アメリカNIHは、ディレクター、フランシス コリンズの長年の理想、基礎と臨床を繋ぐ研究の発展、に向けて、昨年の12月に、正式にNational Center for Advancing Translational Science (NCAT)を発足させました。しばらく前、そのNCATの一部門、preclinical medicineのディレクターの話を聞く機会がありました。
Translational Medicineという考え方やアプローチに対して、私は偏見を持っていました。多分、アカデミアの多くの人もそうでしょう。これまで、臨床応用されてきた基礎科学の成果は、多くの場合、臨床応用を意図してなされた研究ではなかったこと、臨床応用を目指した基礎研究は莫大なコストをかけて製薬会社が進めてきたにもかかわらず、新薬の開発、製品化は年々、難しくなってきていること、など、複数の理由から、税金ベースの限られた研究資金を使ってアカデミアがTranslational Researchを意図的に進めようとする動きに対して、懐疑的な人の方が多いのではないかと思います。
コリンズ自身は医師ですし、ヒトゲノムプロジェクト以外はヒトの早老症の遺伝子解析など臨床に関連した仕事をしていますから、基礎生物学研究と臨床を繋ぎたいという動機があるのはよくわかります。私自身は、Translational Researchに対しては、大勢の人々と同様、多少ネガティブな偏見を持っていましたが、実際にそうした研究の中で、生物学的にも臨床応用という面からも優れた研究が地道になされてきたことを知るにつれて、結局は税金ベースで究極的には人類の健康増進に貢献するという建前でやっている研究ですから、その建前に誠実に十分科学的に行われる研究はもっと支援されるべきだと思うようになりました。ただ、製薬会社が莫大な研究費をかけて遂行しているような研究と競争するような形になるのなら、その意義は少ないだろうと思います。アカデミアに勝ち目はありません。マーケットが小さすぎるとか、開発リスクが大きすぎるとかの理由で製薬会社が手を出さないような分野などのnischeを埋める形で発展するのが理想ではないかと思います。
しかし、鳴りもの入りのNCATのデビューですが、この経済危機で金が余っているわけもなく、NCATの資金は前のNational Center for Reserach Reseouses (NCRR)という小さなセンターを解体して調達したもので、そのバジェットも小さく、またNCRRでサポートされてきた研究もあるわけで、必ずしも、皆が手放しでNCATを喜んでいるわけでもなさそうです。この動きはNCATの成功によってjustifyされるでしょうが、NCATが何らかのTangibleな結果を出せるかどうか、私は余り楽観的ではありません。
話題転換。発生生物学系の研究をしている人にとっては、Developmentという雑誌は専門分野の雑誌としては、かつてはトップの雑誌でした。残念ながら、Developmental Cellが出来てから、「Cell」ブランドのせいか、あっという間にハイインパクト論文を取られて、雑誌のステータスは低下し続けていますが、それでも、この分野の研究者の中では十分、respectされている雑誌です。イギリスの雑誌というのもあるでしょうが、結論のハデさよりも科学論文としてしっかりしたデータに基づいた信頼できる研究かどうかというあたりが見られるからかも知れません。この雑誌を発行している「The Company of Biologists」はDevelomentを頂点にして、複数の雑誌を出版していますが、数ヶ月前に、オンライン雑誌、BiO (Biology Open)を始めました。フライヤーが来ていたのでチラと見ると、論文の投稿に「Transfer Option」というものがあります。つまり、Developmentなどの出版社の雑誌に論文がリジェクトされた場合に、クリック一つでそのまま、BiOに再投稿できる、というオプションで、これはPLoSが、PLoS Oneという受け皿を作って、上位PLoS雑誌に落とされた論文を拾ううまいビジネスを展開しているのと同じ方法です。Developmentの採択率は20%ほどでしょうから、これまでだと、ここで落とされた80%の論文は別の雑誌へ投稿されて、結局、レビューやエディトリアルプロセスの段階での労力は返ってこなかったわけです。多分、出版社の思惑は、このオンライン雑誌で、Developmentからこぼれた質の高い論文を拾いたいということだと思います。すでに、BMCなどがオンライン雑誌発行ビジネスで大成功していますから、オンライン雑誌が金になるのは間違いないです。ただ、このように露骨に金儲けが見えると、ちょっと反発もうむのではないか思います。
もう一つ、政治欄で目についたこと。次の衆院選に備えて、自民党がマニフェストの骨格となる「党の基本姿勢」を発表したというニュース。誰が名付けたのか、「谷垣ドクトリン」というそうで、笑ってしまいました。「防衛」という口実で他国への先制攻撃を正当化しようとした悪名高い「ブッシュ ドクトリン」を思い出させます。大体、「ドクトリン」などという名前のついたものにロクなものはありません。それはともかく、その「党の基本姿勢」9項目の第一が、「国民に誠実に真実を語り、勇気を持って決断する政治」なのだそうです。つまり「これから、ウソはつきません」ということです。これには、笑うべきか、情けなくて泣くべきか、迷ってしまいました。そんな3歳児でも言えることを言う前に、国民にウソをついてきたのはなぜなのか、そのウソをなくすにはどうするのか、という反省が全くありません。それなしに「ウソをつきません」という言葉を、国民が信用するとでも思っているのでしょうか。この辺のこの総裁の認識のズレというか、わかっていなさ加減を見ていると、自民党の復権はあり得ないと確信されます。この話、MGMミュージカルで最も長いタイトルの歌というのを思い出させます。Fred Astaireの映画の中の「How Could You Believe Me When I Said I Love You When You Know I've Been A Liar All My Life(オレが生まれてこのかた、ずっとウソつきなのを知っているくせに、どうしてお前は『愛してるよ』と言った時のオレは信じられたのか)」という曲です。(アステアの踊り、カッコいいですね)自民党の場合、「ウソをつかない」というのも多分ウソになる可能性が高いでしょう。それにしても「ウソをつかない」という小学校で習うようなことを、マニフェストに上げねばならないほど、この国の政治は幼稚で未熟なのですね。それで、「ウソをつきません」というのが「ドクトリン」なのだそうです。情けなくて、これ以上、言うべき言葉がありません。