先日枝豆収穫バーティーをした畑、今回同じ畑の小豆を抜いて天日乾燥させる作業をしました。小豆は、全ての実が一度に実らずだらだらと成熟します。そのため、最後の実が成熟するまで待つと11月末になってしまいます。11月末だと麦の種をまく時期を逃してしまいます。そのため、今実っている小豆だけを収穫することにしました。
小豆を一株ずつ抜く 根ごと株を引き抜く 抜いた小豆を集める
最初に、すべての小豆を根ごと抜きました。そして、抜いた小豆を一ヶ所に集めました。この時、根に付いた泥を軽く振るようにして取り除きます。その根をよく見ると、たくさんの根粒菌が付いていることが分かります。この畑は痩せているにも関わらず、根粒菌が窒素をはじめとする栄養を作るためか比較的豆類がよく育ちます。
集めた小豆を、一ヶ所に山のように積み上げる
次に、集めた小豆6株位を束ねて紐で結束しました。結束した理由は、小豆を棒に架けて天日乾燥させるためです。すべての小豆の結束が終わると、棒に次々に架けました。雨が降らず快晴が続けば4日程度で乾燥します。
集めた小豆を数株束ねて紐で結束 小豆を棒に架けて天日乾燥
ところで枝豆も引き抜きました。この枝豆は、鞍掛豆と呼ばれる私が好きな枝豆の一品種です。今回引き抜いた枝豆は、来年の種まき用として使います。乾燥させた後、豆を鞘から取り外して来年まで保存します。カラカラ干した小豆や枝豆は、来月初旬に鞘から種を取りはずします。
棒にかけ終わって天日乾燥中の小豆や枝豆の茎葉
先日、田布施町郷土館で西の寺子屋があり石臼や亥の子の体験をしました。今回は、田布施西小学校で田んぼの大切さを勉強し、土器作りを体験しました。最初、圃場整備をしている方々から田んぼの大切さについて子供達に説明がありました。田んぼの大切さとは、食べ物であるお米を作る,洪水を防止,生き物を育てる,美しい景観を守る,伝統文化を守る,土砂災害を護る,洪水を起こさないです。ただ、小学低学年生にはちょっと難しかったようです。少しもじもじ落ち着かない様子でした。
西の寺子屋開催の挨拶 田んぼの大切さの説明 土器についての紙芝居
次に、田んぼから発掘される古代の土器について、担当の方から紙芝居がありました。その紙芝居が終わると、いよいよ紙粘土での土器作り体験です。私が土器について少し解説した後、見本を見せつつ作り方を紙粘土を使って解説しました。そして、子供達に土器作りを体験してもらいました。
粘土を使って土器作り体験、どんな器ができるのかな
基本的な土器作りは、私がやって見せたような、紐状にした紙粘土を器の縁に沿ってくるくる巻き上げる方法です。子供達を見ていると、教えた以外の方法で器を作っている子がいました。例えば、板にして縁を持ち上げる方法です。いろいろな方法を試すことは良いことです。
出来た器は理科準備室で乾燥させ、後日子供達に配ります。さて、次回は郷土館で古墳について説明した後、後井古墳に行って実物を体験してもらう予定です。
取っ手が付いた器 面白い縁の器 お盆のような器
石ノ口八幡宮を出ると、光市に向かう道をどんどん進みました。そして、途中から旧吉井村に繋がる道に入りました。緩い下り坂が続きます。車がほとんど通らない道をのんびりと歩きました。旧吉井村は昔は人口が多かったようですが、今は閑散としています。草木に覆われた廃家が所々に見受けられました。
旧吉井村に繋がる道 昔は人が多かっただろう山村 吉水集会所近くを歩く
しばらく緩い下り坂を歩いていると、大和中学校や石城苑に繋がる道路に出ました。そして、出たところに吉水集会所がありました。その集会所を過ぎて、城南公民館に向かって歩きを早めました。そして、しばらくするとハゼの大木が見えてきました。ここまでくれば、城南公民館はすぐそこです。
ハゼの大木の根元にあるお地蔵様前で
ハゼの大木の根本で、江戸時代の長州藩の防長四白政策の話をしました。その四白のうちの一つが、ハゼの実を抽出してつくる和ロウソクなのです。このハゼの木の下で小休止しました。
ハゼの大木に分かれを告げると、下見の時に出会った不思議な石を見ました。近所の方のお話によって、やはり御旅所であることが判明しました。今でも、石ノ口八幡宮のお祭り時にここで神輿がお休みになるようです。
御旅所と判明した岩 錦鯉の養魚場を見学 美郷キャンプ場入口
石の御旅所を過ぎると、一緒にウォーキングしたk君の紹介で錦鯉の養魚場を見学しました。深い水槽内に大きな錦鯉がたくさん泳いでいました。続いて美郷キャンプ場入口に来ました。そして、メタセコイアの巨木を見上げました。近くに生えているトチの木も見学しました。地面を探すと、トチの実が少し落ちていました。
