百醜千拙草

何とかやっています

No Nukes! (12) 大切なこと

2011-04-26 | Weblog
浜岡原発をはじめとする欠陥原発と高速増殖炉もんじゅの即時停止を求めます。
浜岡原発が福島なみの事故となれば、首都圏、中部地方が壊滅します。十基が密集する敦賀原発で大規模な事故がおきれば、関西圏が壊滅するでしょう。浜岡原発のように、活断層の軟弱な土壌の真上に、しかも耐震偽装して建てられたような原発を止めることができない中部電力、告発を握りつぶしてきた政府当局は日本国民のみならず世界に危険を与える害虫であり、恥さらしです。
 また、信用できない人間に仕事を任せてはいけません。空きカンとか悪徳弁護士のことです。信用できない人間を利用しようとしてもいけません。信用できない人間を大事な仕事からまず排除すること、それが第一にすべきことです。

さて、ちょっと前のニュースで次のような話がありました。

ローマ法王ベネディクト16世は22日に放送された国営イタリア放送協会(RAI)のカトリック教徒向けのテレビ番組で、東日本大震災に関する千葉市の7歳の少女の「なぜ子どもたちがこんなに悲しまなければならないのですか」という質問に、「答えはないかもしれませんが、大切なのは神があなた方のそばにいるということです」と答えた。


「なぜ、子供たちがこんなにかなしまなければならないのか?」、という質問は、「なぜ子供たちが?」という疑問と「なぜ悲しまなければならないのか?」という二つのどちらにストレスをおくかによって、多少答えもかわるかも知れません。

「なぜ(大人ではなく)子供たちが」という疑問には、保護されるべき対象の無力な子供なのに、なぜ、保護されることなく、悲劇が大人と同じように与えられるのか、(不公平ではないか?)という気持ちがあるように思います。しかし、「不公平だ」という気持ちは、子供だけのものではないでしょう。大人、子供を問わず、人生の不公平さを思った事のない人はいないでしょう。「どうして私だけが(このような目にあうのか)」と一度も思った事がない人は存在しないと思います。しかし、現実は、「私」だけではなく、「みんな」が年齢や性を問わず、何かにつけ、誰かと比べては「不公平だ」と思ったことがあるはずです。

なぜ子供たちが悲しまなければならないのか、それは、その子供たちに悲しむことができる感情があるからだと私は答えたいと思います。心が成長して悲しいことを感じることができるようになったから、悲しいことが起こったことが理解できたのでしょう。心が成長して他人の気持ちがわかるようになったから悲しいと思うのでしょう。これは、もちろん、なぜこのような悲惨な災害が起こったのか、何のためにこのような試練が「罪の無い人々」に与えられたのか、という疑問に対する答えではありません。

そして、二つ目の問い、「なぜ(人は)悲しまなければならないのか?」、これに関しては、私個人としては、「悲しむことが必要だから、悲しいことが与えられた」と考えたいです。同様に、苦しみが与えられる時は、その苦しみは乗り越えるために与えられたと考えたいと思います。ならばこの災害で辛い目にあっている子供たちにとっても(その理由は、人間の知恵では理解できないけれども)悲しみが与えられることが必要であったに違いない、私はそう推測したいです。

法王は、「答えはないかもしれませんが、大切なことは神があなた方のそばにいるということです」と答えました。なぜ、試練が与えられるのか、それは、試練を受けた人間一人一人が自分で答えを見つけるしかないもので、外部から答えが与えられるわけではない、といういうことを言っています。だから「答えはないかもしれない」と答えたのでしょう。そして、全知全能の「神」を信じるカトリックの法王として、常に神は自らの子である人間のそばに愛情をもって存在しているということを確信することによって、人は悲しみや苦しみを乗り切っていける力のを得ることができるということを述べています。

私はキリスト教的神を信じてはいませんが、私も人間が理解できる世界観を越えた偉大なものの存在は信じております。それで、私は、このローマ法王の言葉を理解できますし、この法王の言葉に素直に感銘するのです。
 ただし、「神」やその類似の概念を理解しない人々には、おそらく、この言葉は意味をもって響かなかったでしょう。悲しむことができるほどに心が成長したからこそ悲しいことが理解できるのと同様に、「偉大なるもの」あるいは「神」の存在を理解できて初めて、この法王の言葉は理解されるのかも知れません。

法王は、「なぜ?」という問いに、何らかの理由を述べたわけではありません。つきつめれば、「なぜ悲しまなければならないのか」という問いは「なぜ人間は生きているのか」と同じ問いです。「なぜ、災害がおきて、人が苦しみ、死ななければならないのか」、それは、災害学や社会学や生物学の問題ではなく、自らの存在の不思議を問うことに他ならないと私は思います。それに対する答えは自分で見つけるしかありません。しかし、大切なことは、苦しんでいるときも、悲しんでいるときも、あるいは楽しいときも、われわれ人間は偉大な存在の一部であって、そこから刹那も離れたことはない、つまり、キリスト教的に言えば、いかなる時も「神」は無限の愛をもって、神の子である私たち人間のそばにあるということだと思います。

悲しみは、そこから学び、それを乗り越えていくための試練と考えるなら、その困難な仕事を達成するためのよりどころは、われわれはいつも偉大なる存在と共にあるという安心感でしょう。神とか禅とか、さまざまに呼び習わされてきた偉大なるもの、どんなことがあってもわれわれはそこから離れることはありません。わかる人にはわかるし、わからない人にはわからないでしょうが、それは仕方ありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする