年をとってきて、世の中の怖いものというのは随分減ってきました。二十歳までは、試験で落第するとか、女の子にふられるとか、今から思えば、へとも思わないことが人生最大の生死に係る問題であると思っていました。みんな、そうだと思います。「巌頭之感」の藤村操も本当の自殺の原因は女の子にふられたからだという話もあるそうですし。経験したことのない嫌なものに人は必要以上の恐怖感を抱くものなのでしょう。中年ごろまでには、ほとんどの人が、試験に失敗したり、好きな人にふられたり、さまざまな嫌な思いを経験して、大抵の嫌なことは、じっと身をかがめて耐えている間に、時間とともに過ぎ去っていくのだということを学び、心の平和を保つ「こつ」を身につけていくものだと思います。それでも、怖いものは残ります。ちょっと前まで、私にとって怖いものは、研究費が穫れなくなって職を失うことでした。誰だか忘れてしまったのですが、現在は有名作家で、かつて零細出版社を経営していた人が、会社経営について、「不渡りさえ出さなければ会社は潰れない」ということ書いているのを読んだ覚えがあります。それは、その人が苦しい会社経営の中で自らの経験で見切った真実でした。私も、最近、「向上心と努力を忘れず誠実にやれば、研究者をクビになることはない」と確信することがありました。これは経験的なもので根拠を客観的に述べられるような類いのものではないのですが、たぶん、研究のような地道さと誠実さが求められ、かつ金銭的に不利な職業で、長年にわたって職務を全うできる人は実はそんなに多くはないからだろうと私は思います。会社が潰れないことと会社が利益を出すことは別ですし、研究者をクビにならないことと研究者で成功することも、勿論、別ですから、向上心と努力と誠実さを持ち続ければ、研究者で成功するわけではありません。むしろ一時的には努力家でも誠実でもない人の方が成功したりします(しかし、そういう人はクビになる可能性があります)。ところで、私が今一番怖れていることは、実は「うつになる」ことです。人間、誰でも、うつに近い状態を経験したことはあると思います。その耐え難い苦しみは本当に嫌なものです。一般に人は困難を経験することによって、困難に対する耐性を獲得していくものだと思いますが、「うつ」は私は違うと思います。困難に対する耐性は、「困難は時間が経てばやがて去る」という経験に基づくある種のオプティミズムに支えられていると思うのですが、「うつ」はそのオプティムズムの存在を消し去ってしまいます。ウイルス感染に対する免疫機構を直接傷害するエイズウイルスのようなものだと思います。「うつ」はそれを経験することによって、恐怖がより一層、深まる類いの困難ではないかと思います。私は多少なりとも「うつ」傾向があるのを自覚しているので、そういう病状が発症する機会はなるべく減らそうと普段からしています。不用意な時にやってくる急な昇進や成功などは最も危ないものです(これは私は余り心配しなくてもよいようですが)。それで、よいことがあってもすぐ忘れるようにしていますし、多少悪いことがあるとむしろラッキーだと思うようにしています。今では「うつ」にはよい薬がありますから、最近は「うつ」の致死率は減ってはきているとは思いますが、「うつ」が精神と生命を脅かす恐ろしい病気であることにはかわりありません。私は死んでいくことそのものには何の恐怖もないのですが、「うつ」で死ぬのだけは嫌です。それで、研究業を廃業や引退で止めた時に「うつ」にならないために、世の中のためにできるようなことを始めようかなと考え出しています。「人生は修行」であるというのが私の見方でありますが、修行は必ずしも苦しく辛いものである必要はなくて、楽しいワクワクするようなものでもよいと思っています。ラテン系の人は「人生は楽しむためにある」と言い、私も賛成です。しかし、それは修行場というコンテクストの中で楽しむもので、人生は楽しむだけのためにあるのではないことを覚えておかないと、突如、夜遊びの後のような虚しさに捕われ、一気に「うつ」にやられることになりかねません。そういうわけで、今は、毎日おもしろくないことが続く日々を、ぼやきながら楽しく暮らしていますが、もし、誰か、何かワクワクするようなプロジェクトのアイデアを思いついたら、教えて下さい。
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