百醜千拙草

何とかやっています

平常心是道

2019-07-29 | Weblog
面白い実験を思いついたのですけど、おおっぴらに言うと「そんなことをしてどうするのだ」と批判されそうなものなので、コッソリとやっています。自分でも、最終的にどんな結果になるのか、ちょっと予想がつきません。結果次第では実験は正当化できるかも知れないという類のものです。

よほどバカげたものではない限り、何でも一度ならやってみる価値があると思っていますので、できる範囲でやってます。何か、瓢箪から駒、みたいなことがおこらないとも限りませんし。

一方で、メインのプロジェクトはコケまくり。軽い気持ちで始めた二、三の小さなプロジェクトは、有意義な結果に繋がらず、撤退。時間はどんどん経って行くのに成果は上がらず。月曜日の明け方に鬱っぽい気分で目がさめるのは辛いですが、平常心を保つ訓練にはうってつけの状況です。

平常心といえば、平常心是道という禅語があって、この平常心は、現代のわれわれが普通に使う意味と若干異なっています。

、、、「平常心」とはどういうものであるか。それは、わざわざ修行などしないこと。これは善いこと、これは悪いことなどという価値判断も要らぬ。取捨選択というような選り好みもしない。この世界にはいつまでも無くならないような永遠な実体があるとか、もともと何にも無いんだとかいうような固定観念を持たない。また、これは凡人の見方だとか、聖者の見方とかいうものを持たないことを言うのである。、、、

また、曹洞宗西光寺の法話のサイトでは、この言葉に関して次のような解説があります。
、、、では趙州の悟ったものは一体何だったのでしょうか。
それは「無心」です。、、、、「無心」については、前回の「達磨安心」でクドクド"説明"した通りです。ですからすでにお分かりのように、この公案の狙いもまさに「無心」の実体を悟ることにあるのです。
では「無心」の実体とは何でしょう。それは「あるがまま」です。、、、、「あるがまま」に「分別」が付着することで「妄想」となるのです。妄想は欲望の根源です。、、、、

というわけで、平常心とは分別や妄想のない素直な心のことのようです。

研究という知の追求の活動にグラントや論文や名誉心などがくっついて欲望となり、欲望が満たされないがために、ますます、ありのままの平常心が失われる、ということでしょう。

負け惜しみに聞こえるでしょうけど、カネや名誉やキャリアよりも平常心の方が大切だと私は思います。

コメント
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