百醜千拙草

何とかやっています

日本の味

2013-10-22 | Weblog
見過ごせない世間の動きもありましたが、週末は、やらねばならない用事や家族活動などの他の時間は、次の論文と研究費申請の戦略について考えておりました。ウジウジと考え事をして、脳内仮説を立てて脳内実験して脳内結果を脳内解釈して脳内論文のタイトルを考えたりするのは楽しいのですが、最近は流石に根気がなくなってきて、細部までじっくりと考える集中力が減ってきました。結局は脳内研究は現実の結果とマッチしないと意味がないので、手を動かしてデータを出すのが先なのですが、脳内研究によって実際の研究へのアイデアが出るので、いろいろ妄想するのも必要な事だと思っております。というわけで、あまり書くことがないので、今日は、藤永茂さんのブログの記事を読んで思った日常茶飯の話をちょっと。

偏頭痛の発作の予防にいいような気がして、私は数年前から肉食は止めております。そのせいか、体も軽く、頭痛もひどいものはおこらなくなりました。宮沢賢治ではないですが、もう成長期ではないので、玄米と味噌と少しの野菜で、日々の活動と健康は維持していけるように思います。私は、数年前からアルコール飲料もやめました。若い頃は好きで、ビールやワインのない生活など想像もできませんでしたが、意外に簡単にやめれました。アルコールを飲まないことは個人的には多くの良い点があります。「酩酊は一時的な自殺である」というバードランド ラッセルの言葉は、酒をやめてから、よく理解できるようになりました。そもそもアルコールやその代謝産物は毒ですから、飲まないのが体に良いのはあたり前です。しかし、煙草やある種の薬と同様、一時的に快感を与える作用があるし、昔から社会で社交や儀式などの目的で広く利用されてきたものですから、必要であれば、毒の影響が出ない程度に利用するのがよいのでしょう。
 昔ながらの日本の食事は、マクロバイオティックスとかいう名前で今は世界に広まっているようですが、年をとるほど、米、味噌、野菜の味がしみじみとおいしく感じます。あとは、お漬物ですね。あいにく、私の周辺では、おいしい漬物を手軽に手に入れにくいので、あまりふだんは食べませんが、時々、柴漬けや、なぜか若い頃に凝った「すぐき漬け」の酸っぱさが恋しく思うことがあります。下の藤永先生同様、日本という国を好きかと訊かれたら、言葉に詰まります。原発事故以後の日本政府と東電とマスコミの対応を見ていて、日本人であることに罪悪感さえ感じることさえ増えました。でも、日本の食べ物は好きです。愛国心というより具体的な日々のものへの愛着ですね。

私の闇の奥シムカップ(占冠)の森から。

 私はカナダ国籍を取って40年間カナダに住んでいましたから、私が日本に帰ると言い出した時には、多くの人が驚いたようでした。何度もその理由を質されて「日本のお漬け物(pickles)が食べたくなったから」と答えるのが常になりましたが、私の答えを聞いたカナダ人で、ピクルスという英語から日本のお漬け物の素晴らしい豊かさを想像しえた人はなかったと思います。いま考えてみると、私がその場逃れに思いついた方便の答えには自分の内心の真実が含まれていたようです。私は私を育んでくれた日本の山野、日本の食べ物、日本の暮しぶりが好きなのであり、40年間外国に住んでみてもその気持は変わらなかったという、それだけの事であったのだと思います。私は、この日頃また耳につきだした“愛国者”ではありません。日本人であることを特別誇りに思っているわけでもありません。自分の国が、自分たちが、他の国、他の国民より優れていて誇るべきものであると考えるのは決してよいことではないと思っています。害があるばかりです。米国をご覧なさい。ここで、湯木 貞一さんの美しい言葉に戻りましょう。「日本の国で育った自然のものを、その味を生かしておいしくたべる」のが「日本料理を味わう幸福」というものであって、それを「日本の国ってありがたいな」と思うだけで十分です。日本人らしからぬ昨今の美食文化の過度の喧噪の中に日本のこころを失うことがないようにしたいものです。


食事を生命の維持に必要な栄養を取る行為と捉えると、不思議なことに、その食事を食べれることのありがさ、食べ物の美味しさをしみじみと感じることができるようです。逆に食事を「食べる喜び」を満たすための手段と考えると、どんな高級な料理でも不満を感じやすくなるのではないでしょうか。美味しく炊けたお米を噛みしめると「ありがたい」という気持ちがしてきます。そんな昔からの日本の良いものに対する愛着は、誰かが悪い頭で考えたイデオロジックな「愛国心」とは正反対の場所にあるものでしょう。
コメント
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