平和七十七ヶ所霊場 旧城南郵便局 城南公民館に戻る
最後の史跡は平和七十七ヶ所霊場のお大師堂です。道から見ると、ただの作業小屋にしか見えません。しかし、ドアを開けて中を見ると、石板に刻まれた立派な仏様が安置されています。ここまで来ると、城南公民館が見えてきました。旧城南郵便局舎を見学して、スタート地点の城南公民館に付きました。今回参加された方々、お疲れ様でした。
今回ウォーキングした城南石ノ口ルート
============健康ウォーキングクラブ==============
どう言うわけか、田布施町 西の寺子屋で子供達に土器作りを教えることになりました。だいぶ前、ボーイスカウトで粘土を使って素焼きの土器作りを教えたことがあります。その経験を思い出して下準備をしました。と言っても、教える時に見せる実物を試作するだけなのですが。
今回使った紙粘土 長い紐を手で回して制作 コップの丸い底を制作
土器は粘土で形成し、乾かし、焼いて作ります。しかし、今回は時間がないため紙粘土で土器を形成する工程だけを教えます。このため、正確には土器ではなく紙器でしょうか。
粘土でも紙粘土でも、作った後に乾かすのは同じです。紙の場合は焼く工程はありません。子供達が家に持って帰り、乾いたところで色や模様を書けば完成となります。ただ、紙ですので水のような液体を入れる事はできませんが、小物入れなどとして使えます。
紐を巻きつけるようにすることが土器作りの基本
今回ろくろのような器具を使わず、板の上で土器を作ります。そのため、縄文式土器作りを真似た土器作り体験とします。最初、手で粘土を転がして長いひもを作ります。そして、土器の底となる円盤の周囲にその長いひもを巻きつけていきます。最後に取っ手を付けます。さかづき程度の小型土器は、直接粘土を形成します。
紐を巻き付け終わる 取っ手を側面を取り付け 直接形成した小型土器
縄文時代の土器は、火炎状の模様と縄状の模様が特徴的です。火炎状の模様は、土器の縁に炎のように盛り上げる模様です。縄状の模様は、土器の側面に縄などを強く押し付けて付けます。たまたま我家に縄があったため、縄状模様を付けてみました。
紙粘土ではありますが、子供達はどんな独創的な土器を作ってくれるでしょうか。
下準備として作った紙粘土製土器と、模様付けに使用した縄
埋蔵物発掘現場の見学が終わると、円満寺に行きました。楼門前に来ると、下見の時にお会いしたお寺の方と偶然出会いました。野菜か何かを収穫して、円満寺に戻るところだったようです。ところで、今回ウォーキングに参加した方のうち二人が、この円満寺がかつて経営していた幼稚園の卒園生でした。56年ぶりの円満寺とのこと。懐かしそうに円満寺内を眺めていました。
円満寺に向けて緩い坂道 円満寺に到着 懐かしい幼稚園跡
円満寺に着くと、お寺のご厚意で本堂に上らせていただきました。仏様を拝みながら、お寺の方と談笑しました。お昼前でしたので、本堂内で昼食を取らせていただきました。ありがとうございました。なお、この円満寺の旧城南幼稚園の卒園生達は、お昼を食べるのを忘れて古い資料に目を通していました。
涼しい風が吹き通る円満寺本堂で昼食休憩
円満寺に別れを告げると、一路八幡寺に向かいました。途中、私の中学生時代の同級生Kさんに逢いました。中学2年の時に同じクラスでした。その時の写真を見せると、懐かしそうに見ていました。その写真は差し上げました。お互い年はとりましたが、中学生時代そのまま彼女でした。近々Kさんのお母様に会って、八幡寺の故事について教えていただく予定です。
八幡寺に到着 八幡寺内の仏様群 石ノ口八幡宮内忠魂碑
Kさんの家からすぐの所に八幡寺があります。中に入って拝みました。たくさんの仏様が安置されていました。これら数々の仏様の云われは何なのでしょうか。お大師講か何かの名残なのでしょうか。八幡寺の名前の云われの理由はなんなのでしょうか。
長い石段を登りきって石ノ口八幡宮に到着
八幡寺を出ると、近くにある石ノ口八幡宮に向かって長い石段を登りました。坂の途中に小屋があり、前回の御式年祭(2007年4月)で使ったと思われる神輿と鯛の張子が置かれていました。さらに石段を登ると右手に、大正時代に内閣総理大臣になった寺内正毅書の忠魂碑があります。忠魂碑を見学し終わると、ようやく石ノ口八幡宮に到着です。石ノ口八幡宮に着くと、石ノ口八幡宮の由来を説明しました。そして、、かつて城南に鎮座していた多くのお社が合祀された荒神社を説明しました。
