年のせいか最近、若い頃の自分を思うことが多くなりました。小学校,中学校,そして高校時代の同級生とふだんから付き合っているからかも知れません。また、若い頃の思い出の地でもあった南紀や北九州を友達と去年旅行したからかも知れません。そこで、大阪の思い出の地である大阪難波や日本橋を一人で日帰りで訪れてみました。予想していたとおり、思い出の地は大きな変貌を遂げていました。
私が日本橋に勤めていた当時そのままの千日前道具屋筋
新大阪駅を降りると、環状外回り線に乗って大阪城跡公園駅に向かいました。そもそも大阪に来るのは、約40年ぶりの事です。環状外回り線があったことすら覚えていません。御堂筋線と南海線位しか記憶にありません。さて、駅を降りてからしばらく歩くと遠くに大阪城が見えました。相当な距離があります。大阪城に着くまでに無駄に時間がかかりそうです。そこで、大阪城散策は諦めて難波に向かうことにしました。
環状外回り線に乗車 大阪城公園駅 駅から大阪城に向かう
大阪城公園駅に戻ると、鶴橋駅に向かいました。その鶴橋駅で難波行の近鉄奈良線に乗り換えました。確か40年前の休日、この線路を使って東大寺や奈良の鹿を見に行ったことなどがありました。難波駅で降りると、南海線の難波駅に向かって歩きました。地下道を300m位歩いたでしょうか。当時はまだ地下通路が無かったように思います。さて南海線の難波駅で道に迷ってしまいました。
大阪城を巡る観光ロードトレイン はるか遠くに見えた大阪城
40年前の記憶をかすかに頼りながら歩き回っていると、日本橋とは反対側の難波パークスガーデンに出てしまいました。さらに道を迷っていると、かすかに記憶がある日本橋へ向かう道を探し当てました。私の働いていた日本橋方面に向かっていると、懐かしの千日前道具屋筋商店街を見つけました。嬉しくなりました。料理に関する道具などを売る専門商店街なのですが、まだお店がたくさん残っていました。当時22歳の私は、この道具屋筋商店街を通って出勤していたのです。22歳と言えば、ちょうど今の1/3の年齢です。
難波パークスガーデン 懐かしの日本橋に向かう 料理道具専門の商店街
春に備えて、いろいろな野菜の準備をしています。今回は、秋に種まきした絹さやエンドウ豆とグリーンピースに支柱を立てました。両社共に春になると、どんどんと蔓をだして上に登っていきます。その時に支柱がないと横に広がります。すると、せっかくできた豆を収穫できません。ほどよい高さで収穫できるように支柱に登らせるのです。
支柱として立てた枯れた竹、この支柱に豆を登らせる
ところで、支柱を立てる前に草取りをしておきました。草取りをしておかないと、豆の代わりに雑草が支柱を登ってしまいます。すると、雑草に遮られてエンドウ豆が枯れてしまうことがあるのです。また、その頃に除草しても豆と雑草が絡みついています。そうなると、雑草を取る代わりに、間違えて豆を取ってしまうことがあるのです。雑草が小さい今頃が除草のチャンスなのです。
雑草が生えた豆の周辺 雑草を取り除いた豆の周辺
除草のついでに豆を間引きしておきます。私は一つの株に二つの豆を残すようにしています。まだまだ小さな豆ですが、暖かくなる4月にはどんどん大きくなり、5月初めには、食べきれないほどの絹さやエンドウ豆の鞘が収穫できます。少し遅れて、グリーンピースが収穫できるようになります。自分で作ったこれら旬の野菜を食べることは一種の贅沢だと思います。
支える棒を打ち込む 棒を紐で結ぶ 枯れた竹の枝を結束
猫のお宿を出ると、ぴんころ地蔵に立ち寄りました。今の世相、長々と介護を受けずぴんころと逝きたいとの思いが強くなったように思います。誰の迷惑にもならず子供の世話にならず逝きたいとの思いなのでしょう、何人かがこの地蔵様をさすっていました。数十年後、私はどうなるのでしょうか。
天王社がある丘のすそ野を散策
ぴんころ地蔵を過ぎると、木工所に寄りましたが日曜日は不在のようです。続いて、西竹重自治会館に行きました。この会館内には立派なお地蔵様が安置されています。かつて、ここには西遊寺がありました。建屋の周りには、その名残として墓石がいくつかあります。虫干しをしていたのでしょうか、たまたま中の障子が開いていました。そのため、お地蔵様を外から拝むことができました。
西竹重自治会館 林の中の天王社 なつかしいのうぐろ
西竹重自治会館を過ぎると、丘の上にある天王社に行きました。この天王社のすぐそばに大きな穴があります。今、その穴には枯れ枝などが詰めてあります。古老によると、昭和の初めにこの穴の場所に大きな松が生えていたそうです。その松は巨大で、田布施駅方面からよく見えたそうです。そのため、麻郷に帰る人たちの道しるべの役割をしていたとのこと。しかし、いつの日かその松は倒れてしまったそうです。その根の跡が、穴として今でも残っているのです。
ネズミモチの巨木 出征兵士を見送った鐘 発掘現場を見学
天王社を過ぎると、竹重地区から尾迫地区に入りました。田布施町の名木の一つであるネズミモチの巨木を見上げながら尾迫地区に入りました。尾迫に入ると、昭和十年代のことと思われますが、出征する兵士を送る時に鳴らしたと伝わる鐘が道端にあります。大東亜戦争と読める石柱が、鐘をぶら下げる棒を支えています。戦争遺跡が、こんな所に人知れず残っているのですね。
大室遺跡(弥生時代)碑を見学 麻郷公民館に帰着
続いて、発掘現場に行きました。丘の高い場所にあります。弥生時代の遺跡とのことです。日曜日だったため発掘している方が誰もいませんでした。そのため、現場を眺めるだけにとどめました。続いて、最後の史跡である大室遺跡碑を訪れました。弥生時代の遺物が発見されたそうです。先の発掘現場と同じ尾根続きですので、この一帯には弥生時代にたくさんの人々が暮していたようです。大室遺跡碑を見学し終わると、しばらく歩いて麻郷公民館に帰り着きました。ウォーキングに参加された方々お疲れ様でした。来月のウォーキングでは、柳井新庄の大平山の尾根を散策する予定です。
今回ウォーキングした麻郷北西部コース
毎年恒例の牡蠣まつりが麻里府小学校跡地で開催されました。天気が良かったため、去年より人が多かったように思いました。私は糸紡ぎや織物コーナーを作るため朝8時半頃に会場に行きました。すると準備はほぼできており、お客さんさえいれば牡蠣まつりはすぐにでも始まる勢いでした。お店担当の私、各お店を回りながら挨拶をしました。そして、去年との違い(トイレの位置など)を説明しました。また、お店をどこにしようか迷っている方にアドバイスをしました。
焼き牡蠣を手に入れるため並んでいるお客様
数年前まで牡蠣の販売や牡蠣小屋などを中心に手伝っていました。賑やかなお祭りですので、大声に身振り手振りは欠かせません。お客様も楽しいでしょうが、お客様を誘ったり誘導したりするスタッフも楽しかったものです。今回、焼き牡蠣,漁師飯,漁師汁などの販売は漁協が主体となり、牡蠣販売やムール貝販売は観光協会が行いました。
焼き牡蠣の販売 漁師飯の販売 猟師汁の販売
