最初、古道の入口を間違えました、そこで、旧竹尾小学校に戻ってから再度入口をあちこち探しました。すると、旧竹尾小学校入口から20mくらい下がった場所に入口がありました。入口を示す道標は無かったのですが、少し入った場所にお地蔵様が見えたからです。お地蔵様から山奥に道が続いていました。
旧竹尾小学校校庭から見下ろした集落、桜が植樹
古道入口のお地蔵様には、六丁と刻まれていました。古道はこのお地蔵様の向こうに続いているに違いありません。しばらく山道を進んでいると、崖のような山裾に次のお地蔵様が安置されていました。そのお地蔵様には予想通り五丁と刻まれていました。五丁のお地蔵様近くに、この集落のと思われる墓地がいくつかありました。
お地蔵様 六丁 お地蔵様 五丁
北緯 33°55'40.89 東経 33°55'37.91
東経 132°00'58.95 北緯 132°00'57.72
五丁のお地蔵様付近の山道は、とても切り立っています。元々は尾根道だったのでしょうが、永い間踏まれたりして浸食されたのだと思います。また、雨の水が削ったこともあると思います。
いろいろな山を歩いていると、人が歩いた道がどんどん浸食されているのをよく見ます。例えば、神奈川県の丹沢山系は、都心に近いこともあり登山客がとても多い山です。あまりに登山客が多いため山道が窪んで使えなくなり、脇に新たな登山道が作られている箇所が所々ありました。この竹尾の古道はいったい何年使われてきたのでしょうか。
永い間歩かれたため、龍泉寺に続く侵食された古道
切り立った古道をしばらく進むと、次のお地蔵様(四丁)がありました。この付近に来ると集落が見えなくなります。この古道はとてもよく整備されています。竹尾の方々が日々草刈りなどの整備を怠らないからでしょう。さらに進むと、その次のお地蔵様(三丁)が見えてきました。この付近から急に山深くなります。
お地蔵様 四丁 お地蔵様 三丁
北緯 33°55'34.94 北緯 33°55'33.33
東経 132°00'54.54 東経 132°00'51.07
どんどん歩いていると、急坂になりました。急坂になった場所に立派な二段の石垣がありました。かつて家か作業小屋が建っていたに違いありません。今は、柱などの形跡すらもありません。相当昔に朽ちたか移築したようです。その石垣の横を登ると、お地蔵様(二丁)がありました。ところで、これらのお地蔵様には皆、同じような花が生けられていました。おそらく、同じ方が生けたのではないかと思われます。
お地蔵様 二丁 昭和32年と刻まれた道標
北緯 33°55'33.44
東経 132°00'48.58
この付近に来ると龍泉寺が見えてきました。そして、石段となりました。その石段を登ると、古道の終わりを示しているのか石の道標がありました。昭和32年と刻んでありました。少なくとも昭和32年まではこの古道が使われていたことが分かります。
最奥部の田んぼは猪で荒らされているものの、綺麗に整備された田んぼ
石段を登り坂道を登ると龍泉寺に着きました。お地蔵様(一丁)があるはずなのですが、見あたりませんでした。龍泉寺のどこかにあるはずです。いつか探してみようと思います。龍泉寺から同じ古道を歩いて引き返しました。お地蔵様(五丁)近くの脇道を歩いてみました。少し下ると、誰もいない廃家がありました。廃家横の道をどんどん下ると、広々とした田んぼが広がっていました。しばらく歩くと、旧竹尾小学校が見える舗装道に着きました。次に竹尾の奥じょうに行くことにしました。
竹尾地区を上から見た図(航空写真)
先日、麻郷から麻里府にかけてお地蔵様を調査しましたが、今回は竹尾方面のお地蔵様を少しばかり調べてみました。竹尾には麻郷や麻里府から岩屋に抜ける道があるため、よく通ります。その道を中心に調べてみました。すると、意外にお地蔵様が多いことが分かりました。この地域は昔、信心深い人が多かったのでしょう。
麻里府と竹尾境付近のお地蔵様 旧竹尾小学校近くの集落
北緯 33°55'38.09
東経 132°01'10.60
まず、麻郷と麻里府境近くにある田布施・平生合同斎苑を通って竹尾に入りました。しばらく竹尾に進むと、お地蔵様がありました。台座に「法界」と刻んでありました。よく「法界(ほうかい)さま」と言われているお地蔵様です。よくは知らないのですが、「法界」とは、仏教において「すべてのものには因果があり繋がりがある。」の意味のようです。このお地蔵様から、竹尾地区の郷(ごう)じょうに入りました。なお、竹尾は大きく分けて、郷じょうと奥じょうの二つの地区からなるそうです。
旧竹尾小学校手前300m手前にある立派なお地蔵様
北緯 33°55'44.43
東経 132°00'59.43
旧竹尾小学校の300m手前に石垣に安置された立派なお地蔵様があります。その立派なお地蔵様の傍に、七丁と刻まれた小ぶりなお地蔵様が安置されていました。七丁は番号を示しているようで、七番目を表しているようです。この地蔵様に至るまでに一~六丁のお地蔵様があるようです。
