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桜と絵本と豆乳と

妄想の喜びをどう読むか

2021年11月12日 | 絵本
 11月はもう読み聞かせの予定がないのだが、来月はかなり回数をこなしていく計画である。ヨシタケシンスケをひとつ入れたいという思いがあり、今夏発刊されたこの本を手に取った。『わたしの わごむは わたさない』『なつみは なんにでも なれる』と同系統であることが、題名だけでも想像がつく楽しい一冊だ。


『あきらが あけて あげるから 』
 (ヨシタケシンスケ PHP研究所) 





 まだ、様々なモノ(缶や袋、蓋のあるものなど)を上手に開けられない幼稚園児(たぶん)。はやく開けられるようになりたいと思う気持ちを拡げながら、自分が大きくなって色々なもの、奇想天外なものまで開けられる「なんでもあけるやさん」になりたいと妄想を展開する。いわば、御馴染みのヨシタケワールド。


 こうした形で話が進み、オチがつくパターンも前2冊同様だが、今回は特にそれまでの過程がしみじみとしていいなあ。父親の心情がとてもよく迫ってくる(笑)。子どもの成長を願いつつ、自分の役割が減っていくこと。それまでの間に子どもと共に歩んでいきたいことなど。パカッと「あく」姿のエンディングもいい。


 さて、ヨシタケ作品をどう読むか。出会いの『りんごかもしれない』から読み始め8年、あまり意識したことがなかった。親子の会話はそれなりの役割の雰囲気を出すことだろう。子どもの独白は幼児じみた声にする必要はないか。ただ、妄想していく楽しさ、嬉しさなどを声にのせる表現、つまり張りが求められる。