百醜千拙草

何とかやっています

生物学の行方 (1)

2017-06-13 | Weblog
最近いろいろな事情から、研究活動の目的や意義について考えることが増えました。

自分がやってきたようなスタイルの研究は急激に飽きられて、評価を得ることが難しくなってきました。評価する方はしばしばサイエンスの中身ではなく、そのスタイルやメソッドの斬新さにより注目するものです。そうしたものの方が簡単に評価できるからでしょう。

そんな事情もあって、自分の興味と人々の興味がシンクロしていないと感じることが増え、しても意味のない心配に時間を無駄にするような日々です。新しい分野やシステムにとび込むとしても、私のような微小ラボでは、しくじった時には夜逃げしないといけなくなるようなリスクを負うことになりかねず、、、、。

かつては前世紀の終わりぐらいまでは、生物学はいわば博物学の時代でした。知られていない「モノ」が分子のレベルでは数多くあり、それを記述していくという作業はそれだけで意義がありました。ボトムアップで主に行われていたそうした活動に、コンピューター技術などの進歩も相まって、トップダウン式のプロジェクト(例えば、ゲノムプロジェクトやENCODEなど)が加わり、モノとしての生物(細胞)の記述はかなり詳細になりました。その分子博物学は、生物のゲノム操作技術の発達により、過去20年ばかりは、いわば分子遺伝博物学となり、数多くの遺伝子改変生物が作られてその形質が記述されました。

生物学の根本は「博物学」であり、その部分は、記述のレベルは違えども、今も昔とあまり変わっていないと私は思います。そんな感じでつい最近まできたと私は感じます。そういう性質上、生物学研究というものは、新しいモノや現象を「発見」して記述していくことが主目的であったと言えるのではないかと思います。従って、アカデミアでの研究は、「まだ、知られていないものを知りたい」という欲求に沿って行われてきました。そして、この知識の集積はいずれは応用に繋がって国民に還元されるだろうという前提が、研究費を税金で賄うことの根拠となっていると思います。少なくとも私の現在いる場所ではいまでもほとんどの研究者がこういうスタンスで研究しています。

ところが、ゲノムプロジェクトが一段落し、ほとんどの主要な遺伝子についてノックアウトが作られて、博物学としては現行の技術でできることはとりあえず終わったという感覚が少なからぬ人々に共有され始めました。(次回に続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする