村上春樹さんのエルサレム賞受賞のスピーチについて、あちこちで議論が盛り上がっています。イスラエルのガザ攻撃を批判したと解釈されているようですが、もちろん、そのような具体的な例を批判したのではなく、政治的、軍事的目的の遂行のために、犠牲にされて来た普通の人間の問題を、「卵と壁」という比喩で訴えたわけです。
正直言って、人間を卵に、体制を壁に喩えるのは、分かりにくいと思います。体制(壁)は人間(卵)が作り上げたものであるという関係性を読み取りにくいからです。村上文学の魅力はその分かりにくさにあるのではないかと思います。(実はあまり、村上作品を読んだことがないので間違っているかも知れません)分かりやすい文体で書いてありますが、その意味するところは明示的ではありません。しかし、よく分からないけれども、何か深い含みがありそうな感じがします。そして、いろいろなように解釈できる。つまり、読者の自由度が高いということなのだと思います。例えば、「人間は卵だ」と言って、その説明を読者に預けてしまう。「人間は卵だ」と言われると、誰でも、そう言われればそうだと納得できるような何かがあるように感じられると思うのですが、では具体的にその何かとは何だと問われると、おそらく、人によって様々な答えがあり得ると思います。村上春樹が多くの読者に受入れられるのは、多分、具体的に口にできないけれど、その存在を誰もが感じ取れるような、あいまいでありながら確実な何か、を指し示す、その感覚の鋭さによるのではないかと思ったりします。
スピーチでは、卵(人間)のvulnerabilityというようなものを、非人間的な壁と対比させました。割れ易い卵と強い壁という対比は分かり易いです。しかし、これでは、卵と壁という対立の成り立ちを説明しません。これらがアプリオリに存在し、対立しているというrigidな構造がすでに前提としてあって、なぜ卵と壁が対立しているのか、壁たる体制は卵たる人間が作ったものであるはずなのに、どうやって卵が壁を作ったのか、その辺のところが、ちょっと腑に落ちません。イスラエルにまで出向いて、世界に向かって、一言いう機会を与えられるという得難い機会があれば、私なら、きっと比喩はなしで誰にでもわかるようにストレートに話すでしょう。それは、単純で誰にでも誤解なくわかることを最上とする科学論文のレトリックをコミュニケーションの原則であると、私が思っているからかも知れません。同じ理由で、村上春樹のスピーチでは、解釈の少なからぬ部分を読者に残すという彼の小説スタイルを踏んで、あえて、比喩を使ったちょっと分かりにくい表現となったのかもしれません。比喩はしばしばダイレクトに語るよりも効果的ですが、しかし、誤解も生みます。最大の誤解は(私が思うに)「村上春樹が、イスラエルでイスラエルの軍事行動を批判した」という解釈でしょう。事実、新聞の見出しにもそういうように書いてあるものもあります。私は、本人は、絶対にそんな意図でスピーチしたのではないと確信があります。
スピーチの中心は、「いくら壁が正しくとも、いくら卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と言った言葉であろうと思います。この喩えを聞いて、なお、イスラエルを批判している、と考える人があるなら、その人は相当思い込みが激しいと言えるでしょう。「いくら卵が間違っていても、自分は常に卵の側に立つ」と言う表現は、社会における小説家の役割を十分に意識した立派な言明であると思います。小説家の目指すことは、畢竟、ヒューマニズムの推進です。それが最終的に小説家が社会と関わり合う上での目標であると私は思います。村上春樹のような、ある意味、私小説的な作品を書く人が、社会に向けて、こういうメッセージを発信したということは、彼自身の小説家としての成熟性をも示しているのだと私は思います。
パレスティナ問題では、ユダヤにとってもイスラムにとってもキリスト教者にとっても聖地である土地の正当な所有者を主張して引かない人々の間の喧嘩ですから、イスラエル、パレスティナのどちらの言い分にも理があります。だから「正しい、間違っている」というレベルの議論は、水掛け論となって決着が着きません。結局、力づくで決着をつけようとするわけですが、軍備で優るイスラエルがガザを攻撃し、そのために大勢の人が死に、それをもって人々はイスラエルを非難しているわけです。私は、そう非難するなら喧嘩両成敗でなければならぬと思います。事実、ハマスもイスラエルを攻撃しているわけですし。人々がプロテストしているのは、この戦争によって、一般市民が巻き添えとなって多数死んだということについてであるのは間違いないと思うのですが、仮にそれがイスラエルの攻撃によるものであっても、短絡的に、だからイスラエルが悪いという結論にしてしまうと、これでは泥沼になってしまうと思います。正しいから殺してもよいと考えるのがおかしいのは誰でもわかるでしょう。でもイスラエルやパレスティナ(に限らずどの戦争もそうです)でやっていることにはまさにこのおかしな理屈が中心にあります。戦争で殺し殺されることは、誰が良いとか悪いとかの問題ではありません。原爆を落として罪もない一般国民を何十万人と殺したアメリカに対して、「アメリカが悪い」と言うことが無意味なことを戦後日本人はよく分かっているはずです。戦争は絶対悪であって、それに参加したり巻き添えになったりした人は、(村上が言うところの)systemの犠牲者である、そういう観点でパレスティナ問題が捉えられるべきであると、村上春樹は言いたかったのだろうと想像します。個人たる人間がまず尊重されなければならない、彼らの人権が踏みにじられるような行為を絶対悪とするという観点で、我々は思考しなければならない、「卵の側に立つ」とはそう言う意味です。
イスラエルもハマスもその周囲で火に油を注ぐ人も野次馬も、一歩下がって、頭を冷やし、ちょっと考えてみて欲しいと思います。聖地と自分の家族の命とどちらが大切ですか?