今回ウォーキングした城南石ノ口ルート
先月下見した城南石ノ口方面ウォーキングに行ってきました。今日はあちこちでイベントがあったようで、朝から花火の音が空に響いていました。どこかでお祭りでもあったのでしょう。今日も最高の天気でした。城南公民館に10時に集まって、光市との境に近い石ノ口方面を歩いてみました。
城南公民館近くのお地蔵様 了法寺に向かって歩く お地蔵様二体を拝む
城南公民館を出ると、すぐの所で橋を渡り了法寺に向かって歩きました。途中にあるお地蔵様にウォーキングの無事を祈りました。秋晴れの中、談笑しながら歩きました。石ノ口公会堂の少し手前で、お地蔵様二体を拝みました。傍にたくさんの墓石が安置されていました。とても古い墓石ばかりでした。
了法寺に到着 本堂内で拝仏 お接待に感謝
二体のお地蔵様を拝むと、石ノ口公会堂前を通って了法寺に行きました。本堂前でご挨拶すると、下見の時にお話を伺った方が来られました。本堂に上がらせていただき仏様を拝んでいると、お接待を持ってこられました。ありがとうございました。お接待をいただいている間、このお寺に関わるお話を聞かせていただきました。その時、このお寺近くに埋まっていた、とても小さな地蔵を見せていただきました。
了法寺に関わるお話をお聞かせいただく
了法寺を出ると、埋蔵物発掘現場に向かいました。土日曜日は発掘していないとのことで、誰も現場にはいませんでした。圃場整備で田んぼの土を掘っている機械も止まっていました。
最初、現場の一番上の田んぼに皆さんを案内して、その地下構造(硬盤など)を最初に説明しました。この地下構造を知っていると、埋蔵状態の理解に役立ちます。
埋蔵物発掘現場に到着 圃場整備用機械はお休み 田んぼの地下構造を説明
実は、私は前日にこの埋蔵物発掘現場をを訪れました。そして、大学で埋蔵物を研究している方にお話を予め伺ってきたのです。この発掘現場は古墳時代の竪穴住居の痕跡があり、さらに鎌倉時代、そして江戸時代にかけての田んぼ跡だとのこと。これらの話を皆さんに説明しました。
石ノ口の埋蔵物発掘現場
研究員の方のお話では、後井古墳など壮大な古墳群を作った王様か族長に関わる住居群跡がどこかにあるのではないかとのことでした。そして、団地,学校,工場を作るときに埋蔵遺跡を壊していることがあるのはとても残念だとの話も伺いました。遺跡が出ると納期が狂うため、工事会社は遺跡を嫌がることが多いそうです。善良な工事会社なら良いのですが、こっそり破壊してしまう工事会社もあるのだそうです。
今回ウォーキングした城南石ノ口ルート
2週間前に釘とビー玉の工作をしましたが、今回はその2回目で、工作を完成させました。ほとんどの子供達は、釘の調整をしたり,絵を書いたり,またはビー玉が面白く動く工夫をしたりしていました。前回来れなかった子供の工作を手伝う子供もいました。
絵を仕上げる子供達 他の子供の工作を手伝う どんな工夫をしようかな
前回は、ビー玉が転がるようにしただけでした。今回は、それをどのように工夫するか絵を書くかなど、個人の違いや学年の違いが出たように思います。工作が好きな6年生特に男の子は、より良いものができたように思います。ビー玉がどのように動くか、何度も工夫しては試していました。低学年生は、まだまだビー玉の動きが連想できにくいようでした。
楽しそうにビー玉の動きを見入ったり、工夫している子供達
最初はビー玉が落ち続ける滞空時間を計測しようかと思いましたがが、二人ずつで対戦する方式にしました。長い時間ビー玉がころがり続けたた方を勝ちとしました。また、途中でビー玉が止まったり、板から弾け飛ぶと負けとしました。最初に練習をしてからスタートです。
2人ずつで1回戦 どっちがよく転がるかな 1回戦の次に、2回戦目です
1回戦で12人のうち6人が勝ち残り、2回戦で3人が勝ち残り、そして3回戦で3人が同時対戦して1位,2位,3位を決めました。一方で、デザインが良かったものも選びました。釘の模様や背景の絵などを総合的に判断して選びました。
最後の対戦で1位,2位,3位を決定 デザインが良かった三人
今回で、田布施西小学校で行われた少年少女発明クラブの工作は終わりです。来月からは、田布施中学校や田布施農業工業高校での工作が始まります。来月からは中学校や高校の先生やお兄さん達に工作を指導していただきます。今月までより、少しばかり高度な工作になります。例えば、半田付けするような電子工作などがあります。