七丁と刻まれたお地蔵様 旧竹尾小学校の向田農村公園
お地蔵様を見終わると、旧竹尾小学校に行きました。旧竹尾小学校は、明治9年に開設されました。その後、国木小学校竹尾分校になったりしながら、昭和36年に田布施西小学校に統合されました。90年近い歴史があった小学校でした。今は竹尾コミュニティーセンターになっています。そして、旧校庭は向田農村公園の広場となっています。炭焼きをしているのでしょうか、広場隅に炭焼き窯があります。
90年の歴史があった旧竹尾小学校(現竹尾コミュニティーセンター)
龍泉寺まで今は舗装道路を通って車で行くことができます。舗装道路が無い昔、人々は旧竹尾小学校からの古道を歩いて龍泉寺まで行きました。さらに、その先の峰尾峠を越えて伊保木まで行っていました。かつて、竹尾と伊保木の人々は互いに、この古道を通じてさかんに行き来していたようです。竹尾にも伊保木には龍泉寺の門徒さんがたくさんいます。
古道を探して訪ねた竹尾の最奥部の民家
竹尾と伊保木の人々が行き来していた峰尾峠は、今はもう使われていません。峰尾峠近くに残る山小屋の残骸だけが往時をしのばせています。数年前までは歩くことができたようです。今通ることができるのは大城峠と大峰峠だけです。
龍泉寺までの古道を探してみました。最初、旧竹尾小学校から最奥部の民家を訪ねましたが、別の場所が入口でした。なんと、旧竹尾小学校から少し下がった所が入口でした。この古道を、龍泉寺まで歩いてみました。
竹尾地区を上から見た図(航空写真)
この夏に実を収穫したブラックペリー、冬になり葉がだいぶ落ちてきたので剪定と整姿作業をしました。全くの素人のため、どのように剪定して良いのか分かりません。自分なりに無駄と思われる枝を切り落として整理し、支柱に麻紐でくくりつけました。ブラックベリーは夏、雑草の蔓のようにぐんぐん伸びます。今後毎年のように剪定が必要になると思います。
無駄と思われる枝を切断 支柱に麻紐でくくりつけ固定
昨日、近くのスーパーマーケットに行った時、ブラックベリーが売られていることに気が付きました。とても高くて、1パック税込で518円でした。この冬に収穫できるのかと不思議に思って産地を見るとメキシコ産でした。国産のブラックベリーは極めて少ないのでしょう。
私が子供の頃ブラックベリーをたくさん栽培しており、実を収穫してジュースにしてよく飲んでいました。ブルーべりーのように手摘みしか収穫方法がありませんので、安くはならないと思います。もし売れるようならば、たくさん作ってみてもよいかなと思います。
剪定・整姿後、支柱に枝を結んだブラックベリー
来年早々に田布施町郷土館(山口県立図書館共催)で、自由律俳句で著名な周防の三羽ガラス(山頭火,白船,碧松)展を開きます。そのため、現在三羽ガラス展を開催中の山口県立図書館に調査に行きました。
山口市まで調査に行くにあたって、私は初めて町有のハイブリット車(Honda製)を運転しました。最初はおっかなびっくりでした。特に、スイッチを押してエンジンを始動するのには驚きました。またギアチェンジもスイッチのようで、最初は少々戸惑いました。しかし、しだいに慣れて快適に運転することができました。
初めて運転したハイブリッド車 山口県立図書館に到着
自由律俳句を主とする文芸誌「層雲」を、荻原井泉水が明治44年4月創刊しました。この文芸誌は、自由律俳句の有力な俳人を輩出しました。特に、山口県出身の種田山頭火,久保白船,江良碧松です。その三人を周防の三羽ガラスと呼びます。
その三人の中で、江良碧松は私と同じ田布施町麻郷出身ですので特に親しみがわきます。私が小学生時代に江良碧松は存命でした。江良碧松の生家近くによく遊びに行きました。当時そんなに著名な人がいると分かっていれば、逢いに行ったのにと思います。
ふるさと山口文学ギャラリー企画展 「層雲」の周防三羽ガラス
山口県立図書館に着くと、開催中のふるさと山口文学ギャラリー企画展「『層雲』の周防三羽ガラス ~山頭火・白船・碧松~」を、田布施町郷土館館長のNさん,Fさん,そして私は見学・調査しました。そして、山口県立図書館の方と、どれを田布施町郷土館でお借りするかなどを決めました。それが終わると、同じ車で田布施町に戻りました。途中、いちやなぎで昼食を取りました。Nさんご馳走さまでした。
ところで、私は40年間も山口県を離れていました。このため、これほど県内の道路事情が良くなっていることを知りませんでした。田布施から1時間程度で山口市に行けるとは。Nさん,Fさんお疲れさまでした。
どれを郷土館に展示するか検討 タブレツトパソコンで展示物を撮影
続く土井の内の八日薬師堂は平和六十四ヶ所霊場です。土井の内の通りに面して建っています。この薬師堂から東に向かう道は、真っ直ぐ行くと平生の竪ヶ浜へ向かいます。90°曲がって北に向かうと柳井の余田に向かいます。その交差点に石の道しるべがあり、すぐ近くにこの薬師堂があるのです。昔はほとんどの人が歩いていました。柳井や平生方面から田布施に来た人は、この薬師堂を拝んだのではないかと思います。近くを流れる薬師川の由来は、この薬師堂かも知れません。
