前回、鳩山民主党新代表のスローガン、自立と共生、友愛、について、これらは即ち、Wayne Dyerが言う、Self-relianceとCompassionのことである、というようなことを述べました。Wayne Dyerはその著書の中で、この世に生まれてくる前に、自分の人生の使命として、人々に三つの重要なことを伝えることを選んだ、と書いています。(これは、催眠術を使って前世の記憶を探る方法を使ったのであろうと思います。この方法で本当に出生前の記憶が分かるのかどうか、私はもちろん知りません。しかし、大事なのは、それが彼の出生前の記憶かどうかという点ではなく、現在、彼がこれらことに強く意識的であるということであると思います)
その三つのことは、前回、触れた通り、
Self-reliance
Compassion
Forgiveness
です。人は自らの人生を自ら自身で生きなければならいということ、そして、自分の人生の全ての出来事、例えそれが不可抗力によるものと思われるようなものに対してさえも、自分で責任をもつことを学ぶことは、極めて大切であると思います。不運や困難に際して、他人や時代や状況を責めることで、問題に対峙することを避けようとするのではなく、困難や逆境から学ぶことができてはじめて、人は成長できるのだと思います。エリザベス キューブラー ロスも、人は逆境からしか学べないと言いました。
そして、CompassionとForgiveness、これは感情の問題が入りますから、ちょっと難しくなります。まずは、Compassionを持てるだけの想像力、そして寛容力と包容力をまず身につけないと、Forgivenessには到達できません。難しいことですが、全ての人はこれらのことを学び、実践するために生きているのだ、と私も思います。
この本の中で、Compassionについて興味深いエピソードが紹介されています。チベットへ圧力を深める中国に対して、チベットの僧侶が「私は、危機に瀕しています」と言ったという話です。Dyerは、身体的、物理的な危機のことであると思い、物質的なものに執着心の乏しいチベットの僧侶がそのように言ったことに疑問を感じて、聞き返しました。それに対し、僧侶は「そうです。私は危機に瀕しています」と答え、そして、続けてこう言ったのでした。「中国へのCompassionを失うかもしれないという危機に私はあるのです」
自らへ向かってくる敵に対してさえ、理解し、愛を注ごうとする気持ちを持ち、そして実践すること、それが人間に求められていることです。そして、これ以外に敵を友に変える手段はありません。しかし、感情の動物である人間が、自分に害を及ぼす者に対して、相手の立場に立って、その気持ちを理解し、思いやることはとても困難なことです。
Forgivenessについて、この本には、自分の一人娘を殺された母親が葛藤の末、犯人を赦すという話も紹介されています。これを理解するのは、易しくありません。同様に「恩讐の彼方に」などの文学、あるいは宗教の教典などの寓話に、肉親を殺した相手を赦すというテーマが、昔から繰り返し、とり扱われてきました。それは、憎しみという感情が、人間にとって大変有害だからだと私は思います。パーリ教には憎しみはそれを忘れることによってしか消すことは出来ないとあります。人間、不条理に対して、憤りや怒りや憎しみを感じるのは安易です。そして、それが特定の人間の意思によってなされた場合には、誰でもその相手を憎む気持ちを持つでしょう。憎むのは簡単ですが、赦すことは困難です。しかし、「許さない」という選択をする場合を「許す」という選択をする場合に比べてみると、色々、悪いことが多いことに気付くでしょう。仮に、憎しみ抜いて、犯人を死刑にしたところで、殺された我が子は帰ってきませんし、多分、遺族は何の安らぎも得られません。せいぜい、この犯人が二度と犯罪を犯すことを防いだ、と自分を納得させるのが精一杯でしょう。正義のためとか、見せしめのためとか、復讐を正当化するための理由は、いろいろ、思いつきます。でもそれは、多くの場合、単なる言い訳にしか過ぎないのではないでしょうか。憎しみは憎むものを蝕みます。憎しみを持つものは、その憎しみのためにより不幸になっていきます。
人は死んだら誰でも素晴らしい天国で幸せに暮らすのだそうです。この世が修行の場所なので、ある魂はわざわざ、悪人の人生や困難な人生を選ぶのだそうです。ですので、私は、事故や病気で死んでも、人に殺されて死んでも、死んだ後の魂は皆、この世での修行期間が終わって楽しくしているものと思っています。もしそうなら、殺された我が子はすでに天国で幸せになっているのに、遺族が「我が子を誰かに殺された」という恨みを持ち続けるのは、好ましいことではないのではないかと思うのです。憎しみ続けることを選ぶのも、赦すことを選ぶのも、実は自分が選択している、ということに人はしばしば、無自覚です。感情に流されずに自分の意志でより良い方を選ぶことができるように努力することは、幸せに生きる上で大切です。
