しばらく前、Compassionは人間がこの世にいる間に学び実践する重要項目の一つだということを書きました[卵の側に立つ(5)]が、4/24日号のScienceは、Stanford大で、Center for Compassion and Altruism Research and Education (CCARE)という研究センターが発足したことを伝えています。Altruismは日本語では利他主義と訳されていますが、動物界でも利他的行為が見られることが分かっており、これに関する研究は結構、さかんになされています。利他的行為が結局は種や個体の存続に有利に働くことがあって、利他的行為が変異と自然選択によって、動物界にもあるのだという、ダーウィニズム的解釈が、しばしばなされます。この記事の中でも、ダライラマの「人間の最も高貴な美徳は、われわれの同情心が、より暖かく広がって、感じとれる者すべてに行き渡るところから、偶然に生まれたようである」との一節に触れて、利他行為が偶然に生まれ、進化したものだという考えを元UCSFの心理学者、Paul Ekmanは肯定しています。 しかし、Compassionのこういう見方は、その一面しか見ていないと私は思います。また、Compassionという同胞を思いやる気持ちを表す概念と「利他主義」という言葉を並列して並べるのはいただけないと私は思います。
利他主義に対して利己主義という言葉がすぐ浮かびます。つまり、利他主義には、自己と非自己の二元的見地に立っていて、「自分は他人ではない」という前提があると思います。一方、仏教などにおいては、Compassionは最終的には、自分も他人も同じ場所から生まれた兄弟姉妹であり、他我なく全ての生命が、より大きなSourceに属しているという感覚を以て、実践されるものと思います。適者生存、自然選択、という考えには、生は闘争であり、闘争に勝って生き延び、種を保存することが最重要事項である、という(私が思うに)非人間的考えが中心にあると思います。科学の仮説としてダーウィニズムは結構だと思いますが、それを科学の仮説ではなく、絶対的に真に信じる者はちょっと不幸なのではないかと私は思います。
少なくとも、東洋での生の考え方は、二元論的、闘争論的なものはありません。またルネッサンスのように「人間は素晴らしい」と声高らかに宣言するようなものでもありません。仏陀は苦諦において、「人生は苦である」と言いました。それは、人は闘争に負ける運命にある、とかいずれ死なねばならないというような理由からではなく、人生は絶対的に「苦」であるということだと思います。そこから出発し、その「苦」をどう解釈し止揚するかを考えようということでしょう。決して、闘争に勝つから素晴らしく、負けるから苦しいのだ、というような相対的な考え方ではないと思います。そういう意味で、利他的、利己的と対で使われるような概念と、東洋における慈悲というような絶対的な概念とは、質的にもずいぶん違うものではないかと私は思うのです。
Compassionを持つには、高い感受性と想像力が不可欠ですが、このCCAREがサポートした研究で、「Compassion-training protocol」というものが紹介されています。一般大学生を被験者に、週に二時間の瞑想の仕方を教え、6 - 8週間にわたって、人に対する同情心を養うトレーニングを行うというコースで、100人の学生を対象に検討した結果では、このトレーニングでCompassion度の上昇が見られたとのことで、Compassionは訓練によって養うことができるという結論のようです。面白い試みですけど、私は、このように形から入った場合に、そこだけに留まらないようことが大切であろうと思います。
求道者、雪峰が、兄弟弟子の巌頭の一言で、悟りに至ったエピソードが「鰲山成道」という一節に残されています。 鰲山で雪に押し込められた時、巌頭の「 全てを胸中より湧き出させて、天地に覆いかぶさっていくようにせよ」とのアドバイスを受けて、雪峰は言下に大悟したとあります。Compassionはトレーニングで形は得られるかも知れません。それが西洋二元流のCompassionであるとすれば、東洋が考えるものはもっと根源的で、自らの胸中から出て世界に広がるようなものであろうと私は思います。二つに分かれる前に目をつける、無分別の分別、が東洋にやりかただからです。Altruismという言葉で示唆される自分と他人とが別個のものであるという認識上で他人の利を考えるよりも、自分も他人も同じところから出て来た同胞であるという認識から自然と生まれるCompassionを持ちたいものだと私は思います。
ところで、なぜ、Compassionがそれほど大切かというと、CompassionはForgivenessの基礎であるからです。それについては、また次回。
利他主義に対して利己主義という言葉がすぐ浮かびます。つまり、利他主義には、自己と非自己の二元的見地に立っていて、「自分は他人ではない」という前提があると思います。一方、仏教などにおいては、Compassionは最終的には、自分も他人も同じ場所から生まれた兄弟姉妹であり、他我なく全ての生命が、より大きなSourceに属しているという感覚を以て、実践されるものと思います。適者生存、自然選択、という考えには、生は闘争であり、闘争に勝って生き延び、種を保存することが最重要事項である、という(私が思うに)非人間的考えが中心にあると思います。科学の仮説としてダーウィニズムは結構だと思いますが、それを科学の仮説ではなく、絶対的に真に信じる者はちょっと不幸なのではないかと私は思います。
少なくとも、東洋での生の考え方は、二元論的、闘争論的なものはありません。またルネッサンスのように「人間は素晴らしい」と声高らかに宣言するようなものでもありません。仏陀は苦諦において、「人生は苦である」と言いました。それは、人は闘争に負ける運命にある、とかいずれ死なねばならないというような理由からではなく、人生は絶対的に「苦」であるということだと思います。そこから出発し、その「苦」をどう解釈し止揚するかを考えようということでしょう。決して、闘争に勝つから素晴らしく、負けるから苦しいのだ、というような相対的な考え方ではないと思います。そういう意味で、利他的、利己的と対で使われるような概念と、東洋における慈悲というような絶対的な概念とは、質的にもずいぶん違うものではないかと私は思うのです。
Compassionを持つには、高い感受性と想像力が不可欠ですが、このCCAREがサポートした研究で、「Compassion-training protocol」というものが紹介されています。一般大学生を被験者に、週に二時間の瞑想の仕方を教え、6 - 8週間にわたって、人に対する同情心を養うトレーニングを行うというコースで、100人の学生を対象に検討した結果では、このトレーニングでCompassion度の上昇が見られたとのことで、Compassionは訓練によって養うことができるという結論のようです。面白い試みですけど、私は、このように形から入った場合に、そこだけに留まらないようことが大切であろうと思います。
求道者、雪峰が、兄弟弟子の巌頭の一言で、悟りに至ったエピソードが「鰲山成道」という一節に残されています。 鰲山で雪に押し込められた時、巌頭の「 全てを胸中より湧き出させて、天地に覆いかぶさっていくようにせよ」とのアドバイスを受けて、雪峰は言下に大悟したとあります。Compassionはトレーニングで形は得られるかも知れません。それが西洋二元流のCompassionであるとすれば、東洋が考えるものはもっと根源的で、自らの胸中から出て世界に広がるようなものであろうと私は思います。二つに分かれる前に目をつける、無分別の分別、が東洋にやりかただからです。Altruismという言葉で示唆される自分と他人とが別個のものであるという認識上で他人の利を考えるよりも、自分も他人も同じところから出て来た同胞であるという認識から自然と生まれるCompassionを持ちたいものだと私は思います。
ところで、なぜ、Compassionがそれほど大切かというと、CompassionはForgivenessの基礎であるからです。それについては、また次回。