ポスドク向けのフェローシップの審査委員会がありました。合計11名の審査員が独自でランク付けしたものの総合評価と各審査員の評価を一覧にして見ると、感じた通り、数年前の前回に比べて評価のばらつきが大きかったです。総合評価が高かったものと低かったものは議論せず、ボーダーラインにある応募を中心に議論。
二つの応募に関していろいろ意見が出ました。一つは半数の審査員がトップ、残り半数が非常に低い評価をつけたもの。流行りのシングルセルでの癌細胞での解析ですが、対象としている細胞がユニークな研究素材であり、テクノロジー的にも新しい技術をシングルセルに組みあわせており、研究としてワクワク感の強いものであったので、私もトップの評価をつけました。弱点は基本的に大量データを得るのがプライマリーゴールであり、フォーカスした仮説を検証するというタイプの研究ではないことです。低い評価をつけた人は「あー、またシングルセルか、、、」という感じでテクノロジーフォーカスで仮説検証的でない点を嫌ったようです。応募者はPhDの間にファーストで2本のN紙論文がありますが、ポスドク歴は一年。その業績を買われて現在のこの分野では有名ラボに来たのでしょうが、ポスドクとしての論文はまだ出ていません。この点も評価が二分しました。PhDでのハイインパクト論文は必ずしも本人の実力ではないでしょう。一方、ポスドクの場合は多くは本人がプロジェクトに沿って実験をデザインし遂行し結果を解釈して論文を書くことになりますから、ポスドク時代でのファースト論文の出版のクオリティーは本人の実力の良い指標だと思います。もう一つの応募者も最初のポスドクでファーストでN紙に論文を書いていますが、現在の研究室に移ってから数年、論文が出ていません。この点を審査員全員が不安視しました。大きなプロジェクトで良い話にしようと考えていたら、数年論文が出ないということはよくあることですし、ひょっとしたらプライベートの問題で研究をしばらく離れていたのかもしれません。しかし、外からみれば、何年か前にN紙論文を出しているのに、ここ数年論文が出ていないポスドクとなると、最初の論文が単にマグレだったという可能性を考えざるを得ません。これが響いてこの応募者は評価を下げることになりました。
ここでも、「勝ち馬に乗る」心理が働いています。苦労して困っている人に金を回すのではなく、優秀(そうに見える)人に金を回すということです。結局、この施設で金を回すのは弱者の救済ではなくその金が将来的により大きなリターンとなることを期待する投資活動だからです。そして、評価は目に見える業績に頼らざるを得ないわけで、となると資金は自然とすでに強いポジションにある人に流れます。次の世代を担う若手をサポートするためのフェローシップの場合、優秀ながら運悪くプロジェクトや指導者に恵まれず成果が出せなかった人にチャンスを与えるようなメカニズムもあっても良いのではないかと思ったりするのですけど、そういう人と単に怠慢であった人をどう見分けるのか、難しいですね。ま、運も含めて実力であると考えられる人でなければ長期的な成功は難しでしょうから、これでいいのかも知れません。
結局、人生いろいろで、生まれ持った固有の条件の中で人は生きていくしかないわけです。生まれつき知能障害を持っていれば、アカデミアで成功するのは難しいでしょうが、それはその人が怠慢であったせいではありません。そう考えれば、成功している人、成功しなかった人も「運」が9割です。私の大学卒業以来の研究キャリアを振り返っても、成功したとはとても言えませんし、若いころは自分は運が悪い人間だと思い込んでいました。しかし、今になって振り返れば、これまで自分が如何に「幸運」な人間だったかと実感せざるを得ません。「これで廃業か」と思った時になぜか思わぬ僥倖に恵まれて首の皮一枚で繋がって生き延びたということが何度かあります。誰かが助けてくれたとしか思えません。
同様に、今回のフェローシップの合否が応募者の人のキャリアを左右するものである場合あるだろうと想像します。ポスドクのサポートが得られず、このフェローシップが取れないとアカデミア研究を辞めざるを得なくなるような人もいるのではないかと想像します。しかし、フェローシップの評価はどうしても最後は審査員の恣意的な判断とならざるを得ないわけで、それこそ運です。その「運」というよくわからないものに我々の人生の多くのものが依存しています。
だからこそ、われわれは謙虚でなければならないと思います。大成功している人も不遇にある人も、そもそも同じ人間で、大差はないと思います。コツコツした努力が報われないこともあるし、わらしべ長者のような僥倖に恵まれることもあるでしょう。成功するかどうかは運が8割です。
不運にくさらず幸運におごらず、坦々と日々なすべきことをすれば、最後は幸運だと思える人生になるのではないかな、と思っております。
二つの応募に関していろいろ意見が出ました。一つは半数の審査員がトップ、残り半数が非常に低い評価をつけたもの。流行りのシングルセルでの癌細胞での解析ですが、対象としている細胞がユニークな研究素材であり、テクノロジー的にも新しい技術をシングルセルに組みあわせており、研究としてワクワク感の強いものであったので、私もトップの評価をつけました。弱点は基本的に大量データを得るのがプライマリーゴールであり、フォーカスした仮説を検証するというタイプの研究ではないことです。低い評価をつけた人は「あー、またシングルセルか、、、」という感じでテクノロジーフォーカスで仮説検証的でない点を嫌ったようです。応募者はPhDの間にファーストで2本のN紙論文がありますが、ポスドク歴は一年。その業績を買われて現在のこの分野では有名ラボに来たのでしょうが、ポスドクとしての論文はまだ出ていません。この点も評価が二分しました。PhDでのハイインパクト論文は必ずしも本人の実力ではないでしょう。一方、ポスドクの場合は多くは本人がプロジェクトに沿って実験をデザインし遂行し結果を解釈して論文を書くことになりますから、ポスドク時代でのファースト論文の出版のクオリティーは本人の実力の良い指標だと思います。もう一つの応募者も最初のポスドクでファーストでN紙に論文を書いていますが、現在の研究室に移ってから数年、論文が出ていません。この点を審査員全員が不安視しました。大きなプロジェクトで良い話にしようと考えていたら、数年論文が出ないということはよくあることですし、ひょっとしたらプライベートの問題で研究をしばらく離れていたのかもしれません。しかし、外からみれば、何年か前にN紙論文を出しているのに、ここ数年論文が出ていないポスドクとなると、最初の論文が単にマグレだったという可能性を考えざるを得ません。これが響いてこの応募者は評価を下げることになりました。
ここでも、「勝ち馬に乗る」心理が働いています。苦労して困っている人に金を回すのではなく、優秀(そうに見える)人に金を回すということです。結局、この施設で金を回すのは弱者の救済ではなくその金が将来的により大きなリターンとなることを期待する投資活動だからです。そして、評価は目に見える業績に頼らざるを得ないわけで、となると資金は自然とすでに強いポジションにある人に流れます。次の世代を担う若手をサポートするためのフェローシップの場合、優秀ながら運悪くプロジェクトや指導者に恵まれず成果が出せなかった人にチャンスを与えるようなメカニズムもあっても良いのではないかと思ったりするのですけど、そういう人と単に怠慢であった人をどう見分けるのか、難しいですね。ま、運も含めて実力であると考えられる人でなければ長期的な成功は難しでしょうから、これでいいのかも知れません。
結局、人生いろいろで、生まれ持った固有の条件の中で人は生きていくしかないわけです。生まれつき知能障害を持っていれば、アカデミアで成功するのは難しいでしょうが、それはその人が怠慢であったせいではありません。そう考えれば、成功している人、成功しなかった人も「運」が9割です。私の大学卒業以来の研究キャリアを振り返っても、成功したとはとても言えませんし、若いころは自分は運が悪い人間だと思い込んでいました。しかし、今になって振り返れば、これまで自分が如何に「幸運」な人間だったかと実感せざるを得ません。「これで廃業か」と思った時になぜか思わぬ僥倖に恵まれて首の皮一枚で繋がって生き延びたということが何度かあります。誰かが助けてくれたとしか思えません。
同様に、今回のフェローシップの合否が応募者の人のキャリアを左右するものである場合あるだろうと想像します。ポスドクのサポートが得られず、このフェローシップが取れないとアカデミア研究を辞めざるを得なくなるような人もいるのではないかと想像します。しかし、フェローシップの評価はどうしても最後は審査員の恣意的な判断とならざるを得ないわけで、それこそ運です。その「運」というよくわからないものに我々の人生の多くのものが依存しています。
だからこそ、われわれは謙虚でなければならないと思います。大成功している人も不遇にある人も、そもそも同じ人間で、大差はないと思います。コツコツした努力が報われないこともあるし、わらしべ長者のような僥倖に恵まれることもあるでしょう。成功するかどうかは運が8割です。
不運にくさらず幸運におごらず、坦々と日々なすべきことをすれば、最後は幸運だと思える人生になるのではないかな、と思っております。