3月中旬に育苗を開始したナスとピーマン、本葉が展開し始めました。この様子だと、4月上旬に大き目のポットに移植できそうです。4月下旬には皆さんにナスとピーマンの苗をお分けできそうです。ところで、ナスよりも先に種をまいたアケビがようやく発芽しました。ナスと比べて成長がのんびりしています。そのため、ボットに移植できるのは5月上旬になりそうで、苗をお分けできるのは5月下旬になりそうです。ちなみに、挿し木にしたアケビはすでに葉が展開しています。私の好きな松葉ボタンは小さな芽がたくさん出ました。初夏には花がたくさん咲きそうな勢いで成長しています。そんなこんなで、4~5月は、育苗や移植の作業に加えて、皆さんへ差し上げたりと忙しくなりそうです。
本葉が展開を始めたナスの苗、まだ小さいですが今後大きく成長
ナスとピーマンを比較すると、早く発芽したのはピーマンでした。ところが、発芽後はナスの方が早く成長しているようです。本葉の展開はナスの方が早いです。ピーマンの方がやや寒さに弱いのかも知れません。そのため、ピーマンをボットに移植するのはナスより遅れそうです。ナスの苗をお渡ししてから10日後頃に、ピーマンの苗を皆さんにお渡しできるのではないかと思います。ナスもピーマンも、そろそろボットの準備しようと思います。
本葉展開のナス苗 発芽中のピーマン ピーマンの苗
ところで、アケビは思っていたより遅く発芽を始めました。一般的に粒が小さいほど発芽が早いので、比較的大きなアケビは発芽が遅いのでしょう。しかし、野生では早く発芽して成長しないと競争に負けてしまいます。本来ならば、種が地面に落ちるのは10月です。そのため、晩秋までに発芽して初春に成長するのかも知れません。さらに、アケビは実を鳥に食べられ、糞(肥料分)と一緒に地面に落ちます。そのため、成長は思っているよりも早いのかも知れません。松葉ボタンは私の好きな夏の花です。少々の日照り耐えるため、水やりを忘れても枯れることがありません。アケビも松葉ボタンも苗の予約があるため、苗が成長したら差しあげるつもりです。
やっと発芽したアケビ たくさん発芽した松葉ボタン
行けなかった祠と地蔵3を崖の上から確認すると、次に柳井中学校沿いに歩きました。そして、柳井川に出ると左岸側の堤防を歩きました。しばらく歩いて柳井中学入口バス滞留所に着くと、柳井小学校方面に行く道に進みました。200m位進んで山に入る小さな舗装されていない道に分け入りました。その道を登りきると稲荷社がありました。こじんまりとした神社でした。この稲荷社前で立ったまま休憩しました。
柳北小学校前の柳井川対岸に安置されたお地蔵様
稲荷社を確認すると、着た道を下り柳井中学前バス停留所まで戻りました。続いて、柳井川左岸の小道をどんどん上流に向けて歩き続けました。20分位柳井川に沿って歩くと門前橋まで来ました。橋の名前から推測するに、かつてはお寺に続く道があり栄えたのでしょう。しかし、門前の由来を近所の方に聞いてみましたが知らないとのこと。だいぶ昔にお寺は錆びれ、橋の名前にかつての繁栄を留めたのではないでしょうか。門前橋から東へどんどん歩きました。15分位坂道を登ると、牛供養の石碑がありました。
こじんまりとした稲荷社 牛供養の石碑 柳北小学校
