百醜千拙草

何とかやっています

研究の楽しみ

2013-08-20 | Weblog
ようやく3年越しの論文を出すことができました。自分では、中ぐらいの出来かと評価しています。論文がembargoに入った時点で、ある科学ニュース誌が興味を示してくれたり(結局、ボツになりましたが)、某ノーベル賞科学者の研究室の人からコンタクトを受けたりして、意外に私の論文を見てくれている人がいるのだなあ、とちょっとうれしく思ったりしました。

最近は、研究生活にストレスを感じることも多く、そんな中で平常心を保つ修行を日々続けているわけですが、もちろん研究は本質的には楽しいものです。普通、思った通りに研究がスムーズに進むことはありません。うまくいかない苦しい日々が続く中で、ごく稀に何か面白い現象を発見したとき、新しい解釈を思いついたとき、そんなEureka momentが訪れることがあり、それが研究の最も大きな楽しみだと自分では思っていました。また、研究の成果を誰かに「面白い」と言ってもらえたり、意義のある発見ができた時、喜びを研究室の人々と分ち合うことは、間違いなく研究活動のうれしいことです。私は研究の喜びというのはこういうことだろうと思っていましたし、実際、これらのことが嬉しいことであるのは間違いありません。

でも最近、実は研究生活はそういうことがなくても十分、楽しいと実感しています。
研究での実際の実験は多くの単純作業の繰り返しです。しばらく雑用で実験が出来なかったりした後、週末とかの誰もいないような研究室で、シコシコと単純作業をしていると、私の心が落ち着いて来て静かになります。するとなんとなく満たされたような気分になります。
つまり、研究室の実験台の前に座って単純作業を黙々とするだけで、楽しくなれるということに気がつきました。プロジェクトがうまく行っていなくても、論文が三回連続でリジェクトされても、研究費がなくて台所が苦しくても、ヘタをすると二年後には店じまいでも、それでも研究は楽しいということに私は気がつきました。

私は瞑想をしたりする習慣はないのですが、ひょっとしたら、実験台で単純作業をシコシコするというのは、マントラを唱えながらする瞑想のようなものなのかも知れないな、と思った次第です。成功して偉くなり、自分では手を動かさなくなって実験はポスドクや学生だよりの研究者の人が、往々にして鬱になってしまったり、研究不正に手を染めたりする例を見聞きします。思うに、それは、研究のごく単純な喜びを感じられなくなってしまったからではないのでしょうか。

私は、自分の経験から、自分で手を動かして実験(それも単純作業の多い実験)をすることは、精神衛生に非常に有効だと、確信するようになりました。単純作業に集中することは、「mindfulness」の実践に役立つと思います。意識を「現在、たった今」の瞬間に向け、過去の記憶や未来への不安に心を乱されなくする効果があると思います。結局、過去は過ぎ去り、未来は未だ来らずで、我々にあるのは、現在の一瞬一瞬だけです。過去の過ちから学び、将来に備えて準備をしたのなら、それ以上、過去や未来のことに心を乱される必要はありません。今日一日、楽しく生きればそれだけで十分だと思います。

それで、私は今日も半眼で「オーム」とつぶやきながら、ピペットを操っております。(お試し下さい)
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