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百醜千拙草

何とかやっています

体に合わない服

2019-07-12 | Weblog
特に何というほどの興味も持っていなかった研究分野を、「">大学院の枠で空いているのはこの分野だけだから」と言われてやり始めたのが、今の私のキャリアにつながっています。正直、この分野には多少詳しくはなりましたが、今でも研究システムとして使っているだけで、この分野のコアな専門家の人々の興味を私は共有できません。私の興味を持っていることは分野からすると結構ズレいて、そういう理由で私はどの分野のコアな人々とつるむことなく、フラフラと根無し草のようにやってました。 

近年、研究分野は臓器別でかなりきっちり分けられるようになって、臓器を簡単に変えることは難しくなりました。昔は分子別という区別もあり、例えば、Notchのシグナルを研究している人なら、脳や造血器などなど、その分子が重要な働きをするいろいろな臓器を同時に扱う人がいました。今はなかなか分子別のアプローチでは専門家からは認めて貰えません。ま、その臓器別での研究分野分別のおかげで、私もこの分野の片隅にいまだにいるわけですが。

ふと、キリスト教作家であった狐狸庵先生、遠藤周作さんのキリスト教について話を思い出しました。有名な話ですが、遠藤さんは、日本人である自分にとって、キリスト教は、(母に着せられた)体に合っていないブカブカの洋服だったと喩えています。葛藤の末、そのブカブカの洋服を日本人の自分に合うようにと仕立て直すことがご本人にとってのクリスチャニティーであるというようなことを述べられていたと思います。私にとっての今の研究はこれに近いです。過去十数年、この研究分野と私のやりたいことを擦り合せながら隙間的なことをやってきました。私のやりたいことには使命感も大義もありません。面白そうなことで何か自分ができることをやっています。ま、しかしそれでは金を出す方も分野の人々も納得してくれませんので、一応、真剣に皆の役に立つようなことをやろうと心がけてはおります。 

もとを正せば、科学研究というものそのものが18世紀の西洋で生まれたものであり、現在の生命科学に関して言えば、ヨーロッパそしてアメリカで発展した分子生物学が基本になっており、日本人も全盛期後半は大挙して欧米に留学し、研究を学んでいたのでした。だから日本人にとって、科学研究そのものがブカブカの洋服とも言えます。それでも、アジア人とバカにされつつも、コツコツと実験をし、タドタドしい英語で学会発表をし論文を書く努力をつづけてきたおかげで、前世紀の終わりと今世紀の初頭には、日本からの華々しい科学の成果が国際的に認知され、尊敬を受けるようになりました。ブカブカの洋服を仕立て直し、舶来ものとは言えぬほど、科学や工学は日本で進歩し根付きました。

私も若いころは、「科学」というものがヨーロッパで生まれたものであり、否応なく西洋化させられた日本のシステムの中で生きていかねばならないことに、納得できないものがありました。加えて、戦争に負けたせいもあり、日本人の西洋コンプレックスは根強く固定されたような気がします。その影響か、白人に対する劣等感、その反動であろうとおもわれるアジア諸国の人々や他の有色人種に対する根拠のない優越思想は非常に醜いものがあり、その典型例を、日本の恥、アベ、に見ることができます。

話がズレましたが、ま、こんな大げさな話ではなく、私は、実は、自分の(一応)属している研究分野に対しても、いま一つ、しっくりこない居心地の悪さを感じており、その感じは昔からずっと変わりません。分野の他の仲間と楽しく同じ興味で盛り上がることができるのなら楽しいだろうし、居心地もいいだろうな、とは思いますけど、無理そうです。仲のよい人々とは研究の話で盛り上がることはなく、大抵、共同研究者は別の分野を当たって見つけています。

体に合わない服を仕立て直すことを通じて、新しいものが生まれることもあります。新しいものを生み出せない研究には意味はないので、私にとって、この研究分野は、矛盾表現ですけど、体に合わないからこそ馴染めているのかも知れないと思います。きっと居心地が良くなったら終わりも近いということでしょう。
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