グラント〆切が迫ってきました。軽い気持ちでダメでもともとで書き始めたのに、それなりに入れ込んでしまい、バカにならない労力を費やしています。それで、私の貧乏性が出てしまい、ここまでやった以上はなんとか勝てるグラントにしたいと思い始めて、ますます自分の首を絞めることになっています。99%仕上がったものを、大幅に書き直すことになりました。字数制限があるので、これがまた辛いところです。一回書き直せば、五回は推敲が必要ですから、間に合うかどうか。サポートしてくれそうな人に手紙を頼んだり、必要経費の書類を書いたりと本文以外のところでも随分、労力が要ります。加えて、別の原稿の〆切も一緒にやってきました。別の人に下書きをお願いしていたのですが、その原稿を見てみると、ちょこちょこ直せばOKという感じではなく、これもかなり時間がかかりそうな雰囲気です。その間に当方の老化も進み、長時間コンピューター画面を見ていると、目がショボショボして焦点が合いにくくなってきます。
さて、明るい話題、と思って探してみましたが、余り見当たりません。しばらく前から体罰のことが話題になっていますね。「体罰はいけない」というのは当然ですけど、それは本質の表面しか見ていないのではないかと思います。本質とは、体罰を加える指導者の「怒り」です。怒っているから手が出るのだろうと思います。なぜ、怒るのか、それは、他人(生徒)を自分の思ったようにコントロールすることができないからです。自分が思うように、生徒が練習しない、上達しない、態度が悪い、それでその生徒が悪いと怒るのでしょう。これは裏返せば、指導者のエゴです。そもそも他人はコントロールできません。本当にコントロールできる可能性があるのは自分の心だけです。それでさえ、とてつもなく難しいことは誰でもわかるでしょう。指導者は「愛のムチ」とかいう言い訳をしながら、他人が自分の思ったようにならないことに対して自分でみずから「怒り」、そして、それを怒りのきっかけとなった対象にぶつけるのです。問題は「怒る」ことがどれほどToxicかということを多くの指導者が実感しておらず、日本の社会も「上」の人間が「怒る」ことに対して割合寛容であるということではないでしょうか。しかし、ちょっと考えればわかるように、怒りは怒る人を不幸にし、周囲の人間を不愉快にしていきます。実は怒っても何一ついいことはありません。意志を伝えたいのなら別のもっとよい方法でやるべきなのです。
人間は感情の動物であり、感情豊かなことは悪い事ではないと肯定的にいう人もありますが、感情を十分制御できる能力を持つことが人間として成熟している(大人である)ということです。子供がかんしゃくを起こすのを見れば、感情は野放しにしておくものではないとわかるでしょう。仏教では十以上の種類の「怒り」があるとされ、それを克服することは最も難しい目標とされます。たとえ誰かに殺されようとしても、怒りを感じてはいけないと教えます。それほど「怒り」は怒りを感じるものにとって有害なのです。体罰は加えられる方よりも「怒り」にまかせて体罰を与えようとする方に本当はもっと大きな悪い影響があります。そんな話を、長老、スマナサーラさんの話で知りました。(怒らないこと- アルボムッレ・スマナサーラ)体罰の問題というのは、そもそもが指導者が指導者として必要なレベルに人間が成熟していないということではないでしょうか。それは、日本の社会や個人が「怒り」の毒性を十分に認識できていないという背景から来ていると思います。
さて、明るい話題、と思って探してみましたが、余り見当たりません。しばらく前から体罰のことが話題になっていますね。「体罰はいけない」というのは当然ですけど、それは本質の表面しか見ていないのではないかと思います。本質とは、体罰を加える指導者の「怒り」です。怒っているから手が出るのだろうと思います。なぜ、怒るのか、それは、他人(生徒)を自分の思ったようにコントロールすることができないからです。自分が思うように、生徒が練習しない、上達しない、態度が悪い、それでその生徒が悪いと怒るのでしょう。これは裏返せば、指導者のエゴです。そもそも他人はコントロールできません。本当にコントロールできる可能性があるのは自分の心だけです。それでさえ、とてつもなく難しいことは誰でもわかるでしょう。指導者は「愛のムチ」とかいう言い訳をしながら、他人が自分の思ったようにならないことに対して自分でみずから「怒り」、そして、それを怒りのきっかけとなった対象にぶつけるのです。問題は「怒る」ことがどれほどToxicかということを多くの指導者が実感しておらず、日本の社会も「上」の人間が「怒る」ことに対して割合寛容であるということではないでしょうか。しかし、ちょっと考えればわかるように、怒りは怒る人を不幸にし、周囲の人間を不愉快にしていきます。実は怒っても何一ついいことはありません。意志を伝えたいのなら別のもっとよい方法でやるべきなのです。
人間は感情の動物であり、感情豊かなことは悪い事ではないと肯定的にいう人もありますが、感情を十分制御できる能力を持つことが人間として成熟している(大人である)ということです。子供がかんしゃくを起こすのを見れば、感情は野放しにしておくものではないとわかるでしょう。仏教では十以上の種類の「怒り」があるとされ、それを克服することは最も難しい目標とされます。たとえ誰かに殺されようとしても、怒りを感じてはいけないと教えます。それほど「怒り」は怒りを感じるものにとって有害なのです。体罰は加えられる方よりも「怒り」にまかせて体罰を与えようとする方に本当はもっと大きな悪い影響があります。そんな話を、長老、スマナサーラさんの話で知りました。(怒らないこと- アルボムッレ・スマナサーラ)体罰の問題というのは、そもそもが指導者が指導者として必要なレベルに人間が成熟していないということではないでしょうか。それは、日本の社会や個人が「怒り」の毒性を十分に認識できていないという背景から来ていると思います。