すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

言葉の敗北を

2008年06月25日 | 読書
 『友だち地獄』をめくり直してみる。

 この本に書かれてある現象や分析を読むにつれ、次の一節の重さがずしんと響く。

 言葉によって作り上げられた思想や信条が、時間をこえて安定的に持続しうるのに対して、自らの生理的な感覚や内発的な衝動は、いまこの一瞬にしか成立しえず、まったく刹那的なものである。

 それゆえ、感覚的なフレーズ、刹那的な言葉ですべてを済まそうという傾向は強まってくる。
 言葉を選ぼうとせず、対象を探ろうとせず、自分の心の状態のみを表現しうるような、手近な言葉が使われる。自分の語彙を広げるのではなく、きわめて単純な言葉、または商業ベースの匂いがぷんぷんする言葉によって語ろうとしている。

 言葉の敗北

 気取って名づけてみればそういうことか。
 言葉そのものは道具であり、勝敗の対象とするものではないが、「伝えあうこと、思索すること」という言葉の働きが弱まり、縮んでいくような姿は、まさしく敗れたイメージに見える。

 私たちの重要な仕事は、言葉を教えることだ。
 言葉は、実体の伴うものであり、連続しているものであり、分けたり集めたりして違うことを見つけたりできるものだということを、ことさら強調していく必要を感じる。
 言葉に向き合うことは、対象に向き合うこと、自分に向き合うことだろう。

 自分のなかの「感じ」だけを取り出して表出するような子どもを育ててはならない。