牛供養の石碑から坂道を戻り、再び柳井川左岸を上流に向けて歩きました。下馬皿公民館横を通り過ぎて、柳井川左岸の道が途切れた場所に着きました。そこには四体のお地蔵様4,5,6,7が安置されていました。四体ともに赤い帽子に赤いべべを着ていました。同じ柄でしたので同じ方が作ったようです。柳井川が最も狭まっている場所ですので、昔は水害が多かったのではなかったかと思います。もしかして水害を弔うため安置されたのではないでしょうか。
山の中腹にある大師堂 岩政次郎右衛門の水路跡
四体のお地蔵様の場所で柳井川を渡り、柳北小学校前に出ました。小学校から山に向ける道にはいり、大師堂に向かって山を登りました。大師堂横の崖が段々に掘ってありました。その段々に数十体のお地蔵様が並んでいました。それぞれのお地蔵様は何を表しているのでしょうか。その大師堂前を、江戸時代に岩政次郎右衛門が掘った水路跡が通っていました。整備すれで、今でも使うことができそうな水路でした。大師堂でしばらく休憩後、元来た道を延々と歩き、出発したJR柳井駅まで戻りました。
柳井市柳北地区の史跡散策コース
前回のコットンクラブで整経台を使って経糸を作りました。ところが、経糸が長過ぎたのか経糸の本数が足りなくなりました。この経糸は100円ショップに並んでいたウール製毛糸でした。安かったのは単糸だったからでしょう。どうりでふわふわしており、引っ張ると切れやすかった毛糸でした。同じ毛糸を購入しようと同じ100円ショップに行きましたが、もうありませんでした。がっくり。そのため、せっかく作った経糸を解いて再度短めの経糸に作り直しました。そして経糸の本数約120本を確保しました。毛糸は余裕をもって購入した方がよいですね。
織機の端に結んだ経糸(約120本)
ところで、今回の田布施コットンクラブ参加者はいつもより少ない4名でしたが、談笑しながら楽しく作業しました。私はもっぱら経糸の作り直しと、作り直した経糸を織機に取り付ける作業をしました。使ったのは中古で購入したリジット織機です。初めて使う織機なのですが、経糸の取り付け方法は以前使っていたカランコ織機よりは容易です。また、金綜絖を使う織機よりも容易です。
手織り織で布を織る 経糸を解く 解いた経糸
経糸を張り終わったので、今後は横糸を通しながら襟巻きを作ります。横糸を通すにあたって悩みがあります。一つ目はどんな色の横糸を通したらよいかです。経糸の色に合った色を選ばなければなりません。二つ目はデザインです。これまで作ってきたのはチェック模様の布ばかりです。今回は時間がかかってもよいので、斜め線の模様を入れてみようかと思います。そのため、シャトルを2~3本同時に使いながら織ってみようと思います。下手なりにトライしてみようと思います。
経糸はこの色の順に 経糸を張っている途中
種をまいてから一度も小麦畑の草取りをしていませんでした。そのため、背が低くとも雑草が小麦間にびっしりと生えてきました。毎春の事ですが、耕運機のロータリーを使って耕運除草しました。小麦の畝間をちょうど90cmにしたので、一度の耕運で小麦間を綺麗に除草できました。しかしながら、雨が降りそうです。そのため、せっかく除草したのに雑草が息を吹き返しそうです。来週もう一度丁寧に耕運除草した方が良さそうです。
畝幅90cmの小麦間を、耕運機のロータリーで耕運除草
今年の小麦はパスタ用です。初夏に刈り取り,乾燥,脱穀して収穫します。この小麦を製粉して、水を含ませてこねてパスタにしようと思っています。その後乾燥してもよいのですが、生パスタにしてもよいかも知れません。夏か秋にパスタを試作しようと思っています。結果が良ければ、晩秋か冬に小学校の放課後学習成器塾で子供達にパスタ作りを教えようと思います。