私はほとんど、糸紡ぎ織物コーナーにいました。そして、綿繰りや糸紡ぎに興味を持つ方々に説明をしました。綿と言うと白を連想するのですが、たまたま茶綿を扱っていたのが興味を引いたようです。茶綿は、毛の長さや毛色が犬の毛によく似ています。ただ、毛の長さが短いため、やや糸に紡ぎにくいのが難点です。
茶綿の綿繰りを楽しむ子供達 簡単な織物を楽しむ方々
私は主に綿繰りや糸紡ぎを担当しましたが、となりの席は簡単な織物体験コーナーです。大人も子供も織物を楽しんでいました。そしてお昼、漁師飯と漁師汁を食べながら一息入れました。午後はいつもの仲間が手伝いに来てくれたので、より賑やかに綿繰り,糸紡ぎ,織物体験を楽しんでいただきました。牡蠣まつりは午後2時頃に終わりました。いつもの仲間と平生町の喫茶店に移動して談笑しました。
ムール貝の販売 ムール貝を各自袋に 賑やかな牡蠣まつり会場
奈良の大岩でしばらく休憩すると、猫のお宿(田川邸)に向かいました。猫のお宿に近づくにつれて、その庭に立つモミの木がだんだん大きく見えてきます。このモミの木は、小学生時代の恩師である田川校長(当時)が生まれた時に植樹されたそうです。樹齢100年を超えており、田布施の名木の一つに挙げられています。
暖かい日差しが差し込む、猫のお宿の縁側
その田川校長とは二つの思い出があります。一つ目の思い出です。6年生の秋、女子だけが早く下校することが続きました。私を含む数人が、女子だけ下校時間が早いのは差別ではないかと職員室に抗議に行きました。たまたま教頭先生がおらず、何事かと校長室から田川校長が出てきました。話を聞くと、にこにこする校長に校長室に招かれました。そして、招かれた私たちは深々とした椅子に座りました。女子だけが早く帰る理由は、秋祭りに出る巫女さんの踊りを練習するためだったのです。
猫のお宿が見えてくる おひな様の準備中 おひな様を飾るお部屋
二つ目の思い出は3年生だった時のことです。当時の私は体が弱く背も低く勉強もできず、何かしらストレスをかかえていたようです。よく学校を抜け出していました。ある時、ある女の子をいじめてしまったのです。確か輪ゴムを顔にパチンと当てたのです。それをたまたま見つけた担任の先生が、私を羽交い絞めにして校長室に連れて行ったのです。
たくさん飾られたひな人形 おひな様を前にお汁粉をいただく
よくは覚えていませんが、やはりニコニコしながら私に話しかけました。どんな話をしたのか覚えていません。しかられた記憶もありません。その田川校長は、私が中学生になる時に定年を迎えました。その40年後、小学校の同窓会を私が初めて企画した時、第一に田川校長を招こうとしました。しかし、同窓会直前に亡くなったのです。とても残念でした。
猫のお宿を出る ぴんころ地蔵 竹重地区に向かう
去年の秋に、種を蒔いて育苗したタマネギ、晩秋に数人の方に手伝っていただき育てた苗を移植しました。ところが、しばらく世話をしないでいたら畝が雑草だらけになっていました。これでは美味しいタマネギを収穫できません。たまたま午後時間が空いたため、タマネギ周辺の草刈りをしました。今以上に草が大きくなると、草取りが困難となります。例えば、草と一緒にタマネギが抜けてしまうことがあるのです。
タマネギの畝を除草後、黒マルチ周辺も綺麗に除草
私はタマネギを育てる時、黒マルチを使います。黒マルチはタマネギを植え付けた穴を除く黒い部分の除草効果があります。また、日光を受けて保温効果があります。ところが、タマネギを植え付けた穴にたまたま雑草の芽が出ると、それはもう猛烈に成長します。穴に生えた雑草はタマネギ以上に育つのです。
