すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

希望への要約力

2008年07月08日 | 雑記帳
 「がん看護専門看護師」という名称が番組上のものかどうか定かではないが、明らかにその人の仕事の内容を伝えている。
 つまり、死を待つ人々の看護。
 ホスピスを扱った本なども少し読んだことがあるし、ある程度の想像はできていたが、今回の映像はみせるものがあったと思う。

 心に響いた場面はいくつもある。
 特に自宅へ帰ることに不安を覚える患者との対話に、その真髄をみた気がする。

 教師が授業を語るときもよく「ひき出す」という言い方をするし、カウンセリングの場合などはそれこそが中心となるのだろう。
 しかし、田村のそれは実に根気よく、しかも周到に行われている。(周到という言い方は失礼なニュアンスなのかもしれないが、聴くことの力を十分に生かしているという意味だ)

 山田ズーニーのこんな文章がある。

 相手の想いを理解する上で重要なものは何か。それは、相手がいちばん言いたいことを汲み取る要約力です。

 ガン患者がいちばん言いたいことは何か。
 生の証しであろう。田村の言葉を借りれば「生ききった」という思いである。
 それはまた「希望」という言葉で番組の中で語られた。どんな患者にも希望がある。

 田村は、希望への要約力を、私に見せつけてくれた。

貴方しか語れないこと

2008年07月05日 | 雑記帳
 作家熊谷達也氏の講演を聴いた。
 最近その著書にはまっていることもあり楽しみにしていたのだが、正直少し期待はずれだった。
 私としては氏の作品の中に描かれる「東北」や「自然環境」についての深い洞察めいた内容の話なのだろうと、勝手に予想していたのだが…
 それは全く外れて、演題は「内と外から見た学校の世界」というものであった。

 氏が教員の経験を持つことは知っていたし、おそらく依頼した方もそのあたりを慮っての決定なのだろう。
 昼下がりのいい時間帯、聴衆の中にはこっくりする者もいたような気もしたが、私自身はその人となりに興味を抱いていたので、きわめて真面目に聴いたつもりだ。
 しかし、講演としての評価は残念ながら低い。

 まずは、千人を越える人数に対する声ではないような気がした。もちろんマイクを通していて聞き取れるし口ごもったりする場面などなかったのだが、聴衆をつかみきれない印象があった。たぶん二、三百人以下なら入りやすい口調なのかもしれない。大画面等も使わない会場設定も悪かったと思う。

 教員経験者が、現役の教員に対していろいろなことを言う機会は確かにある。それはほとんどの場合、他の世界における成功者である。だから多くは学校の世界の非常識な点や理不尽さなどを説くものである。頷けることも多い。しかし、そこで語られるのは実は既に感じている、経験済みのことであったりする。
 だから、その話に力を持たせるには、よほどの工夫が必要になるのではないか…。講演においては「講師」ではなく「演者」であるような意識といったらいいのか…そんなことを考えさせられた。

 もちろん熊谷氏の話の端々に、面白いエピソードは折り込まれていた。中学生を登山に連れていくときの事前踏査の徹底など、著書を書くうえでの調査に通ずるものを感じたりした。
 しかし、だからこそ話の中身は貴方の今を、貴方しか語れないことを聴きたかったなと思ってしまう。

 その日に読み進めていたのは、『山背郷』(集英社文庫)
 解説の池上冬樹はこう書いている。

 おそらく東北の寒村やマタギの世界を書ける作家は熊谷達也しかいないだろう 

オオカミなんか…

2008年07月02日 | 読書
 休日にテレビを見ていたら、あの旭山動物園の話題が取り上げられていた。
 今度の新施設は「オオカミの森」とのこと。
 偶然、その日の朝に読み始めていたのが『漂泊の牙』(熊谷達也著 集英社文庫)だった。
 テレビに映るなんとなく貧相な狼の姿を見ると、いくら「行動展示」と言われてもそれは野生とはよべない行動しか垣間見ることができないのだ、という当然のことを感じてしまった。

 『漂泊の牙』もずいぶんと読み応えがあった。謎の獣によって妻を亡くした主人公が「犯人」を追いつめていくサスペンスの要素が強いストーリーだが、語られるのは動物の世界や歴史的な背景は、私にとって新鮮な知識だった。

 それにしても、私たちが持っている狼のイメージというのは、ずいぶんと固定的だなと改めて感じた。
 それは本文や解説にもあったことだが、たぶん「赤ずきん」や「狼男」などによって語られてきたことが強く影響しているのだと思う。歌では「狼なんかこわくない」(こういう曲名だっけ?確か石野真子)とか、あの中島みゆきの名曲「狼になりたい」などもあるし、いわゆる怖い、強い、そして襲う存在としての象徴的なことばとして受けとめられていると言っていいだろう。

 さて、この話のもう一人の主人公とも言えるテレビ業界のディレクター恭子が、間近に見えたニホンオオカミの姿をビデオカメラにおさめることなく、オオカミに目を向けるというのがラストシーンである。
 恭子はカメラのディスプレイ上の姿を見つめて、こういう。

 「違う、こんなものじゃない、私が見たいのは」

 文明に押し潰されないものへの尊敬のようであり、同時にその文明に毒されている人間への警告のようであり、鮮やかな幕ぎれだなと感じた。

 そう書きながら、狼の姿を現実に見られるのは動物園だけだろうし、周りに「一匹狼」のような人もいなくなったし、などとあれこれ思いが散らばってしまった。