土井の内の八日薬師堂 薬師堂の内部、薬師観音を安置
土井の内の八日薬師堂を過ぎると、真っ直ぐ竪ヶ浜方面に進みました。県道を横切って田んぼの中を灸川に向かいました。途中、法寺坊の墓地があります。江戸時代、ここには焼場があったそうです。この方寺坊の墓地に沿う様に薬師川(かつて田布施川の本流)が今でもわずかに流れています。今の田布施川を作った江戸時代、運河として掘川を掘削したそうです。その堀川と薬師川の交差点に船回しと呼ばれる船の向きを変える池がありました。江戸時代、田布施の物資はここから船に積まれて海に向かいました。
かつて田布施川の本流だった薬師川をどんどん下る
薬師川は元々田布施川の本流で、江戸時代川幅が10m位はあったのではないかと思われます。古地図には波野市と天神の間に、かつての薬師川が描かれています。この薬師川はよく氾濫したようで、江戸時代初めに、定井出から川尻にかけて人工の川(今の田布施川)が掘られました。新しい川のため新川と呼ばれました。
薬師川と灸川の合流地点に着くと、熊毛南高等学校に向けて灸川を堤防沿いに歩きました。そして、天神に向かって戻りました。
牛車が出たり市が立っていた、かつてはとても賑やかだった天神の菅原神社
天神に着くと、菅原神社境内に入りました。私が幼児の頃、祖母に連れられてこの神社のお祭りに来たことがあります。とても賑やかで、牛車が出るなど絢爛豪華だったことを覚えています。今は牛車が無くなり、代わりに子供が引く御神輿になっています。寂しい限りですがこのご時世、仕方のないことなのでしょう。この神社付近ではかつて、田布施市と呼ばれる市場が開かれていました。今でも、その田布施市を示す恵比寿様の祠が祀ってあります。
田布施市を示す恵比寿様の祠 平和六十六霊場札所のお地蔵様
天神にはかつての田布施町役場がありました。今、保育園がある場所です。この周辺は、古い白壁の家が少し残っており、田布施町商店街が賑やかだった往時を偲ぱせます。当時のの街並みが少し残っています。
ところで幕末に、お坊さんが中心になって作られた奇兵隊がありました。円立寺にその部隊が集まっていたそうです。しかし、経費の工面が難しくなり、石城山の奇兵隊に吸収されたそうです。今回時間が迫っていたため、その円立寺はスキップしました。本番ウォーキングでは訪問しようと思います。
フランス食堂で昼食兼休憩 田布施川沿い砂田のお地蔵様
次にフランス食堂向かいのお地蔵様に行きました。このお地蔵様は平和六十六番ヶ所霊場です。お地蔵様横に打ち付けられた板にそのことが書かれていますが、今は黒く変色して読み取ることが困難です。なお、平和六十五番ヶ所霊場は大恩寺です。昼食も取らないで歩き続けたため、お腹が空いてきました。お地蔵様向かいにフランス食堂があります。ここで昼食兼休憩を取りました。
モニュメントが立つさくら橋を渡り、交流館に戻る
食事が終わると、田布施川方面に行きました。この付近は砂田と呼ばれ、かつては田布施川の氾濫がよくあったようです。この付近に、名古屋で有名な輪中のような屋敷跡があります。川が氾濫しても浸水しないように、石垣などで敷地を高く積み上げてあるのです。どんどん歩いていると、デイサービスセンター サポートたぶせ横のお地蔵様に着きました。ここは田布施川氾濫に関わるお墓やお地蔵様があります。田布施川の堤防に上がると、ひたすら出発地点の交流館に向かいました。お疲れさまでした。
今回調査した、商店街東回りコース(波野市,天神周辺)
伏木観音堂を出ると、丘を降りて祇園観音堂に行きました。この観音堂はかつて防陽八十八ヶ所霊場でした。しかし、ここ何年も管理が行き届いていないようです。お堂の扉を開けて中を見ましたが、ホコリが溜まって掃除がされていないことが分かります。ここ何年もお世話する人がいないようです。世話をする人が無くなればこのようなるのは仕方ありません。
手入れがされていない祇園観音 畳の上には埃が溜まる
祇園観音はその昔、上に建物があったようです。礎石のようなものがありました。四角い建物の前にひさしのようなものがあったようです。建て替えたのでしょうか。それとも、焼けたか何かで今の場所に移築したのかも知れません。時間があれば、近くの人に聞いてみようと思います。
次に、祇園観音から八坂神社前の十字路に出ました。そして、商店街の中心道路を歩きました。しばらくすると、お地蔵様がありました。立派な屋根がありますが、その由来などは分かりません。やはり時間があれば、近所の方に由来などを確認しようと思います。
観音堂跡?の礎石 商店街の中心路に立つお地蔵様
