先週末は、検察役の指定弁護士が、陸山会の裁判で、論告求刑で3年の禁固刑を求刑したとのニュース。その論告の内容を見て、最初は久しぶりに怒りで頭に血がのぼり、その後、このようなふざけた論告を指定弁護士がした(させられた)という事実に、正直、日本という国はもう救いようのない劣悪なレベルにあるということを思い知らされたような気がして、どっと落込みました。この裁判、常識で考えたら、裁判していることという事実自体が悪い冗談です。しかし、裁判長が検察側の証拠をほとんど棄却したにもかかわらず、公判停止の判断を出さなかったということが、「有罪判決」を示唆しているような気がします。本当に暗黒国家ですね。
石川氏の有罪判決の際も、裁判長は、かなりの部分の検察側の証拠採用を却下し、無罪のつもりでやっていた様子が見えました。それが土壇場で、信じられないような屁理屈をならべて、証拠無しに推認につぐ推認を重ねて、有罪判決を出しました。つまり、最後の最後で、たぶん最高裁周辺の誰かに脅かされて、判決を変えさせられたということでしょう。
多分、小沢氏の裁判長も、現時点では「公判は維持しろ」という誰かの指令に沿ってやっている、もしくはその意図を「忖度」してやっていると考えられます。ならば、最後の最後で、またもやどんでん返しの「有罪判決」を出してくる可能性がかなり高いと思わざるを得ません。
角栄、金丸が嵌められたのを見てきている小沢氏は「有罪判決」が出ることは折り込みずみでしょう。「何も悪いことはしていない、お天道様が見ている」と言う小沢氏ですが、だからと言って、卑怯な手を使って自分を抹殺しようとしてくる相手に、堂々と突っ立って、その攻撃をモロに受けるというのはどうなのか、と思います。国家権力を使って個人を抹殺しようとしている相手に打ち勝つには、多数の国民が真実を知り、その支持を得るしか手がありません。残念ながら、日本国民の日本の統治システムに対する事実認識は、まだまだ極めてrudimentaryと言わざるを得ないのではないかと思います。小沢氏は徹底抗戦するつもりでしょうから、今回、有罪判決が出たところで、すぐには政治活動の制限にはならないでしょう。むしろ、裁判が長引いて、マスコミのウソが流れれば流れるほど、この国の恥部は広く晒されることになり、長期的にはプラスに働くのかも知れません。ただ、私は、このでっち上げ裁判にかかわっている少なからぬ「日本の恥」どもが、いつまで経っても「恥知らず」なのが、情けないのです。
「国家の品格」という本が数年前にヒットしました。個人としての日本人に関しては、他の国に比べて、思いやり深い善良な人間が多いだろうと思っています。品格のある立派な人も少なからず知っています。しかし、組織としての日本としては、極めて未熟で下劣だと言わざるを得ません。おそらく民主主義からもっとも遠いところにある国の一つでしょう。日本の組織は自己保存能を持つ良くも悪くも「力」であると思います。日本ではしばしば、組織から離れた個人は非常に弱い立場に置かれるからだろうと思います。私もかつては、病院や医局という組織に属していましたので、その自己保存能の強さは良くわかります。例えば、患者の利益と医療側の利益が相反するような状態に置かれた時、たとえ個人として立派な医師であったとしても、たとえそれがピタゴラスの誓いや一般倫理に反しようとも、多くの場合、医師は医療側の利益を優先するように行動するのではないでしょうか。日本の組織の自己保存能はそれほど強いものです。私が組織を離れた理由の一つはそういうのが嫌だったせいもあります。同様に体育会体質というのも私には鳥肌ものです。
日本が成熟した民主主義を手に入れるためには、私は、もっと個人主義であらねばならないと思います。夏目漱石の「私の個人主義」にあるような個人主義のことです。以下、抜き書き。
この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で、根のないうきぐさのように、そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。
私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。自白すれば私はその四字から新たに出立したのであります。
これと同じような意味で、今申し上げた権力というものを吟味してみると、権力とは先刻お話した自分の個性を他人の頭の上に無理矢理に圧しつける道具なのです。道具だと断然云い切ってわるければ、そんな道具に使い得る利器なのです。
権力に次ぐものは金力です。これもあなたがたは貧民よりも余計に所有しておられるに相違ない。この金力を同じくそうした意味から眺めると、これは個性を拡張するために、他人の上に誘惑の道具として使用し得る至極重宝なものになるのです。
してみると権力と金力とは自分の個性を貧乏人より余計に、他人の上に押し被せるとか、または他人をその方面に誘き寄せるとかいう点において、大変便宜な道具だと云わなければなりません。こういう力があるから、偉いようでいて、その実非常に危険なのです。
そして、個人の権利を尊重するためには、個人が自らにもっと責任を持つ必要があると思います。
近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。我々は他が自己の幸福のために、己の個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。私はなぜここに妨害という字を使うかというと、あなたがたは正しく妨害し得る地位に将来立つ人が多いからです。あなたがたのうちには権力を用い得る人があり、また金力を用い得る人がたくさんあるからです。元来をいうなら、義務の附着しておらない権力というものが世の中にあろうはずがないのです。
自分の人生に責任を持つと同時に他人の権利を尊重するということが本来の「自己責任」です。自分の人生の責任を組織に面倒を見てもらおうと思っているような者に限って、組織の外の個人の権利は蹂躙して恥じないのです。そう思います。
もう少し、漱石の言葉を続けます。
いったい国家というものが危くなれば誰だって国家の安否を考えないものは一人もない。国が強く戦争の憂うれいが少なく、そうして他から犯される憂がなければないほど、国家的観念は少なくなってしかるべき訳で、その空虚を充たすために個人主義が這入ってくるのは理の当然と申すよりほかに仕方がないのです。今の日本はそれほど安泰でもないでしょう。貧乏である上に、国が小さい。したがっていつどんな事が起ってくるかも知れない。そういう意味から見て吾々は国家の事を考えていなければならんのです。
もう一つご注意までに申し上げておきたいのは、国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、ごまかしをやる、ペテンにかける、めちゃくちゃなものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘あまんじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません。だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きをおく方が、私にはどうしても当然のように思われます。
つまり、国という組織はそもそも君子ではあり得ない低級なものであり、その組織に個人が縛られるようでは本末転倒だということでは無いでしょうか。自己に責任をもつ自立した個人の集合が国家となるべきであり、国家という組織が個人を使うのではないということだと思います。