今週から来週にかけて学会でしばらく留守にするので、ブログの更新は休みます(多分)。研究の方も、終盤にかかってきた二、三のプロジェクトが、行き詰まってきて、ゴリゴリやってはいるのですが、なかなか前に進みません。そんなこともあって、ちょっと世間のことから離れておりました。
とはいうものの、世間も待った無しです。アメリカも今月、ヘタをすると政府機能の停止となる可能性があり、そのままデフォールトへ突き進んで、中国や日本が大量に持っている借用書がタダの紙切れになる、というウワサも飛び交っています。アメリカの財政危機は、人々の恐怖心を煽って、政治ショーを演出するだけのヤラセだと、皆が思っていましたが、前回の強制歳出縮小(Sequestration)が本当に発効してしまった、という例があるだけに、一応、アメリカの破産宣告に対する心の備えだけはして、目の前の仕事に集中したいと思います。
そんな不安定な世の中を、(あと何年あるかわかりませんが)死ぬまでの時間、どう生きるか、というようなことを考えることが増えました。
キリスト教的死生観、つまり、人生は一度きりでそれが終わったら天国(や地獄)に行って二度と地上に帰ってくることはないという考え方、がどうも私にはピンときません。魂が肉体とは別に存在していることを認めているが、その魂が持つことができる肉体は一つだけだということでしょう。そうならば、何らかの障害を持って産まれてきたり、不幸な環境に育ったり、というのも各々の魂に固有の一回きりの経験ということになってしまいますね。人生での経験から学び、生かすことができる機会が、魂にも与えられるべきだと思うので、私にとっては、魂が必要に応じて(異なる肉体や環境を選んで)地上に戻ってくると考える方がしっくりきます。
ある信心深いキリスト教信者が「地獄は存在するか」と問われて、「地獄は存在する、してもらわないと困る」と言ったという話を聞いた事があります。「キリスト教の教えに背いて身勝手に生きた人と、教えを守って節制して生きた人と同じ死後の扱いを受けるのはフェアでない」というようなことを答えたらしいです。これは東洋的、仏教的な考え方と対照的ですね。善人も悪人も同じ衆生、等しく往生すると考えるのが大乗仏教でしょうから。いずれにしても、複数回の肉体の生を仮定すれば、地獄の存在を仮定する必要はなくなるだろうと私は思います。天国から比べれば、現世は地獄のようなものです。
人生が一度きりで、肉体が滅んだらそれで終り、という唯物的な人生観を持つ人は少なくないようです。それでも、死に際して後生を願ったり、冥福を祈ったりするのだから、少なくとも人々の集合的無意識のレベルでは、魂が肉体の終焉の後にも残ることは広く信じられていると思います。だから、清く正しく美しく生きて、発つ鳥後を濁さず、キレイに去って行きたいと思う人も多いのでしょう。一方で、一度きりの人生なのだったら、太く短く、気ままに自由に生きて、後は野となれ山桜、と思う人もあるでしょう。そして、後者のような考え方が広まると、死んだ後の子孫のことや地球の未来など知ったことか、ウソはバレなければいいのだし、自分に責任が回ってこないのなら、知らない他人が苦しもうと死のうと関係ない、そう思う人も増えるのではないでしょうか。
今の日本の為政者を見ていて、唯物的、刹那的な人生観が思う以上に広まっているのではないだろうかと心配に思います。すっかり、貨幣性資本主義のワナにハマり、カネの奴隷と成り果てた日本の政、財、官の人々、自分が死ぬまで保てばそれでいいと思う無責任人間が多過ぎるのではないかと私は思います。しかも、もう死ぬまで何年もないのに、彼らは永遠に生き続けるかのような調子です。次に生まれ変わってみたら、地上は放射能汚染で安全な食物はなく、社会は荒廃し、近隣諸国とは戦争を繰返しているという世界になっていたらどうしよう、などと、彼らは想像したことはないのでしょうか。
勿論、誰でも自分は大切です。だからこそ、自分が大切なのだから他の人も同じように大切なのだ、と思えるのが人間というものでしょう。しかし、現在は、今の自分がよければ他人や将来の子供達はどうなってもよい、という短絡な考え方の持ち主が余りに多いのではないか、と政府や営利企業の責任者を見ていて思います。悪いことに、彼らは、その非人間的な考え方を認めたくなくて、いろいろ言い訳をひねくり出しているように見えます。そもそも「自分さえよければよい」というのは、ラクで楽しい生活をしたいというだけのことであったりします。私、人間、ラクするために生きているのではないと思います。もしそうなら、死ぬのが一番ラクでしょう。最近、関東各地の子供たちの尿から放射性セシウムがどんどん検出されているというニュースを聞きました。もう手遅れかも知れませんが、被害者を見捨て、国民を危険にさらし続けてきた政府、東電の責任者の人々は、黒沢映画の「生きる」でも見てみればどうでしょう。
そんな世間ですが、今日も青空が美しいです。目に入る街路樹や道路や建物や遠くの山の上にも、そして地の上にへばりついて業を深める人間たちに上にも、陽の光は贅沢に惜しみなく降り注いでいます。私もその朝陽を浴びて、「永遠」の意味を少し感じたりします。人生は良く生きる価値のあるものだと確信すさせてくれます。