猛烈に繁茂した雑草 手で雑草を引き抜く 雑草を綺麗に取り除く
我家は私と婆様の二人なので、そんなにたくさんのタマネギはいりません。ほとんどは家内に送ったり友達に差し上げています。例えば、春先にタケノコ,しいたけ,そして葉タマネギを一緒にして送ることがあります。今年は、数人の方に植え付けを手伝っていただいたので、その方々にも差し上げようと思います。
黒マルチを覆うように広がる雑草 雑草を綺麗に取り除く
タマネギの雑草を取り終わると、もう一仕事草取りがあります。黒マルチ周辺の雑草です。黒マルチの穴の部分は引き抜いて除草するのですが、黒マルチの周辺は平クワで黒マルチを傷めないように除草します。その後、耕耘機のロータリーを回しながら除草します。これで、4月位までは除草の心配はありません。次に絹エンドウや豆グリーンピースの除草をしようと思います。毎年のことですが、除草と同時期に豆がからみつく支柱を立てなければなりません。
黒マルチの周辺を除草 黒マルチの際を除草 耕耘機ロータリーで除草
高松八幡宮で健康ウォーキングクラブの安全祈願が執り行われた後、しばらく境内を散策してから溜池記念碑に向かいました。記念碑と言うと、由来などの文字が書いてあるだけの石碑が多いものです。しかし、この溜池記念碑は花崗岩のような硬い石を使っておらず、セメントを使って作られています。しかも、台座の上に二人の働く立体像が置かれています。とても珍しい記念碑です。
奈良の大岩、しばらく立ったままで休憩
溜池記念碑から10m位離れた場所に二ッ池遺跡碑があります。弥生時代の遺跡が発見された場所です。麻郷の北から西にかけてたくさんの弥生時代の遺跡が発見されています。今から二千年位前、麻郷にはたくさんの弥生人が住んでいたようです。つまり、古代の麻郷北西部は住みやすい環境だったのでしよう。当時、「麻郷」や「田布施」を何と呼んでいたのでしょう?そもそも当時の日本語はどんな発音をしていたのでしょうか。
溜池記念碑に向かう 溜池記念碑を見学 二ッ池遺跡碑
二ッ池遺跡碑の見学が終わると、ひたすら歩きました。奈良地区から竹重地区に抜ける途中、暗い山の竹林を通りました。しかし、たくさんの倒れた竹が道をふさいでいました。その倒れた竹を乗り越えるか、くぐって進みました。近年山を世話する人が激減したのか、竹や木が生い茂って歩けなくなった道が多くなりました。
奈良地区をどんどん歩く 奈良の山深い竹林道には難渋
倒れた竹を避けるように山道を進んでいると、ぽっかりと広い道に出ました。その道の狭い脇道に入ってしばらく進むと、開けた場所に出ました。さらに進むと奈良の大岩が見えてきました。久しぶりに来た奈良の大岩です。この大岩、数年前に観光地にしようとしました。しかし、駐車場などのインフラが不十分だったため、地元の方と観光客の軋轢が少なくありませんでした。そのため、観光としての看板をすべて撤去したいきさつがあります。観光開発の難しい問題です。
倒れた竹をまたぐ 延々と竹林道を進む 奈良の大岩に到着
去年の8月自分流にズボンの傷んだ膝を修繕しました。お気に入りのズボンでしたので使い過ぎたようです。同じ個所近くにまたまた小さな穴が開いていました。それに加えて、熱圧着した当て布の淵が外れかかっていました。洗濯時に強くこすれたのでしょう。半年程度で再び破れてしまったのでがっかりです。直し方も悪かったのでしょう、気落ちしました。あーあ!
