先週、アメリカ株式市場で、主に技術系の会社を扱っているナスダック社の元会長、MadoffがマネッジするMadoffファンドが実はねずみ講にしか過ぎなかったことが明らかになりました。このファンドでの被害総額は5兆円とのことですから、この手の詐欺では最大規模です。「楽して金を手に入れたい」という人々の欲が大きくしてきたマネーゲームがまるで正当な経済活動であるかのような錯覚をおこし、この手の詐欺の被害を大きくしたのではないでしょうか。投資ファンドという名のねずみ講というわけですが、冷静に見てみると、株式投資とはいうものの、その実は単なる株券の売買にすぎない株式市場のシステムは、そのものが、巨大なねずみ講のようなものではないかとも思います。ねずみ講が成り立つためには、新規参入者の身近に、ねずみ講に参加することによって大変もうかったという実例があることが必要です。「隣の奥さんがねずみ講でお金を預けたらすごく増えた、私もあやかりたい」そういうシステムへのポジティブ インフラックスが継続している限り、ねずみ講は動き続けます。今回、Madoffファンドが何をきっかけに崩壊したのか、よく知りませんが、思うに、近年の金融危機で資金の引き上げが続いたか、すくなくとも、新規に株式で儲けようとする人の参入が減り、ねずみ講のウソを回し続けることができなかったのではないかと思います。詳しい事情はよくわからないので推測ばかりなのですが、この人もおそらく、最初は優良ファンドで顧客とともにWin-Winを目指していたに違いないと思うのです。ヘッジファンドらしいですから、ディリバティブを使ってレバレッジの高い取引で、最初はおそらく本当に驚異的な利益率をあげたのかも知れません。それを見て巨額の資金を預けに来た顧客からの信頼、もとナスダック会長というプライド、そんなこんなで「何が何でも高収益をあげ続けなければならない」というプレッシャーのもとに、ウソを重ねたのではないかと想像するのです。もしそうなら、全く愚かなこととしか言いようがないですが、それでも私は、ライブドアよりはましだと思います。ライブドアの被害総額は多分今回のMadoffの総額に比べたら僅かなものだ思うのですが、ライブドアは、最初からかなり意図的に、「投資家を騙して、その金を私物化する」という目的で作られた詐欺会社のように見えるからです。Madoffの場合、これだけの危険を犯していずれ破綻すると分かっているねずみ講をやったところで、ファンドマネージャーや管理会社が手にするのは、手数料だけです(実際は、たぶんそれ以外にもしっかりくすねていたとは思いますし、詐欺の被害総額からしてもその手数料だけでも相当なものであるとは思いますが)。被害にあった人の金の多くは、最初の方にねずみ講に参加した人達に移動したというだけのことです。それでも、こんな馬鹿なまねをしたのは何故か、興味深いと思います。この人にとって、自分という人間の価値は、金をつくり出す能力としてしか評価できなかったのかも知れません。金は本来、社会活動を円滑にするための道具にしか過ぎないはずで、その道具そのものを得るのが目的となってしまうような人生というのは、テクニックに走って肝腎の生物学的疑問がおろそかになってしまった生物論文のようなものです(わかりにくい例えですみません。でも、本当にそんなどうしようもない論文がいっぱいあるのです)。
しばらく前の内田樹の研究室のエントリーから抜粋します。
「金さえあれば何でも可能であり、金がないと何も成就しない」
それがメディアが過去30年ほど無反省に垂れ流してきたイデオロギーである。
しかし、私の見るところ、実際に起きているのはこのような「金の全能性イデオロギー」に対する耐性の弱い家庭に育った子どもほど学びの意欲を損なわれ、学力を下げているということである。
社会の上層を占めている人々は実際には「金ですべてが買える」と思っていない。むしろ、「金で買えないものの価値」についてつよく意識的な人々が日本では階層上位を形成している。
彼らは人間的信義、血縁地縁共同体、相互扶助、相互支援といったものが質の高い社会生活に必須のものであるということを知っている。
それが直接的には階層上昇のための「ツール」だから必須であるのではない。
それらは端的に「生物として生き延びるため」に必須の資源なのである。
階層上昇や年収の増加というようなことが最優先の課題になるのは、よほど豊かで安全な社会においてだけである。人類史のほとんどはそうではなかったし、今でも地上の過半の地域ではそうではない。そして、私たちの社会もほんとうはそうではない。
まず生き延びること、それが最優先の課題である。
生き延びるために貨幣が必要なことは当然だが、「金さえあれば」すべての問題が消失するほど、人間の世界はシンプルな作りにはなっていない。
、、、、
社会格差の意味を「金の多寡」であるとみなす人々は年収の増大に直接かかわりのない人間的資質の開発には資源を投じない。
彼らが採用した論理そのものがそのことを禁じるからである。
その結果、彼らは社会下層に釘付けにされる。
そのように社会的格差は構造化されている。
「金がないので、私たちは自己実現できず、自分らしい生き方ができずにいる」という説明が有効であるような社会集団内(私たちの社会はもう全体としてそういうものになっている)で育った子どもは「『金がない』という言明によって、あらゆる種類の非活動は説明できる」という「遁辞」の有効性を学ぶ。