各人が作った釘とビー玉の工作
小野太市の石碑を見終わると、小行司から麻郷に行きました。そして、西円寺に行きました。西円寺は先日の田布施町ウォーキング大会と去年の麻郷ウォーキング以来です。ウォーキング大会では急いでいたため本堂を見学することができませんでした。しかし、今回はじっくりと見学することができました。
麻郷の西円寺に到着 西円寺の由来などの説明 蓮如様掛軸 〇:薄いしみ
西円寺に到着すると、本堂に上らせていただきました。そして、西円寺の由来などの説明がありました。そして、ここで紙芝居「おみの蓮如様」の上演がありました。西円寺に飾られている蓮如の掛軸に関わる紙芝居です。その掛軸が盗まれた時のお話を紙芝居にしたものです。その掛軸をじっくり拝見させていただきましたが、確かに掛軸の下部が水で濡れたようなしみがわずかにありました。
西円寺の本堂で上演された紙芝居「おみの蓮如様」
紙芝居の上演後、お茶をいただきました。ありがとうございました。西円寺を出ると、高松八幡宮に行きました。私は、麻郷ふるさと会で9月の秋祭りに行って以来です。深い鎮守の森を抜け石階段を登ると高松八幡宮の本殿があります。ここで、この神社の由来などについて、宮司様に伺いました。宮司様には、浮島神社の夏祭り,大岩のお祓い,田布施地方史研究会総会などでお話しを伺うことがありました。
高松八幡宮の境内 本殿前で由来など説明 江良碧松の句碑
高松八幡宮を出ると、近くにある江良碧松の句碑に行きました。この句碑の前で、紙芝居の上演がありました。題目は「江良碧松物語」です。私が子供の頃、江良碧松は存命でした。この井神地区にも何度も遊びに来たことがありますが、江良碧松については全く知りませんでした。私の父親は碧松の息子さんと森林組合でよく逢っていたそうです。しかし、父親から碧松のことは聞いたことがありませんでした。今思えば残念です。江良碧松句絵手紙展のお手伝いをしたり、江良碧松のお墓詣りをしたり、周防三羽ガラス展で5男さんやお孫さんとお話しをしたのが救いです。
江良碧松の句碑前で上演された紙芝居「江良碧松物語」
紙芝居の上演が終わると、江良碧松の生家に行きました。立派なイチョウの木が目立ちます。今は誰も住んでいないようですが、お孫さんかどなたかが、生家に時々来ているようです。道から垣根越しに生家を眺めました。ちょうどその時、年輪ピックから帰ってきたご近所の方に逢いました。私の同級生のお兄さんです。江良碧松生家を望んだ後、今回の史跡探訪出発地点の中央公民館に戻りました。秋晴れで楽しい田布施町の史跡探訪でした。参加された方々、お疲れ様でした。
立派なイチョウと生家 江良碧松の生家 中央公民館に無事戻る
訪れた京都市内の幕末・明治維新に関わる史跡などです。それぞれをクリックしてください。
1.寺田屋,伏見他 2.三十三間堂,南禅寺他 3.水路閣,吉田松陰詩碑他
4.池田屋,近江屋他 5.壬生屯所跡,蛤御門他 6.京都霊山護国神社他
7.霊山歴史館他 8.佐久間象山遭難碑他
しばらく歩くと、祇園新橋に出ました。橋のたもとに人力車が停まっていました。そして、人力車を引く女性がいました。人力車はけっこう体力がいるので、これまで若い男性向きの仕事とばかり思っていました。体力に自信がある方なのでしょう。写真を撮られたり、話かけられていました。この付近は海外からの旅行客が多く、あちこちで写真を取っていました。
京都で景観条例が一番厳しい祇園新橋
少し行くと、江戸時代の風情が残った街並みが続いていました。景観条例が非常に厳しいらしく、人工物である電信柱や配電板はみんな黒色に塗られていました。江戸時代そのまま建物ですが、住んでいる方はどんな暮らしをしているのでしょうか。けっこう不便なようにも思えます。例えば、住民が使うであろう車の駐車場はどこにあるのでしょうか。
木陰で少し休憩 ゆったと鴨川の流れ 京都先斗町界隈
江戸情緒あふれる街並みを過ぎて、鴨川に出ました。橋を渡った後、狭い通路を歩きました。ここは、歌にある京都先斗町(きょうとぽんとちょう)です。こんな字を書くのですね。初めて知りました。とても狭い通路ですが、距離が長いのでいろいろなお店がありました。比較的飲食店が多いようでした。
豊臣秀次の墓地 高瀬川沿いの喫茶店 有形文化財の幾松
