各自、手料理やお酒などを持ち寄って、昼頃から夕方まで楽しく歓談しました。私は料理をすることが苦手のため、自家製ジャガイモを持っていきました。
楽しくジャガイモを揚げている女性陣 料理を舌鼓しつつ昔話で談笑
当初、私は小麦を挽いて小麦粉にして、すいとんを作る予定にしていました。しかし、どこかにあるはずの手回し式製粉機が見つかりません。子供達に手で挽かせていた製粉機なのですが、どうしても見つかり万。探すのを諦めて、先日収穫した4種類のジャガイモを持ってきました。ジャガイモの種類は、アンデスレッド,キタアカリ,メークイン,そしてシンシアです。調理は女性の方々にお任せしました。調理ありがとうございました。
下から時計周りに、キタアカリ,メークイン,アンデスレッド,そしてシンシア
4種類のジャガイモをフライドポテトにして皆さんに食べ比べてもらいました。その結果、アンデスレッドは黄色が美味しそうでホクホク、子供が喜びそう。シンシアはやや固めですが、形が崩れず美味しいもののもう少し揚げ時間をかけた方が良い。キタアカリは、くせのないほくほく感が良い。そして、みなさんの評価が一番良かったのはメークインでした。
集まった8人は、夕刻まで楽しくお酒などを味わいつつ餃子談議やジャガイモ談議などをしながら歓談しました。そして、子供の頃からこれまでの楽しかったことや苦労したことなどを話しながら、楽しい時間を過ごしました。私は、21時半頃に雨の中を我家に帰りました。来年もまた、機会があったら集まりましょう。
昔談議に花を咲かせながら歓談中のみなさん
先月の8月、ある新聞のコラムに、怠け者のアリについて書きました。
全てのアリは働き者のように見えます。しかし、2割程度のアリは見えない所で怠けているそうです。でも、その怠けている理由とは。
読んだ方は少ないと思いますが。
怠け者のアリ達
「 夏になると地面で働いているアリをよく見ます。そのアリ達、その2割ほどが実は怠けているそうです。人間の世界では、「怠けている」と聞くとマイナスのイメージで取られてしまいます。
しかし、その働かないアリ達は怠けているのではなく実は待機しているそうです。つまり、その休んでいる状態がアリ社会に柔軟な余力を持たせているのです。天敵に襲われたりしてアリの数が減ると、待機していたアリ達は働き始めるそうです。アリ達は、毎日非常なリスクと隣り合わせに暮らしています。そのリスクを減らすための自然の知恵なのです。
人間の世界にも似たような知恵があることに気が付きます。例えば、一週間のうちの土日曜日の割合は約2割です。この割合は、休んでいるアリの割合ととても似ています。偶然の一致なのでしょうか。
田布施町の灸川近くに住む野生の亀、怠け者の亀はいるのかな?
人間にとって休日は、豊かな生活を実現するためのゆとりとして必要不可欠です。ブラック企業などのように休みも惜しんで働く姿は、もはや無機質なロボットです。うつになったり体に変調をきたしたりするのは、生身の人間の正常な反応なのです。ゆとりを効率が悪いと考えるのは人間だけのようです。
アリの世界では、巣のそばにどんなに餌が豊富にあっても、アリ全てを動員して働きません。アリの世界では効率100%はないのです。」
今年も田布施町麻郷にある高松八幡宮の秋祭りの日がやってきました。秋祭りなどの時に神社には、地域に住む人々にとって価値ある物が奉納されます。例えば、今年収穫したお米や野菜などです。そして、人々が大切に守ってきた踊りなどの無形文化財も奉納されます。麻郷の場合、室町時代に京都嵯峨から伝わってきたとされる麻郷嵯峨音頭を奉納します。私も麻郷ふるさとの会の末席ながら、そのお手伝いをしました。
麻郷公民館から太鼓などを搬出 境内に並んだたくさんの露店
秋祭りの前、麻郷ふるさとの会の方々はいったん麻郷公民館に集まりました。そして、麻郷嵯峨音頭を奉納する高松八幡宮に太鼓などを運びました。そして、拝殿に向くように、そして叩きやすいように太鼓などを整列させて設置しました。去年の高松八幡宮 秋の大祭とほぼ同じ場所に設置しました。設置が終わると、いったん麻郷公民館に戻って大祭の開始時間までお昼休憩を取り待機しました。