とはいうものの、世間も待った無しです。アメリカも今月、ヘタをすると政府機能の停止となる可能性があり、そのままデフォールトへ突き進んで、中国や日本が大量に持っている借用書がタダの紙切れになる、というウワサも飛び交っています。アメリカの財政危機は、人々の恐怖心を煽って、政治ショーを演出するだけのヤラセだと、皆が思っていましたが、前回の強制歳出縮小(Sequestration)が本当に発効してしまった、という例があるだけに、一応、アメリカの破産宣告に対する心の備えだけはして、目の前の仕事に集中したいと思います。
そんな不安定な世の中を、(あと何年あるかわかりませんが)死ぬまでの時間、どう生きるか、というようなことを考えることが増えました。
キリスト教的死生観、つまり、人生は一度きりでそれが終わったら天国(や地獄)に行って二度と地上に帰ってくることはないという考え方、がどうも私にはピンときません。魂が肉体とは別に存在していることを認めているが、その魂が持つことができる肉体は一つだけだということでしょう。そうならば、何らかの障害を持って産まれてきたり、不幸な環境に育ったり、というのも各々の魂に固有の一回きりの経験ということになってしまいますね。人生での経験から学び、生かすことができる機会が、魂にも与えられるべきだと思うので、私にとっては、魂が必要に応じて(異なる肉体や環境を選んで)地上に戻ってくると考える方がしっくりきます。
ある信心深いキリスト教信者が「地獄は存在するか」と問われて、「地獄は存在する、してもらわないと困る」と言ったという話を聞いた事があります。「キリスト教の教えに背いて身勝手に生きた人と、教えを守って節制して生きた人と同じ死後の扱いを受けるのはフェアでない」というようなことを答えたらしいです。これは東洋的、仏教的な考え方と対照的ですね。善人も悪人も同じ衆生、等しく往生すると考えるのが大乗仏教でしょうから。いずれにしても、複数回の肉体の生を仮定すれば、地獄の存在を仮定する必要はなくなるだろうと私は思います。天国から比べれば、現世は地獄のようなものです。
人生が一度きりで、肉体が滅んだらそれで終り、という唯物的な人生観を持つ人は少なくないようです。それでも、死に際して後生を願ったり、冥福を祈ったりするのだから、少なくとも人々の集合的無意識のレベルでは、魂が肉体の終焉の後にも残ることは広く信じられていると思います。だから、清く正しく美しく生きて、発つ鳥後を濁さず、キレイに去って行きたいと思う人も多いのでしょう。一方で、一度きりの人生なのだったら、太く短く、気ままに自由に生きて、後は野となれ山桜、と思う人もあるでしょう。そして、後者のような考え方が広まると、死んだ後の子孫のことや地球の未来など知ったことか、ウソはバレなければいいのだし、自分に責任が回ってこないのなら、知らない他人が苦しもうと死のうと関係ない、そう思う人も増えるのではないでしょうか。
今の日本の為政者を見ていて、唯物的、刹那的な人生観が思う以上に広まっているのではないだろうかと心配に思います。すっかり、貨幣性資本主義のワナにハマり、カネの奴隷と成り果てた日本の政、財、官の人々、自分が死ぬまで保てばそれでいいと思う無責任人間が多過ぎるのではないかと私は思います。しかも、もう死ぬまで何年もないのに、彼らは永遠に生き続けるかのような調子です。次に生まれ変わってみたら、地上は放射能汚染で安全な食物はなく、社会は荒廃し、近隣諸国とは戦争を繰返しているという世界になっていたらどうしよう、などと、彼らは想像したことはないのでしょうか。
勿論、誰でも自分は大切です。だからこそ、自分が大切なのだから他の人も同じように大切なのだ、と思えるのが人間というものでしょう。しかし、現在は、今の自分がよければ他人や将来の子供達はどうなってもよい、という短絡な考え方の持ち主が余りに多いのではないか、と政府や営利企業の責任者を見ていて思います。悪いことに、彼らは、その非人間的な考え方を認めたくなくて、いろいろ言い訳をひねくり出しているように見えます。そもそも「自分さえよければよい」というのは、ラクで楽しい生活をしたいというだけのことであったりします。私、人間、ラクするために生きているのではないと思います。もしそうなら、死ぬのが一番ラクでしょう。最近、関東各地の子供たちの尿から放射性セシウムがどんどん検出されているというニュースを聞きました。もう手遅れかも知れませんが、被害者を見捨て、国民を危険にさらし続けてきた政府、東電の責任者の人々は、黒沢映画の「生きる」でも見てみればどうでしょう。
そんな世間ですが、今日も青空が美しいです。目に入る街路樹や道路や建物や遠くの山の上にも、そして地の上にへばりついて業を深める人間たちに上にも、陽の光は贅沢に惜しみなく降り注いでいます。私もその朝陽を浴びて、「永遠」の意味を少し感じたりします。人生は良く生きる価値のあるものだと確信すさせてくれます。