「キャパになれなかったカメラマン」(上・下)平敷安常
大宅壮一ノンフィクション賞、受賞作品。
ベトナム戦争をマスコミ側から書いている。
取材裏話、記者やカメラマン仲間について書いて、結果としてベトナムを描き、戦争を描き、人間を描いている。
上下2巻は、実に読み応えがあった。(読むのに3週間かかった)
いくつか文章を紹介する。
(上巻:P154-155)
首都サイゴンは大都会だ。東京のようにいろいろな地方から人々が集まってきている。北部、中部、南部それぞれ入り交じって生活しているが、お互いにあまり信用していないところがあると聞いた。
南部は北部のがめつさを嫌い、北部は南部の怠けぐせ、遊び好きを軽蔑し、中部は自分たちの男は賢く、ユエを中心にベトナムで一番の美女の産地だと威張る。それぞれ仇名がある。北部はベトナム産のセリ(ラムン=空心菜)が好物なので、「ラムン」と名付けられ、中部は唐辛子(アック)が大好物だから「アック」と呼ばれ、南部では何にでもモヤシ(ヤァー)を入れて食べるから「ヤァー」と呼ばれる。
(中略)
ベトナム人は美食家だ。美味しい物には目がない。
麺類はベトナムの名物だが、地方によってそれぞれ違う。北部は「フォー」という牛肉を炊き込んで作った出し汁に、米から作った麺を食べる。中部は「ブンボー」と呼ぶ豚肉と、牛肉の出し汁に凄く辛い味付けの麺を食べる。中でも古都ユエのブンボーは有名だ。南部は「フウティウ」と呼ぶ肉、魚、海老などたくさんの具を載せた中華風の麺を食べる。皆それぞれ美味しいから、悪口を言いながらもお互いの麺類を味見し合う。
サイゴンの歌手たちは、北でも南でも中部でも、北ベトナムの発音で歌うのだそうだ。ただし、地方の民謡はそれぞれの発音で歌われる。ラジオやテレビ放送のアナウンサーは、北ベトナムのアクセントで喋るのだそうだ。
上巻:P158
北の指導者のホー・チ・ミンが、南の指導者のゴ・ディン・ジェムに訊ねたそうだ。
「なぜ遠いアメリカと仲よくするのだ」
ゴ・ディン・ジェムはこう答えた。
「歴史が証明しているではないか。隣の中国は何度も攻めて来てベトナムを滅ぼし、中国の領土にしようとしたではないか。離れた所にいるアメリカと親しくなるほうが安全だ。中国と仲よくしているとひどい目に遭わされるぞ」
上巻:P160
ベトナムに来ているジャーナリストは三種類に分けられるそうだ。
一、名声と地位を探しに来た者
二、一攫千金を目的に来た者
三、戦争やこの国で起こる出来事に首を突っ込みすぎて抜け出せない者
上巻:P239
「戦場に入り込んで長居するな。取材ができたら素早く原稿を持ち出して、放送に間に合わせよ。我々は兵士ではない。戦場に必要以上にこだわるな。死んだ英雄より、明日も生きられる弱虫のほうがいい」
「負けにこだわりすぎてはいけない。たとえひどい負け方をしても、その負けを一度に取り戻そうとあせってはいけない。チャンスは必ず来る、そのとき負けを返し、大きく勝ち越せばいい。勝負には時の運がある。不運を耐えるのも我々の仕事のうちだ」
上巻:P259(仏教・高僧へのインタビュー)
「もし共産主義者たちがこの国を支配したら、貴方たちの宗教の自由はどうなるのでしょうか」
「共産主義者が権力を握ったら、多分私たちの宗教は弾圧されて、滅びるかもしれない。だが、国が滅びるよりはましである。少なくとも共産主義者も同じベトナム人だから」
上巻:P374
戦場で走るという行動は、慎重に状況判断してからでしか、とってはいけないのだ。従軍しているときに突撃や進軍、退却などの場合は走らないといけないが、ふだんは走らない。慌てて「修羅場」で走れば、味方の兵士にさえ撃たれかねないときもあるのだ。
上巻:P427
アメリカでは、身内の贔屓という繋がりは嫌われる。「ネポティズム(Nepotism)」と呼ばれて嫌がられている。極端に言うとアメリカでは、社長の息子はその同じ会社の社員には、まずなれないのだそうだ。日本では親子二代の社長なんていくらでもいる。アメリカでは逆だ。まして規律が厳しい軍隊ではネポティズムはもっての外だ。
下巻:P262、終戦の日のホーチミン
1973年1月28日。
ついに終戦の日が来た。我々報道陣は、サイゴンの中央郵便局の真向かいにあるカトリック教会の大きな時計に、カメラのフォーカスを合わせていた。この時計の針が八時きっかりを指すと、戦争の終わりを告げる教会の鐘が高らかに鳴るのである。そしてその鐘が鳴るのを合図に、すべてのサイゴンの交通機関、バスや車やモーターバイクが、平和を祝って一斉にクラクションを鳴らすのだ。
下巻:P267
1973年3月29日、最後のアメリカ軍の部隊がベトナムを引き揚げて、アメリカが直接介入するベトナム戦争は終わったことになっている。しかし、ベトナム人にとってそれはつかの間の休戦でしかなかった。
下巻:P290
戦後、ベトナム戦争を経験した多くのアメリカ兵たちにあった、このような精神的な症状は、「ベトナム戦争症候群(Vietnam War Syndrome)」と呼ばれ、医学用語かどうか知らないが、別の呼び方でPTSD=posttraumatic stress disordersの典型的なケースとみなされたようだ。生き残った者が死んだ者たちに申し訳ないと思う気持ち、その罪に近い気持ちを、生存者の罪の意識「SURVIVOR'S GUILD」と言うそうである。
下巻:P336
1985年のある日、私がケネディ空港でVIPの到着を取材しているとき、どこかで見たことがある浅黒い東洋人に声をかかられた。
「ABCのトニィじゃないですか?」
男はプノンペンでニューヨーク・タイムズの助手をしていたディス・プランと名乗った。
(中略)
「あれは『キリング・フィールド』の主人公だ。恐ろしい経験をして、カンボジアからやっと出てきた男だよ」
下巻:P392-393
前線のアメリカ兵士たちの士気は落ち込んでいた。ドラッグに溺れ、戦場で自分たちの上官を「Fragging(暗殺する)」ケースも出てくる。戦争の目的を見失った感じであった。そして撤退プランが実行に移され、第二十五歩兵師団を最初に、アメリカ軍はベトナムから引き揚げを開始する。私にとってそれは明確なしるしだった。アメリカは、所期の目的を一つも達成することができなかった。その間に、政治の腐敗や汚職がこの国を滅ぼす運命をたどる。(中略)
現在の状況とそっくりだと思わないかい?イラク戦争の取材に従事できなくて幸運だと思わないかい?ベトナム戦争で負けたのは、我々報道関係の仲間のせいだと思うかい?
【ネット上の紹介】
1965‐75年、大型TVカメラを肩に戦火の一〇年を駆け抜けた日本人がいた。人呼んで「カミカゼ・トニィ」!TVカメラマンが追ったベトナム報道の全貌。
戦争報道に賭けた青春群像とさまざまな戦後 沢田教一、一ノ瀬泰造、テリー・クー、テッド・コッペル……著者が戦場で競い、ともに働いた仲間たち。友情と懐旧の念を込めて語る、知られざるエピソードの数々
【参考リンク】
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SC/PrizeInform?SHOUCD=009