とある古本屋で、しばらく前、司馬遼太郎の「豊臣家の人々」を買いました。司馬遼太郎の書いたものの面白さというのは驚異的だと思います。何を読んでも面白いし、いつ読んでも面白い。二十歳台のころ、一時は随分、熱心に読みました。それから二十年近く経って、更に三十年以上前の作品を読んでも、なお面白いというのは、私にとっては稀有なことです。大抵、若いときに面白いと思って読んだものを読み返すとつまらないと思うことが多いのです。
村松友視が雑誌の編集者をしていた頃、子母沢寛の「悪猿行状」と司馬遼太郎の「竜馬がゆく(だったと思います)」が編集部での人気を二分していて、子母沢寛にそのことを言った所、「司馬君の作品には表街道を突っ走るような颯爽とした感覚があるから、若い人が司馬君を好むのはよくわかるよ」と言ったというエピソードをどこかで読んだ記憶があります。私が若くなくなってから読んだ司馬遼太郎の作品には颯爽感よりは、背景にみえるスケールの大きさをより感じます。歴史というある種の事実を含んだ題材の中のドラマ性を発見あるいは発明し、それをより大きなコンテクストの中でとらえなおして描いてあること、そしてあの独特の説得力のある文体、分析すればそういうことなのでしょうが、一人の人間がこのように常に高いレベルの作品をかくも数多く世に出したというのは只々、驚嘆するばかりです。司馬遼太郎があるテーマにとりかかると、古本屋街にトラックで買い付けに来て、関連した古書を根こそぎ買っていくという話を聞いたことがあります。その大量の資料を驚異の速読で読み込み、その基礎の上に作品が書かれるので深みがあるのでしょう。
司馬遼太郎が亡くなる数年前に文化勲章を貰ったときに、「褒美を貰ってうれしいが、明日からはまた一書生の気持ちに戻って、仕事に励みたい」というような事を言ったのを、当時、大学院の私は聞いて、深く感動し、「学問の道も同じく、常に一書生の気持ちで謙虚に研鑽しなければならない」と、酒に酔った拍子に、当時の教授にしゃべったのを覚えています。
豊臣秀吉の天下は、まさに「難波のことは夢のまた夢」と自ら要約した通りでした。この本には秀吉の周囲の人間、つまり一代でゼロから興り、そして滅んだ豊臣家に近く係った人々の悲劇が描かれています。殆ど、すべて悲劇です。豊臣家の人々に出てくる人は、正室の寧々意外は、普通の感覚で見ると、秀吉本人も含めて、全員、悲劇的な生涯を送ったといって良いでしょう。最期の章では、家康の策略に全く抗する術をもたない、淀君と秀頼の大阪城での最後が描かれています。この母子はなぜにこのような惨めな死に方をせざるを得なかったのか、何が悪かったのかと考えずにはおれませんでした。秀吉が親バカで甘やかしすぎたせいだと言えば、その通りでしょうが、因果関係をたぐって人生の悲劇の原因を探そうとすること自体が、あるいは間違っているのかも知れません。
ひょっとしたら、私たち一人一人は、世界という芝居の舞台に出演する役者で、与えられた役割を演じているだけで、私たちの自由意志の届く範囲は、人生芝居の脚本の制限の範囲内なのかも知れません。そうならば、秀吉の天下もその周囲の人の不運も全て彼ら自身が創り上げたというよりは、むしろ脚本に書かれた筋に沿って舞台が展開しただけのことであったのだと解釈できなくもありません。秀吉も淀君も秀頼も、その歴史の芝居の役を期待されたように演じたのだ、と私は捉えたいと思います。そう考えれば、彼らの一見虚しい人生にも十分、意味があったのだと思えます。
若いときは、歴史から何か教訓的なものを読み取ろうとしていました。秀吉の成功に必然性はなくとも、その滅亡は必然的なものでした。それを見て、「どうやったら失敗するか」については確かに歴史から学べるように思います。しかし、その逆の、どうやったら「幸せな人生が送れるか」あるいは、単純に「成功の方法」については、歴史はほとんど何も教えてくれないように思うのです。失敗の仕方はそれこそ無数に簡単な方法があります。対して成功するのは難しい。同様に、不幸になるのは色々な方法で簡単にできるのですが、幸せのなり方は各々自分自身で努力して見つけなければなりません。豊臣家の人々の中に幸せな人がいたのだろうか、幸せの中で死んだ人がいたのだろうか、と考えました。幸せは気持ちの問題なので、外から見ただけで想像するより他ないのですが、例えば、秀吉の母でさえ「宮廷暮らしではなく、百姓暮らしをしたい」と言ったように、秀吉の強大なエゴと権力欲は周りの多くの人々を犠牲にしてきたように思います。そして秀吉の天下はあっという間にやってきて、あっという間に去っていった台風のような天下でした。秀吉とその周辺の人から見れば、無意味な天下でしたが、続く徳川幕府の成立と400年のとりあえずの平和がもたらされるためには必要な嵐であったのかも知れません。そういう観点から、淀君と秀頼の死には歴史的な意味があったと思ったのでした。