この商店街は、かつてとても賑やかでした。私が小中学生の頃、まだその賑わいが残っていました。食堂,電気店,金物屋,タネ屋,建材店,ふとん店などが軒を並べていました。これらのお店に同級生が何人かいました。我家は、この通りにあった上田無線でよく電気製品を買っていました。私が小学校2年の夏、テレビが我家にやって来ました。テレビと電蓄が合体した珍しい白黒テレビでした。そのテレビで初めて、海亀が産卵している映像を見ました。この商店街は、田布施町庁舎が天神から今の場所に移った頃から賑やかさがなくなってきたように思います。
賑やかだった頃の趣が残る古い店
商店街道を歩いていると、石の鳥居が目に入りました。鳥居の向こうに小さな祠があります。ここは、波野市と呼ばれる市場がかつてあった場所を示しています。江戸時代、この波野市はとても有名だったとのこと。余田、竪ヶ浜など近隣からたくさんの人が買い物に来て賑やかだったそうです。その市場の名前が、今の「波野市」として残っているほどです。なお、石の鳥居はどこからか移築したものだそうです。移築した時に、元々刻んであった文字が削ったとのこと。文字をなんとか読み解けば、元々置かれていた場所が分かるかも知れません。
この前で、かつて波野市が開かれる 大恩寺の飢民の碑
続いて、田布施町の史跡では外せない、大恩寺の飢民の碑に行きました。元々は境内の東側にあったそうです。江戸時代享保17年(1732年)にウンカが大発生して稲が全滅したとのこと。そのため食べるものが無くなり、3割位の人が飢えて亡くなったとか。今の人口に当てはめると、5,000名の人が亡くなったことに相当するような、とんでもない飢饉えだったようです。その後、明和元年(1764年)に当時の大恩寺のご住職がこの飢民の碑が建てたとの記録があります。この飢饉を機に、大波野の神舞が始まったり、亡くなった民を弔う大師堂などが建てられたようです。平生町の佐賀には、小さな子供達が次々亡くなったことを弔うために建てられたとの言い伝えがある大師堂があります。
去年、田布施の田んぼに小規模ながらウンカが発生しました。直径数mのサークル状に稲が枯れていました。大恩寺を出ると、次に土井の内の薬師堂に向かいました。
今回調査した、商店街東回りコース(波野市,天神周辺)
来年のウォーキング候補の一つとして、田布施町商店街周辺の史跡などを巡ってみました。商店街周辺の史跡は、史跡と史跡の間隔が近いのが特長です。他の地域では、何百mも歩かないと次の史跡に到着しません。その点、商店街周辺は短い時間で多くの史跡を回ることができます。今回は、商店街の東回りコース(波野市,天神周辺)を調査してみました。一緒に歩いたのは、EさんとWさんです。西回りコース(一本松,上ヶ周辺)は後日調査します。
町役場正面の江良碧松の歌碑 砂田のお地蔵様
最初に田布施町役場正面の江良碧松の歌碑に行きました。農民歌人らしい詩です。続いて、あいさつ橋から田布施駅方面に20m位行った場所にあるお地蔵様に行きました。昔は道の中心を向いていたのに今は歩道側を向いて安置されています。続いて、田布施郷土館に寄りました。談笑後、ショッピングコートYou・U跡傍にある国森の古塚を訪れました。戦国時代末期、ここに流れ着いた武士が自決した場所との言われがあります。お地蔵様の一つに天保六年(1835年)と刻んでありました。そのすぐ傍に、さらに古いお地蔵様があります。その武士と関係があるのかもしれません。
立ち寄った田布施町郷土館 You・U跡傍にある国森の古塚
続いて、大内公園に行きました。戦時中に多く若者がここから出征しました。いったい何人が故国の土を踏むことができたのでしょうか。その名残として大きな忠魂の碑が建っています。この忠魂の碑の北側から、山陽本線の線路がよく見下ろせたのですが、今は竹藪が邪魔をして見ることができません。この公園は今、園児や小学低学年生の遠足の場所となっているようです。私も小学生の時、何度か遠足で来たことがあります。
広い大内公園広場と、そびえるように建てられた忠魂の碑
大内公園から西にみえる八坂神社を見たりしました。そして、しばらく広場で談笑しながら休憩しました。そして、次に平和番外霊場である伏木観音堂に行きました。比較的綺麗に管理されている観音堂です。この観音様を拝んで帰ろうとすると、不思議なことに、M.Rさんのお母さんがこの観音堂にやって来られました。その奇遇さに驚きました。M.Rさんは私の同級生で、何年か前にアメリカで亡くなりました。そのお母さんに出会ったのです。M.Rさんのお兄さんは今、田布施町議会の議員さんをしています。なお、M.Rさんのお父さんと私の父親は知り合いでした。巨額な選挙資金を扱ってもらうことができるとても信頼できる人だった、と父親からよく聞きました。
平和番外霊場の伏木観音堂 安置されている観音様
この伏木観音堂は、50年位前に建てたとのことでした。そして今、M.Rさんのお母さんが綺麗に管理しているそうです。私はいろいろな観音堂や大師堂などを調査していますが、この観音堂は一番新しく建てられました。この近くには古くからの平和六十五番霊場と六十六番霊場が既にあります。新たな番号を割り当てることができず、平和番外になったようです。以前から不思議に思っていた「番外」の意味が分かりました。