高松八幡宮の拝殿にて、私も含め地元の方々がお祓いを受ける
秋の大祭開始の時間がやってくると、再び高松八幡宮に向かいました。最初、拝殿内でお祓いを受けました。笛や太鼓の中、玉串奉奠の儀や巫女さんの舞いなどが執り行われました。お祓いが終わると、いよいよ麻郷嵯峨音頭の奉納です。麻郷ふるさとの会の子供達は、くどきに合わせて元気いっぱい太鼓を叩きました。
厳かな巫女さん達の舞い お神酒を配る氏子の方々
麻郷ふるさとの会が結成された直後に、私も微力ながらお手伝いすることになりました。麻郷嵯峨音頭の練習にも去年初めて参加しました。かつて音楽を演奏していた私ですが、太鼓,歌(くどき),そして踊りはなかなか覚えられません。時間がかかってもよいので、あせらず覚えていこうと思っています。なお、納涼盆踊り大会や小学校の運動会で披露する踊りは、この秋祭りや麻郷公民館祭りでは披露しません。
高松八幡宮の拝殿を向いて、麻郷嵯峨音頭を奉納
郷土館に勤めて田布施の近代史などを調査している関係で、少しずつ田布施の今昔が分かってきました。この麻郷嵯峨音頭や大波野神舞のような伝統芸能は、明治や大正時代には各地区でさかんに行われていました。しかし、その後どんどん衰退しました。今でも衰退に歯止めはかかっていません。その衰退の大きな原因を考えると、太平洋戦争と戦後の高度経済成長の二つにあると思われます。両者共に、若者の地方流出です。前者で若者は戦争に駆り出され、後者では日本の高度経済成長で若者が都会に流出し農村文化などが衰退していきました。若者がいなくなれば当然、伝統芸能は継承できません。今後の小子化は、その流れにさらに拍車をかけると思われます。
太鼓を元気よく叩く男の子 女の子も元気に太鼓を叩く
少子高齢化が進みお年寄りばかりとなった地元が、伝統芸能を伝承するには無理があります。先日麻郷三宅地区をたまたま調査した時、思いがけず昭和30年代初めまで嵯峨音頭が毘沙門様で踊られていたことが分かりました。今、この田布施を含めて、かつて会場だったはずの観音堂などがどんどん朽ちており、それに比例して神楽や神舞などの伝統芸能もどんどん失われています。あの山口県指定無形民俗文化財の大波野神舞すら踊り手が少なく、田布施町以外にも募集しているそうです。
伝統芸能の継承は、少子高齢化が進む中、麻郷ふるさとの会のような保存組織や伝統芸能に特化したNPOなどに頼るほかないように思われます。これらの無形民俗文化財は子供の頃からの関わりが特に重要です。小学校の郊外学習などに取り入れたり、ある程度公的に支援したりすることも必要かと思われます。そして、もっとも大切なことは、地元の伝統を残したいと思う熱意と実行力だと思います。
雑貨を売っている賑やかな露店 奉納が終わり太鼓を公民館に戻す
今回ウォーキングに参加した方々は、小中学校の同級生が多かったように思います。昼食しながら、子供の頃から今までの思い出話などを談笑しました。私は、高校卒業後40年近く田布施から離れて東京にいました。このため、かつての同級生達と疎遠になっていました。しかしながら、ウォーキングを通じて再び親交できてありがたいと思っています。
かつての同級生達、昔を思い出しながら談笑
光峨眉山護国神社に着くと、たくさん並んだ石の列柱がありました。たくさんの慰霊者が祀られているのです。この護国神社には祀られている人で一番知られているのは来島又兵衛です。元治元年の蛤御門の戦いの指導者の一人です。久坂玄瑞と一緒に、その戦いで亡くなりました。この護国神社には、戊辰戦争から太平洋戦争までに亡くなった方々が丁重に祀られています。これら戊辰戦争や光峨眉山護国神社などについて、皆さんにお話をしました。
たくさんの石柱が並ぶ光峨眉山護国神社 海岸広場近くの南無不動尊
光峨眉山護国神社を過ぎると、下り坂をどんどん下りました。すると、赤い太鼓橋が見えてきました。ここで、峨眉山は終わりです。これからは、海岸に沿った象鼻ヶ岬をのんびりウォーキングしました。南無不動尊や松林を過ぎて、牛島が見える海岸沿いに象鼻ヶ岬の突端にある灯台に向けて歩きました。しばらく歩くと、女台場が見えてきました。
少し荒れた松林広場 女台場や灯台に向けて歩く
女台場を見学中、立ったまま休憩しました。そして、少し歩くと灯台に着きました。ここからは、千坊山の尾根筋がよく見えました。そして、田布施町の国木に通じる大峰峠も見えました。ところで、夕日が沈む頃に大峰峠近くから室積を見下ろすと、とても綺麗な象鼻ヶ岬が見えます。
夕日に映える象鼻ヶ岬 (2013.1月撮影)
灯台を過ぎてすぐの場所に、面白いものを発見しました。海岸に石灯篭と思われる巨大な石屋根が埋まっていました。昔、台風か何かでこの近くに建てられていたものが倒壊したものに違いありません。石屋根の近くに石柱らしきものも埋まっていました。これら埋まった石屋根などは、元々何だったのでしょうか。
千方山を背景に灯台前で、今回の参加者11名
灯台からは内海を回り込むようにウォーキングしました。灯台を過ぎてすぐの場所に大師堂の建物がありました。この建物の傍に八十八箇所最後の八十八番目のお地蔵様がありました。私がこれまで歩いた八十八箇所はほとんど、一番個所からぐるりと回って、一番個所近くにある八十八箇所に戻ります。ここの八十八箇所は、一番個所が普賢寺で、八十八箇所は遠く離れた大師堂にあります。ぐるりと回らないで、ほぼ直線状にお地蔵様が並んでいます。
八十八箇所目のお地蔵様がある大師堂 お地蔵様を見ながら普賢寺へ
室積の内海を右手に見ながら、八十八箇所のお地蔵様を逆にたどるように歩きました。静かな内海には小さな漁船が何隻か浮かんでいました。その小さな船は、波で小刻みにゆらゆら揺れていました。休日のためか、時々象鼻ヶ岬に向かう家族とすれ違いました。25年位前でしょうか、幼い娘を連れてこの海岸に来たことを思い出しました。時の経つのは早いものです。
あと1km位歩くと終点の普賢寺、内海を背景に
象鼻ヶ岬の内海をどんどん歩いていると、右手に山大付属小中学校が見えてきました。下見の時は、賑やかな子供達の声が響いていましたが、今日は日曜日で誰もいません。とても静かでした。普賢寺に戻る途中、八十八箇所の二番個所と三番個所を探している方に出会いました。この二つの個所は普賢寺の裏側にあり、しかも引っ込んだ場所にあるため、車に乗っていると分かりません。幸い、その方はその二つの個所を見つけることができました。
今回は田布施町や平生町の運動会と重なったため、いつもより参加者が少なかったです。でも、思いがけず伝書鳩を見ることができたり、思いのほか涼しく蚊が少なく快適に歩くことができた楽しいウォーキングでした。参加者の皆さま、お疲れ様でした。
赤い太鼓橋の下を通る 右手は静かな山大付属小中学校
来月は、西田布施の国木や竹尾周辺をウォーキングしようと思っています。古代米アートの田んぼ,山口県指定文化財の黒地蔵,国木の静かな里山風景,奥深い竹尾付近などをのんびりウォーキングするつもりです。
今回ウォーキングした光市室積の峨眉山・象鼻ヶ岬周辺ルート
==========健康ウォーキングクラブ==========
毎年8月は、暑いためウォーキングをしません。9月になり、涼しくなったためウォーキングを再開しました。今回は、先日下見した光市室積の峨眉山と象鼻ヶ岬をウォーキングしました。5名が麻郷公民館に仮集合した後、室津の普賢寺後ろの駐車場に全員11名が集合しました。
到着すると、Y君が鳩を30羽位を箱に入れて待っていました。ウォーキングを始める直前、その鳩を一斉に放ちました。今年生まれた可愛い鳩もいました。鳩達は2,3回上空を回った後、飼われている鳩舎に向けて群れになって大空を飛んで行きました。昔、柳井に住んでいたおじさんが鳩を飼っていたことを思い出しました。
箱に入ったたくさんの可愛い鳩達 フィッシングパークからの急登