今年度、子供達に手芸に加えて調理を教えようと思っていました。しかし、コロナのため調理を教える機会がありませんでした。ちなみに去年度は調理として、桃の加工,干柿作り,ホットケーキ作りをしました。来年度は調理もぜひ教えたいところです。
小麦間を耕運除草中 1時間程度で麦間除草を完了
弥山寺はとても景色が良いので、付近を少し散策しました。一番目につくのは大きな日清戦役碑です。新生明治日本の初めての対外戦争でした。今でこそ、日清戦争は当たり前のように勝ったと思われています。しかし、当時の国力や軍備からすると楽な戦争ではなかったはずです。中華世界に君臨する清からすると、日本など容易にひねりつぶせると思ったに違いありません。その清に勝ったことは、当時の明治政府に多大な自信を与えたと思います。
弥山寺を振り返りながら、緩やかな下り坂
日清戦争は当時とても注目されたようで、あちこちに亡くなった方などの顕彰碑があります。この近くでは、田布施町 小行司 小野太一顕彰碑や柳井市伊陸にも日清戦争顕彰碑があります。さて、日清戦役碑を見終わると、少し歩いて鐘撞堂まで行ってみました。とても立派な鐘撞堂です。大みそかには柳井街中に鐘の音が響くのではないかと思います。弥山寺から西方面に下る道を降りました。途中、六人地蔵が安置されていました。
立派な日清戦役碑 弥山寺からの柳井市街 六人地蔵
弥山寺からの下りは、登りとは逆に緩やかなスロープを描いていました。足を痛めている私にはとてもやさしい下り坂でした。弥山寺を何度も振り返りながら、周りの自然を楽しみながら下りました。しばらく下っていると、車が行きかう賑やかな通りに出ました。しばらく西に向かって歩くと、尾の上地蔵尊が安置されている緩い峠に着きました。このまま南に向かうとに街並み資料館や白壁の街に行きます。
尾の上地蔵尊 草木が繁茂の地蔵3と祠
尾の上地蔵尊は付近の方々に大事にされているようです。綺麗な花が活けてありました。また、隅々まで綺麗に掃除されていました。すぐそばの石柱に、安置された年が元文五年(1740年) と刻まれていました。尾の上村の時代に安置されたようです。この場所は、馬皿や日積と柳井街を結ぶ街道の一つだったのでしよう。その昔、この峠を越えると柳井街はすぐそこだったのです。
続いて、地蔵3と祠に行こうとしました。しかし、草木が繁茂しすぎてとても行くことができませんでした。残念ながら、崖の上からでしか地蔵3と祠を見ることができませんでした。
柳井市柳北地区の史跡散策コース
仕事が忙しかったり天候が悪かったりしたため、ハーベストのベルト交換作業が遅れていました。ようやくベルトを交換する時間を取れました。耕運機のベルト交換は何度も経験済みですが、ハーベスタは初めてです。一番困ったのは、長いベルトを交換する時にベルトを緩める箇所が分からなかったことです。二ヶ箇所も緩める箇所があるとは思いませんでした。
そんなこんなでベルトを交換後、最初に脱穀したのは砂糖モロコシです。砂糖モロコシの穂は箒にすることができます。ところがハーベスタの力が強すぎたのか穂がかなりちぎれてしまいました。これでは箒にできるかどうか分かりません。その後、残していた麦を脱穀しましたが、これまた穂先がちぎれて無くなりました。回転数を調整する必要があります。小麦の脱穀をする初夏までに最適回転数に調節しようと思います。
試しに砂糖モロコシの穂を脱穀するも、残念!
