百醜千拙草

何とかやっています

復讐するは我にあり

2009-02-13 | Weblog
相撲部屋のしごきで力士が死亡した事件で、親方の刑事責任を問う裁判が始まりました。親方側は部屋の管理責任を認めましたが、「兄弟子に対する暴行指示を した」という検察側の主張は否定しました。この辺はグレーゾーンで、しごきのどこまでを、従来の相撲界の常識から考えて許される範囲とするか、どこまでを 暴行とするかは、解釈する人によって違うと思うので、弁護側としては当然かと思います。もちろん、事件当時の親方の心の中を推察すると、被害者の態度に腹 を立てていて、教育目的の名のもとに、その腹立ちを晴らそうという気持ちが多少なりともあったことは間違いないと思います。しかし、多分、親方はその感情 にそれほど意識的ではなかったであろうと思うのです。つい腹立ちまぎれにやりすぎた、そんな感じなのだろうと思います。それを検察側が「暴行指示」と解釈 するのはどうかなあ、と思います。
  そもそも、刑事裁判が何のためにあるのか、素人の私が想像するに、2点の目的があって、一つは他の国民に対する「見せしめ」、もう一つは遺族にかわって の「復讐」ではないかと思います。「見せしめ」のためには、罰は重いほど効果があるでしょう。「復讐」に関しては検察側は特に考慮していないと思います が、遺族にとってはこの部分はより重要かと思います。結局、当事者にとって刑事裁判というものはまさにそのためにあると思うのですが、「復讐」というと聞 こえが悪いので、かわりに「正義(justice)」という言葉を使うのです。
  死んでしまった者を生き返らせることはできませんから、実際にこの問題を解決することは不可能です。妥協策として遺族にどう補償をするかという問題へと 変換せざるを得ません。この交渉は民事で行われることになるのでしょうが、遺族の感情の問題というのは難しいですから、補償よりも、刑事裁判でできるだけ 重い罰を受けるのを見て、復讐心を満足させたいと考える人もあるでしょうし、今回のように、暴行への意図の程度を測りにくい場合には、「不幸な事故」と考 えて、刑事罰は最小限にしてもらって、民事での補償問題に集中してもらいたいと思う遺族もいると思います。  
 責任という点で言えば、以前にも述べました(参加者全員が最終結果に責任を) が、今回の事件では、私は親方が9割以上責任があると思います。部屋の管理責任を十分に果たせなかったと弁護側も認めている通り、親方も自分の責任は自覚 しています。ただ、そこに、親方自身でさえおそらくはっきりとは自覚していないであろう「暴行指示の意図」があったかどうかを争点にするのは検察側はやり すぎだろうと私は思います。しかし、裁判というものは、議論を通じてそれなりの妥協点を最終的に見つける作業であると考えれば、最初から、検察や弁護側が 「妥当な主張」をする必要はないのかもしれません。あるいは、刑事裁判というものは、単なる検察側と弁護側の綱引きで、検察側はちょっとでも罰を重く、弁 護側はちょっとでも罰を軽くしようという目的だけを目指して、機械的にやっているだけなのかも知れません。素人の私が見ても、ちょっと通らないだろうと思 う「暴行指示」があったかどうかで争うのは、時間の無駄のように思うのですが、裁判でごちゃごちゃ議論するのが、弁護士の仕事だから、彼らは時間の無駄と はもちろん考えないのでしょう。この辺は、レビューアやエディターとの駆け引きで、なんとか論文を通そうとする研究者も同じような時間の無駄をいっぱいし ていますから、私に批判できるような資格はありません。
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