熱圧着専用の当て布をアイロンで熱圧着
破れた箇所を見ると、8月に修繕した箇所近くです。今考えれば、広く当て布を当ててミシンで縫えばよかったようです。長年使用したズボンは膝周辺がこすれて広く生地が薄くなっています。布をケチってはいけないことに気が付きました。さらに、熱圧着は一時しのぎであるにすぎないようです。
ちゃんと修繕するためにはミシンで縫うしかないことが分かりました。ところで、私が使っているミシンは1本糸でしかも往復縫いができないのす。ズボンの修繕に適していません。再度膝が破れることがあれば、ズボンを修繕できるミシンを購入しようと思います。
当て布の隣に穴が開く 裏返して観察 やむなくアイロンを購入
前回修繕した時、友達にアイロンを借りました。また借りるのもどうかと思って一番安い千円台のアイロンを買いました。そして、熱圧着する当て布も購入しました。しかも、ズボンの表から当てるものと、ズボンの裏から当てるものを購入しました。表から当てる布はズボンと色が違うので目立ちますが、生地が厚いため丈夫そうです。色違いはみっともないので、このズボンは農作業専用に使おうと思います。ウォーキングなどの外出用には使わないようにしようと思います。
ズボンの表から当てる布 熱圧着するも、色の違いが目立つ
ズボンの裏から当てる布は、柔軟性はありますが薄いので長持ちするか心配です。しかし、表から当て布が見えないので見栄えは悪くありません。中温にしたアイロンを30秒程度押しつけると、あっけなく熱圧着が終わりました。断捨離大好きな家内はすぐに捨てて新しいものを購入します。私は修繕してでも使い続けたいのです。例えば、息子が中学生時代に来ていた服を20年位着続けています。一番古いものは、私が高校時代に使っていたナップサックです。かれこれ50年位使い続けているでしょうか。
膝にあいた穴 裏側から当てる布 修繕した二つのズボン
江良家墓所を出ると、江良碧松の歌碑に行きました。何度も来た歌碑です。地元の方が花壇を含めて歌碑を綺麗に掃除していました。続いて長福寺に向かいました。このお寺にはかつて麻郷最後の尼さんが住んでいました。今や無人となった長福寺の軒下に「南平和第七番札所」と書かれた木札が打ち付けられています。かつて、このお寺をたくさんの人々が巡礼していたのでしょう。巡礼者はこの長福寺を出ると、山深い伊佐里ヶ峠を越えて次の札所である麻里府の大泉寺に向かいました。
高松八幡宮の暖房のきいた氏子会館で昼食休憩
長福寺の西側に高松八幡宮の参道が続いています。その参道を少し歩いて、氏子会館に行きました。氏子会館は暖房がきいており快適に昼食休憩をとることができました。高松八幡宮のご厚意に感謝致します。ありがとうございました。
綺麗に掃除された江良碧松の歌碑 氏子会館に到着、昼食休憩を取る
昼食休憩が終わる頃、すでに宮司さんと禰宜さんは高松八幡宮拝殿で待機しておられました。皆さんと一緒に、手を清めてから拝殿に入りました。今回高松八幡宮を訪れた理由は、健康ウオーキングクラブの安全祈願のお祓いをしていただくことでした。私は代表と言うことで、一番前に座りました。お祓いが進む中で、私は前に出て玉串をお供えし拝礼や柏手をしました。
氏子会館を出て拝殿に 拝殿までの参道 手を清める
安全祈願が終わると、宮司さんからお話がありました。その後、宮司さんと禰宜さんからお神酒などをいただきました。ところで、普段から安全努力がないと祈願の効力がなくなります。常に初心に返って、健康・安全に努めなければならないと思います。
安全祈願していただいた高松八幡宮 宮司さんと禰宜さんからお神酒をいただく
去年の2月麻郷の旭・新川ふれあい生き生きサロンを皮切りに、生き生きサロンや生きがい教室などで地域の歴史講座,懐かしい道具講座,懐かしいフィルム映画上演などの活動をしています。今回は西田布施公民館の生きがい教室で講演をしました。最初に西田布施の古代から現代までの歴史を講演しました。例えば、いつ上田布施と下田布施が分かれたのか,いつ西田布施と東田布施ができたか,そして「西田布施」小学校の校名がなぜ「田布施西」小学校に変わったのかなどです。
懐かしいフィルム映画「名犬ラッシー」を上演
歴史講座は1時間位で終わりました。続いて、ハンドルを回して音楽を聴く蓄音機をお見せしました。そして、昭和20年代のSP盤レコードの音楽を流しました。懐かしい蓄音機の音に合わせて歌っておられる方がたくさんいました。次に幻燈機です。西田布施公民館の館長さんと主事さんに声優をお願いしました。最後に、古い映写機を使ってフィルム映画「名犬ラッシー」を上映しました。そして、ちょうど正午に講座が終わりました。西田布施公民館の館長さんと主事さん、そして生きがい教室の方々、ご協力ご清聴ありがとうございました。
西田布施公民館 生きがい教室予定板 蓄音機でSP盤を聞く
久しぶりに田布施町の麻郷をウォーキングしました。これまで歩いたことが少ないルートのつもりでしたが、重なるルートがたくさんありました。最初に向かったのは麻郷小学校西側にある神花社(地元では「じんがさー」)です。神花社からは麻郷小学校を眼下に見下ろすことができます。
落葉を蹴散らしながら神花社に向かう
麻郷小学校は私の母校です。私が小学低学年の時、少し離れた場所に木造校舎がありました。私が小学3年生の頃だったでしょうか、神花社の鎮座する山の東側がブルドーザーで削られました。削った土を押し出すように広げ平らに均されました。それが今の校舎の敷地になりました。
麻郷公民館に集合 麻郷小学校方面に向かう 朝日を浴びながら神花社へ
小学高学年になった時、新校舎が完成しました。旧木造校舎から机や椅子を運んだことを覚えています。その新校舎、残念ながら7年前に解体されて、今の校舎になりました。仕方ありませんが、個人的には思い出の木造校舎や旧校舎が無くなって残念です。
もうすぐ神花社 神花社に到着 井神地区へ向かう
神花社を出ると、江良碧松生家に向かいました。時間があったため、道を曲がりくねりながら歩きました。昔は田園が広がっていた場所に、たくさんの太陽光発電設備がありました。江良碧松生家を見ると、次に墓地を訪れて江良碧松を弔いました。続いて江良碧松の歌碑を訪れました。
江良碧松生家に向かう 江良家の墓所を訪れ弔う
2年ほど前から、羊毛の洗浄,綿の栽培,綿繰り糸紡ぎ,織物,藍染めなどの活動をしています。かつて田布施町では規模が小さいとは言え、綿作り,綿繰り,紡ぎ,機織り,染物などの産業がありました。そこで、羊毛や綿から布に至る作業を手作りとして再現できないかと考えています。一人の方が綿から布へ仕上げても良いし。一人の方が糸紡ぎだけをしても良いし、あるいは織物だけをしてもよいとも考えています。もちろん楽しく。
綿栽培と羊毛に関わる一年のおおまかな作業スケジュール
また、小学校の放課後学習で簡単な糸紡ぎや織物などをしてもよいかとも考えています。私も含めてまだまだ素人集団なので、徐々にできればと思っています。そして、「和気あいあいに楽しく」をモットーに活動できればと考えています。
綿繰り:茶綿から、茶色の綿と種子を選別中
2019年になって、もう1ヶ月半が過ぎました。1月は雨の中をウォーキングしました(延期後:2月3日)。2月は麻郷の北西側をウォーキングする予定で、下見も済みました。3月以降は下記の定でウォーキングします。発会以降7年が過ぎて、ウォーキングしたことが無いルートを探すことが難しくなってきました。今後は、以前ウォーキングしたルートと重なることは避けられません。
平生町大野北を雨中ウォーキング(延期後2月3日)
健康ウォーキングクラブ 2019年のウォーキング(予定)
月 日(基本第3日曜日)
1月 20日 平生町 大野北ウォーキング 済(2月3日に延期)
JA南すおう平生10:00~常春寺~おうちえん~萩原~般若寺~萩原~
稲荷大明神~栓見神社~JA南すおう平生 ※雨のため大幅にルート変更
2月 17日 田布施町 麻郷北西ウォーキング 下見済
