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思い出せない陶磁器

2007年08月28日 | 読書
 「R50」のような話題だなと思いつつ…

 『言葉ある風景』(小椋佳 祥伝社黄金文庫)を読んでいたら、えっと思う一行があった。

僕の歌に『白い一日』というのがあります。「真っ白な陶磁器を~♪」と始まる歌なのですが、じつはこれ誤りです。
 
 『白い一日』は思い出深い曲である。
 作曲井上陽水、作詞小椋佳という組み合わせは斬新だったし、最初は陽水のアルバムに入っていたものだ。メロディラインのきれいさとともに、その題名に象徴される虚無感や焦燥感が強く出ていた、自分にとっての愛唱歌であった。

 それを今さら「これ誤り」と言われたらおいおいであるが、実はこういうことである。

その後「眺めては飽きもせず」という歌詞が続き、ある物を見ている状況を描写しているわけですが、その場合真っ白な陶磁器というのは存在しません。あるのは「真っ白な陶器」か「真っ白な磁器」のどちらかなんです。
 
 なるほど。
 「陶磁器」という言葉は総称であるし、言われてみればもっともである。
 「誤りと承知の上で意識して使った」と書いてあるので、おそらく曲が最初に出来て詞をのせるためにそうなったか、または言葉の意味の広さや語感そのものを生かすという意図か、どちらかなのだと思う。

 「真っ白な陶磁器を~♪」と歌った時、聴いた時、心にどのような風景がイメージが広がるかが肝心なわけだが、正確な言葉を使うとすれば、以下のどちらか。

 真っ白な陶器を眺めては飽きもせず、かといって触れもせず~
 真っ白な磁器を眺めては飽きもせず、かといって触れもせず~

 メロディが頭に沁み込んでいる状態では、なんだか間の抜けた言葉のように思えてくるから不思議だ。
 従って曲が最初にありメロディ、リズムにそって選んだといえば、もう納得である。

 では、詞が最初に出来たと仮定して考えてみよう。

 陶磁器という総称を使うことのメリットは、想像の枠が広いということだろうが、危険性も持っている。鮮明なイメージは描きにくい。
 しかしこの場合は真っ白な「色」が意味として強いので、「形」には幅を持たせ各自の想像を引き出すという手法なのだろうか。
 身の丈にあったセトモノの形を思い描く方が、歌が聞き手に寄り添ってくるような気がする。そもそも陶器と磁器の違いをどのくらいの人がわかっているかということもある。十代の時の自分はわからなかった。
 そして何より「トウジキ」という言葉の持つ響きの良さもポイントに違いない。

 さて、その時どんな白い陶磁器を想像していたのか、今となっては思い出す術もない。
 もしかしたらそんなことを考えもせずに、言葉面と音符だけをなぞっていたのが関の山かもしれない。
 それにしても、「踏み切りの向こうの君」はいたはずだし、歌詞にあるような一日を幾百日も過ごしてきたのは確かだ。どんな形か、どこかの隅っこに残っていないものか…。

 何十年も過ぎた今、
 真っ白な陶磁器の形を思い出せないまま、
 「ああ、やっぱり器は備前だよなあ」などほざきながら、
 今日も一日が暮れてゆく、か。


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