百醜千拙草

何とかやっています

卵の側に立つ(5)

2009-04-21 | Weblog
人類は成長しているのでしょうか?つい数年前まで、私はこのことに懐疑的でした。確かに科学技術などの物質面での進歩は目覚ましいし、そのおかげで、世界中のいろいろな情報が入ってくるようになりました。そうして知った世界の情報の多くは、いつも、どこかで戦争があり、どこかで誰かが誰かを殺していて、権力は腐敗していくという何十年前と同じニュースです。自分たちの何世代も何世代も前から、戦争や殺人が絶えることなく続いていて、人は、それらから何らかを学んだはずなのに、次に世代に伝わっていない、そんなように思っていました。でも、最近は、私は人類はわずかながらも成長していっているような感じがします。リンカーンが奴隷を解放したように、フランスで人権宣言が出されたように、大きなスパンで見ると人類は少しずつ、学び進歩してきています。
 と書いたところで、先日あったフィリピン人一家の強制送還に関して、一般市民(らしい)グループが、強制送還を支持するデモをその中学生の子供の通う学校の前で行ったという、悲しいニュースを聞きました。この行為は、人類が成長していると感じた私に冷や水を浴びせかけました。
 法に基づいた判断を下すという義務がある「システム」側である日本の司法が強制送還という判断を下したのはやむを得ないかも知れません。きっと、不法滞在者は多数いるわけですから、今後のことや、他の不法滞在者のことを考えると、例外を認めることはシステムの維持に困難を生ずる可能性があるのは理解できます。しかし、今回のデモが一般市民(らしい)グループによってなされたということは、全く恥ずべき愚かしい行為です。不法滞在者であれ、普通の日本市民であれ、システムが与えた法的な身分に係らず、みんな同じ壊れ易い人間であるということを、この一般市民(らしい)グループは、どう理解しているのだろうか、国籍は違っても、同じ街に住んで社会を構成している「同じ人間」であるということをどう考えているのだろうか、と私は思いました。他人に対して、同じ人間としてのcompassionを持つことは、人間がこの世にいる間に学ばなければならない重要項目のうちの一つです。これらの人々は、まだそれが理解できていないということなのでしょう。
 個人としての人間は壊れ易い「卵」であり、システムは圧倒的に強い「壁」です。村上春樹は、エルサレム賞のスピーチで言いました、「どんなに壁が正しくても、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と。今回、デモを行った人たちが本当に一般市民なのであれば、彼らも第一に同じ壊れ易い「卵」であるのです。その卵が寄り集まって「壁」のように振る舞い、同じ一つの「卵」に対し、敵意のこもったデモを行ったということは、「卵であること、即ち、一個の人間であることをやめた」のと同意であり、「人間として」恥ずべきである、と私は思いました。不正に入国し滞在したという違法行為に対して、日本の司法がある判断を下した、ということと「人は皆、同じ人権のもとに、お互いに尊重されなければならない」というもっと大切な原理とは無関係です。この市民グループは、デモを行うという攻撃的な行動によって、法を犯すというようなことよりも、もっともっとはるかに重要な人間としてあるべき原理を犯してしまったのだと私は感じます。
「どんなに間違っていても卵の側に立つ」、村上春樹のこの言葉を、心から理解して欲しいと私は思います。
コメント
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