M.Rさんのお母さんが丁寧に管理している伏木観音堂の縁側で
朽ちて廃棄されたお堂がある中で、この観音堂のように新たに建てられたお堂があるのに驚きました。しばらくM.Rのお母さんと談笑しました。帰り際、観音堂に供えられていたお菓子などをいただきました。ありがとうございました。M.Rさんとは高校生の頃、二,三度お話をしたことがありますが、とてもべっぴんさんだったように記憶しています。惜しくも亡くなりましたが、皆の心の中に今でも生きています。
今回調査した、商店街東回りコース(波野市,天神周辺)
1.第1部
23日、久しぶりに音楽の舞台を楽しみました。場所は柳井市にあるアクティブ柳井です。楽しんだのは、和太鼓集団山城組「空」の舞台です。「空」は山城組の高校生以上で構成される太鼓集団です。それより若い太鼓集団は、中学生を中心とした「風」、そして小学生を中心としたグループから構成されていると聞いています。山城組は今年春に定期演奏会があったため見に行きました。今回の高校生以上の「空」はさすがに力強い太鼓でした。
今回の舞台のパンフレット 最初の力強い太鼓曲
私は、麻郷ふるさと会で太鼓の微々たるお世話をしています。山城組と異なって、地域の親睦を目的としているためそれほど練習はしません。中学生になると参加することが少なくなります。また、夏祭り,公民館祭り,地域の小学校などにしか出演しません。そもそも、秋冬春はほとんど練習しません。そのため、演奏は比較にならないほど山城組の方が上手です。
体に響くような太鼓の音、熱気が伝わります
私が子供の頃、和太鼓は村祭りでしか聞くことができませんでした。あるいは、神社のお祓いなどで聞くぐらいなものでした。学校で習う太鼓は、鼓笛隊などで使う持ち運びできる西洋太鼓ぐらいなものでした。まさか、和太鼓がこれほど見直されるなど思いもしませんでした。和太鼓が注目されるようになったのは、和太鼓集団「鼓童」の成功ではないかと思います。実際はどうなのでしょうか。
槍を振り回すような演舞 一番力強い太鼓の演目
私は、和太鼓に深い興味を持っているわけではありませんが、神舞,神楽などの史跡を調べていると和太鼓の皮を締める方法に2種類あることに気が付きます。一つは太鼓の胴に鋲を打って皮を張る方法です。もう一つは皮を紐で引っ張る方法です。大きな太鼓ほど前者のように鋲で皮を張るようです。先日見た東京都府中市の大国魂神社のお祭りに使われている直径2mの車輪付き巨大太鼓は全て前者の張り方でした。
汗が飛び散って来そうな勇壮な太鼓曲
2.休憩中のパフォーマンス
第1部が終わると、15分位の休憩時間です。トイレに行っていると、賑やかな声や拍手が聞こえてきました。山城組「空」の皆さんによるパフォーマンスのようです。観客をかき分けて前の方に行って間近で見させていただきました。いつも太鼓を打っているためかリズム感は抜群です。ボールや体を使った楽しいパフォーマンスに、観客も歓声を上げていました。
ボールを使ったパフォーマンス 体を叩いてパフォーマンス
3.第2部
よくは知らないのですが、山城組「空」は今後プロを目指すのでしょうか。日本全国、プロを目指すグループはたくさんあるように思います。私は二十代前半音楽をしていましたが、十代後半になって習った楽器は遅すぎました。このため音楽活動は思い出にしかすぎません。「空」の皆さんは、若くして身に着けた太鼓の特技、一生ものにして欲しいと思います。
見ていて楽しい太鼓演技 私が一番好きな、力強い太鼓
「空」の皆さんは、小学生の頃から仲間と共に太鼓を叩いているように聞いています。かれこれ、10年位一緒に練習した仲間ではないかと思います。10年位の間には、一緒に演奏旅行したり、キャンプなどしたこともたくさんあるでしょう。ある意味一家の兄弟のようなものかも知れません。それであるからこそ、息の合った演奏ができるのではないかと思います。
片手にバチをもう片方の手に小太鼓を持って、踊りながら軽快に打つ
この舞台で空手/合気道の演舞がありました。最近の太鼓などの舞台で演じられることが多いのでしょう。意外な組み合わせを新鮮に思いました。そして、見て楽しい太鼓として、太鼓のバチを青の蛍光で光らせていました。バチだけが漆黒の闇を動き回るのは驚きました。飽きさせない新しい音楽パフォーマンスだと思いました。見ていても楽しくなります。単に音を出して感動させるのではなく、光や動きで表現することも大切だと思います。
音に合わせて空手/合気道の演舞 漆黒の闇を動き回る、青い色のバチ
13:30に演奏を開始して15:30頃に終わりました。あっと言う間の時間でした。演奏した方々は何度も練習したのでしょう、息がぴったり合ってとても良かったです。観客もさかんに拍手をしたり歓声を上げていました。まだまだ若い「空」の皆さん、これからもぜひ頑張ってください。ありがとうございました。