村松友視が雑誌の編集者をしていた頃、子母沢寛の「悪猿行状」と司馬遼太郎の「竜馬がゆく(だったと思います)」が編集部での人気を二分していて、子母沢寛にそのことを言った所、「司馬君の作品には表街道を突っ走るような颯爽とした感覚があるから、若い人が司馬君を好むのはよくわかるよ」と言ったというエピソードをどこかで読んだ記憶があります。私が若くなくなってから読んだ司馬遼太郎の作品には颯爽感よりは、背景にみえるスケールの大きさをより感じます。歴史というある種の事実を含んだ題材の中のドラマ性を発見あるいは発明し、それをより大きなコンテクストの中でとらえなおして描いてあること、そしてあの独特の説得力のある文体、分析すればそういうことなのでしょうが、一人の人間がこのように常に高いレベルの作品をかくも数多く世に出したというのは只々、驚嘆するばかりです。司馬遼太郎があるテーマにとりかかると、古本屋街にトラックで買い付けに来て、関連した古書を根こそぎ買っていくという話を聞いたことがあります。その大量の資料を驚異の速読で読み込み、その基礎の上に作品が書かれるので深みがあるのでしょう。
司馬遼太郎が亡くなる数年前に文化勲章を貰ったときに、「褒美を貰ってうれしいが、明日からはまた一書生の気持ちに戻って、仕事に励みたい」というような事を言ったのを、当時、大学院の私は聞いて、深く感動し、「学問の道も同じく、常に一書生の気持ちで謙虚に研鑽しなければならない」と、酒に酔った拍子に、当時の教授にしゃべったのを覚えています。
豊臣秀吉の天下は、まさに「難波のことは夢のまた夢」と自ら要約した通りでした。この本には秀吉の周囲の人間、つまり一代でゼロから興り、そして滅んだ豊臣家に近く係った人々の悲劇が描かれています。殆ど、すべて悲劇です。豊臣家の人々に出てくる人は、正室の寧々意外は、普通の感覚で見ると、秀吉本人も含めて、全員、悲劇的な生涯を送ったといって良いでしょう。最期の章では、家康の策略に全く抗する術をもたない、淀君と秀頼の大阪城での最後が描かれています。この母子はなぜにこのような惨めな死に方をせざるを得なかったのか、何が悪かったのかと考えずにはおれませんでした。秀吉が親バカで甘やかしすぎたせいだと言えば、その通りでしょうが、因果関係をたぐって人生の悲劇の原因を探そうとすること自体が、あるいは間違っているのかも知れません。
ひょっとしたら、私たち一人一人は、世界という芝居の舞台に出演する役者で、与えられた役割を演じているだけで、私たちの自由意志の届く範囲は、人生芝居の脚本の制限の範囲内なのかも知れません。そうならば、秀吉の天下もその周囲の人の不運も全て彼ら自身が創り上げたというよりは、むしろ脚本に書かれた筋に沿って舞台が展開しただけのことであったのだと解釈できなくもありません。秀吉も淀君も秀頼も、その歴史の芝居の役を期待されたように演じたのだ、と私は捉えたいと思います。そう考えれば、彼らの一見虚しい人生にも十分、意味があったのだと思えます。
若いときは、歴史から何か教訓的なものを読み取ろうとしていました。秀吉の成功に必然性はなくとも、その滅亡は必然的なものでした。それを見て、「どうやったら失敗するか」については確かに歴史から学べるように思います。しかし、その逆の、どうやったら「幸せな人生が送れるか」あるいは、単純に「成功の方法」については、歴史はほとんど何も教えてくれないように思うのです。失敗の仕方はそれこそ無数に簡単な方法があります。対して成功するのは難しい。同様に、不幸になるのは色々な方法で簡単にできるのですが、幸せのなり方は各々自分自身で努力して見つけなければなりません。豊臣家の人々の中に幸せな人がいたのだろうか、幸せの中で死んだ人がいたのだろうか、と考えました。幸せは気持ちの問題なので、外から見ただけで想像するより他ないのですが、例えば、秀吉の母でさえ「宮廷暮らしではなく、百姓暮らしをしたい」と言ったように、秀吉の強大なエゴと権力欲は周りの多くの人々を犠牲にしてきたように思います。そして秀吉の天下はあっという間にやってきて、あっという間に去っていった台風のような天下でした。秀吉とその周辺の人から見れば、無意味な天下でしたが、続く徳川幕府の成立と400年のとりあえずの平和がもたらされるためには必要な嵐であったのかも知れません。そういう観点から、淀君と秀頼の死には歴史的な意味があったと思ったのでした。