新年、あけましておめでとうございます。
年賀状を出していた昔は、この言葉を機械的に書いていました。新年にはそのように挨拶するものだからと思って、別にめでたいとも思わなかったですがそう書いていました。それに、「新年は冥土の旅への一里塚」みたいなことを正直に年賀状に書いて、人々の不興を買って嫌われるのも困る、とりあえず無難に行こう、そんな感じだったのではないかな、と昔の自分を振り返って思います。
年をとって良かったことは、「新年があけてめでたい」ということに、多少、実感が持てるようになったことではないかな、と思います。少なくとも、反抗期の時のように、「正月も別に昨日と変わらぬ、何がめでたいものか」などとは考えなくなりました。「昨日と同じような日が正月にやってきて、ああ、よかった」と思うようになりました。
一方で、年賀状は出すのは基本的にやめてしまいましたし、いくら習わしであってもやりたくないことは「納得しない限りしない」ことに抵抗はなくなりました。何かをしたり、しなかったりして人に嫌われたり、社会から抹殺されたとしても、それは自分の決断が招いた事なので自分以外の誰のせいでもない、そう思っているので、自由になりました。だから、もし「新年などめでたくはない」と私が本当に思っていて、「めでたくない」という意見を周囲の人々に周知させたいと私が思うなら、私はためらいなく、「新年など、いくら明けてもめでたくはない、その理由はひみつ」と年賀状に書くでしょう。幸い、私は新年が明けてめでたいと思っているので、心のままに、おめでとうございます、と挨拶させて戴いておる次第です。
そんな感じで、今年も、(自分自身と周囲の人々に対して)誠実にやっていきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
年賀状を出していた昔は、この言葉を機械的に書いていました。新年にはそのように挨拶するものだからと思って、別にめでたいとも思わなかったですがそう書いていました。それに、「新年は冥土の旅への一里塚」みたいなことを正直に年賀状に書いて、人々の不興を買って嫌われるのも困る、とりあえず無難に行こう、そんな感じだったのではないかな、と昔の自分を振り返って思います。
年をとって良かったことは、「新年があけてめでたい」ということに、多少、実感が持てるようになったことではないかな、と思います。少なくとも、反抗期の時のように、「正月も別に昨日と変わらぬ、何がめでたいものか」などとは考えなくなりました。「昨日と同じような日が正月にやってきて、ああ、よかった」と思うようになりました。
一方で、年賀状は出すのは基本的にやめてしまいましたし、いくら習わしであってもやりたくないことは「納得しない限りしない」ことに抵抗はなくなりました。何かをしたり、しなかったりして人に嫌われたり、社会から抹殺されたとしても、それは自分の決断が招いた事なので自分以外の誰のせいでもない、そう思っているので、自由になりました。だから、もし「新年などめでたくはない」と私が本当に思っていて、「めでたくない」という意見を周囲の人々に周知させたいと私が思うなら、私はためらいなく、「新年など、いくら明けてもめでたくはない、その理由はひみつ」と年賀状に書くでしょう。幸い、私は新年が明けてめでたいと思っているので、心のままに、おめでとうございます、と挨拶させて戴いておる次第です。
そんな感じで、今年も、(自分自身と周囲の人々に対して)誠実にやっていきたいと思います。
よろしくお願いいたします。