つまり、本来、金の本質とは何であるか、そしてその機能と限界を知っているものが、その限界の外に注意を向けることができるので、成功していくことができるということのようです。私も、社会で「一人で生き延びる」ことが、どれほど大変なことか実感したのは、ここ十年ぐらいのことです。しかし、「一人で」生き延びなければならない、金がないと生きていけない、という脅迫観念を取り去ることができると、生き延びるだけならそう難しいことではないとも思います。そもそも人間は「一人で生き延びる」ようにはできていないですし、それに、人は生き延びるためだけに生きているのではないし、まして金のために生きているわけではないからです。
アメリカと違って、日本は経済危機とか言いながらも、多数の一般国民はかなり健全な経済体力を有しているようです。「80%の富は上位20%の裕福層によって保有されている」ということを私は何となく信じていたのですが、これは日本には当てはまらないようです。山根治blogで知ったところによると、日本では、日本の世帯の98%を占める総資産一億円未満の世帯が約8割の日本の富を所有しているということです。この階層を更に細かく区切っていくとあるいは、格差は見えてくるかも知れませんが、少なくとも総資産が一億以上の世帯はたった2%を占めるに過ぎず、いわば大多数の中から中の上ぐらいの国民に富の8割が保有されているということは、経済の安定性という点で大変頼もしいことです。この数字は少なくとも日本の近い将来においては、アメリカに比べて、はるかに楽観性を与えるものだと思います。これまで、さんざんアメリカに日本の株式市場を通じてカモにされてきたのに、国民の経済体力はアメリカ人よりははるかに安定しているということは、意外な驚きでした。
しばらく前の内田樹の研究室のエントリーから抜粋します。
「金さえあれば何でも可能であり、金がないと何も成就しない」
それがメディアが過去30年ほど無反省に垂れ流してきたイデオロギーである。
しかし、私の見るところ、実際に起きているのはこのような「金の全能性イデオロギー」に対する耐性の弱い家庭に育った子どもほど学びの意欲を損なわれ、学力を下げているということである。
社会の上層を占めている人々は実際には「金ですべてが買える」と思っていない。むしろ、「金で買えないものの価値」についてつよく意識的な人々が日本では階層上位を形成している。
彼らは人間的信義、血縁地縁共同体、相互扶助、相互支援といったものが質の高い社会生活に必須のものであるということを知っている。
それが直接的には階層上昇のための「ツール」だから必須であるのではない。
それらは端的に「生物として生き延びるため」に必須の資源なのである。
階層上昇や年収の増加というようなことが最優先の課題になるのは、よほど豊かで安全な社会においてだけである。人類史のほとんどはそうではなかったし、今でも地上の過半の地域ではそうではない。そして、私たちの社会もほんとうはそうではない。
まず生き延びること、それが最優先の課題である。
生き延びるために貨幣が必要なことは当然だが、「金さえあれば」すべての問題が消失するほど、人間の世界はシンプルな作りにはなっていない。
、、、、
社会格差の意味を「金の多寡」であるとみなす人々は年収の増大に直接かかわりのない人間的資質の開発には資源を投じない。
彼らが採用した論理そのものがそのことを禁じるからである。
その結果、彼らは社会下層に釘付けにされる。
そのように社会的格差は構造化されている。
「金がないので、私たちは自己実現できず、自分らしい生き方ができずにいる」という説明が有効であるような社会集団内(私たちの社会はもう全体としてそういうものになっている)で育った子どもは「『金がない』という言明によって、あらゆる種類の非活動は説明できる」という「遁辞」の有効性を学ぶ。
つまり、本来、金の本質とは何であるか、そしてその機能と限界を知っているものが、その限界の外に注意を向けることができるので、成功していくことができるということのようです。私も、社会で「一人で生き延びる」ことが、どれほど大変なことか実感したのは、ここ十年ぐらいのことです。しかし、「一人で」生き延びなければならない、金がないと生きていけない、という脅迫観念を取り去ることができると、生き延びるだけならそう難しいことではないとも思います。そもそも人間は「一人で生き延びる」ようにはできていないですし、それに、人は生き延びるためだけに生きているのではないし、まして金のために生きているわけではないからです。
アメリカと違って、日本は経済危機とか言いながらも、多数の一般国民はかなり健全な経済体力を有しているようです。「80%の富は上位20%の裕福層によって保有されている」ということを私は何となく信じていたのですが、これは日本には当てはまらないようです。山根治blogで知ったところによると、日本では、日本の世帯の98%を占める総資産一億円未満の世帯が約8割の日本の富を所有しているということです。この階層を更に細かく区切っていくとあるいは、格差は見えてくるかも知れませんが、少なくとも総資産が一億以上の世帯はたった2%を占めるに過ぎず、いわば大多数の中から中の上ぐらいの国民に富の8割が保有されているということは、経済の安定性という点で大変頼もしいことです。この数字は少なくとも日本の近い将来においては、アメリカに比べて、はるかに楽観性を与えるものだと思います。これまで、さんざんアメリカに日本の株式市場を通じてカモにされてきたのに、国民の経済体力はアメリカ人よりははるかに安定しているということは、意外な驚きでした。