緩める二ヶ箇所を除けば、比較的スムーズにベルト交換できました。ベルト交換後、エンジンを回しながらプーリーに油を差しました。ところで、10年以上前に東京で使っていたハーベスタは旧式でとても古いものでした。修理しながらだましだまし使っていました。今考えれば骨董の部類に入る農業機械でした。今のハーベスタは左右のキャタピラで前後左右移動します。しかし、私が使っていた旧式ハーベスタは左右のキャタピラは前後しか動きませんでした。前輪を左右に振って動く方向を決めていました。私が何度も修理したこともあり、思い出のあるハーベスタでした。
回しながら油を差す 箒でゴミを掃除 ベルトのテンション調整
ところで、このハーベスタはディーゼルエンジンで動きます。寒い時は始動がめんどうです。エンジン内に少量のガソリンを溜めて、寒い時にガソリンを少し吸入口に入れるようです。しかし、どこにガソリンを溜めるのか場所が分かりません。これから暖かい季節になるので始動困難になることはないと思います。来冬までにその場所を探しておこうと思います。今のところ、暖かい日は機嫌よく始動するディーゼルエンジンです。
保護カバーを取り付け終わる 残念なサトウモロコシの穂
田布施農工高校に、一つ目は羊に会うために、二つ目は古い足踏み紡ぎ機の動作確認のため行きました。最初羊に会いました。前回行った時は遠目に羊の「ろくちゃん」を見ました。今回は「ろくちゃん」に加えて、雌の「シルク」、そして去年「シルク」からむ生まれた「茶々丸」に会いました。茶々丸は、なぜか首回りだけ毛が刈られていました。まだ子供で好奇心が強いのでしょう、すぐに寄ってきてすりすりしました。今年は大人の羊が二頭に子供が一頭でした。例年より頭数が少ないようです。飼う頭数はどのようにして決まるのでしょう。なお、今年は羊の子供が生まれないようでした。
牧舎に着くと、元気よく外に出てきた子羊の茶々丸
羊に会うと、次にホルスタイン種とジャージー種の牛に会いました。生まれたばかりの子牛も二頭いました。人もそうですが、牛の子供も好奇心が強くてかわいいですね。一方、今年は鳥インフルエンザのため鶏を飼わないそうです。先生から聞いたのですが、例年1年生はヒヨコの世話をするそうです。そして、名前を付けるなど飼育して可愛がるそうです。しかし、その世話したヒヨコが大人になるとさばいて食べるとのこと。さすがに泣いてしまう生徒がいるそうです。命の教育なんでしょうね。
私が子供の頃は近くに肉屋さんが無かったため、肉用の鶏を何羽も飼っていました。当然のことながらさばいて食べていました。私もそれを手伝いました。20年位前、私は一羽さばく経過を子供達に見せました。最初は気味悪がっていました。
すりすりする子羊の茶々丸 好奇心いっぱいの黒牛
続いて、古い足踏み糸紡ぎ機の具合を確認しました。職員室に入ると、その紡ぎ機がすでに準備してありました。ありがとうございました。その紡ぎ機に「大島町」のシールか貼ってありました。田布施農工高校の大島分校時代の物かも知れません。やや古いタイプでしたが、とても頑丈に出来ていました。
この紡ぎ機を点検しました。すると、足踏み板と車輪を連結する箇所が傷んでいました。また、糸巻きの回転を制御する糸が硬くなっていました。いずれも交換する必要があります。とりあえず、応急処置して動作させてみました。すると、ちゃんと糸を紡ぐことができました。この春に三頭(ろくちゃん,シルク,茶々丸)から刈った毛を、洗浄・カーディングした後、この紡ぎ機で紡ぐことができそうです。
足踏み板と車輪の連結部 糸巻き回転制御糸 毛糸を紡げることを確認
先日、馬皿地区の史跡を散策してみましたが、今回は柳井駅前から馬皿地区までの史跡を散策してみました。これまで何度も伊陸や日積方面に行きましたが、必ず柳北を経由して車で行きました。しかし、歩いたことは一度もありませんでした。実際に歩いてみると、柳井市街を見渡せる神社境内、閉じてお参りできない祠、そしてかわいいお地蔵様などがたくさんありました。いつか、皆さんをお連れしようと思います。柳北地区の公的駐車場をよく知らないため、柳井駅から歩いてみることにしました。
柳井市街を見渡すことができる弥山寺/弥山権現
柳井駅を出発するとひたすら北に向かいました。緑橋を渡り白壁の街を通り抜けると、街並み資料館前に出ました。そして、近くに置かれたマロニエの木陰の歌碑、柳井市役所跡地の碑を見学しました。続いて、少し離れた場所に安置されたお地蔵様1(火伏地蔵尊)に行きました。そのお地蔵様1から金剛寺に向かう細い道を、小さな川沿いに上流に向けて歩きました。しばらく歩いて、小さな墓所前に安置されたお地蔵様2に着きました。初めて見るお地蔵様2です。
街並み資料館 お地蔵様1 お地蔵様2
お地蔵様2付近から大きく左に曲がりました。金剛寺には行きません。そして、丘に向かって登りました。少し丘に登ると正福寺の山門が見えてきました。今回は大まかな散策が目的のため境内には入りませんでした。その正福寺から丘伝いに歩くと、山上に向かう少し荒れた小道がありました。その急な上り坂をしばらく登りました。登っては時々振り返ると、柳井市街が眼下に見えるようになりました。フーフー言いながら登っていると石の鳥居が見えてきました。その石鳥居には弥山権現と刻まれていました。
正福寺の山門と鐘撞堂 弥山権現の石鳥居
弥山権現と刻まれた石鳥居を過ぎると、ようやく山頂に着きました。鳥居があったので神社があるのかと思っていたら弥山寺がありました。神仏混合の神域ではないかと思います。少し離れたところに立派な鐘撞堂がありました。急坂を登ったため汗が噴き出しました。そのため、ここで水分補給して眼下の景色を見ながらしばらく休憩しました。平日のためか誰もいない静かな山頂でした。
柳井市柳北地区の史跡散策コース
忙しさにかまけて畑の草取りを忘れていました。気が付くと、タマネギ畑と長ネギ畑が雑草に占領されていました。雑草の間にタマネギの葉が突き出ています。これ以上雑草をのさばらせるわけにはいきません。まず始めにタマネギ間の雑草(主にハコベ)を取りました。雑草を取っていると、地面に敷いた黒マルチが姿を現してきました。本来ならば2月に除草しておくべきでした。ギリギリセーフのタマネギ除草でした。ちなみに、種まきして育苗して植え付けたタマネギです。
タマネギ間の除草を済ませると、黒マルチ脇を耕運機で除草
今年のタマネギ作りは元肥をたっぷり与えているため、追肥しなくてもぐんぐん育っています。元肥があるからか雑草も元気に茂っていました。これ以上雑草が育つとタマネギの成長が妨げられます。ちなみに、別の畑で育てている早生のタマネギは、根が大きくなり始めました。4月上旬には収穫できそうです。
雑草に埋まるタマネギ タマネギ間の草取り 雑草を取り終える
タマネギ間の雑草は引き抜くだけなのですが、黒マルチ脇の除草は面倒です。まず初めに黒マルチの裾をめくります。そして、元に戻らないように裾を止めておきます。そして、黒マルチ脇すれすれに耕運機のロータリーで除草します。数個のタマネギの葉がロータリーに絡みついて切られてしまいました。
黒マルチの裾を平クワでめくる 裾ギリギリを耕運機で除草
タマネギの除草が終わると、長ネギの除草をしました。タマネぎほど雑草が繁茂していなかったため比較的早く終わりました。除草ついでに大きめに育った長ネギを数株収穫しました。そろそろ3月も下旬にさしかかりました。藍の種まきに入ろうと思います。
雑草に埋まる長ネギ 長ネギの除草 除草後の長ネギ