京都先斗町の北端近くに豊臣秀次のお墓がありました。豊臣秀次は豊臣秀吉に処罰されたのですが、秀頼の跡継ぎ問題を危惧した秀吉による謀略だとの説があります。豊臣秀吉は庶民に人気がありますが、豊臣政権の終わり頃、朝鮮に出兵したり、この豊臣秀次の処罰など、いったいどうしたのかと思うような晩年でした。秀次はよしとしても、その家族である子供や女性などほぼ全員が処罰対象になるなど異常です。この事件は、その後の豊臣政権を危うくした原因の一つだと思います。豊臣政権の終焉を暗示させる事件ではないでしょうか。
並んで建つ佐久間象山と大村益次郎の遭難の碑
次に高瀬川沿いに上流に向かいました。すると、川向かいに佐久間象山と大村益次郎の遭難の碑が並んでありました。佐久間象山は、幕末の志士達に絶大な影響を与えました。新しい日本を目指す当時の若者は、必ず象山の元を訪ねたようです。ですが、遭難に逢った後は、不当な扱いを受けます。当時の上層部は、象山の偉大さがむしろ脅威に思えたのでしょう。幕末は老害のきわみだったのかも知れません。
有形文化財幾松への通路 各藩名を冠した料理 のんびり流れる高瀬川
近くに有形文化財の料理旅館「幾松」がありました。予約していなかったので中には入りませんでした。桂小五郎の妻となった幾松と何か関係がある旅館なのでしょうか。文化財とのことですので、江戸時代から続く旅館なのでしょう。なお。料理名に長州御膳,薩摩御膳などに加え幾松御膳がありました。いったいどんな料理なのでしょう。
これで今回の旅は終りです。京都駅に着くと靴やお土産を購入しました。そして、新幹線に載って我家に帰りました。京都の幕末・明治維新に思いをはせる旅行でしたが、家族とも楽しく散策することができました。また来てみたいと思いました。
今回訪れた京都の町並みとコース
真夏の8月初旬にカラカラに乾いた畑に種をまき、その後草取りをした枝豆と小豆がようやく収穫時期を迎えました。皆さんとワイワイ談笑しながら楽しく枝豆を収穫しました。畑の北側は比較的よく育って美味しそうな枝豆をたくさん収穫しました。収穫時、各自が持って帰りやすいように、数本の茎を束ねて根本を結びました。
秋晴れの中、談笑しながら枝豆を収穫
この枝豆の品種は鞍掛豆です。豆の表面の一部が黒くなります。そのため、丸々と太ったさやを割ってみると、豆の表面の一部が黒く浮き出ていました。来年の種まき用として数株は残しておきました。11月にカラカラに乾いたさやを収穫します。なお、カラカラに乾いた豆を水で浸してふやかし食べてもかまいません。その場合、酢醤油をつけて食べると美味しいです。別名「浸し豆」とも言われる枝豆の品種です。
葉を落とし、数本を束ねて根本を結束 小豆はさやだけを手でもぐ
枝豆を収穫すると、次に小豆を収穫しました。まだ小豆は収穫できないかと思っていると、一部のさやは茶色になってカラカラに乾いていたため収穫できました。小豆は枝豆と違って、さやだけを収穫します。11月に入ればすべてのさやが乾きます。そうなれば、根ごと抜いて茎ごと天日乾燥します。そして、くるり棒で叩いて風選し豆を取り出します。11月にサツマイモ掘りをするので、その時に時間があれば小豆のさやを外そうと思います。
カラカラに乾いた小豆のさやだけを、手でもいで収穫
昼前に枝豆と小豆の収穫が終わりました。続いて枝豆の調理です。待ち帰る枝豆を別に取っおき、今回食べる枝豆を茎から取り外します。そして、予め沸かしておいた熱湯の中に入れました。そして、8分位後に熱湯から取り出しました。美味しそう。
食べる枝豆だけ茎から外す 熱湯の中に枝豆を 美味しそうな枝豆できあがり
今回は枝豆パーティーなのですが、皆さん差し入れの具材で料理もしました。美味しかった汁物,焼肉,サツマイモコロッケ.おにぎりなど、おおご馳走でした。最初、枝豆を主菜としたささやかな昼食を予定していましたが、皆さんのおかげで豪華な昼食となりました。ありがとうございました。
美味しかった汁物 いい匂いが漂う焼肉 たくさんの料理、おおご馳走
これまではブルーシートを敷いて食事をしていましたが、今回からはキャンプ用の6人テーブルを使いました。地べたに座るよりも椅子の方が、移動が楽で動きやすいのでいいですね。
今回収穫しなかった未成熟の小豆は、11月のサツマイモ掘り頃までにすべて収穫します。そして同じ頃、小麦も並行して種まきします。あと1ヶ月は忙しい畑仕事が続きます。12月になると一度麦踏みをして、シイタケ用の原木を伐採するだけの作業しかありません。
ご馳走のできあがりです、さあ皆さん召し上がれ!
