百醜千拙草

何とかやっています

フロントページの功罪

2008-09-16 | 研究
購読していたNatureが突然、理由もなく雑誌を送って来なくなり、しばらく興味ある論文だけオンラインでかろうじて目を通すという日々が続いています。どういうわけかScienceも送って来なくなったように思います。Natureは何度も文句を言ってもサービスが改善しないし、しょっちゅう号を飛ばすので、もう次は購読を止めようかとも思ったりします。それで、このところ、「ゴシップセクション」と呼んでいる、NatureやScienceのフロントページからしばらくご無沙汰していたのですが、それで、つくづく感じたことが、私の専門外の科学界の知識の多くが、これらのゴシップセクションに多く依存していたということでした。実験のアイデアなども(殆どの場合、実行にまで到達しませんが)、このゴシップセクションでのネタから妄想が膨らんできたものもあります。しばらくゴシップセクションから離れていたためか、このフロントページというのは、実は結構、無害なようで危険なものではないかと、はっとしたのでした。こういう影響力のある科学雑誌のフロントページで、微妙なメッセージが流され、それによって、科学界の流行が決められていっているというのは多分ある程度あたっているでしょう。知り合いと科学ネタの雑談で盛り上がるとき、結構お互いに知識のでどころは同じで、これらの雑誌のゴシップ欄であることを発見して、ちょっと恥ずかしく思ったりすることが、そう言えばありました。ゴシップ欄をフォローしているときは、自分は科学界の中にいるのだという感覚がありました。ここしばらく、ゴシップ欄を読むことがなかったせいか、なんとなく、不安な気持ちを感じるようになりました。ファッションの世界と同じで、科学界にも流行があります。その流行を創り出す所、ちょっと目新しいことをやってみせて、あたかも大発見したかのように、ゴシップセクションを使って、宣伝する「流行の仕掛人」みたいなラボが、最もおいしい思いをします。それにつられて流行にいち早く飛び込むものは、二番目においしいところを取れます。流行のパターンを万人が読めるほど明らかになってくるころには、もうおいしい所は残っていません。NatureやScienceのゴシップセクションというのは、新聞やメディアが関連政党のプロパガンダを微妙に垂れ流しているのと同じように、ステルスに研究者を洗脳していっているのではないのかと、しばらくゴシップ欄から離れていて思いました。以前にも、何度も書きましたが、研究の世界も格差社会で、持てる所はどんどん富み、持たざるところはますます窮するようになってきています。研究の技術がだんだんと規格化されてくることで、研究はますます競争的な側面が強くなりました。とりわけハードコアな分子生物をやっている所は、お互いに疑心暗鬼で仲が悪いのが普通です。システムが淘汰選択されてきて、皆が同じような系を使って、同じ様な研究技術で、同じ様なことを研究しているのですから、そうなるのもうなずけます。そういう世界では、ライバルよりも一歩でも先んずることが大切です。そのためには流行をすばやく察知するだけでは足りません。流行を作る側に回らねば安心できません。NatureやScienceのフロントページというのは、そういう目的にはうってつけです。力のある大きなラボでないと情報操作はできませんから、そんな所は流行を作る側に回れて、ますます力を増大させていきます。であるなら、NatureやScienceのゴシップ欄という所は、持てる所がますます繁栄するためのメッセージが流されていて、持たざる所の研究者が読むと、知らない間に、健康が蝕まれてしまうような類いのものかも知れません。昔の禅寺では、お経を含めて文字に触れる時間は厳しく制限されていました。臨済も教典などを読むと肺を病むといい、古人は書を捨てて街に出よと説きました。科学とは現象の文字化、概念化に他なりませんから、文字を捨てるわけにはいきませんが、NatureやScienceのフロントページを読んで、研究界の動向を把握しておこうとすることは、あるいは流行の作り手にカモにされる最初なのかも知れません。フロントページは娯楽用と割り切って読み飛ばし、くれぐれも乗せられて要らぬ妄想をいだかず、余分な欲を出さず、雨にも負けず、自分の仕事に集中する、そういう研究者に私はなりたい、と思います。
コメント
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