私が子供の頃、家の北側ににシダレヤナギが一本生えていました。じめじめした場所でしたが、土地が合っていたのかけっこうな大木でした。シダレヤナギは、枝が上から下の方にたくさん垂れていました。そのため、夜などはその枝がゆらゆら揺れて怖かったことを覚えています。そのシダレヤナギが何故か懐かしくなり、苗を二本購入しました。そして、乾いた場所ではなく少し湿り気のある場所に植えることにしました。育って大きくなれば、その枝を使って籠を作ることができるかも知れません。
湿った場所(元田んぼ)に植え付けたシダレヤナギの苗
ところで、我家に四日間だけですが軽自動車タントがやってきました。我家の車が二年ぶりの車検となり、台車としてやって来たタントです。私が以前乗っていた軽自動車はジムニーでした。悪路走破抜群の車でしたが、乗り心地は良くありませんでした。ハンドルもパワーステアリングでないため重かったです。
このタントに乗って驚いたことがあります。キー穴がないのです。キーを持ってタントに近づくだけで良いのです。キーはずっとポケットに入れておくとのこと。そして、背が高いこと、運転席と助手席がウォークスルーなのです。今や当たり前なのでしょうが驚きました。我家の車は18年目です。この18年間に車の技術は進歩したのですね。20年目の2年後に、古くなった我家の車を買い替えしようかと思います。
我家にやって来たタント ヤナギを植える場所 植える穴を掘る
さて、シダレヤナギを植える場所を決めると、草刈機で雑草を取り除きました。そして、スコップで植える穴を掘りました。掘り終わると、苗のポットを外して根を穴に置きました。続いて、その上に土を被せて軽く足でトントンと押し固めました。二つの苗を二ヶ所に植えました。今年は根付いてくれればよく、来年からぐんぐん伸びて欲しいと思います。私が子供の頃にあった、大木のように育つでしょうか。それまで私は元気でいることができるでしょうか。
届いたシダレヤナギの苗 植穴に根を置いて土を被覆
石井ダムパークで少しばかり休息を取った後、公園内を少しばかり散策しました。すると、水が流れ込んでいるにも関わらず、動かず壊れた水車がありました。この水車は石井ダムが完成した時には動いていたに違いありません。9年前にこのダムを訪れた時にはもしかして動いていたかも知れません。水車の次に丸く浅い池を訪れました。池には無数のオタマジャクシが泳いでいました。公園内を散策し終わると石井ダムから馬皿に向けて道を下りました。なお、公園の北にある丘のような山に神社などがあるようですが、今回は時間がないため訪れませんでした。
上馬皿バス停留所すぐそばの本尊十一面観世音菩薩と小さなお地蔵様
石井ダムからしばらく歩いていると、柳北小学校跡地がありました。昭和39年に今の場所に移動したとのこと。校舎があったことを思わせるものは何もなく、石垣や広場だけが残っていました。馬皿地区から人がいなくなり、今の場所の方が子供が登校しやすいのでしょう。ちなみに、私の母親は二十歳の頃に柳北小で教諭をしていました。昭和20当時年頃に大雨で柳井川が氾濫したそうで、腰まで浸かり大切な写真や衣服を流されたそうです。
石井ダムの堰堤 壊れて動かない水車 柳北小の跡地
柳北小学校跡地を出ると、上馬皿バス停留所に向かいました。ここには本尊十一面観世音菩薩と小さなお地蔵様があります。少し前まで、ここは伊陸方面と日積方面へバスが通っていました。今は伊陸方面へのバスだけが通っています。バスの時刻表を見ると1本/1時間バスが通っています。
山から下ろした美人地蔵 美人地蔵を大切に管理
