4/15日の"Patriot day"というマサチューセッツ州の祝日に行われたボストンマラソンで、ゴール周辺で爆弾が仕掛けられ、現時点で3人が死亡、(一人は中国人留学生、一人は地元の人、もう一人は8歳の男児)その他百名以上がケガを負うという事件がありました。亡くなった8歳の男の子の母親と妹も頭や四肢に重症を負ったそうで、この家族の人やその他の犠牲者の人の関係者の気持ちを思うと、気の毒でなりません。結果、ボストンの繁華街は15ブロックに渡って「犯行現場」として出入りが制限されています。「Patriot day」を狙った犯行であり、その直前にも、米軍の無人飛行機による中東での市民虐殺に反対するデモがボストンであったようなので、おそらく、アメリカ軍の中東での行為に抗議するテロであり、中東イスラム圏、もしくはアメリカ国内の過激派が行ったのではないかと推測されます。これが事実、アメリカ軍の中東での無差別殺人に対する報復テロであったとして、犯人はこれによって何を成し遂げたのでしょうか。亡くなった8歳の子供の家族や、あるいは中東でアメリカ軍に虐殺された市民の人々の家族の人の気持ちを思うと、憎しみによる報復は、更なる報復を呼び、対立を深めるだけになるだろうと悲しい思いになるばかりです。
オバマは早速、会見して、犯人を引きずり出して正義を貫くとか、言っていましたが、そもそもアメリカ軍が世界各国で極悪非道をするから恨まれて報復されているわけで、何が本当の正義かわかったものではありません。テロを行う側としてはテロ行為でアメリカの行為に抗議することが正義だと思っているでしょう。アメリカのいう「正義」ほど正義からほど遠いものはないと「justice」という単語がオバマの口から飛び出る度にシニカルな思いの捕われます。そして、かりに犯人を捕まえて、死刑にして「正義」が下されたところで、何か良くなるのでしょうか。とてもそうは思えません。
「復讐するは我にあり」という聖書の言葉を以前、何度か取り上げました。私がこの言葉を知ったのは、佐木隆三さん原作の日本映画のタイトルだったからです。当時は、その意味するところもよくわかりませんでした。先日、亡くなった三国連太郎さんが連続殺人犯役の緒形拳の父親役をやっていて、死んだ息子の遺骨を撒く印象的なラストシーンは今も覚えています。
復讐はしてはいけません。それは神の仕事です。
では、理不尽に殺され、一生の傷を負わされた人々やその家族は、ではどうすればよいのだろう、と思います。「犯人を許し、過去を忘れる」という答えしかないのは理屈ではわかりますが、人間は感情の動物ですから、それがどんなに困難なことかも私にはよくわかります。しかし、復讐したり、報復したり、その手段としてテロ行為を行ったり、というのは、いくら立派な理由をつけたところで、つきつめれば自己満足に過ぎず、その結果はより悪いことを生みだすだけのことになると思います。
ボストンの爆破事件の後、以前から問題になっていた銃規制に関して、アメリカ上院で否決されました。アメリカの建国以来の歴史を鑑みると、銃を持つことが権利であるとの考えは理解できます。インディアンの土地に入り、彼らを虐殺して土地を奪って行ったのですから、自分も他人に同じことをされる可能性ぐらいは考えつくでしょう。自分は絶対的に正義であり、自分の敵は悪である、という帝国主義いらいの自己中心的で傲慢なヨーロッパの考え方がそこにあるのだろうと想像します。自分と他人、味方と敵、西洋の得意な二項対立ですね。
このように、世の中のモノを、命とかエネルギーとかも含めて、自分のモノ、他人のモノ、という観点で捉えると、自分のモノを失うことは自分の損であり、他人のモノ奪うことは得だ、という損得勘定がついてきます。多分、幸せに暮らすコツは、そういう執着、損得勘定から自由になることなのでしょう。残念ながら、唯物的自然観が非常に強いヨーロッパやアメリカが、自ら銃器を規制したり核武装を解除して、「北朝鮮やイランそれに中国にロシアの皆様、地球は一つ人類はみな兄弟だから、仲良くやりましょう」ということは百年経ってもありえないだろうとは思います。自らが先に核武装しておいて、北朝鮮やイランの核開発を非難する国、自らが最初に中東に侵攻して市民を虐殺しておいて、テロは許さない、という国、文化が違うと言えばそれまでですけど、この手のニュースを聞く度に、「隗より始めよ」と毒づいてしまうのは私だけではないでしょう。
オバマは早速、会見して、犯人を引きずり出して正義を貫くとか、言っていましたが、そもそもアメリカ軍が世界各国で極悪非道をするから恨まれて報復されているわけで、何が本当の正義かわかったものではありません。テロを行う側としてはテロ行為でアメリカの行為に抗議することが正義だと思っているでしょう。アメリカのいう「正義」ほど正義からほど遠いものはないと「justice」という単語がオバマの口から飛び出る度にシニカルな思いの捕われます。そして、かりに犯人を捕まえて、死刑にして「正義」が下されたところで、何か良くなるのでしょうか。とてもそうは思えません。
「復讐するは我にあり」という聖書の言葉を以前、何度か取り上げました。私がこの言葉を知ったのは、佐木隆三さん原作の日本映画のタイトルだったからです。当時は、その意味するところもよくわかりませんでした。先日、亡くなった三国連太郎さんが連続殺人犯役の緒形拳の父親役をやっていて、死んだ息子の遺骨を撒く印象的なラストシーンは今も覚えています。
復讐はしてはいけません。それは神の仕事です。
では、理不尽に殺され、一生の傷を負わされた人々やその家族は、ではどうすればよいのだろう、と思います。「犯人を許し、過去を忘れる」という答えしかないのは理屈ではわかりますが、人間は感情の動物ですから、それがどんなに困難なことかも私にはよくわかります。しかし、復讐したり、報復したり、その手段としてテロ行為を行ったり、というのは、いくら立派な理由をつけたところで、つきつめれば自己満足に過ぎず、その結果はより悪いことを生みだすだけのことになると思います。
ボストンの爆破事件の後、以前から問題になっていた銃規制に関して、アメリカ上院で否決されました。アメリカの建国以来の歴史を鑑みると、銃を持つことが権利であるとの考えは理解できます。インディアンの土地に入り、彼らを虐殺して土地を奪って行ったのですから、自分も他人に同じことをされる可能性ぐらいは考えつくでしょう。自分は絶対的に正義であり、自分の敵は悪である、という帝国主義いらいの自己中心的で傲慢なヨーロッパの考え方がそこにあるのだろうと想像します。自分と他人、味方と敵、西洋の得意な二項対立ですね。
このように、世の中のモノを、命とかエネルギーとかも含めて、自分のモノ、他人のモノ、という観点で捉えると、自分のモノを失うことは自分の損であり、他人のモノ奪うことは得だ、という損得勘定がついてきます。多分、幸せに暮らすコツは、そういう執着、損得勘定から自由になることなのでしょう。残念ながら、唯物的自然観が非常に強いヨーロッパやアメリカが、自ら銃器を規制したり核武装を解除して、「北朝鮮やイランそれに中国にロシアの皆様、地球は一つ人類はみな兄弟だから、仲良くやりましょう」ということは百年経ってもありえないだろうとは思います。自らが先に核武装しておいて、北朝鮮やイランの核開発を非難する国、自らが最初に中東に侵攻して市民を虐殺しておいて、テロは許さない、という国、文化が違うと言えばそれまでですけど、この手のニュースを聞く度に、「隗より始めよ」と毒づいてしまうのは私だけではないでしょう。