今回、青潮短歌会西岩国支部の方々を、田布施町と平生町にある古墳を中心にご案内しました。私の知っている田布施在住の一人が支部の会員なのですが、その方の依頼により会の方々を古墳にご案内しその解説をしました。会の方々はJR田布施駅で待ち合わせ、田布施町郷土館で私と合流しました。最初、郷土館を見学していただきました。展示中の「冨永有隣と明治維新に関わる人達」を見ていただき、続いて岸・佐藤元宰相の展示室を見ていただきました。
岸・佐藤元宰相の展示室 後井古墳近くに駐車 もうすぐ後井古墳
郷土館を出ると、三台の車で後井古墳に行きました。後井古墳の少し手前で車を降り、古墳まで歩きました。後井古墳は今、地元の方々に秋葉神社として守られています。綺麗に清掃された道を登って行くと、後井古墳の石室前に着きます。石室前で古墳の年代などについて解説しました。そして、皆さんと一緒に石室内に入りました。皆さんは、石室の岩の大きさに圧倒されていました。
後井古墳の石室内で、青潮短歌会西岩国支部の方々
後井古墳を見終わると、田布施町の「ほりを」で昼食です。季節料理を美味しくいただきました。ご馳走様でした。続いて、皆さんのご希望でしょうか、田布施交流館で買物です。先日解禁のいちじくワインを購入された方がいました。ここでしか手に入らないで購入したとのこと。
昼食をいただいた「ほりを」 田布施交流館で買物 平生町佐賀の白鳥神社
続いて、田布施町から平生町に移動しました。そして、この7月の佐賀ウォーキングで行った白鳥古墳に行きました。最初に白鳥神社にお詣りした後、この古墳について解説しました。そして、この古墳の大きさを体感していただくため古墳を一周しました。なお、白鳥神社は白鳥古墳の後円部上にあります。
神花山古墳入口、このそばにある舗装された山道を登る
白鳥古墳を見終わると、次は神花山古墳です。道を少し戻って阿多田交流館前に車を駐車し、しばらく歩いて回天の慰霊碑を見てから神花山古墳に行きました。この古墳は山の上にあります。歩きやすいように舗装された山道を登りました。その道は綺麗に清掃されていました。
神花山に葬られていた若い女性をかたどった巨大な像
舗装された歩きやすい山道をほぼ登り切った所に巨大な像があります。この神花山古墳に葬むられていたのは若い女性です。その女性をかたどった巨大な像なのです。この女性は当地では女王とされていますが、巫女,王の妻,王の娘かも知れません。当時の髪型,装束などを参考に作られています。見上げると、首が痛くなるほどの巨大な像です。
女性が葬られていた石室 阿多田交流館を見学 ベルゼで喫茶休憩
神花山古墳に着くと、後円部に登って女性が葬られていた竪穴式石室を見学しました。この古墳からは海が見渡せます。この女性が子供の頃から眺めたであろう、海が見える場所に古墳が作られたのではないでしょうか。神花山古墳上で、この時代の出来事や古代の田布施や平生などについて解説しました。神花山古墳を下りると、車を駐車した阿多田交流館を見学しました。そして、最後にベルゼに行って喫茶室で休憩しました。その後、皆さんは岩国方面に向かって帰られました。参加された青潮短歌会西岩国支部の方々、お疲れ様でした。
青潮短歌会西岩国支部の方々と巡った古墳などのコース
訪れた京都市内の幕末・明治維新に関わる史跡などです。それぞれをクリックしてください。
1.寺田屋,伏見他 2.三十三間堂,南禅寺他 3.水路閣,吉田松陰詩碑他
4.池田屋,近江屋他 5.壬生屯所跡,蛤御門他 6.京都霊山護国神社他
7.霊山歴史館他 8.佐久間象山遭難碑他
京都霊山護国神社を出ると、すぐ隣にある霊山歴史館に行きました。展示されている史実は特に目新しいものはありませんでした。しかし、池田屋事件などがジオラマで再現されていたり、京都の史跡を3D映像で見ることができます。幕末の歴史を学ぶための入門として訪れるのに良いと思いました。田布施町郷土館は狭いため、奇兵隊資料などを所狭しとぎっしりと展示しています。この霊山歴史館はたくさんの人がゆったりと学ぶことができます。
霊山歴史館入口 館内各階展示の様子 時系列にゆったりと展示
霊山歴史館を出ると、下り坂を高台寺に向けて歩きました。高台寺横のゆったりとした石階段を降りました。この小道は「ねねの道」と呼ぶそうです。カップルが歩くには雰囲気がとても良い小道なのだそうです。ただ、有名な清水寺も近いためか、カップルや家族連れなどで混雑していたため落ち着いた雰囲気はありませんでした。和服姿も多くみられました。その和服姿の方の何人かが外国語を喋っていました。海外からの旅行客なのでしょう。
高台寺横の静かな下り階段とねねの道
ねねの道を歩き、すぐの所に御陵衛士屯所跡がありました。新選組と別れた伊東甲子太郎が御陵衛士に任命され勤王を説きました。清河八郎らと共に江戸から将軍警護の名目で京都に来ましたが、佐幕一直線だった新選組にすべて粛清されました。佐幕しか考えられなかった新選組からすると、彼らは裏切り者で許せなかったのでしょう。当時の日本は、勤王,攘夷,佐幕,討幕などが錯綜し諸子百家状態だったのではないでしょうか。
御陵衛士屯所跡 昼食にお蕎麦 賑やかな八坂神社前
