最近、職場の人と飲みにいった人が、同席していた同僚が、その場にいない人の悪口や自分の自慢話をしきりとしたので驚いたという話をしてくれました。なぜ驚いたのかというと、その人は普段は、大変おとなしく無口な人で、職場では殆ど誰ともしゃべらず、一人で黙々と仕事をするような人だったからです。周囲の人と干渉するのを極端に避けていて、いつ来て、いつ帰ったのかもわからないような人なのでした。それなのに、不満をいっぱい溜め込んでいたようで、どうも、一生懸命がんばっているのになかなか成果がでないし、人も認めてくれない、自分はとんでもなく運が悪い人間だと思っているようなのでした。思うに、酒に酔った時だけでなく、普段からそんな話を周囲の人間としゃべって、少しずつでも吐き出していれば、ネガティブな感情はそう蓄積しないで済んだのではないでしょうか。私自身、若かったころ、人に話してもわかってもらえず、わかってもらえないことにフラストレーションがたまり、そして、そのうち話さなくなって一人でストレスをためこんでいたことがありました。ですので、彼が酒に酔って抑制がとれたときに不満が噴き出したのがわからないでもないです。しかし、酒の席でこういう普段予想もつかないようなことを言ってしまうと周囲の人間は却って、彼のことを警戒して余計近寄らなくなり、悪循環が進んでしまうものです。また、悪循環は、物事をありのまま公平に考えることができなくなって、常に悪い面から解釈する癖、いわば、方法的懐疑を方便としてだけではなくそのまま現実の生活に適用してしまうような習慣、ができてしまうと加速していきます。自分の世界から一歩離れて、自分の行動を眺め、反省するなり、一息いれるなりという「間をとる」ことは、この悪循環の輪を絶つために有用であろうと思います。そのためには、友人とたわいのないことをしゃべるというのが実は最も実用的な方法であろうと私は思っています。
それで、彼の「自分は運が悪いのだ」という思い込みで思い出したのですが、以前、飛行機の搭乗手続きの長い列に並んでいて、短そうな列に並び替えたのに結局余計に時間がかかってしまったという「マーフィーの法則」経験を、某研究者の人が、述べているのを読みました。「マーフィーの法則」を未だに覚えている人ってどれぐらいいるのでしょうか。私にとってはフラフープとかLPレコードとか白黒テレビとかと同じぐらい昔のものという感じです。でもマーフィーの法則が随分流行ったのは、たかだか十五年程前のようです。「悪い事がおこる可能性があれば、悪い事がおこる」というのが基本の法則ですが、これを日常茶飯の事柄に当てはめていろいろな面白い例を作るという遊びです。よく知られている例としては、「選択的重力の法則」即ち、「パンを落とすと、必ずバターのついている方が下になって落ちる」というものがあります。これはどうも本来はイギリスの諺のようです。この諺に由来するバター猫のパラドックスという思考実験があります(バター犬ではありません、念のため)。パンはバターのついた面を下にして落ちるという選択的重力の法則、と猫は常に足から着地するという生物学的法則に基づいて、それでは、猫の背中にバターのついたパンをバターを上になるようにくくり付けて落としたらどうなるか、という実験です。バターのついたパンが地面につけば、足から着地するという猫の法則に反しますし、猫が足から着地すれば、バターのついた方が下になって落ちるという選択的重力の法則に反します。この思考実験にはもちろん、複数の解答が考えられます。着地寸前に法則同士のコンフリクトのために、着地できずに高速回転をしつつ安定状態になるとかいうのもなかなか愉快な解答です。マーフィーの法則によれば、悪い事がおこる可能性があれば、悪い事がおこるのですから、このバター猫の場合、落ちている間に、バターのX成分と猫の毛に含まれるY分子が常温核融合反応を引き起こし、巨大な爆発のエネルギーによってバター猫が空中分解してしまうというようなことも起こりうるのではないでしょうか。このようなことを考えていたとき、マーフィーの法則の解釈者による制限性とでもいうべきものに気がついたのでした。マーフィーの法則にある「悪い事」と「善い事」とは、それを解釈する人によって決められます。