会場を出ると、人が少ない白壁の町を散策しながら家路につきました。しばらくは太鼓の余韻が残っていました。
最後、太鼓を力強く乱れ打ち 会場を出る満足そうな観客の皆さん
今年も残りわずかになりました。今回は、郷土館の年末大掃除の日です。夏に草刈りなどをしましたが、夏~秋の間に再び草が生えていました。最初、寒さで枯れたこれらの草を綺麗に刈り取りました。今回は、草刈機に紐を取り付けて刈り取りました。硬い茅などは少しばかり手間がかかりましたが、駐車場,芝生,庭木の間などを綺麗にすることができました。
駐車場に生えた枯草を刈り取り 郷土館庭木の間も刈り取り
今回大掃除した田布施町郷土館は、建物自体が昭和の建築遺産のように思います。今から55年前の昭和36年(1961年)に建てられました。当時の日本電信電話公社が、全自動電話交換のために建てたものです。
それ以前は、電話交換手と呼ばれる人によって、電話線が繋がれていました。例えば、田布施町から東京に電話する場合、最初田布施町の電話交換手に頼みます。すると、広島,大阪,そして東京へと、いくつもの電話交換所の電話交換手が次々に手動で繋いでくれるのです。このため、東京に電話が繋がるのに40分位待たされました。それが、この建物の出現ですべて自動交換になりました。このため、当時の女性のあこがれの職業であったと言われる電話交換手が必要なくなったのです。そんな歴史的背景がある建物なのです。なお、当時はリレー式自動交換でしたが、今はコンピュータ式となっています。
その後古くなった建物は、平成元年(1989年)に郷土館に生まれ変わり解体を免れました。今でもあちこちに昭和建築のなごりを見ることができます。
電話交換手を必要としなくなった全自動電話交換所、現田布施町郷土館
外の大掃除が終わると、中の掃除をしました。床などは業者の方に頼んでいたため、主に展示品と見学者を隔てるガラスなどをピカピカに磨きました。郷土館は休日なのに、たまたま立ち寄ったMさんが手伝ってくれました。Mさん、仕事日でもないのにすみませんね。ありがとうございます。
郷土館建物の外内共に綺麗にした後、知り合いの家に寄って昼食を取りながら談笑しました。その時Eさんからゆずをたくさんいただきました。ありがとうございます。その後、いつものように地域の史跡調査に出かけました。 調査から帰ったその夜、ゆず湯にたっぷり浸りました。ほのかに漂うゆずの香りは、体の疲れを隅々まで癒します。
Mさんも加わり、ガラス磨き 夜、ゆず湯にたっぷり浸る
寒い日々が続いていますが、今回はしいたけの植菌作業をしました。植菌したこならの原木は、実は初夏に伐採した期限外の原木です。本来ならば、冬に伐採して春までに植菌します。どうしても初夏に伐採しなければならなかった木を原木にしました。伐採した木が夏の雨露を経由したため、しいたけ以外のキノコなどがすでに繁殖しているようでした。植菌するには適しませんが、ダメ元で作業しました。
原木に植菌する穴を開ける 穴にしいたけの駒を挿入
初夏に伐採した後、せめて室内に運び込んでいれば良かったのですが、そのまま野外に放置していました。そのため、夏の間にだいぶ雑菌で汚染されていることが分かります。中には、小さなキノコが生えている原木もありました。打ち込んだしいたけが、原木に着生して成長することができるでしょうか。
手で打ち込む植菌用の槌 交換可能な槌の先端
ところで最初、手でしいたけの駒を打ち込むための槌を使いました。原木に槌を叩きつけると穴が開きます。その穴にしいたけの駒を入れるのです。電気が使えない山の中では、この方法を使います。次に、電動ドリルを使って穴を開ける方法もしました。この方がスルスルと穴を開けることができるので作業的にとても楽です。
日が陰る場所に、しいたけの駒を打ちこんだ原木を交互に積む
しいたけの植菌作業で一番大変なのは、原木の移動です。原木を山から降ろして植菌を終え、再び山に持っていくのです。そして、雨が直接かからない場所に井形に積み上げていきます。特に根元から取った原木はとても重いので腕が疲れます。雑菌に犯された原木ですが、果たして来年か再来年しいたけが出るでしょうか。冬の間に伐採して冬の間に植菌すると言う決まりを守らなかった作業でした。結局徒労に終わったかも知れません。もし、しいたけが生えなければ、薪にでもしようと思います。
しいたけの菌駒を次々に打ち込む 原木全体を通水シートで被覆
午前中、発明クラブの指導者の集まりのため田布施西小学校に行きました。そして、今年の反省会や来年に向けての改善点などを話し合いました。発明工夫展,絵画,チャレンジ創造コンテストなどにおいて、子供達にとって一番良い指導とは、などいろいろ話し合いをしました。
キャンドルナイトカフェ入口案内 カフェ会場のテント入口