大空に鳩達が飛び去った後、光市フィッシングパークに向けて市街地を歩きました。フィッシングパークに着くと、私は蚊取り線香に火を点けました。先日の下見時にたくさんの蚊に刺されたので、蚊に刺されないための対策です。ところが最近、急に涼しくなったためか蚊はあまりいませんでした。急な登り道を進むと、開けた場所に着きました。海を悠然と航行するたくさんのヨットが眼下に見えました。
峨眉山北端頂上から、たくさんのヨットが航行する海を見下ろす
峨眉山北端からヨットを見下ろしていると、近くの木に何やら実がなっているのに気が付きました。イガグリのようでした。その実をもいで手に持つと、それは熟す前の緑色のクヌギでした。北端頂上から歩いていると、今度はアケビの実がぶら下がっていました。ぱっくり割れていて中身がありませんでした。白く甘いので鳥達に食べられたのでしょう。そう言えば、去年10月のウォーキング時にもアケビを見つけました。
熟す前の緑色のクヌギ ぶら下がるアケビを見上げる
この峨眉山の遊歩道はよく整備されています。ただ、整備後に何年も経っているためか、木々が伸びて景色がよくありません。たとえば、休憩用のイスやテーブルがありますが、どれも木立が邪魔をして景色を楽しむことができません。昔に整備した時には絶景だったのでしょうが、今は残念な状況です。さて、しばらく遊歩道を歩いていると杵崎神社に着きました。その昔、ここで相撲大会が行われていたそうです。その土俵と思われる場所は草木に覆われていました。
象鼻ヶ岬を眼下に見下ろす かつて相撲が興行されていた杵崎神社
杵崎神社で少し休憩した後、どんどん遊歩道を進みました。山の中の道ですが、どの道も舗装されているため歩きやすい道ばかりです。急な登り道を進んでいると、峨眉山の頂上に着きました。休憩用のイスがあるのですが、やはり見晴らしは良くありません。立ったまま休憩後、再び歩き始めました。
展望があまり良くない、三角点がある峨眉山頂上
頂上を過ぎた頃、お昼が迫っていました。そのため、やや急いで歩道を歩きました。しばらく登ったり降りたりを繰り返していると、木々を通して山大付属小中学校の校舎がちらちら見えてきました。そして、松林の間にある休憩所に着きました。丸テーブルがありました。めいめいは、丸テーブルに座ったり松の落葉に座ったりしてお昼休憩をとりました。そして、楽しく談笑しながらお弁当を食べました。
頂上からのんびりと遊歩道を下る 登り坂、もうすぐで休憩所に到着
==========健康ウォーキングクラブ==========
9月初めから、代表的な秋冬野菜の種を蒔いています。蒔く間隔は1週間です。1週間空けると野菜の成長の差がよく分かります。下の画像の右列から順に、9/3,9/10,そして9/17に種を蒔いた小松菜です。9/3に種を蒔いた小松菜は1週間後の9/27日頃には収穫して食べることができそうです。9/10日種を蒔いた小松菜は第1葉が出ています。10月7日頃には収穫できそうです。
1週間間隔で種を蒔いた小松菜、成長の差が分かる
一方、9/17に種を蒔いた小松菜は発芽したばかりです。10月15日頃には収穫できそうです。今後だんだん寒くなりますので、発芽が遅れたり成長が遅れます。9/24日以降は、種を蒔く列を増やします。
チンゲンサイも小松菜とほぼ同じように発芽し成長しています。チンゲンサイは小松菜よりも成長が遅いので、収穫まで30日位かかります。寒くなればさらに遅れます。
1週間間隔で種を蒔いたチンゲンサイ
ちなみに大根もだいぶ大きくなりました。大根は種が大きいため、小松菜よりも初期成長が早いようです。そろそろ間引きしようと思います。このまま成長してくれれば、12月には美味しい大根が収穫できそうです。収穫した大根は干して漬物にしようと思っています。
ところで、夏の間に黄色の花が咲いていたゴーヤですが、実が熟してはじけていました。ゴーヤは苦くて私はあまり好きではありません。ただし、種の赤い部分は甘いので好きです。種を口にほおばり甘みを楽しみました。種は乾かして来年蒔きます。
そろそろ間引きが必要な大根 種の周りの赤い部分が甘いゴーヤ