上馬皿バス停留所が少しばかり登った場所に美人地蔵があります。江戸時代に馬から落ちたお常という美人を弔うお地蔵様だそうです。美人地蔵を管理している方から、こんなお話をお聞きしました。菓子之季の工場にある琴名水地蔵が安置される前、この美人地蔵を菓子之季に安置する話があったそうです。そこで、周防大島にある有名な祈祷所に行って美人地蔵の意向を聞いたそうです。すると、この美人地蔵が移りなくないとのお告げがあったそうです。そのため、今の場所にずっと安置され続けているそうです。このお地蔵様に限らず、お告げの話は聞いたことがあります。祈祷を信じた時代があったのですね。美人地蔵を見学し終わると、ひたすらスタート地点まで戻りました。※スタート地点に戻ると、とんでもない試練が待ち受けていました。車がピクリとも動かないのです。いやあ、まいりました。・・・・私への戒めと考えることにしました。
史跡散策をした柳井市馬皿周辺ルート
使い込まれた古い蓄音機が郷土館に持ち込まれました。あちこちがガタついています。まずは一つずつ動作具合をチェックしました。まずは、レコードを載せる円盤(ターンテーブル)がどこかで擦れるようでギシギシと音がでます。音の周期から円盤が偏心しているのに違いありません。次に、音を拾うピックアップを引き出すとレコードに接触しまいます。そして、回転するレコードが次第に止まってしまいます。ピックアップの根元がぐらぐらしてすることが原因です。ちなみに、ゼンマイを巻き取るレバーは正常に回せます。そして、ピックアップを軽く持ち上げると音が出ます。続いて、蓄音機を分解してみることにしました。
根元がぐらぐらするピックアップ、回転するレコードに接触
分解するためには、あちこちのネギを取らなければなりません。そのネジの規格がバラバラでした。何度か修理したようですが、その都度手持ちのネジを使ったようです。困ったのは、昔のネジはほとんどすべてマイナスネジです。今のようにプラスネジではないため、ネジが回しずらいこと。それでも何とか蓄音機を分解することができました。
角が擦れた蓄音機 ピックアップ用鉄針箱 ゼンマイを巻き締め
分解して一番驚いたのは、ピックアップの音を拡声する装置がコールタールのようなものが塗られていたことです。そして、拡声装置のラッパ部に大穴が開いてしかもつぶれていたことです。このような穴が開いていると音が抜けてしまいます。そして、レコードから拾った音が拡声できなくなります。これは何かでふさぐしかありません。また、機械部は調速器の動きが滑らかではありませんでした。摩耗が見られました。最低限油を差すなどの処置が必要です。ちなみに調速器の役割は回転速度を一定に保つ働きがあります。
大穴が開き、つぶれた拡声部 動きがなめらかでない調速器
黒杭川ダムからどんどん下ると、最初伊陸方面に分かれる道に当たりました。今回は、柳井方面に行く道をさらに下りました。少し下ると、今度は柳井街方面と日積方面に分かれる道に着きました。石井ダム方面に行くため、日積方面へ分かれる道を選びました。その道をしばらく歩く、お菓子を作る菓子之季の工場が見えてきました。その工場に着くと、休憩も兼ねて琴名水が出る蛇口に向かいました。そして、たくさん並ぶ蛇口の中央に安置された琴名水地蔵に行きました。
久しぶりに来た石井ダム、やや低くかった湖水面
お菓子工場を出ると法専寺に向かいました。今回は場所を確認するための調査ですので、お寺を訪れませんでした。続いて、緩い登り坂をしばらく歩いて石井ダムに向かいました。今回通った道は歩道がなく危険なため、下見や本番では歩かない方が良さそうです。緩い上り坂を汗ばみながら歩いていると、9年ぶりに訪れた石井ダムに着きました。石井ダムの入口には親水公園と書かれていました。ダム全体が公園となっているようでした。
琴名水と琴名水地蔵 法専寺の場所確認 重力ダムの石井ダム
ところで、黒杭川ダムがコンクリートダムなのに対して、石井ダムはロックフィルダム(重力ダム)です。石や土などの圧力で水を堰き止めています。ダムの堰堤にはいろいろな碑が並んでいます。例えば当時の県知事碑や柳井いろはかるたです。柳井いろはかるたを見ていると、柳井市ではないのに上関大橋の文がありました。石井ダムに着いた頃、お昼時になりました。そのため、堰堤に置かれた長椅子に座って昼食休憩をとりました。