そして、今年のチャレンジコンテスト全国優勝チームの映像を見ました。田布施町は残念ながら全国大会に行けませんでした。隣りの柳井市は全国大会に行ったとのことですが、全国のレベルの高さに驚きました。田布施町は、一人の子供が発明工夫展やチャレンジコンテストなど複数の課題に取り組みます。他クラブでは、発明工夫展とチャレンジ創造コンテストなどの課題別にチームを分ける所もあるようです。来年に向けてのヒントにはなりました。
さて、夕方はキャンドルナイトカフェに行きました。午前中雨が降っていたため心配しましたが、夕方雨も上がって私はバイクで会場に行きました。
キャンドルナイトカフェのテント会場
キャンドルナイトは、夏のハゼの実ろうそく祭りの冬バージョンと言ったところでしょうか。冬の寒さをしのぐため、会場はすっぽりテントで覆われていました。そして、テント内の何ヵ所かで暖房用薪ストーブが炊かれていました。テントに入ると、最初に田布施まるごと公園化計画のTさんから、和ろうそくと絵ハガキを購入しました。和ろうそくは田布施近辺のハゼの実から作ったろうそくです。江戸時代末期、長州藩が防長四白として奨励したろうそくです。石油のパラフィンから作ったろうそくではなく、植物(ハゼの実)から作ったろうそくです。
和ろうそくと絵ハガキを売るTさん 和ろうそくと猫の宿絵ハガキ
バイクで会場に駆け付けたため体が冷えていました。このため、すぐに豚汁を食べることにしました。外気が冷たいため、大鍋からは湯気が白く立っていました。いつもお世話になっているYさんに、豚汁をよそっていただきました。冷えた体には暖かく、とても美味しい豚汁でした。ご馳走様でした。
湯気がたなびく豚汁鍋 美味しい豚汁、ご馳走様でした
豚汁を食べていると、知っている方々が次々にやってきました。昨日、お料理忘年会を開いたメンバーもやってきました。豚汁を食べ終わると、私はおにぎりを購入して彼らの席に移動しました。そして、歌声を聴きながら談笑しました。彼らの何人かと明日、田布施町商店街の史跡などを中心に巡ってみようと思います。
ウォーキングや旅行のいつもの仲間達、しばし談笑
ウォーキングでよくご一緒する平生町のFさんが来られているのに気が付きました。そして、お孫さんの小学2年生Aちゃんもいました。久しぶりのAちゃん、童顔だったのが少し娘顔になっていました。子供の成長は早いものです。
別の席に、田布施町観光協会のMさんも来ていました。そして、Mさんのお友達?の麻里府明楽寺の方も来ておられました。可愛い子供達に囲まれて、いろいろ楽しくお話しをしました。そして、その隣の席に昨日パン焼き器をいただいたKさんがいました。パン焼き器を所有していたKさんの奥様もいました。奥様に、いただいたお礼を言いました。
平生町のFさん家族とAちゃん Mさんや可愛い子供達
楽しく談笑していると、歌姫グループWishの歌が一段落しました。すると、和ろうそくを作る実演が始まりました。その実演を見るため、何人もの方々が人垣になりました。溶かしたろうそくの原料を、手ですくい上げるようにしてろうそくの形にします。手は熱くないのだろうかと思います。見ていると、水に溶かした楮をすくいながら和紙にする職人さんに似ているようにも思えました。伝統的な技術なのだと思います。江戸時代末期の幕末、田布施町はこのような職人さんがたくさん暮らしていたのでしょう。
和ろうそく作りを実演している方と、輪になってそれを見つめる方々
しばらくして、歌姫グループWishのクリスマスソングが再び始まりました。時節がらクリスマスですねえ。子供達が巣立った今、クリスマスには縁遠かった私です。クリスマスツリーに見立てたキャンドルを見て、我家のどこかにしまった20年近く前に購入したクリスマスツリーを思い出しました。私が子供の頃、クリスマスになると山に行ってクリスマスツリーにふさわしい杉かひのきを伐採してきたものでした。そしてその木に、雪に見立てた綿を付けたり飾り付けをしていました。懐かしい思い出です。
クリスマスツリーに見立てたキャンドル 楽しいクリスマスソング
歌姫グルーブWishのSさんは、夏のろうそく祭りや少年少女合唱団などでお見かけします。私は20代前半に、音楽を少しばかりやっていたことがあります。このためか、このような音楽活動には親しみがわきます。
ところで、もう少し音楽を楽しんだり談笑したかったのですが、用事があるため19:40分頃にキャンドルナイトカフェ会場を去りました。真冬で寒いためか満席ではありませんでしたが、豚汁を始めとする美味しい料理などを楽しむことができました。企画・設置された方々はこれまでいろいろご苦労されたと思います。楽しいクリスマスイベント、ありがとうございました。
歌姫グループWishと一緒に、クリスマスソングを歌うみなさん
5時までは郷土館で仕事でした。その時にKさんからパン焼き器をいただきました。その器械にHome Cooking Schoolと書かれていました。パン焼きの講習を受けた時に購入したパン焼き器のようでしょうか。Kさんありがとうございました。大切に使いたいと思います。郷土館を出ると、お料理忘年会の会場に向かいました。