このところ、急に寒くなってきました。昼も半袖では寒くなりました。半袖でバイクに乗ると寒くてたまりません。ところで、畑では次々に秋冬野菜の種をまいたりしていますが、今回はネギ類の植え替えや植え付けをしました。最初、耕耘機で耕した後、穴あき黒マルチを敷きました。そして、やぐらネギなどを植え替えしました。
黒マルチを畝に被覆 育てたやぐらネギを掘り上げ
このやぐらネギは、近所のSさんにいただいた芽を大事に育苗したものです。このネギを増やす方法は、種をまいて増やすのでもなく、株を増やすのでもありません。ネギの花の部分が、芽になる不思議なネギです。この芽を取って畑の土に植えて増やすのです。いただいた芽は今年は食べないで、ひたすら育てることに徹しました。このおかげか、1つの芽が10ぐらいに分げつしました。
掘り取ったやぐらネギを、黒マルチの穴に植え替え
やぐらネギを植え替えすると、次にわけぎを植え付けしました。春にわけぎを掘り上げて干していたのですが、いくつかは枯れていました。このため、わけぎを買い足すことにしました。わけぎを買っている時、隣りにミニタマネギを売っていことに気がつきました。このミニタマネギは、今頃植え付けると、この冬にタマネギを収穫できるそうです。このミニタマネギも、試しに買って植え付けてみることにしました。
購入したミニタマネギとわけぎ 黒マルチの穴にミニタマネギを植え付け
ミニタマネギを植え付け終わると、購入したわけぎを植え付けました。そして最後に、春に掘り上げたわけぎを植え付けました。先日の長ネギの植え付けなどを加えると、我家で作っているネギ類は、長ネギ,わけぎ,タマネギ,太ネギ,ニラ,そしてやぐらネギです。これらの中で多く作っているのは、長ネギとタマネギです。これからネギが美味しい季節になります。
植え付けが終わった、やぐらネギ,わけぎ.ミニタマネギ
18日、田布施中学校の1年生が郷土の学習のため田布施町郷土館に来館しました。1組は郷土の偉人について学習し,2組は郷土の産業について学習し,そして5組は郷土の史跡について学習しました。最初1組の来館です。郷土館のN館長が田布施町の写真を元に田布施町の概要を説明して、次に1組のみんなを2階に案内して旧宰相岸信介氏と佐藤栄作氏について丁寧に解説しました。
旧宰相岸信介氏と佐藤栄作氏について1組に説明する郷土館のN館長
旧宰相岸信介氏と佐藤栄作氏の説明や遺品の説明が終わると、1年生は他の偉人についても説明を受けました。国木田独歩や江良碧松などの文学者、そして幕末に活躍した富永有隣などです。一通り説明が終わると、生徒達は学習室などで郷土の偉人についての文献を調べたりしました。そして、遺品の説明を再確認したりしながら自主的に学習を続けました。
郷土の偉人達の写真や資料を見学 学習室で、偉人に関する文献を調査
1組が学習を終えて帰ると、交代するように2組が来館しました。2組は田布施町の産業を主に学習しました。最初、田布施町の概要を聞いた後、昔栄えた産業の話を聞きました。例えば、防長四白について詳しく説明をうけました。四白とは、塩,米,和紙,ハゼろうです。これらの産業を振興したため、長州藩は他藩より経済が豊かになり幕末をリードすることができました。
田布施町の概要について説明を受ける2組の生徒達
続く5組は私が主に担当しました。最初、田布施の概要について写真を元に詳しく解説しました。そして2階に上がって古墳を中心とした遺跡の説明をしました。特に石室が山口県で一番大きい後井古墳と、山口県で最古と言われる国森古墳について詳しく説明しました。そして、東田布施にある納蔵原古墳の出土物についても説明しました。私の説明が終わると、30分ほどの自習タイムです。生徒達は、学習したことをまとめたり郷土館職員へ質問したりしていました。
各組共に約2時間かけて郷土を学習しました。前半1時間半ほどは郷土館職員が説明し、残り30分は自習,調査,質問タイムです。今回来館した中学1年生達は、郷土館から帰ると学習した事を新聞にして発表するそうです。どんな新聞ができるのかな?