「善し悪し」は多くの場合、主観的な基準で決まってきます。しかし、人間万事塞翁が馬、禍福はあざなえる縄のごとしで、今日おこった悪い事は、明日になってみれば良い事であるかも知れません。つまり、よいことと悪いことは観察者がその都度、設定しているものであって、だからこそ、常に悪い事がおこり得るのだと思うのです。例えば、朝ご飯を食べているときにバターを塗ったトーストを落としたとします。パンを落とした人は、その時点でトーストが床に落ちるということを予測し、さらにバターのついた面が下になるか上になるかという事象に注意を向けます。しかし、可能性ということを考えると、パンを落とした瞬間に、テロリストの乗ったジャンボジェットが自宅を直撃し、パンが地面につく前に天井の下敷きになって死んでしまうという、パンの面のどちらが下かなどというようなことは問題にならないぐらい悪いことが起きてしまうことが絶対ないとは言えないと思います。私たちは経験的に、テロリストの乗ったジャンボジェットが自宅に突っ込んでくる確率は殆どゼロに近く、パンを落とす確率とは比べものにならない程低いことを知っているので、悪い事がおこる可能性の中から、テロリストの乗ったジャンボジェットを既に除外してしまっているということなのだと思います。ここまで極端でなくとも、パンを落とした瞬間に、落ち行くパンを飼い犬に食べられてしまったとか、バターを塗ってもいないのにパンを落としてしまったとか、バターのついたパンを落として、うっかりその上を裸足で踏みつけてぐりぐりしてしまったとか、もっと悪い事がおこりうる可能性はいっぱいあるわけです。しかし、私たちは経験などから、リアルタイムに起こりうる可能性の高い事象の選択肢を無意識に限定してしまうことによって、よい事と悪い事を判断してしまうようです。つまり、「悪い事」はすでに想定内にあり、「悪い事」が想定されることによって、自動的に「善い事」も設定されるので、起こった事はたいてい「悪い事」になるということなのだと思います。例えば、バターの塗ったパンを落として、バター側が上になって落ちた場合に、「ああ、バターが上になって良かった!」と思うでしょうか?この選択的重力の法則の前例を知らなければ、バター面の上下を問わず、パンを落としたこと自体がすでに「悪い事」であるのは自明です。「同じ食卓を囲んでいる他の人がパンを落とさずに食べているのに、自分だけがパンを落としてしまった、何という不運であろう」と思ったりするのではないでしょうか。つまり、物事の善悪は常に事象が起こった後に、非常に恣意的かつ流動的な観察者の基準によってレトロスペクトに決定されるということが、マーフィーの法則のメカニズムとなっているのではと思ったのでした。
マーフィーの法則のいうように必ず悪い事がおこると思うのなら、自分が悪いと思っていることは、それほど悪い事ではないのだという事実を再確認してみることが、マーフィーの法則から逃れる術です。たまには自分の世界から一歩離れて、自分や世の中のものを主観抜きにありのままにみるようにせよ、ということですね。
それで、彼の「自分は運が悪いのだ」という思い込みで思い出したのですが、以前、飛行機の搭乗手続きの長い列に並んでいて、短そうな列に並び替えたのに結局余計に時間がかかってしまったという「マーフィーの法則」経験を、某研究者の人が、述べているのを読みました。「マーフィーの法則」を未だに覚えている人ってどれぐらいいるのでしょうか。私にとってはフラフープとかLPレコードとか白黒テレビとかと同じぐらい昔のものという感じです。でもマーフィーの法則が随分流行ったのは、たかだか十五年程前のようです。「悪い事がおこる可能性があれば、悪い事がおこる」というのが基本の法則ですが、これを日常茶飯の事柄に当てはめていろいろな面白い例を作るという遊びです。よく知られている例としては、「選択的重力の法則」即ち、「パンを落とすと、必ずバターのついている方が下になって落ちる」というものがあります。これはどうも本来はイギリスの諺のようです。この諺に由来するバター猫のパラドックスという思考実験があります(バター犬ではありません、念のため)。パンはバターのついた面を下にして落ちるという選択的重力の法則、と猫は常に足から着地するという生物学的法則に基づいて、それでは、猫の背中にバターのついたパンをバターを上になるようにくくり付けて落としたらどうなるか、という実験です。バターのついたパンが地面につけば、足から着地するという猫の法則に反しますし、猫が足から着地すれば、バターのついた方が下になって落ちるという選択的重力の法則に反します。この思考実験にはもちろん、複数の解答が考えられます。着地寸前に法則同士のコンフリクトのために、着地できずに高速回転をしつつ安定状態になるとかいうのもなかなか愉快な解答です。マーフィーの法則によれば、悪い事がおこる可能性があれば、悪い事がおこるのですから、このバター猫の場合、落ちている間に、バターのX成分と猫の毛に含まれるY分子が常温核融合反応を引き起こし、巨大な爆発のエネルギーによってバター猫が空中分解してしまうというようなことも起こりうるのではないでしょうか。このようなことを考えていたとき、マーフィーの法則の解釈者による制限性とでもいうべきものに気がついたのでした。マーフィーの法則にある「悪い事」と「善い事」とは、それを解釈する人によって決められます。「善し悪し」は多くの場合、主観的な基準で決まってきます。しかし、人間万事塞翁が馬、禍福はあざなえる縄のごとしで、今日おこった悪い事は、明日になってみれば良い事であるかも知れません。つまり、よいことと悪いことは観察者がその都度、設定しているものであって、だからこそ、常に悪い事がおこり得るのだと思うのです。例えば、朝ご飯を食べているときにバターを塗ったトーストを落としたとします。パンを落とした人は、その時点でトーストが床に落ちるということを予測し、さらにバターのついた面が下になるか上になるかという事象に注意を向けます。しかし、可能性ということを考えると、パンを落とした瞬間に、テロリストの乗ったジャンボジェットが自宅を直撃し、パンが地面につく前に天井の下敷きになって死んでしまうという、パンの面のどちらが下かなどというようなことは問題にならないぐらい悪いことが起きてしまうことが絶対ないとは言えないと思います。私たちは経験的に、テロリストの乗ったジャンボジェットが自宅に突っ込んでくる確率は殆どゼロに近く、パンを落とす確率とは比べものにならない程低いことを知っているので、悪い事がおこる可能性の中から、テロリストの乗ったジャンボジェットを既に除外してしまっているということなのだと思います。ここまで極端でなくとも、パンを落とした瞬間に、落ち行くパンを飼い犬に食べられてしまったとか、バターを塗ってもいないのにパンを落としてしまったとか、バターのついたパンを落として、うっかりその上を裸足で踏みつけてぐりぐりしてしまったとか、もっと悪い事がおこりうる可能性はいっぱいあるわけです。しかし、私たちは経験などから、リアルタイムに起こりうる可能性の高い事象の選択肢を無意識に限定してしまうことによって、よい事と悪い事を判断してしまうようです。つまり、「悪い事」はすでに想定内にあり、「悪い事」が想定されることによって、自動的に「善い事」も設定されるので、起こった事はたいてい「悪い事」になるということなのだと思います。例えば、バターの塗ったパンを落として、バター側が上になって落ちた場合に、「ああ、バターが上になって良かった!」と思うでしょうか?この選択的重力の法則の前例を知らなければ、バター面の上下を問わず、パンを落としたこと自体がすでに「悪い事」であるのは自明です。「同じ食卓を囲んでいる他の人がパンを落とさずに食べているのに、自分だけがパンを落としてしまった、何という不運であろう」と思ったりするのではないでしょうか。つまり、物事の善悪は常に事象が起こった後に、非常に恣意的かつ流動的な観察者の基準によってレトロスペクトに決定されるということが、マーフィーの法則のメカニズムとなっているのではと思ったのでした。
マーフィーの法則のいうように必ず悪い事がおこると思うのなら、自分が悪いと思っていることは、それほど悪い事ではないのだという事実を再確認してみることが、マーフィーの法則から逃れる術です。たまには自分の世界から一歩離れて、自分や世の中のものを主観抜きにありのままにみるようにせよ、ということですね。