すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「身の程」を他者が語るな

2024年01月09日 | 雑記帳
 TVで流された北九州の成人式の様子を観ていたら、派手な衣装を扱う店の女主人が「日本ではあまり評価されないけれど…」と語っていた。ファッションショーとして成立する外国での様子も映っていた。無礼な振る舞いは、恥ずべき行為と考えるが、着飾るだけならそれも自己主張?だろうし、可愛く思えたりする。




 ふと浮かんだのが、「身の程」「程々」という語だった。そして『夜明け前(が一番暗い)』(内田樹)で読んだ一節とつながった。いつから、そうした派手な格好に身を包む様式が流行ったのかはわからない。しかし、いずれ高度成長期以降ではないか。それ以前であれば、地域差はあるにせよ、経済的に困難だったろう。

P140 高度成長期の日本というのは、国民全員が「分際を踏み越えて」「身の程をわきまえず」に、法外な野心と欲望に衝き動かされた時期だった。

 内田氏の年代また地方出身であれば60代半ばまでは、子どもの頃に「分際をわきまえろ」「身の程を知れ」といった意味のことを親や大人から教えられているはずだ。それはいつの間にかあまり口にされなくなったし、一億総中流という語が示すような意識に染まっていった。今世紀初めあたりまで続いたように思う。


 20年近く前、某ハウスメーカーが「程々の家」という広告を出した時、少し違和感を覚えた。中味はともかく、他人から「程々」と形容されることに長い間慣れていなかったからかもしれない。そして最近、知らず知らずのうちに意識が昔に戻っているような…「身の程をわきまえろ」と言いそうになる自分を感じる。

P141 「自分に割り当てられた場所から出るな」という風潮が復活したというのは、また日本が貧乏になったということだなとすぐに得心した。


 先日書いた「夢」の管理に大人が精を出しているのは、やはり体制維持のためではないか。今、教育界のトレンドは「個別最適化」という語のようだ。確かに望ましい方向なのかもしれない。しかしそれは「身の程」の圧し付けにつながらないか。地域や国のましな将来をつくろうとしたら、貧乏慣れしてはいけない。