Hさんに、昔の産業について説明を受ける 説明を受ける5組の生徒達
久しぶりに麻郷のふるさとの会へ行ってきました。この7月末の盆踊りのための麻郷嵯峨音頭の練習以来です。今回は、麻郷小学校の大運動会予行演習で練習する麻郷嵯峨音頭のお手伝いです。最初、麻郷公民館に納めてある太鼓などを麻郷小学校に運び込みました。なお、麻郷嵯峨音頭とは、嵯峨音頭のくどきを麻郷に合わせて変えたものです。
公民館から太鼓を運び出す 予行演習中の校庭内へ
太鼓などを運び込むために麻郷小学校に入ると、運動会の予行演習が始まるところでした。予行演習ですので、各競技も短く終わらせているようでした。午前中に全ての競技などが終わるのではないかと思います。麻郷嵯峨音頭は綱引きが終わった後に登場です。綱引きが終わるのを静かに待ちました。ところで、この麻郷小学校のように素足で運動する小学校は珍しいそうです。
低学年生でしょうか、やや緊張気味に素足で予行演習
ところで予行演習を見ていると、子供達は教わったとおり行儀よく競技をしていました。そして先生方は、列の乱れを直すなどの細かなチェックをしたり、スムーズな進行を心がけているようでした。本番では保護者や外部の見学者が大勢来ます。事故が無くスムーズに進行させなければなりません。私の姪も小学校の先生をしていますが、こんな風に教えているかと思いました。仕事とは言えご苦労様です。
生徒全員が列になり、太鼓やくどきに合わせて嵯峨音頭を踊る
綱引きが終わると、さっそく麻郷嵯峨音頭の練習です。麻郷ふるさとの会の会長が麻郷嵯峨音頭の由来などを説明している間に、太鼓などを急いで貴賓席前に並べました。太鼓を並べ終わると、太鼓を叩く子供達がやって来ました。知っている子供達ばかりで、数人の子供達と立ち話をしました。会長の説明が終わると、麻郷嵯峨音頭の始まりです。
嵯峨音頭のくどきを歌うKさん 麻郷ふるさとの会の子供達
さて今回、麻郷嵯峨音頭を練習して問題点がいくつかありました。一つは、貴賓席の前ではなく校庭の中央で太鼓を叩いた方が良いとの指摘でした。今回の反省を元に、運動会本番では素晴らしい麻郷嵯峨音頭を保護者や来場者に披露できると思います。
運動会を盛り上げるように、飾られた新校舎
麻郷嵯峨音頭が無事終わると、子供達と一緒になって太鼓などを校舎の中に仕舞い込みました。その後、麻郷ふるさとの会の方々は校舎横に集まりました。そして、運動会当日の撤収方法などについて詰めました。
ところで私は、この運動会当日にウォーキングを主催しなければなりません。残念ながら今年は運動会を見学することができません。9月10月はいろいろな催しが重なります。来年は、ウォーキングと重ならないように配慮しようと思います。
子供達と太鼓などを仕舞う 運動会当日の撤収方法などを検討
今年もタマネギの種まき、育苗の季節がやってきました。私はタマネギを毎年作っているのですが、10年位前までは苗を購入して植え付けていました。7,8年位前から、毎年のように種をまいて育苗しています。この秋も種をまいて育苗することにしました。タマネギは、うまく発芽させることさえできれば育苗はほぼ成功です。
指をこするようにして種を散蒔 種の上に薄く土を被覆
