百醜千拙草

何とかやっています

年とってナンボ?

2009-04-10 | Weblog
鳥取大学の研究施設での求人広告の惹き句を見て、ちょっと、一言。

鳥取大学染色体工学センターの発足に伴い、教授あるいは准教授を公募します。遺伝子・再生医療を目指した、あるいは薬物代謝に関するトランスレーショナルリサーチを推進してくださる方。どんなに若くても、実績があれば教授にします。 (太字は筆者)

 普通は、実績があるなら、若くて優秀で、やる気満々の人の方が、良いに決まっていると思うのですけど。なのに、「どんなに若くても」と、逆接の接続詞になっているのはなぜでしょうか?若いやつは信用できない、という年寄りの僻目でしょうか。普通、実績を積むには年数が必要なので、若いと実績が少ないのが当たり前です。ですから、もし万が一、すごい若いのに実績がすごくあったりしたら(インチキでもしていない限り)、それはとても優秀な人であるはずで、同様の実績がある年寄りの人と比べたら、どちらを教授にするかは自明だと思うのですけど。「若くても、教授にする」ではなく、「年喰ってても、教授にする」というのなら、まだ分かります。あるいは、鳥取大には秘密の内規でもあって、年令によって、何らかの差別があるということですかね。それに、「教授にします」というのは何なのでしょうか?アメリカの話で悪いのですが、普通、助教授や教授への昇進というのは、普通、過去の論文、獲得資金状況、依頼講演、教育実績、学会での役員活動などなどを勘案し、かつ外部の複数の専門家の意見をとりまとめて、委員会での審議の上で決められるものです。誰かの鶴の一声で決まる様なものではありません。だからこそ、数年前、MITでテニュア審査に通らなかった黒人ステムセル研究者が、審査に意義を唱えて激しくプロテストしたわけです。アメリカでは「教授にしたり、教授にしてもらう」のではなく、然るべき業績つんで「教授になる」わけです。また、「教授にします」と公募書類に書いてあるということは、そのセンターの教員を選ぶ人に人事での強い権限が集中しているということなのでしょう。国立大学でそんな権力構造があるのはよろしくないと思います。公募にこのようなことが書いてあるということは、日本の大学の人事システムの欠陥をさらしているようなものです。
 と、書きはしましたが、公募を出した人の本音を察するに、若手の優秀でやる気のある人に来て欲しいという気持ちで書かれたのだろうとは思います。しかし、公募にこういう表現をするのはどうかと思います。Politically incorrectですね。

日本では、新聞報道でも、就職活動でも、年令と職業がついて回りますが、何とかならんものでしょうか。年令が一体、その仕事なり事件なりに対して、どれ程の意味があるのでしょう。未成年を保護するために、成年と区別するのは分かります。しかし、一旦、成人に達した大人は、皆、平等に扱うべきではないでしょうか。とりわけ、研究者やスポーツ選手や実業家など、結果を出してナンボの人々を選ぶのに年令を云々するのは、殆ど無意味であると私は思います。結果を出せるか、出せないか、それだけだと思うのですが。カーネルサンダースは六十歳を過ぎてから、フライドチキンのレシピを訪問販売しはじめて、それがKFCにつながたそうです。日本の大学教員なら、定年、引退しているところです。現在のコンピュータービジネスで大成功した人々の少なからずが、大学生でビジネスを始めています。ジョージフォアマンは40前に10年のブランクのあと、カムバックし、45歳でついに、ヘビー級チャンピオンに返り咲きました。何歳であろうと、何人であろうと、男性や女性やその間であろうと、いい仕事ができる人に、いい仕事をしてもらう機会が当たることが、社会のためです。そのためには、人間を年令や職業や性別や人種で、差別する悪習を、日本は、やめないといけません。封建時代の上意下達の名残ですかね。

 今年、政権交代が実現して、官僚政治の撤廃、民主主義の導入と進んで、大学の構造も改善されれば、いいなと思います。
コメント
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