当時の京都は孝明天皇がお住まいでしたので、勤王の志士にとっては聖地にも等しい場所だったと思います。天皇をめぐって、各派の駆け引きが激しく繰り広げられました。尊王攘夷,公武合体,尊王討幕と目まぐるしく変わりました。誰もその抗争を止めることができず、幕府は京都所守護職を置くなどして治安に勤めましたが、尊王討幕の勢いを止めることができませんでした。そして、鳥羽伏見の戦いで決着がつきました。
明治維新は必然的にできたのではなく、奇跡が起きたのに等しいと私は思います。その奇跡が起きなければ、日本が列強に分割されたり植民地になってもおかしくない歴史があったはずです。幕末は日本の歴史を決める、きわめて危ういターニングポイントだったのです。
黒糖わらび餅で有名なお店 どれにしようか迷う 私がいただいた黒糖パフェ
ねねの道を過ぎて、お昼休憩として蕎麦を食べました。蕎麦を食べ終わると、八坂神社前に出ました。この付近は、たくさんの旅行客などでとても混んでいました。その混雑したお店の中で、黒糖わらび餅で有名と言われるお店に入りました。その二階で、私は黒糖パフェをとても美味しくいただきました。甘党の私は来て良かったです。
一人がやっと通れる通路 古都の風情あふれる街 左:台湾女性、右:お店の方
甘く美味しい黒糖パフェを堪能すると、しばらく談笑後にお店を出ました。そして狭い通路を通りました。人が一人通れる狭い通路です。私はどこに行くのかさっばり分かりません。ガイド役の息子の言われるままにす進むだけです。しばらく歩いていると、台湾の女性が声をかけてきました。自分を撮って欲しいようです。私は中国語はさっばりで、息子が対応していました。ここは外国の旅行ガイドに掲載されているのでしょうか、いろいろな国の方が自取り棒を持ちながら撮影していました。
今回訪れた京都の町並みとコース
田布施町地方史研究会による今年で4回目の史跡探訪がありました。去年雨で中止となりましたが、今年は最高の秋晴れでした。中央公民館に集合して、9:00に出発しました。最初の史跡は、天王原古墳です。これまで何度も行きましたが、天井石が下斜面にずり落ちていることを初めて知りました。続いて、誓立寺に行きました。天正年間に織田信長との和解で、石山本願寺(今の大阪城)から毛利方のこの場所に一派が逃れてこの寺を建てたとのこと。
天王原古墳の石室 誓立寺を見学 草に覆われた納蔵原古墳
続いて、誓立寺に車を置いて納蔵原古墳に行きました。夏の間にすっかり草に覆われていました。石室への入口近くにスズメバチがぶんぶん飛んでいました。巣があるのでしょう。そのため、石室の中を覗けませんでした。誓立寺に戻って車に乗りました。そして、大波野溜池に行きました。すると、初めての光景に出合いました。溜池が空になっていたのです。今頃は田んぼに水が必要ないので、溜池を干すようです。
干されてほとんど水が無い、大波野溜池
大波野溜池を見学すると、小行司に入り教円寺に行きました。このお寺の栃の木の大木跡を見たり、鐘突堂などを見学しました。このお寺の傍に、多賀神社への登り口があります。続いて、多賀神社へ行き、広場に車を駐車しました。車を降りて多賀神社に行こうとすると、フジバカマの花にとまって蜜を吸う、蝶のアサギマダラを見ました。アサギマダラは、台湾や中国本土と日本の約千kmを遠距離飛行する驚異的な蝶なのです。
教円寺と立派な鐘突堂 蝶のアサギマダラ 多賀神社に到着
アサギマダラをじっくり見終わると、緩い坂道を登って多賀神社に行きました。多賀神社の宮司さんが道を清掃しておられました。多賀神社を見学中、みなさんのお弁当をにこにこパークに取りに行きました。お弁当を持って多賀神社に戻ると、紙芝居の上演中でした。紙芝居が終わると、極上のお弁当を食べました。ご馳走様でした。
小行司に関わる紙芝居の上演
昼食休憩が終わると、多賀神社傍にある夫婦松跡と天寿の松跡に行きました。去年5月のウォーキング時にも来ました。二代目の松を植えたそうですが、その松も枯れてしまったそうです。続いて、子桜の石碑と小野太市の石碑に行きました。小野太市の石碑の隣りに、折れた石碑がありました。たくさんの文字が刻まれていました。ぜひ調査したいものです。今度、拓本を取ってみたいと思いました。
夫婦松跡と天寿の松跡 小桜の石碑 小野太市の石碑を見上げて
第5回の田布施町ウォーキング大会が開催されました。私は、第2回,第4回,そして今回参加しました。これまでの2回は古墳コース(9km)でしたが、今回は寺社巡り7kmコースに参加しました。当初私が先頭を歩くことになっていたのですが、A君に先頭をお願いしました。私はもっぱら、各史跡の解説と撮影をしました。
ウォーキング大会受付 スタート前に準備体操 10時 ウォーキングスタート
去年も天気が良かったのですが、今回はさらに雲一つない青空でした。歩いていると、各所の田圃で忙しく稲刈り脱穀をしている姿がありました。こうした秋の風物詩を見ながらの楽しいウォーキングでした。ウォーキングの途中にある史跡で立ち止まりながら、その史跡の解説をみなさんにしました。
田布施町の木であるクロガネモチの大木を右後ろに見ながらウォーキング