正直言って、人間を卵に、体制を壁に喩えるのは、分かりにくいと思います。体制(壁)は人間(卵)が作り上げたものであるという関係性を読み取りにくいからです。村上文学の魅力はその分かりにくさにあるのではないかと思います。(実はあまり、村上作品を読んだことがないので間違っているかも知れません)分かりやすい文体で書いてありますが、その意味するところは明示的ではありません。しかし、よく分からないけれども、何か深い含みがありそうな感じがします。そして、いろいろなように解釈できる。つまり、読者の自由度が高いということなのだと思います。例えば、「人間は卵だ」と言って、その説明を読者に預けてしまう。「人間は卵だ」と言われると、誰でも、そう言われればそうだと納得できるような何かがあるように感じられると思うのですが、では具体的にその何かとは何だと問われると、おそらく、人によって様々な答えがあり得ると思います。村上春樹が多くの読者に受入れられるのは、多分、具体的に口にできないけれど、その存在を誰もが感じ取れるような、あいまいでありながら確実な何か、を指し示す、その感覚の鋭さによるのではないかと思ったりします。
スピーチでは、卵(人間)のvulnerabilityというようなものを、非人間的な壁と対比させました。割れ易い卵と強い壁という対比は分かり易いです。しかし、これでは、卵と壁という対立の成り立ちを説明しません。これらがアプリオリに存在し、対立しているというrigidな構造がすでに前提としてあって、なぜ卵と壁が対立しているのか、壁たる体制は卵たる人間が作ったものであるはずなのに、どうやって卵が壁を作ったのか、その辺のところが、ちょっと腑に落ちません。イスラエルにまで出向いて、世界に向かって、一言いう機会を与えられるという得難い機会があれば、私なら、きっと比喩はなしで誰にでもわかるようにストレートに話すでしょう。それは、単純で誰にでも誤解なくわかることを最上とする科学論文のレトリックをコミュニケーションの原則であると、私が思っているからかも知れません。同じ理由で、村上春樹のスピーチでは、解釈の少なからぬ部分を読者に残すという彼の小説スタイルを踏んで、あえて、比喩を使ったちょっと分かりにくい表現となったのかもしれません。比喩はしばしばダイレクトに語るよりも効果的ですが、しかし、誤解も生みます。最大の誤解は(私が思うに)「村上春樹が、イスラエルでイスラエルの軍事行動を批判した」という解釈でしょう。事実、新聞の見出しにもそういうように書いてあるものもあります。私は、本人は、絶対にそんな意図でスピーチしたのではないと確信があります。
スピーチの中心は、「いくら壁が正しくとも、いくら卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と言った言葉であろうと思います。この喩えを聞いて、なお、イスラエルを批判している、と考える人があるなら、その人は相当思い込みが激しいと言えるでしょう。「いくら卵が間違っていても、自分は常に卵の側に立つ」と言う表現は、社会における小説家の役割を十分に意識した立派な言明であると思います。小説家の目指すことは、畢竟、ヒューマニズムの推進です。それが最終的に小説家が社会と関わり合う上での目標であると私は思います。村上春樹のような、ある意味、私小説的な作品を書く人が、社会に向けて、こういうメッセージを発信したということは、彼自身の小説家としての成熟性をも示しているのだと私は思います。
パレスティナ問題では、ユダヤにとってもイスラムにとってもキリスト教者にとっても聖地である土地の正当な所有者を主張して引かない人々の間の喧嘩ですから、イスラエル、パレスティナのどちらの言い分にも理があります。だから「正しい、間違っている」というレベルの議論は、水掛け論となって決着が着きません。結局、力づくで決着をつけようとするわけですが、軍備で優るイスラエルがガザを攻撃し、そのために大勢の人が死に、それをもって人々はイスラエルを非難しているわけです。私は、そう非難するなら喧嘩両成敗でなければならぬと思います。事実、ハマスもイスラエルを攻撃しているわけですし。人々がプロテストしているのは、この戦争によって、一般市民が巻き添えとなって多数死んだということについてであるのは間違いないと思うのですが、仮にそれがイスラエルの攻撃によるものであっても、短絡的に、だからイスラエルが悪いという結論にしてしまうと、これでは泥沼になってしまうと思います。正しいから殺してもよいと考えるのがおかしいのは誰でもわかるでしょう。でもイスラエルやパレスティナ(に限らずどの戦争もそうです)でやっていることにはまさにこのおかしな理屈が中心にあります。戦争で殺し殺されることは、誰が良いとか悪いとかの問題ではありません。原爆を落として罪もない一般国民を何十万人と殺したアメリカに対して、「アメリカが悪い」と言うことが無意味なことを戦後日本人はよく分かっているはずです。戦争は絶対悪であって、それに参加したり巻き添えになったりした人は、(村上が言うところの)systemの犠牲者である、そういう観点でパレスティナ問題が捉えられるべきであると、村上春樹は言いたかったのだろうと想像します。個人たる人間がまず尊重されなければならない、彼らの人権が踏みにじられるような行為を絶対悪とするという観点で、我々は思考しなければならない、「卵の側に立つ」とはそう言う意味です。
イスラエルもハマスもその周囲で火に油を注ぐ人も野次馬も、一歩下がって、頭を冷やし、ちょっと考えてみて欲しいと思います。聖地と自分の家族の命とどちらが大切ですか?