いろいろな具材で調理 美味しい料理の数々
今回は、一緒にウォーキングしたり旅行などしたりする仲間達とお料理忘年会です。お土産,手料理,具材などを各自が持ち寄っての忘年会です。私は、具材を持っていきました。持って行ったのは、白菜,ニンジン,キャベツ,しいたけ,すいとん用小麦粉,春菊,そして長ネギなどの野菜です。料理は苦手ですので、テーブルを出したり座布団を敷いたりなどのお手伝いをしました。
料理が出来上がると、それらをテーブルに運びました。そして、お料理を楽しむ忘年会の始まりです。お酒も入り、楽しい話で盛り上って時の経つのを忘れました。
楽しいお料理忘年会、時の経つのを忘れて楽しく語りあう
今年も白菜漬けやたくあん作りの季節がやって来ました。白菜は寒冷紗内に虫が入ってしまい穴だらけです。今年は白菜漬けしようか迷っています。大根は種まき後、順調に育っていますので、今年もたくあんが作れそうです。ところで、一昨年は作り過ぎて、春までに食べきれずにだいぶ廃棄してしまいました。このため、去年から大根を4本程度にしています。抜いた大根は、その場で葉を落としました。
人の脚ほどに太った大根を収穫
このところの寒さで、収穫した大根を洗っていると手がしびれるように痛くなります。しかし、4本程度の大根ですので我慢できます。井戸水だからでしょうか、水をかけ流していると水が心持ち暖かくなりました。洗って真っ白になった大根にはほれぼれします。やんわり曲がった大根は、なんとなく人の脚のようです。
冷たい水で手が痛い 人の脚のような白い大根にほれぼれ
綺麗に洗った大根は、農作業小屋に持って行きました。乾燥中のサトウモロコシの隣りに縄を張って干しました。今はパンパンに硬い大根ですが、何日か後に乾いて柔らかくなれば漬けることができます。糠に混ぜる昆布などでたくあんの味が決まりるようです。積物素人の私ですが、毎年少しずつでもより美味しくなるように漬けることでできたらと思います。そして、人様にあげても恥ずかしくないようなたくあんを、いつか漬けることができたらと思っています。
軒下に縄を張って、洗った大根を天日干し
久しぶりに裏山の下草刈りをしました。下草と言ってもほとんどは笹です。大きく育った笹は、チップソーでないと刈ることができません。しかし、一昨年、去年と毎年のように刈ってきたたためか、笹は背が低いままです。低い笹はチップでなくても紐式でなんとか刈ることができます。紐式の方が刈り跡が綺麗です。このため、今回はチップソーと紐を使いわけて刈り取ってみました。ところで、小雪が舞い散る中での下草刈りになりました。寒い中で作業したのが良くなかったようです。夕方頭が痛くなりました。どうも風邪をひいたようです。
背が低い笹は、紐式で刈り取り
私が定年でこの田布施に帰ってきた時、この裏山は背の高い笹がびっしり生えていました。このため、全てチップソーを使わなければ刈り取りできませんでした。それでも、最初の年に何度か下刈りしていると、だんだん笹の背が低く小さくなってきました。夏は木陰になるため、笹は育ちにくいようです。そのため、今年からは晩秋か冬に一回だけ笹刈りすれば良いようです。
下刈りした裏山の斜面道 下刈りした裏山の尾根道
裏山を含めて山はとても広いため、何度かに分けて下刈りします。今回は我家から見える範囲を刈り取りましたが、今後は別の山を少しずつ刈り取るつもりです。そして3月位までは、しいたけ作りなどの山仕事の合間に下刈り作業を続けます。畑と違って斜面ばかりですので、疲れがたまります。山仕事はのんびり作業するに限ります。
刈り残した山道の両脇、暇を見て全て刈り取る
先日。我家で収穫した小麦を製粉(全粒粉)しました。残念ながら我家にはパン焼き器がないため、Tさんに試しに焼いてもらいました。全粒粉に強力粉を混ぜたそうです。そして、イーストなどを入れたりして焼いてみたそうです。Tさんありがとうございました。予想した通り全粒粉らしい色で、やや固めのパンになりました。そのままかじってみると、食感はフランスパンのようで糠の味が少し残っていました。
出来上がった全粒粉のパン、見かけはフランスパンのよう
朝、このパンを焼いて食べてみました。焼くとパンの耳の部分がカリカリになりました。耳をかじると、破片が少しポロポロ落ちます。バターを塗って食べると、バターの風味で糠の味が消えました。とても美味しかったです。欲を言えば、やはり糠を取った方がより美味しいのかなと思います。
ところで、19日この小麦粉ですいとんを作る予定です。フルイで糠を取って、白色の小麦粉にしようと思います。糠は栄養的にはすぐれていると思いますが、食感や味のためには取った方がよさそうです。今後、この我家製小麦をいろいろな料理に試してみようと思います。
全粒粉パンにバターを塗る 朝食の全粒粉パン,野菜炒め,そして牛乳