麻郷公民館に着くまで、市場跡、道路改道碑,田布施町の木であるクロガネモチの大木,江良碧松の生家,江良碧松の詩碑,道路改道碑,長福寺,高松八幡宮,西円寺,そして道路改道碑で立ち止まりました。青空の下、快適なウォーキングが続きました。
西円寺を出発 麻郷公民館に到着 受付を済ませる
中間地点の麻郷公民館に11:00ジャストに到着しました。ここで受付を済ませて、トイレ休憩です。7分程度休憩した後にスタートしました。南に箕山を見ながら、麻郷の田園の中を歩きました。しばらく歩くと長い石階段下に着きました。この石階段を登ると麻郷神社です。この神社はかつて麻郷護国神社と呼ばれ、幕末に命をささげた第二奇兵隊などの御霊が祀られています。ここは展望が良く、遠くに平生湾が一望できます。
長い石階段を登って麻郷神社に到着
麻郷神社を出ると、国木田独歩吉見家仮寓跡碑前で立ち止まり、60年前の田布施町統合時まであった麻郷村立麻郷中学校跡碑を見ました。続いてどんどん歩き、浮島神社に行きました。ここには、力石に刻まれた江良碧松の詩碑があります。江良碧松の詩碑,浮島神社の奇祭ひねきり,そして南平和霊場第二札所である川添寮について解説しました。この浮島神社をもって最後の史跡解説は終わりました。あとはゴールに向かってどんどん歩きました。
浮島神社に到着 ようやくゴールに到着 ゴールの受付
なお、ウォーキング大会が終わると婦人会が出しているお店に行きました。そして、事前にいただいたチケットを出してうどんをいただきました。疲れていたためか、とても美味しいうどんでした。ご馳走様でした。食べながら雑談していると、運動場ではダンスが、続いて地区対抗の徒競走が始まりました。徒競走を見ていると、つい自分の地区を応援してしまいました。
思わず応援してしまった地区対抗の徒競走
今回のウォーキング大会は快晴に恵まれました。そして、時々涼しい風が吹いていたので、汗ばむこともなくさわやかでした。田んぼの農作業を見ながら、そして白菜やキャベツなどの畑を眺めながら歩き、秋をいっぱいに感じることができました。10月らしい快適なウォーキングでした。ウォーキングに参加された方々、そしてスポーツ大会に参加された方々、お店を出された方々など、お疲れ様でした。
今回ウォーキングした、寺社巡りコース(7km)
訪れた京都市内の幕末・明治維新に関わる史跡などです。それぞれをクリックしてください。
1.寺田屋,伏見他 2.三十三間堂,南禅寺他 3.水路閣,吉田松陰詩碑他
4.池田屋,近江屋他 5.壬生屯所跡,蛤御門他 6.京都霊山護国神社他
7.霊山歴史館他 8.佐久間象山遭難碑他
夜に京都御所を巡った次の朝、ホテルで朝食をとりました。バイキング方式のため、サラダ,ハム,卵,パン,ジュースなどを選びました。気分よく朝食を済ませると、バッグ類を受付に預けて京都駅を出発しました。最初に行ったのは京都霊山護国神社です。幕末・明治維新関連の歴史が好きな人ならば一度は訪れる場所です。坂本竜馬など維新の志士たちが祀られています。
私が選んだ朝食 到着した京都霊山護国神社 特操の碑 〇:佐藤栄作書
京都霊山護国神社に到着しましたが8:00前でした。そのため、開門の8:00まで周りを散策しながら観察しました。すると、特攻隊の碑でしょうか「特操の碑」があり、その右下に佐藤栄作書とありました。こんな所にも佐藤栄作の書があるのですね。明治100年時の内閣総理大臣でしたので、明治維新や戦没者に関わる書を多く依頼されたのでしょう。
坂本竜馬墓地付近から京都市内を見下ろして
門が開くと、拝観料を払って中に入りました。すると山の斜面に明治維新に関わる勤王討幕の志士達のお墓や慰霊碑が所狭しと並んでいました。一番目につくのは、やはり坂本竜馬と中岡慎太郎の墓地でしょうか。二人の銅像が建っています。近江屋で二人は暗殺されました。大政奉還直後で、誰が犯人かいろいろ説があります。
坂本と中岡の銅像 長州藩志士達の列柱 大村益次郎の墓地
この京都霊山護国神社に祀られているのは、さすがに長州藩の志士が多いようです。ずらりと何列にも並んだ列柱は壮観です。その列柱を見守るように、高杉晋作,入江九一,来島又兵衛,久坂玄瑞など長州藩を先導した志士が祀られています。
長州藩の志士達を見守るように建てられた高杉晋作などの慰霊石柱
京都霊山護国神社の一番上には、この慰霊碑を作ることに貢献した木戸孝允と妻幾松の墓地があります。幕末を生きぬいた木戸孝允は、明治になってから維新に命をささげた志士達を弔って回ったそうです。仲間達が多大な命を投げ出して作り上げた成果を、心の中で報告したのでしょう。
木戸孝允の墓地 左隣の幾松の墓地 梅田雲浜の慰霊碑
獄死した梅田雲浜の慰霊碑を最後に見てから京都霊山護国神社を出ました。明治維新はいわば革命です。その革命ためにどれだけの犠牲があったか、木戸孝允は誰よりも知っていたと思います。彼の晩年は、志士達の鎮魂のための行脚の日々だったそうです。例えば東北の地にも赴いて、暗殺された世良修蔵墓所を訪ね石灯篭を建てたとか。そして、この京都霊山護国神社の建立に心をくだいたとか。
今回訪れた京都の町並みとコース