百醜千拙草

何とかやっています

小さな声

2009-04-03 | Weblog
こうしてブログ書き出して2年になりました。郊外の高速道路を一人で運転しているときに、ふと、日記をつけ始めようと思いついたのが始まりです。学生だったころはおりおりに思いついた事を書き留めていましたが、結局、引っ越しなどで、それらは全部どこかに無くなってしまいました。私は古いものをどっと捨てることが多いのです。コンピューターを買ってからは、コンピューター上で日記をつけようとしたこともありましたが、コンピューターがクラッシュしたり、買い替えたりしたりする都度、それらも無くなってしまいました。人の書いたブログを読んだりするうちに、サーバーに残るのなら、自分のパソコンに保存するよりも良いだろうと思い、日記のかわりにブログを書くことを思いついたのでした。また、私は、筆無精で電話嫌いなので、離れたところに住んでいる家族や友人に近況を知らせるのにも便利だと思ったこともあって、三日坊主にならずに、なんとか続いています。内容が容易に検索できるので、便利な一方、余り恥ずかしいことは書けません。もっとも、最近は、恥ずかしいと思うようなことは、殆ど無くなりました。昔なら、書いたものを人に見せることはとても恥ずかしいことだと思ったであろうと思います。中学二年生のとき、ビックリハウスというパロディー雑誌のエンピツ賞という全く権威のない文学賞(?)で、ふざけ半分にかいた短編が、佳作入賞したことがあり、鉛筆一ダースの賞をもらったことがありました。(残念ながら、その後、作家というキャリアに魅力を感じなくなって、創作は止めてしまいました)そのときは、うれしい反面、大変恥ずかしく思いました。今は、平気です。
 最近書いたものを読み返してみると、去年はアメリカ大統領選、今年の第1四半期は日本の政治がらみのことを書いたものが多いなあと思いました。私は単なる一市民ですから、本当に政治家や官僚たちが考えていることは知りません。(実は、政治家や政府内部の人間でも、よくわかっていないのだろうとは思います)それを、表にでてくるニュースなどから推測して、あれこれ書いています。最初は、そんな床屋政談をネット世界という仮にもパブリックの場でやることに抵抗があったのですが、ウラをとっていなくても、提示されている情報に基づいて意見を言うのは、別段、悪いことではないと思い直しました。その動機は、やはり、ヒューマニズムが社会の中心にあるべきだと思う私の信念と明らかに異なる政府やマスコミの行動に対して、一市民が思うべきことを、たとえ小さな声であっても、言わないよりは言ったほうが良いのではないかと考えたからです。政府のやりかたや社会のありかたがおかしいことを指摘することは大切であろうと思います。そして、沢山の人がインターネットなどの様々な手段を使って発言していくことができるというのは素晴らしいです。ただし、闇雲に批判したり、怒りや憎悪や怨念を蓄積させたりすることは、よいことではないと思います。憎悪や恨みにまかせての中傷となっては、生産的ではありません。「言論の自由」は、良心に沿って発言されることを前提としており、何を言ってもよいというのではなく、自己責任において発言をする自由を認めるということだと思います。
それに、人は、「受入れ、赦す」ことを学ぶために生きているのだと、私は信じています。(このことについては、また別に書きたいと思います)日本の社会はまだまだ未熟で、不公平だなあ、と最近思うことが多くなりました。どこが悪いのかも見えてきました。しかし、最終的には、その構成人員の個人が積極的に発言し、お互いの存在を認め合うことなしに、社会の改善は望めないと思います。人は誰でも、悪人でもあり善人でもあるのだと思います。罪を憎んで、人を憎まず、そういう意識が真に受入れられ、お互いに認め合い、お互いの罪を赦し合えることができないと、社会は改善の方向に動かないであろうと感じます。残念ながら、赦すことは簡単ではありません。(幼稚園のころに、妹が私のおやつのプリンを黙って食べてしまったことを、未だに根に持っていたりするのです)人間の精神がそこまで発達するのには、長い年月がかかることでしょう。
コメント
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