最初、耕運機でタマネギ用の畝を耕しました。肥料を混ぜ込むように何度も耕耘しました。次にジョロで水を畝にかけました。快晴が続くため、畝が乾燥しないためです。水をかけ終ると、タマネギ(品種:ネオアース)の種をばらまきしました。そして、その上に土を被せました。均一に被覆すように、網をふるいながら土を被せました。
籾ガラを均一に被覆 籾ガラを被せたタマネギ育苗畝
土を被せ終わると、その上に籾ガラを被せました。同じように網を使用して、畝全体に均一に籾ガラを被覆しました。曇り空ならばこれで種まきは終了ですが、今は快晴続きで畝が乾きやすくなっています。乾燥を防ぐため、畝の上に遮光布を被せておきました。これでタマネギの種まきは終了です。うまくいけば、来週あたりにタマネギが発芽するはずです。
乾燥を防ぐため遮光布を畝全体に被せる
神花山をぐるりと回ると、田名地区の山側に向かって進みました。田名地区は戦前は漁港がある海側にも多く人が住んでいたようです。しかし、軍港である回天基地を作るため漁港に住んでいた人は、なかば魚見地区へ強制移転がありました。この移転のため、大波野から伝わった神舞が途絶えてしまったようです。田名地区は今、山側に住んでいる人が多いようにみえます。その田名地区の中心部に田名児童館があります。ウォーキング時にトイレを使わせてもらえないか、下見時に訪問しようと思います。
田名地区の中心にある田名児童館
児童館を過ぎると、どんどん田名地区を進みました。丸山地区に出ると、佐賀漁港が見えるようになりました。いったん県道に出て佐賀漁港に向けて行きました。そして、数百m位行ったところで、再び山に向かう道に入りました。高度を上げて振り返ると、馬島や佐合島が見下ろせるようになりました。そして、木立の間を抜けると夫婦松に着きました。
屋根がある、枯死した夫婦松 舗装道を曽根に向けて下る
夫婦松は30年位前に全国的に流行った松食い虫にやられて枯死しました。この夫婦松は曽根と佐賀の境界にあり、昔は峠を越える人達がここで休んだそうです。昔、人々は山を越える道を通って佐賀に行っていたそうです。夫婦松で少しばかり休憩すると、今度は曽根平原に向かう道に出ました。
しばらく行くと曽根の板碑の案内板がありました。案内板のある坂を数十m登ると、曽根の板碑があります。平生町の指定有形文化財で、7月のウォーキングで見学しました。この案内板近くから平生湾に向けて急な下り坂となります。
曽根平原地区付近から平生湾を見下ろす
刈り取り中の田んぼの中をどんどん下って、曽根八幡宮に行きました。八幡宮から少し下った場所にある石灯篭と思われるものはとても立派です。その後、川に沿ってどんどん下りました。途中、南陽霊場三十八番札所と書かれたお地蔵様がありました。南陽霊場の札所とはどこを巡っているのでしょう。調べてみたい霊場です。その札所をすぎてしばらくすると、平生中学校がありました。野球部員が汗を流して練習していました。そして、すぐ近くにつばさ保育園がありました。その前方に曽根公民館があり終点です。
静かな曽根八幡宮 南陽霊場三十八番札所
今回通ったルートは来年の早秋の9月が良いでしょうか。曽根八幡宮近くに広がる田んぼはとてもきれいです。9月は田んぼの土手に赤や黄色などの彼岸花が咲く季節です。今回通っていると、田んぼの土手にたくさんの彼岸花が咲いていました。
今回通った、曽根公民館~田名~夫婦松~曽根公民館のルート(2/2)