下流側の石井ダムパーク 三匹の木彫りカエル達
昼食を終えると、柳井いろはかるた44枚すべてを見ました。色が付いた焼物なので色あせていませんでした。絵を見ても、文を読んでも楽しめる柳井いろはかるたです。続いて、ダムの中心部から階段を伝って下流に降りました。降りたところは石井ダムパークになっていました。芝生の上に木彫りのカエル三匹がいました。昼食休憩を取ったばかりですが、ここでしばらく休憩をしました。
史跡散策をした柳井市馬皿周辺ルート
我家の畑ではたくさんの里芋が、野良化しています。収穫しなかった里芋がそのまま越冬して次の時に育ちます。最近は冬の寒さが厳しくないので越冬するのでしょう。そのため、どんな品種の里芋があるのか分からなくなりました。少なくとも4品種は混在していると思います。そのため、今年は園芸店で白芽大吉と書かれた品種の里芋を購入しました。白芽大吉とは品種名ではなく商品名かも知れません。
購入した種里芋を1m間隔で植え付け
植え付ける前、いつものように耕運機で丁寧に耕しました。葉が育てばどんどん土寄せするため、畝上げはしませんでした。巻尺を張ると、1m間隔に印を付けました。そして、購入してきた種里芋を植え付けました。昔の品種の里芋は、多少なりともえぐみがありました。皮を剥くと指先がかゆくなりました。最近は品種改良されたのでしょう。えぐみがまったくありません。
植え付け前に丁寧に耕運 1m間隔で種里芋を植え付け
これまで史跡巡りした柳井市の史跡は、余田,新庄,大畠,伊保庄,そして柳井市街ばかりでした。今回は、これまで行ったことがなかった馬皿方面の史跡を散策してみました。今後は、今回散策する馬皿以外に、柳北,日積などを散策しようと思います。さて、今回散策した地域は、柳北小学校,黒杭川ダム,そして石井ダムに挟まれた馬皿地域です。柳北小学校近くにあるコンビニで食料を購入してから歩き始めました。落合橋で柳井川と別れ、黒杭川の上流に向かって歩きました。最初に向かった史跡は黒杭川に沿う山裾にある龍岩神社です。龍岩神社は石段の参道がとても長い神社です。伊勢の猿田彦神社から勧請した神社です。
伊勢の猿田彦神社から勧請した龍岩神社
猿田彦神社は、3年前に熊野三山(熊野速玉大社,熊野那智大社,そして熊野本宮大社)を訪れた時に参拝しました。龍岩神社の鳥居に延享五年(1749年)と刻まれていました。江戸時代中頃、わざわざ柳北から伊勢に行って勧請してきたのでしょう。ちなみに境内に龍岩と呼ばれる立派な岩が鎮座しています。そして、その岩の前に灯篭が二基並んでいます。黒岩神社へ行くには、石の階段を相当登らなければなりません。しかし、今は車で参拝できるように道が作られています。
長い登りの石段 龍岩神社の拝殿 岩政次郎右衛門の水路跡
龍岩神社を参拝し終わると、黒杭川ダムに向かいました。途中、江戸時代後期に黒杭川から新庄にむけて岩政次郎右衛門が掘削した水路跡がありました。明治以降も改修されながら使われたようです。今、水路跡には落葉が溜まっており廃棄されていることが分かります。今のような工事機械が無い江戸時代、何キロもある水路を作るのは難工事だったと思います。
黒杭川を堰き止めた黒杭川ダム 黒杭川古道近くのお地蔵様1
水路跡を見終わると、黒杭川ダムを渡りました。ダム中心部から下を見下ろすと、腰が引けるような高さです。黒杭川ダムを渡り終えると、県道をまたいで古道側に行きました。すると、民家が一軒ありかわいい老猫が顔を出しました。老猫の年齢は10歳以上とのこと。古道を下っていると、道が県道の歩道になりました。その歩道を歩いているとお地蔵様1が安置されていました。黒杭川ダムが完成する前から、道を見守ってきたお地蔵様です。
史跡散策をした柳井市馬皿周辺ルート