麻郷公民館~神花社~江良碧松生家~江良碧松墓地~高松八幡宮~
溜池記念碑~奈良大岩~発掘現場見学~麻郷公民館
3月 24日 柳井市大平山ウォーキング
MaxValu柳井~フラワーランド~大平山~余田~安立寺・正連寺~
MaxValu柳井
4月 21日 小松原黒岩峡ウォーキング
徳修館~島田川左岸~毛利家墓地~黒岩峡~常妙寺~小松原神社~
徳修館
5月 19日 大津島ウォーキング
田布施駅~徳山駅~渡船場~大津島~渡船場~徳山駅~田布施駅
6月 16日 田布施町小行司ウォーキング
にこにこパーク小行司~黒杭ダム~余田畑~多賀社~にこにこパーク小行司
7月 21日 上関ウォーキング
四階楼~上関大橋~六人地蔵~上関城~遍照寺~甕八幡宮~上関小跡~
上関大橋~四階楼
8月 お休み
9月 15日 島田~岩田ウォーキング
田布施駅~島田駅~立野神社~和光苑~岩田駅~田布施駅
10月20日 田布施町木地~行者山ウォーキング
交流館~木地~行者山~専福寺~郷土館~交流館
11月17日 石城山ウォーキング
交流館~石ノ口八幡宮~石城山~別所~石ノ口八幡宮~交流館
12月 お休み
注1)当日が雨天の場合、次週日曜日に延期します。次週日曜日も雨の場合は中止します。
注29月~11月は地域のお祭り等と日付が重なることが多いため、ウォーキングの日付や
ルートを変更することがあります。
仕事で使う文房具を買いに行くと、お店の外にネギの苗を売っていました。ネギが大好きな私としては見逃せません。思わず買ってしまいました。去年収穫した残りのネギが分げつしています。それを分けて苗として植えてもよいのですが、苗としては足りそうもありませんでした。そのため、不足分を補うためにで苗を購入したのです。以前は種をまいて苗を作ることがありましたが、最近はもっぱら苗を購入することが多くなりました。
去年ネギ用に使っていた黒マルチを再利用
去年ネギを栽培していた黒マルチを再利用することにしました。そのためその古い黒マルチを綺麗にしました。黒マルチの両サイドを平クワを除草し、黒マルチの穴は手で雑草を抜きました。ところで、近くに栗の木が生えています。その栗の棘が黒マルチに残っていたようで、除草中に指先に刺さりました。ひどく刺さったようで、今でもチクチク痛いです。
平クワで両サイドを除草 除草中の黒マルチ 整理し終わった黒マルチ
最初、分げつしたネギを分割して苗として植え付けました。その後、購入した苗を植え付けました。再利用した黒マルチはボロボロです。雑草が生えやすいので、今後の除草が欠かせません。ちゃんと世話すれば、初夏以降に美味しいネギが収穫できるのではないかと思います。
苗として再利用した古いネギ 購入したネギの苗を移植
田布施町郷土館に展示している明治時代の超古い織機、布がだんだん織れなくなって困っています。原因の一つは、あまりに古いため木材が折れたり外れたりしはじめたからです。特に織機の下の部分がひどいのです。もともと虫食い状態だった木材ですので、朽ちてボロボロと木片が落ちるのです。修理に出せば大金がかかります。購入した方が良いのですが、それでは古い物として展示できません。
綺麗に織れなくなった布、補修などの対策が必要
布が綺麗に織れなくなった原因、もう一つあります。それは綜絖があまりに古いため、経糸が交互に交差できなくなったことです。、2年前に織機を修復したた時、現物に忠実に綜絖を四個にしました。しかし、四個だと綜絖が互いにぶつかったりひっかかるのです。つまり経糸が正常に交差しないのです。単純な織りですので綜絖は二個で十分です。
もつれた四つの古い綜絖 朽ちて外れた足踏み棒
暇を見ては修理しようとしていますが、なかなか時間が取れません。まずは、朽ちた木を交換しようと思います。また、展示兼体験用の織機ですので綜絖を二個にしようと思います。さらに、明治時代の緩んだ紐を新しい紐に交換しようと思います。明治時代の織機、なんとか展示兼体験用として蘇らせようと奮闘しています。
外れた経糸が数本 明治時代の緩んだ紐 修理中の超古い織機