「選ぶ」ことについては、またの機会に書きたいと思います。
その三つのことは、前回、触れた通り、
Self-reliance
Compassion
Forgiveness
です。人は自らの人生を自ら自身で生きなければならいということ、そして、自分の人生の全ての出来事、例えそれが不可抗力によるものと思われるようなものに対してさえも、自分で責任をもつことを学ぶことは、極めて大切であると思います。不運や困難に際して、他人や時代や状況を責めることで、問題に対峙することを避けようとするのではなく、困難や逆境から学ぶことができてはじめて、人は成長できるのだと思います。エリザベス キューブラー ロスも、人は逆境からしか学べないと言いました。
そして、CompassionとForgiveness、これは感情の問題が入りますから、ちょっと難しくなります。まずは、Compassionを持てるだけの想像力、そして寛容力と包容力をまず身につけないと、Forgivenessには到達できません。難しいことですが、全ての人はこれらのことを学び、実践するために生きているのだ、と私も思います。
この本の中で、Compassionについて興味深いエピソードが紹介されています。チベットへ圧力を深める中国に対して、チベットの僧侶が「私は、危機に瀕しています」と言ったという話です。Dyerは、身体的、物理的な危機のことであると思い、物質的なものに執着心の乏しいチベットの僧侶がそのように言ったことに疑問を感じて、聞き返しました。それに対し、僧侶は「そうです。私は危機に瀕しています」と答え、そして、続けてこう言ったのでした。「中国へのCompassionを失うかもしれないという危機に私はあるのです」
自らへ向かってくる敵に対してさえ、理解し、愛を注ごうとする気持ちを持ち、そして実践すること、それが人間に求められていることです。そして、これ以外に敵を友に変える手段はありません。しかし、感情の動物である人間が、自分に害を及ぼす者に対して、相手の立場に立って、その気持ちを理解し、思いやることはとても困難なことです。
Forgivenessについて、この本には、自分の一人娘を殺された母親が葛藤の末、犯人を赦すという話も紹介されています。これを理解するのは、易しくありません。同様に「恩讐の彼方に」などの文学、あるいは宗教の教典などの寓話に、肉親を殺した相手を赦すというテーマが、昔から繰り返し、とり扱われてきました。それは、憎しみという感情が、人間にとって大変有害だからだと私は思います。パーリ教には憎しみはそれを忘れることによってしか消すことは出来ないとあります。人間、不条理に対して、憤りや怒りや憎しみを感じるのは安易です。そして、それが特定の人間の意思によってなされた場合には、誰でもその相手を憎む気持ちを持つでしょう。憎むのは簡単ですが、赦すことは困難です。しかし、「許さない」という選択をする場合を「許す」という選択をする場合に比べてみると、色々、悪いことが多いことに気付くでしょう。仮に、憎しみ抜いて、犯人を死刑にしたところで、殺された我が子は帰ってきませんし、多分、遺族は何の安らぎも得られません。せいぜい、この犯人が二度と犯罪を犯すことを防いだ、と自分を納得させるのが精一杯でしょう。正義のためとか、見せしめのためとか、復讐を正当化するための理由は、いろいろ、思いつきます。でもそれは、多くの場合、単なる言い訳にしか過ぎないのではないでしょうか。憎しみは憎むものを蝕みます。憎しみを持つものは、その憎しみのためにより不幸になっていきます。
人は死んだら誰でも素晴らしい天国で幸せに暮らすのだそうです。この世が修行の場所なので、ある魂はわざわざ、悪人の人生や困難な人生を選ぶのだそうです。ですので、私は、事故や病気で死んでも、人に殺されて死んでも、死んだ後の魂は皆、この世での修行期間が終わって楽しくしているものと思っています。もしそうなら、殺された我が子はすでに天国で幸せになっているのに、遺族が「我が子を誰かに殺された」という恨みを持ち続けるのは、好ましいことではないのではないかと思うのです。憎しみ続けることを選ぶのも、赦すことを選ぶのも、実は自分が選択している、ということに人はしばしば、無自覚です。感情に流されずに自分の意志でより良い方を選ぶことができるように努力することは、幸せに生きる上で大切です。
「選ぶ」ことについては、またの機会に書きたいと思います。